弥生6


クライマックスで真剣に「由綺を愛している」とカミングアウトしたはずの弥生が、その直後「誰のことも愛していない」と言うことに、皆さん引っかかりを感じたことはありませんか?ここでの「由綺さん」ははるかを指し示すただの言い換えで、由綺本人はこの際関係ないとして、現在の最優先人物であるはるかですら副次的な愛の対象でしかなく、亡き彼への愛なしには何も存在しません。「彼を愛していなかった」とすることで、かろうじて心を保っている弥生にとって、彼への想いが愛でないのなら、それ以外の誰への気持ちも愛であるはずがありません。弥生は依り代の冬弥に向けて、半ば独りごとかうわごとのように、全身全霊で「誰も愛していない、(あなたの他には)」と訴えています。弥生は愛を知らない虚無の人ではなく、その内実は非常に純粋で情熱的な愛に生きる人です。その愛は既に熱も命も持たないので半分死人ですけど。それでも愛し愛された確かな裏打ちがあるので怖いものなしです。無敵です。冬弥を始め、本当の弥生を知りもしない人の的外れな人物評なんか、痛くも痒くもありません。弥生の看板であるクールビューティーのイメージはかなり損なわれますが、彼目線で弥生の一途な忠犬可愛さをいとおしむことができれば、もう達人と言っていいでしょう。色々と上級者向けすぎてついていけません。


由綺愛というはったりにより弥生は断然犬派と思われがちですが、自身が犬なだけで、多分あの人、骨の髄まで猫派です。本人は「好きな動物は特にいません」とけんもほろろでしょうけど、全否定はもはや様式美です。しっぽ振らせたい派ではなくお世話してさしあげる派です。好き勝手を許容し、その上できめ細かく管理したいタイプです。猫の飼育は多忙な弥生の生活スタイルにもぴったりです。もしかしたら故人の名前をつけた飼い猫をさん付けで呼んで無表情に可愛がっているかもしれません。素っ気なく甘えられたら色々うずいてたまらないでしょう。そして性的にぎゃくた…丁重にもてなしていると思います。あんまり妄想が過ぎると弥生の痛さが止まりませんが、猫飼いは想像だとしても、大体にそういう人だと確信しています。


とりあえず、嫌がる冬弥を無理やり入れ物にするより、初めからなついている猫に霊体を入れた方がしっくりなじんで同化するにも具合がいいんじゃないですか。コンパクトで場所も取らず、恥も外聞もなく頬ずりできるし、いいことずくめです。生贄だとか物騒な目的で使われるよりは、可愛がってもらえる分、依り代の方が猫的にも良い待遇だと思います。弥生がそういうネクロマンサー的なことができるかは知りませんが、っぽい黒装束はすごく似合いそうです。残された人の悲嘆も知らず、猫が弥生のお膝でだらしなく悠々自適な第二の人生(死後)を満喫している姿を想像すると、はるか編で兄関連のエピソードを読むたび微妙な気持ちになります。哀悼を返せ。スーパースターだって?なまけものの間違いでしょうに。気楽な幽霊生活以前に、元々生前からそういう人だったんじゃないかと、はるかを見るたび思います。いっても想像、ただの想像ですよ。あんまり本気で受け取られると困ります。早世した完璧青年が成仏できず、あろうことか猫畜生の姿となって厳格なお姉さんに自堕落な愛欲の日々を誘っているとか、何そのコアで意味不明な設定。もうそれだけで一本物語が作れそうなくらいてんこ盛りで、お腹いっぱいです。


弥生の手元に、本当にそんな曰くつきの愛猫が存在するのか証明することはできませんが、何らかの愛撫対象はあってもおかしくありません。それが猫かは判らないですけど「故人の魂をこめる対象」が実存し、「目の前の器に故人が実際に降りてくる」と、たとえ思いこみだとしても確信できる状況が常態の下地としてない限り、つまり、発想として何かの取っかかり、いわゆる動機づけがないことには、亡き彼一筋の弥生が冬弥という生身の男の肉体を、何の予備導入もなくいきなりディープに相手にするだけの踏ん切りはつかないと思います。男なら誰でもいいって訳じゃなく、故人と共鳴できるかが重要で、弥生による厳正な審査があり、相手はしっかり選んでいるようです。猫憑依と、親密な猫馬鹿生活(真顔でじゃらしているのを想像するとシュール、少しくらい表情筋動かしたっていいのに)が日頃の前段階にあって、それを応用、発展させたプランとして、冬弥という人体を用いてあわよくば何やら果たそうというのが弥生のひそかな野望なのだと思います。弥生が術として自発的に行使しているのか現象として自然に発生しているのかは判りません。けれど、彼の降霊は弥生にとって非常に意義のあることで、「契約」という大義も希望も有益性も何もない無意義な行為に、おまけでも付加価値をつけられるものなら心置きなくつければ良いのです。自らをエゴイストだと堂々と認める弥生が、自分のために何の足しにもならない「契約」を無目的に決行するのは理屈に合いません。表向きには無意味としながらも、副産物として、彼女にとって大いなる見返りが見込めるからこそ発案し、持ちかけた「契約」なのです。そして、弥生が何の裏取りもなしにそんな狂おしい計画を立てるような無謀をするとは思えないので、猫かはともかく、彼女の手近に無心でまさぐれる何かがいるのは、あながち、なくもない話だと思います。故人を彷彿とさせる、はるか的な何かが。はるか的、すなわち猫です。猫なら自由時間の行動パターン、生前と大して変わりません。絶対猫です。弥生が冬弥の耳をかりかり悪戯するのなんてもう、猫構う仕草にしか見えません。


現在、弥生は英二に心酔していますが(恋愛感情かは判りません)、英二本人だけではなく、彼に故人の面影を見ては心の中で慕っています。混同は主観に左右されますからね。妹持ちの兄、人を食ったような性格、人の話を聞かずに喋る、きっかけはもうそれだけで十分です。実際には由綺とはるかもそこまで似ているというほど似ていないし、英二と故人もそこまで似ていないかもしれませんが、フィルターがかかると相違点がぼかされ、共通点が強調されます。後は弥生の方で勝手に補正します。そんな訳で、冬弥が英二に構ってもらってすごく嬉しそうなのを見て弥生は色々思う所ありそうです。見るに堪えません。同族嫌悪です。


「草の上に寝転ぶ人と連れ添う犬の絵画」がどうの、それが写実か架空かはさておき「それは過去の出来事で、時を経て変化したであろう現在の様子はいかようにも想像できる」という毎度ながら弥生らしい意図不明な言及があります。ちなみに寝転ぶまではいかないにしても、似通った情景、草の上に座る人物ならば作中にもちゃんと実際の画像として存在します。その直後か別場面か、普通に寝転ぶ記述もあったはずです。さらに想像力を高めると、絵画の構図はそのままに場所だけ変えて、人物がアスファルトに横たわる場面も浮かびますね。多分、犬は伴侶を失い、傷ついた心を抱えたまま、今では縁あって別の人に飼われて忠誠を誓っているのだと思います。弥生の個体イメージに即した修整をかけて、あの、いわゆる黒くてでかくてちょっと神経質な怖い犬が一心にしっぽを振っているかと思うと笑えます。人間形態の顔色が読めないのは目に見えるしっぽがないからこそです。断尾するのが慣例らしいので犬形態でも感情起伏が判りにくいのは同じかもしれません。ともあれすっかり餌付けされ、仕込まれて、それなりに充実した毎日を送っているようです。


英二に「冷血動物じゃない」と評されるのも、その本質が割れているからです。寡黙でいかめしいワンちゃんがことあるごとにふいっと首を傾げてじっと見つめてくるかと思うと、いじらしいギャップに激萌えしますね。しっかり躾が行き届いているお利口さんです。でも「大丈夫です、噛むことは致しません」とか偉そうに犬本人に宣言されても、やっぱり見た目怖くて、あの体躯でのしかかられたらと思うと背筋凍ります。噛まないって本当にですか?そういって噛んだりしませんか?勘弁して下さいよ。とまあ確かに冬弥にとっては難攻不落の地獄の番犬ですが、心に決めた飼い主相手限定で完落ちで、しっぽ振りまくってデレデレな弥生(無表情)、むしろちょろすぎて思考があっさり読めてしまうくらいの扱いやすさです。ひよっこも同然です。頭撫でられたらうるさそうによけ流しそうですが、そのつれなさでいてめっちゃ喜んでいます(しかめ面)。


弥生は年増然とした見た目であり、また理性がちで自分を抑制する性質は強いけれど、実質、体の大きな子犬みたいなもので、その中身は驚くほど無垢です。でもそれが真実だとして、そうと知られることを弥生が良しとすると思いますか?彼でない人に素顔を受け入れられても別に嬉しくないし不本意です。「それに何の意味が?」と切り捨てると思います。「弥生さん可愛い」なんてもってのほかです。そんなこと気軽に言われたくありません。他の人には可愛げを見せたくありません。「可愛い弥生さん」なんて、そんな自己像、自分では絶対に認める訳にはいかないんですよ。自分でも似合わないのは痛感していますから。微笑ましげにあったかい視線で見られるのは論外です。屈辱です。そんなことされたら内心悶絶して「……!」って濁った悲鳴を上げたくなります。絶対しないけど。取りすました外見に反して根はすごく直情的なんです。表情に全然出ないだけです。帰宅後、自室で一人静かに思い返して、お気に入りのクッションか何かを黙々とぶん回して破壊して、綿を散らかしたりしてるんじゃないでしょうか、犬みたいに。弥生のそういうとこをいじっていじめる会話が実装されていたらもっと面白そうなんですが、それは故人と英二だけの特別ハードモードでのからかい、レアなお楽しみであって、残念ながら、実際主人公の立場にいるのは冬弥でしかないので、そんな夢のひとときは実現しません。逆に、冬弥が主人公でいる限りは、依然弥生は冷酷無比な嫌な女でいられる訳です。本人的には恐怖の存在として相手を怯ませる方がましです。そっちの方がよっぽど体面を保てます。弥生の心の鎧にかけて、秘密は秘密のまま、気付かなかったことにして見逃してあげましょう。弥生さん可愛い(小声)。


猫はだだ甘に甘やかしても、それに流されることはなく「ふうん」みたいなもので、基本、特に問題にはなりませんが、犬に甘やかして接するのはかなり深刻な問題の原因として響いてきます。はるかと由綺は根本的に違うのです。甘やかされることで由綺は、犬でありながら犬ならざるもの、犬の立場を逸脱した犬になってしまいます。いわゆる権勢症候群と呼ばれるものです。アイドルというトップランナーとしての由綺においてそれは、確固たる自我と自信、上昇志向という点で、あるいは愛玩動物としては馬鹿犬ほど可愛い理論で、ある意味歓迎される性質ではあるけれど、それが度を越すと困る訳です。わきまえは大事です。自分の価値を勘違いし、言うままに勝手がまかり通ってしまうということを覚えさせたら、由綺の性質として取り返しがつかなくなります。冬弥は気付いていませんが、由綺という人物はどうも、冬弥の証言通りの性格ではないことが薄々散見され、冬弥の甘やかしはそれをさらに助長する要因となっています。詳しくは由綺の項目に繰り越し、ここでは細かく述べませんが、由綺を甘やかすなという弥生の厳しい𠮟責はごもっともなんです。弥生は相当親身になって忠告してくれているのですが、冬弥ときたら真っ向から弥生に反発し、聞き入れません。そして由綺に会うたび彼女を甘やかし放題です。やれやれ。


甘やかしが推奨される猫のはるかに対しては、彼女が素っ気なくてあんまり甘えてこないこともあり、ごくまれに睦まじく寄り添う以外、冬弥は積極的に彼女を持ち上げることはしません。一方、甘やかし厳禁の犬の由綺に対しては、オリジナルのはるかへの確かな愛しさが持ち越される上、はるかでは実現しにくかった甘いやりとりが普通に通用してしまうため、はるかでできなかった反動で冬弥は由綺をとことん甘やかします。褒めて伸ばすならまだしも、完全に言いなりで、由綺の欲求通り伸ばしたいようにさせるままで、制御放棄しています。甘やかしてもいい、むしろ配慮気味な性質から考えてもっと甘やかすべきなはるかはろくに甘やかさず、甘やかすのはよくない、その性質上、甘やかしたらろくな結果にならない由綺を、さらに彼女は遠慮がちだからという逆方向に見誤った理由で、手放しで漫然と甘やかすという愚を犯しています。


弥生は、はるかと由綺の性格の違いを十分に把握した上で、あえて由綺にはるかの面影を見いだすという手法を取っていますが、冬弥はその辺、何の判別もつかないまま自覚なしにめちゃくちゃに混同しています。「私は良いのです」と開き直っているのもちょっと欺瞞ですが「あなたの言動は不適切です」なのは確かです。はるかと由綺の間の埋まりようのない本質的な違い、はるかの面影を別人の由綺に求め、その幻想に惑っているという冬弥と共通の危うさ、由綺と同じく犬系の性質を持つ者として心得ている、わきまえるべき理想的なあり方を踏まえ、弥生はあらゆる角度から導き出された模範解答を冬弥に提示しています。加えて、過去の経験から、スターと呼ばれる存在と付き合う心構えをも弥生は指南してくれます。一分の隙もない完璧な正論で、冬弥にとってこれ以上にない的確なアドバイスです。ただ、ここまでガチガチに意見を装甲されて、異論の余地を奪われてしまうと、何も言い返せない分、逆に悪あがきで歯向かいたくなるというのが人間です。その上、冬弥は弥生の真の認識範囲など知るよしもないので、外野の無理解による余計な口出しにしか思えず、素直に彼女の話を受け入れることはありません。


スーパースターの誉れ高い河島兄が、死ぬ直前にやることやってたというのは一大スキャンダルです。彼の選手としての格がどういったレベルのものなのか、また知名度や人気等、世間的な位置づけがいまいち判らないので何とも言えませんが、はるかで示されるあんな感じ(あんな感じです)を彼の本分として強く求められていたなら、性的なものとは縁遠いと信じられ、色恋にのめりこむ姿など望まれていないでしょう。それが覆るのはゆゆしき事態です。ハリコミ激写とかされて大衆に晒されていないといいんですけど。本人は案外「気にしないよ。本当のことだし」とあっさり普通でいるかもしれませんが、弥生さん的にはNGで、傷一つなく保ってきた彼の大事なパブリックイメージが損なわれるのはやな訳です。しかも、それ以降に変更のきかない最後の最後で。世間体は少しの隙もなく塗り固めておかなくてはなりません。くだらない女性問題で名節を汚すなど、彼の優れた才能に釣り合いません。自分で自分を「くだらない」って弥生さん。


そもそも、元々の二人の交流が明確に交際と呼べるものなのか、それすらも判然としません。兄は兄で立場をはっきりさせないまま継ぎ目ない流れで確かな関係を築くのを好むでしょうし、弥生は弥生で前途明るい彼の足を引っぱらないよう、表立って連れ添うようなことはせず陰の立場に徹するでしょう。彼がベストコンディションを保つべく、裏方で身辺を万全快適に整えてくれます。あるいは、ほっとくと際限なくだらけようとする兄の尻を叩いて、真面目にトレーニングに向き合わせて、うまいこと操っていたとか。そして兄は弥生に緩急バランスよく誘導的に躾けられて嬉しい、と上々です。優秀なスポーツ選手がなぜか年上の知的美女を好む傾向って、あれ何なんでしょうね?安心して自分を任せられるってことで、管理されたいんでしょうか。弥生主導で兄を一流に育て上げるというか、訓練士、調教師というか、プロ彼女というか何というか、昔から何やってんですかね。ぶれないお人です。現在の冬弥と由綺の交際においても、弥生は価値観を押しつける所があるので「少なくとも私はそうしてきて問題ありませんでした、ですからあなたもそうして下さい」風な態度で冬弥に自分のやり方を強制します。なまじっか兄のマネジメントがうまくいっていたものだから変に自信持っちゃってるんだよね。その手法が、系統違いの由綺にも同じように有効とは限らないのは判っているだろうに、そこんとこ融通きかなくて機械的なんだよな。


さて、兄の熱愛スクープのおそれに話を戻しますが、世間的に噂は何も出回らなかったようで、冬弥はこれといった話はしません。そこは弥生、抜かりないので足がつくようなヘマはしないのです。弥生側で時と場所の機密性をしっかり確保して、それまで徹底して極秘で関係を深めていた賜物でしょう。その細心の厳戒態勢は、弥生編通して何一つ秘密が漏れなかった最終状態を見ても判ることです。っていうか、傍目には出会い頭に一言二言雑談するとか、たまたま気まぐれに相席しているようにしか見えないから、スポーツ記者も大したネタにならなくて、成果が出ないと諦めて、飽きて密着対象から外したんじゃないでしょうか。「暇だね」「暇ですね」みたいな会話、誰が興味持つんですか。そんな日向ぼっこ記事、何の特ダネにもなりません。


先に軽く取り上げた絵画について、ペット話以外の観点から腰を据えて説明したいと思います。パネル経由のおでかけイベントとして、弥生はリサーチと言いかけて言い直し、ショッピングの誘いを持ちかけます。そしてそこからも目的を変更し、当日になってやっぱりお食事にしましょうという、さっぱり真意の読めない提案の出し引っこめを経て、冬弥をいつもの喫茶店に連れていきます。そして店内に飾られた一つの絵画を指して、芸術論みたいな哲学みたいな訳判らない講釈がつらつらと始まる訳ですが、冬弥の理解力ガン無視で、最後の結論まで喋りきった弥生は「時には趣味について語らうのも良いものですね」とばかりに一息ついてとても満足げです。そしてそんな語らいについて彼女は「久しぶり」と言うんですね。あの煩わしい弥生節を、退屈にも迷惑にも思わず興味を持って聴講する「存在」が、彼女の過去において確かに「存在した」ということです。お茶が冷めるのも構わず語り尽くすだけの時間、白けることも話の腰を折ることもなく、その間ずっと真正面から。そんな物好き、そうそういると思いますか?その人もちょっと頭おかしい人でないと、状況は成り立ちません。まあ、昔そういう人が弥生の真ん前にいたってだけの話です。はやらない喫茶店の奥の席で語らいながら、時間が経つのも忘れて熱く見つめ合う、なんてラブストーリーの王道展開じゃないですか。変人なのに。変人同士なのに。二人して何まともに普通のデートしてるんですか。妬けてきます。あと不覚にも、にやけてきます。


この絵画と思われるワイエス作品、非常にはるかチックなノスタルジーを感じる風景で、見さえすればそれだけでもう一発で弥生の真の立ち位置がほぼ判明してしまうという決定的物証です。弥生がその作品について異様な熱弁をふるうのは、その風景が彼女の持つ大事な内的世界、求めてやまない追憶に重なる所があるからです。共感するからこそあんなにも心惹かれて執心の様子を見せるのです。その辺の心理解説は、実際の弥生の発言をじっくり読めば全部網羅されていると思います。なお冬弥はその絵画を「ずっと写真だと思ってた」と言いますが、個人的所見では、どこをどう見ても絵画らしい絵画であって、これが写真に見えるという冬弥の認識どうなってんだと思わざるを得ません。基礎疾患レベルでの冬弥の認識能力の低さが立証されます。


お誘いの主旨を、弥生は当初「リサーチ」と言いかけますが、これはそのまま「冬弥のリサーチ」を目的とした観察プランということだと思います。途中提案のショッピングにおいて何を見繕おうとしていたかは判りませんが、買い物という何気ない行動を通して無意識に浮上する冬弥の異常をリサーチするための口実で、そしてそれよりも喫茶店の絵画を指して直接冬弥をゆさぶった方が効率的であると判断したようで、最終的に食事のお誘いということで決定します。提案内容は二転三転しますが、初めから終わりまで目的は「冬弥の認識機能のリサーチ」です。ちなみに、絵画を語らうこのお食事の席ですが、もう一つ、別のパネルからでも当日即決行の形で持ちこむことができ、まったく同一のイベントが発生します。単なる手抜きなのか、はたまた、導入口を二順路用意するまでにそれだけ重要性の高い話なのか、扱いについては判定が分かれ、審議入りな案件です。


(追記。リサーチや買い物の話の続きにはそれはそれで、正式に繋がった市場確認のイベントというのがあって、なぜか食事の誘いにすり替わってしまうのはバグだったみたいです。で、当日決行の喫茶店直行の方だけが、絵画イベントの正式な道順のようです。謎の迂回行動に対する半可通な深読みは不発でした。お恥ずかしい。でもまあ、弥生が冬弥の認識異常を把握していて日々彼の症状を気にしているのは多分事実なので、やっぱり、冬弥自体もまた別途同時に経過観察の意味でリサーチ対象に据えられていても一応おかしくはない…って、ちょっと苦しいですかね?)


予備知識なしで弥生の論述を読むと、次第に眠気に襲われてきて話の半分も頭に残りませんが、作品内での重要部分さえ押さえれば十分に理解可能です。必要な予備知識というのは冬弥の認識エラーにまつわる背景だけで、特に美術考証や芸術理論などの専門的な知識はいりません。ちゃんと、作品の中で完結して与えられる見聞からだけでも読解が成り立つように作られています。一見、弥生の話は、大衆芸能的な意味で、偶像である由綺に映し見られる一般的な幻想について語られているように思えます。しかし、冬弥とはるかの事情に一歩踏みこんだ弥生の思考は、もっとずっと単一で具体的な構造でもって簡潔に組み立てられています。冬弥がダミーである由綺に映し見ているはるかの幻想、これ一つきりです。由綺を土台にして弥生の主張をまとめると、それはざっくりふわっとした、抽象的で安定しない虚実論でしかありませんが、はるかを土台にするとあら不思議、冬弥の症状解析に特化し、正確詳細に指摘した実のある診断結果となります。


今現在、冬弥からかつてのはるかの記憶が欠けていても、そしてまた、はるかとしての実質が由綺にはまったくないとしても、冬弥が由綺に惹かれる理由は間違いなく、そこにはるかの幻想があるからです。実際には「存在しない」としても、冬弥の深層心理に確かに存在する原体験や原風景によって由綺の姿は強化され、そしてそれに冬弥は魅了されます。その仕組みは非常にエゴイスティックであり、由綺本人に映し出される無数のイメージのうちどれを愛するかは、自分好みのイメージを選択する冬弥次第ということです。弥生は話の締めくくりに「あなたはどの由綺さんを愛していますか?」と問いかけようとし、途中で取りやめます。弥生は、冬弥の見つめる先にははるかの面影しかないと判っていて、なぜならそれは自分も同じだからで、それでもあえて「どの由綺さんを」と意地悪な質問をします。はるか的風景画を見ながら「どの由綺さんを」と促すって、答えが出ているも同じじゃないですか。かなり冬弥の意識に食いこんでくるはずです、冬弥自身には自覚できなくても。弥生としては、冬弥の認識に一石投じることで、その心境に何らかの変動が見られたと確認できれば十分です。冬弥に判るはずのない判りきったことを訊くのは愚問だと思い直した弥生は、訊くまでもない話だとして途中で打ち切ってしまいます。何にせよ話の小難しさについ意識が飛んでしまいますが、弥生はけっして壮大で難解な思想を語っているのではなく、冬弥周りに限定して切り取られたごく小規模な事例を説明しています。そう大げさなことではなくちっぽけな話、でも個人的に重大な話をしているのです。


弥生の一連の話について冬弥は「『今の』俺には何のことだかさっぱり判らない」と語ります。意味深ですね。とりあえず「『今は』判らなくてもいい」んです。読後の即時理解をせかしたものではなく、プレイヤーが真相に至ったその時に改めて思い返し、「そういうことか」と、冬弥にかわって「『いつか』全部判る時が来る」ことを期待しての筆者からの判りにくい応援メッセージだと思います。もっとも、真相に気付けなければ気付けないで、一応は一般論としても十分形にはなっているので、それだけの認識でも全然構わないと思います。真相範囲はあくまでお気に召すまま、作品内容が気に入らなかったら別にやらなくてもいい、自主やりこみ型のエクストラモードです。はまったらはまった分だけごほうびが手に入るかもってんで、これはもうマニアは読みこまないではいられませんわな。