篠塚弥生1


クリスマス、せまる弥生を拒絶する冬弥が突き飛ばした後、「大丈夫ですか」と手を差しのべるのを、弥生は不思議そうに呆然と見つめます。それは、かつて彼女が心から願った展開です。つまり、弥生を突き飛ばした誰かが、その後心配して覗きこんでくれるという。でもそんな展開にはならなかった。その人は、弥生をかばって突き飛ばした後、車かなんかに轢かれてそのまま亡くなったから。篠塚は偲ぶ死の塚、弥生は弥増し生きる、生き延びる。弥生は「生き墓標」「リビングデッド」の意味を持つ、死別と回生を暗示したキャラです。弥生は、新暦旧暦ともに3月生まれではないため、その名前にはまったく別の意味がこめられています。装飾は無駄だと言わんばかりの弥生が、なぜか比較的大ぶりで悪目立ちしがちな真珠のピアス?イヤリング?をあえてつけているのは、そのまま、喪に服していることを意味しているのだと思います。真珠は喪装に使える唯一のジュエリーです。


弥生の記憶が混乱しているのか、あるいはわざと時系列を前後し、配置を入れ替えて話しているのかは定かではありませんが、弥生を抱きながら彼氏?が絶望した、弥生も何も感じなかったというクライマックスでの話は、言葉通りの意味ではなさそうです。自分から誘っておいて最中に勝手に悲しんだりしたら、いくら弥生でも傷つきますよ。仮にも彼女が好きならそんなひどいことはできないでしょう。彼女が感情表現が不得手だということは初めから判っているはずで、つれなくされた所で今さらなはずです。その人との行為が良かったのか良くなかったのか、それはこの際、論点ではありません。問題は、その直後、死にゆく彼を抱きながら何も感じなかったってことなんです。それだけ絶望が大きかったのでしょう。心が麻痺したのです。星が落ちると同時に冷たい雨が降り始めるし、散々です。二人が結ばれたのと突然の事故が前後しているので、感情の整理が追いつかなかったのです。喜びを覚えていると落差に耐えきれないので、あえて最初から何も感じなかった、愛していなかったと自己暗示している可能性が高いです。運命というか、話の都合上、仕方ない展開ですが、実に間の悪いことです。


彼の臨終とおぼしき描写として、弥生を「抱きながら」悲しみにくれたと語られています。彼が最期の力を振り絞って弥生に抱きついたのか、それとも逆に、いまわの際の彼を弥生がひしと抱き起こしたのか、それは判らないんですけど、事故後の重傷者の体勢としてはいささか不適当です。とりあえず安全確保して横にした状態で、動かさずそっとした方がいい。で、即刻救急車呼んだ方がいい。普通であれば弥生ともあろう人が、まずい措置を取るはずもない状況なのですが、実際対処の動きは特になさそうで、絶命まで上体を起こした姿勢のままでいたと窺えます。さすがの弥生も、ショックのあまり思考停止して適切な動作が実行不能になってしまっていたのでしょうね。ロジカル人間の弥生といえども、オートで合理的な行動を取れるようプログラムされた人工知能搭載の正確無比ロボットではないのです。関係した人の瀕死を前にしてすらドライにてきぱき動けるほど鉄でできているって訳じゃなかったのです。あるいは、思考を過回転させてあらゆるパターン結果を予測した上で、もう助からない、何をしても無駄だと悟って糸が切れ、あえて救護に反する行動に及んだのかもしれません。どのみち死んでしまうのならいっそ自分の腕の中で、とでも思ったのでしょう。周囲の情景は意識になく、そこは二人だけの世界、向かい合ったすぐ側で、逝く彼を見送りたかったのだと思います。あの弥生がいつも通りでなくなるほどに、彼を失うことがどれだけ彼女にとって大きなダメージであったか、察するに余りあります。


大体どうでもいい相手ならクライマックスでいちいち話に挙げていません。弥生が由綺へのただならぬ愛情を強く訴え出たいなら、男との肉体関係なんて汚点にも等しく、自ら暴露するなど下策です。過去を、現在との重みの対比として挙げているにしてもです。「由綺さん以外受けつけるつもりはございません」な決意を押し出した方が、よっぽど冬弥には大打撃になるはずなのに、わざわざ失態を晒すような真似をしています。また、シナリオ道中、女性専門であるかのような発言もちらほら口をついて出てくるし、むしろ「男でも相手にできたんだ…」と、その過去に逆にびっくりです。弥生が由綺に過剰な思い入れを寄せていることは、普段のあらゆる場面でも当たり前に描写されていることで、クライマックスでこその重大な切り札として挙げられているのは、むしろこの「弥生に男がいた」という事実です。弥生は淡々と過去に触れ、特に感慨もなさそうにしていますが、ネタばらしとしての質、強度、重量的にも、意表の面から考えて、こっちの方が本題です。彼が年下だとかは本来どうでもいい情報のはずなのに、無駄に触れられているのは、何よりも弥生自身が彼のことを喋りたいからです。そして作品上、重要だから話に挙がっているのです。しかも弥生は純潔を「捧げた」と言っていますしね。自分のことも相手のことも大事に思っていた証拠です。慣用句的用法とはいえ「捨てた」とか「与えた」とか、投げやりな言い方、上からな言い方はしていません。その男性との交流がかけがえのないものだったので、別れが今でも心の傷になっており、人肌恋しくて「悪戯に」同性愛に身を投じても、貞節を守り、他の男性を相手にすることはできなかった。本当の同性愛者の方が聞いたら気を悪くしそうな思考ですが、世の中には色々な考え方の人がいるってことです。


いくら弥生が麗しの美女で魅惑の肉体の持ち主だとしても、あの性格で、誰しも普通は敬遠します。拒絶するような態度にへつらってまで彼女を得ようとは普通思いません。外見なんて何の加点にもなりません、見返りが乏しすぎます。だというのに彼は熱心に弥生に求愛していたようで、よほどの強者としか思えません。それかよほど無頓着か、変な趣味としか。あるいはそれらすべての条件を満たしているか。気難しい弥生をあの性格ごと好きにならない限り、とても好きで居続けられはしません。弥生の本気度は判らないとしても彼の方は真剣だったはずで、おそらくは徹底して無情な洗礼を経て、それでも懲りもせず想いを貫いて体の関係にこぎつけた訳で、弥生の気乗りはともかく、彼女を得た彼が、その後、ぷっつり音沙汰ないというのも奇妙な話です。事実上のやり捨てじゃないですか。状況的に、結局は体目当てかと言われても仕方ありません。弥生の方の都合で、試しにやってみて「やはり感情が湧きません」だとか吐き捨てられたのだとしても、それであっさり引き下がるくらいの熱意なら、初めから手をつけるなんてしていません。のっぴきならない事情があって、やむを得ずそれきりになったのです。話の流れから重要な何かが一段階明らかに欠けている、つまりは別れの理由が目に見えて空白なんです。冬弥もびびってないで訊けば良かったんですよ、「その男の人、今、どうしてるんですか?」って。弥生は凍るような微笑みを浮かべるだけで何も答えないでしょうけど。言うに事欠いて「今は、そう、あなたの後ろに」とかやられたら完全にホラーです。からかわないで下さいよ。


常人離れした弥生と、これまた常人離れしてそうな彼氏が、せまる危険に直前まで気付かなかったのが不思議なんですけど、まあ、初めてのことがあったんで、二人して無表情で浮かれてたんじゃないですか?仕方ありません。弥生の誕生日だったのかも。きっかけでもなければ進展しそうにないですし。どういうなれそめなのかまったくの謎ですが、散歩コースが共通で、ベンチにでも座って雑談する仲だったんじゃないでしょうか。弥生がくどくど喋り倒して、彼がうんうんって聞いて時々まぜっ返し、必要なければお互いひたすら沈黙して過ごすような関係。いいじゃないですか変人同士でも。ウマが合えば恋だってするんですよ。感情表現が乏しい者同士、ちゃんと通じ合えていたのです。弥生に対する「憧れ」という要素はいまいちよく判りません。「空が青いですね」みたいな気の抜けたやりとりが常態化してそうで、憧れも何もない気がしますけど(単になつかれただけじゃないかと)、弥生の受け取り方の問題なので、何とも言えません。ともあれ人になびかない野良猫が自分限定でなついてくれたら、弥生も悪い気はしないでしょう。


はるか編のキーパーソンのように描かれていながら、実際はフェイクだった河島兄の存在が、設定を無駄にすることなく、別の人物のシナリオに影響を及ぼしていたという訳です。兄の死については、ただ簡潔に「事故」とだけ記され、それが自損事故なのかもらい事故なのか、事故当時の状況はどのようなものだったのか、詳しいことは何も書かれていませんが、フラッシュバックを起こす弥生の反応とその直前の突き飛ばしという要因により、大体の情景は想像できるようになっています。とりあえず当事者に向かって「前に事故あったから気を付けて下さいよ」だの物申す冬弥の口を塞ぎたいです。そりゃ弥生だって様子がおかしくもなりますよ。いちいち言われるまでもありません。作中何度もしつこく言及される弥生の安全運転の様子は、読み飛ばし推奨の無駄な情景描写ではなく、徹底されていることに意味を持たされた重要な表現モチーフです。事故を苦々しく憎む弥生は、スポーツタイプの高級外車をあえて法定速度徹底厳守で安全に走らせるという意味不明で矛先不明な当てつけをしています。そんなことに無駄金つぎこむことが可能な生活水準にあんぐり。自己満足というか自己鎮静というか、車という無生物に制限を強いて、何とか腹の虫を治めているのかもしれません。別離のダメージが大きすぎて素で気が変になっているんでしょうね。可哀想な人です。


ところで、した後そのまま一晩休んでれば良かったと思うんですけど、二人が何で出歩いていたかは判りません。彼が無意味に散歩したがったのかもしれませんし、お嬢の弥生が門限とか言い出して送る途中だったのかもしれません。どちらにせよ空気の読めなさを容易に想像できます。また作中、兄の年齢はぼかしてありますが、物語的に、その享年と現在のはるかの年齢がちょうど重なるように設定してあるのだと思います。そしたら弥生の一つ年下になるはずです。兄が他界したのが3年余り前、弥生の言う「学生時代」の時間軸にちょうど当てはまります。弥生は、冬弥が絶対視していた兄を転がしていた人物なので、初めっから冬弥には勝てっこない相手だったということです。下手に抵抗しても無駄みたい。かつて、兄の方が弥生を誘ったらしいですが、作中でのはるかの過敏でひよひよな体たらくを見る限り、微妙な想像しかできそうにありません。弥生の中で、しょぼんというか、ちょっと悲しんだのは本当かもしれない。あまり深く考えない方が良さそうです。「次は頑張る」とか言ってたかもしれません。次はないんですけどね。兄が単にまったりしたかったのを、弥生がそっちに勘違いして暴走、まあ嫌じゃないし…と、成りゆきでって可能性もなくはないですが、それだとあまりにもやるせないので、弥生の話をそのまま信じることにします。


実際問題、はるか風の男性がどんな風に誘いを切り出したのやら(しかも弥生という難物に)、考えるだけでも異様で戦慄のシチュエーションですが、怖いもの見たさの興味はあります。男女差があるので、単純にはるかの性質をそのまま当てはめることはできませんが、おおよその部分では似たようなものだと思います。やる気はなさそうでも、本当に完全にやる気がないかどうかは?いや、それ以前に男として官能の感覚あるのか?そんなはるか感覚の持ち主でも、何だかんだで弥生の色香に参ったのか。「別にそういうのじゃないけど」なんてとぼけても、弥生の豊満ボディは如実です。そういうの好きなのか。でも案外、割と体型はどうでもいいのかもしれません。「私がさしあげられるものは女性としての体しかありませんから」と、先に弥生に意地悪言われたなら「そんなのどうだっていいけど」とひっくり返すのが筋というものです。そういうテンプレのプレイです。この場合の「どうでもいい」は「興味がない」の意味ではなく「こだわらない」の意味なので、性的な意識はちゃんとあるということです。現に、一応そういうコンタクトはあったのだし、欲求に執着して頭から離れないような有様ではないとしても、それでもまったく関心がない訳でもなさそうです。あくまで飄々としていそうですけど。はるか同様、シンプルに見たまま淡白なのか、それともそう見えて結構むっつりなのか、その辺はよく判らないです。全然顔に出なさそうだし。


ただ、はるかに関して言えば、実際の本番動作を見る限り、公園の猫集会を黙ってしっかり観察して、そこから必要な現場知識を吸収してそうな微妙さはあります。はるかお前公園で何やってんだ、そんなの見てないで帰れよ、猫も困るだろ。あんな涼しい顔でいて、お勉強に余念がないようです。はるかもお年頃なのでね。何も考えてなさそうで、頭の中では色々飛び交っているのかもしれません。何の参考もなく本能に従った仕草の可能性もありますが、素にしろ学習成果にしろ、変に毒されずこねくり回さない自然のままにごく近い姿で、あっさり薄味で、とてもはるからしいです。兄も大体そんな感じなんじゃないでしょうか。淡白に見えてむっつり、でも結局は元通り、いたって淡白で綺麗な形質なのだと思います。


また、少なくともはるかは大事なとこをほったらかしにして未開のままにはしておらず清潔にしています。情欲にまみれて積極的に手を汚すことはしなくても、綺麗を保つお手入れは淡々とするんじゃないでしょうか。無の境地にいるイメージを損なうようで、さらには兄の場合、性別上、自動的にそういうことになっちゃうんで何なんですが、要は意識の問題で、無は無に違いないです。それが、想いが募るにつれ、いつしかもっぱら想像の弥生がよぎるようになったかして、そうなってくると、実物の弥生の、何も知らずにまっすぐ見据える視線が刺さるようでいたたまれず、そこで腹をくくって素直に白状というか誘いを切り出したのかもしれません。弥生さん怖いけど下手に知られたらもっと怖いし。「そうですか。でしたら」とか向こう一人で勝手に頷かれて、ムードやらまるで無視で無理やり力任せに押し倒される。嫌じゃない、けど、なんかやだから。それに何でもない顔をして彼女を欺き続けることはできそうになかったのでしょう。独りよがりを本当のことに確定して筋を通し、誠意を尽くしたのだと思います。まあ、俗世から離れているようで意外と普通で等身大に悩んでたりするんですよ、そこまで神々しく神格化する必要はありません。にしても、冷めて平気な顔で内心もやもや考えてるかと思うと、なんか面白いですね。はるか経由の想像じゃなく、兄という人物を直接見たかったです。