補足4


WAは、軟派なアイドルかぶれの根無し草な浮気ゲーと見せかけて、正真正銘、はるか至上主義一色のはるかゲーです。はるか一筋という徹底した信念で全編彩られた、冬弥による、はるかのための物語です。冬弥がこれほどまでに、すべてを差し置いてもはるかに想いを募らせる根拠とはそもそも何なのか?ここまで長々と逐一解明してきた通り、はるかというのはすごいキャラです。彼女を表すのに語彙が全然追いつかないのが難なんですが、すごくすごいキャラです。造形としてとにかくやり過ぎが過ぎるくらい。愛想だけを唯一の代償に、あらゆる美徳を自然と身に集めた究極の超人、欠けた所のない円熟の人物です。


弥生編で、由綺について「恋人に去られても涙を流さず、それでもなお繊細な心を一片も失わないような都合の良いヒロインだったならば」と仮定されます。この場合、前提を「恋人に蔑ろな状況を強いられても」とも言い換えることができます。そんな苦渋に耐えつつ微笑み続けられるような都合の良いヒロインなんて初めからいる訳がない、由綺が一人の人間である限り、どうあっても実像は、そんな人間離れした理想像にはとてもなれない、というのが根底に流れるニュアンスのようですが、そんな不可能を可能とする人物が作中に存在してしまっているのがWAのすごい所です。素で条件をクリアし、理想をさらっと実現してそれを主張しない奇跡のスーパーヒロイン、それがはるかです。彼女は完っ全に類まれなレアケース、奇跡っていうか、異常値が普通になっている化け物なので、普通の尺度で評定することはできません。そんなはるかの人間レベルを目標到達点として由綺を高めようとしている弥生の所業がいかに鬼であるか、ご理解いただけると思います。けっして要求を押しつけるではないけど無茶な理想を掲げており、由綺に対するしごきが過ぎます。理想はあくまで理想であって実現などとても前提にしていないとはいえ、非人道的な育成プランです。いくら頑張ったって、誰もはるかの域になんか達せやしないから絶対。なれなくても仕方ないから、なれなくて当たり前だから。人格面以外においてもはるかは、普段の学業において当たり前に好成績を修めていること、また「森川由綺」でも「緒方理奈」でもない「第三の歌手」の歌声が一番美しいことからも判る通り、本人がたまたまスポーツ方面に関心を寄せたからその方向に躍進しただけで、実際には何やらせても一級なんだと思います。はるかに苦手なことなんて存在しないんじゃないかと思えるくらいです。


このように、すべてにおいて群を抜いているはるかが、それなのに物好きにも、何の取り柄もない俺を選んで側にいてくれるというのは、冬弥にとってとても大きな要素です。普段、天邪鬼して「はるかなんかいなくても別に」と放言する冬弥が、ごくごくまれに、それとはまったく正反対の説明を展開することがあります。はるか自ら望んで自分と一緒にいてくれること、彼女の情けありきで成り立っている自分たちの関係を、非常に得がたいことで、二つとなく勿体ないことだとしています。日頃の難癖はポーズで、心の底ではいつもいつでも、はるかという存在のありがたみをちゃんと身にしみて思い知っているということです。たまにあふれ出てしまう逆証言の方が本当の本音です。


はるか編は「友達は友達のままで」というのがキャッチコピーです。となれば、「友達」を超えた「恋人」の関係にはとてもなれない、その立場には遠く及ばない、との意味に取られがちですが、「友達」が「恋人」の下位存在だなんて誰が言ったんですか?それって一般的な「普通の」ランク分けですよね?冬弥は普通じゃないですからね。はるかとの仲は、普通の友達関係ではない、とても珍しい特殊なものです。はるかが「『ただの友達』でない」ことは、ちゃんと言葉としても明確に示されているはずです。冬弥ははるかのことを「友達でも恋人でもない、親友って分類でもない」と言います。おいおい、「友達」「親友」の間にさらっと「恋人」ってワードを混ぜこんじゃってるぞ。はるかを説明する上で「友達」と「恋人」が同列になっているということです。冬弥の言う「恋人じゃない」というのは、「恋人『だけじゃない』」ってだけで「恋人としての実質」はちゃんとあるんです。気楽な友達でもあって、睦まじい恋人でもいられて、深く分かち合える親友としてもいられるっていう。でも、どれか一つに限定できるかというと絞りきれず、そのどれでもない。全部がはるかを示す要素だから一つも切り落とせない。そして一つだけを残すことはできない。だから友達でもないし、恋人でもないし、親友でもない。分類を「『すべて兼ねた』どれでもない関係」、それを便宜上「友達」一つに言葉をまとめたのがはるかとの仲です。


明確に言語化するとさすがにはるかコンの実態が即バレするので全貌は伏せられていますが、「友達」「恋人」「親友」だけじゃなく、「姉」とか「妹」とか、何なら「母」の要素までもはるか一人でまかなっている状態です。冬弥が所望するあらゆる属性がはるか一人に集約されています。冬弥にとってはるかは、本当に「ただ一人の人」「求めるすべて」なんです。そんなはるかとの関係について冬弥は「仲っていっても、別に由綺に後ろめたいような仲じゃない」と主張します。大嘘です。こんなにも凝縮した密すぎる仲で。しかも自分の病気のことを知らないから、平然と大真面目に取り違ったこと言います。ほんと何言ってんの?完全にポジション逆で、気にかける相手が違うでしょうよ。はるかの方に申し訳なく思って、土下座して謝れよお前。ほんとに。はるかだから許してくれてるってだけだぞ。


はるかが冬弥の側にいたがっているかどうかというのは、顔にはまったく出ないに等しいですが、実際冬弥を構いたくて、あるいは彼に構ってほしくて何かと寄ってきます。常にのそのそしているのでとても気があるようには見えませんが、基本、人にまとわりつくことをしないはるかが狙いを定めて自分から寄ってくるということはそういうことです。冒頭のセピア選択画面を始め、あらゆる所で語られる「俺がそう思う以上に、彼女の方から俺の側にいようと思ってくれる」というのは、由綺以上に、実ははるかの話なんですね。冬弥がのぼせて由綺語りする内容の多くは、その実質が由綺にも備わっているかどうかの判定はともかく、間接的に、はるかの性質をまず第一の根拠に据え置いたものです。由綺の話をしているようで、本筋的にははるかをまるまる指定した裏話が展開しているということです。


セピア画面にて、冬弥と由綺のなれそめというのは選択式になっています。「席が隣だった」「保健室に連れてってあげた」「ノートを見せてあげた」の3パターンから出会いを「選べる」けれど、つまるところ、その「全部」がきっかけとして「事実」なのだと思います。時系列としての順番や各想い出に対する感銘度の変動こそあれど、そのどれもがきっかけとして有効で、過去確かに存在した状況ということです。そしてその構造には、さらなるからくりが施されていると考えます。作中、直接的な過去描写がほぼ無いに等しい冬弥と由綺の想い出として、かろうじて「実装」されているこれらの不確定ななれそめ、それは、わずかな断片としても一切存在しない冬弥とはるかのなれそめを、ことごとく暗示しつくしたものでもあるという説です。つまり、家が隣?かは判りませんがごく近所で、怪我したはるかを手当ての場に連れていき、ひらがな練習帳?かなんかを見せてあげた、といったその全部がはるかとの遭遇の「一連」として冬弥に刻まれているという可能性です。由綺との想い出として語られるなれそめ群、それと「同じもの」を先んじてはるかが既に「初版」として所有していたということです。


中でも「はるかの怪我」の要素に注目したいと思います。実記載である由綺との「保健室なれそめ」について経緯を説明しますと、廊下に飛び出した冬弥が由綺と衝突、彼女を転ばせて怪我させてしまったので、慌てて保健室に運んだんだそうな。最後の保健室はともかくとして、前半のくだり、どこかで見たことあるぞ。そう、はるか編でくどいほど何度も繰り広げられる光景ですね。ほぼ確実に、はるかとの恒例パターンを母体として想起させようとする意図で組まれていると思います。情景描写の面で、度重なる反復で強化されているはるかとのやりとりこそが本流ということです。面白いことに、由綺だけでなく、理奈やマナとも、正式な出会いの折に「出会い頭の衝突」というシチュエーションが描かれます。「攻略相手とぶつかることで出会い、交流が始まる」というのはもう、この手のゲームのお約束と言っても良いですが、そのベタ展開をしっかり押さえておくという基本徹底の意味も持たせつつ、WA独自の目的として、冬弥が各キャラにはるかという絶対的存在を重ね見るための条件付けがなされています。


他にも、冬弥本人が意図せずしてはるかを意図して指し示しているであろう記述はいくつかあります。マナ編での、クリスマスライブからの帰宅時にアパート前で座りこんでいるマナを発見した後の「夜通し野外で過ごさせられて『おはよう』と微笑むような女の子はいない」、また弥生編での、弥生を部屋に招き入れた初回の「俺の部屋に『恐れ入ります』なんて挨拶をして入った人間はいない」がそれに該当します。「いやいや、いるよ、それってはるかがしてることじゃない」とのつっこみ期待で敷かれている記述だと思います。どちらも作中で、実際のはるかの言動としてばっちり描かれている要素です。冬弥は気付かないまま、というかそれらのはるかの言動は彼女を匂わす記述とは別ルートで発生するものなので、けっして「例外的に、唯一はるかは当てはまる」と直接言及されることはありませんが、脚本上では明らかにはるかの想起を想定した誘導的な仕込みと言えます。はるかの存在というのが常に、目に見えぬ気配として作品全体を包んでおり、それだけ彼女が重要人物として冬弥の感覚に影響しているという構造を示す証です。


さて、はるか編では何度もはるかの当たり屋ぶりが描かれます。「俺のこと狙ってないよな?」「ううん」の受け答えで示されるように、わざとだと本人しっかり認めています。判定窮まる曖昧なレトリックの妙から、冬弥は逆の意味に受け取って矛を収めますが、はるかが冬弥に衝突してくる事例は確実に故意です。でははるかは何を目的として冬弥に衝突を試みるのでしょうか?仮に、はるかとの運命的な初対面その日に「衝突」という要素があったことを事実とします。であるなら、はるかは作中、衝突を繰り返すことで「出会いの瞬間」をそのたび再現していることになります。冬弥に、あるいは自分に、初見の「衝撃」をことさらに強調しています。これは何を意味するのかと言いますと。ここで作品の本筋に立ち返りますが、冬弥の中ではるかという存在があやふやになっており、さらにそれが進行していっているという裏事情が根底にあります。現時点の冬弥が失っているはるかの想い出というのは、中高生時代の少なくない一部と限定されていますが、どうも、連動するはるかの方には時折、冬弥そのものを認識できなくなる瞬間があることから、患部を皮切りに、損傷箇所以外の全記憶にも忘却は波及しつつあると考えられます。はるかの記憶の流れは連続していて、冬弥のように途切れて遮断されていないから、転移する異変に次々侵食されてしまうのです。「二人の出会い」という大元の出来事までも薄れゆき、はるかには「冬弥の認知」の保持すら怪しくなってきています。なのではるかは「冬弥との出会い」を補強するために何度も同じ展開をリピートして、より確実なものとして定着させようとしているという訳です。ただ困ったことに、冬弥はダミーの由綺ともまた似たような出会い方をしているため、「衝突エピソード」がはるかだけの限定要素として個別専有で確立している訳ではなく、はるかが自身の記憶を補強する効果はともかく、冬弥側がはるかの記憶を特別に意識して維持・温存するための効果のほどはあまり期待できません。


冬弥がはるかという「持っている」存在に入れこむ心情はそれなりに納得できるとして、はるかの方が「何でもない」冬弥にゆるがぬ思い入れを寄せるそもそもの理由は何なのでしょう?はるかが固執する「衝突」展開にその鍵があると見て、実際の衝突エピソードで描かれる行動様式に基づき仮説を立ててみます。初遭遇のはるかが衝突によって怪我をしたその時、おそらく冬弥も同時に同じく怪我をしたんだろうと思います。でも本人はそれに気付かない。他人の怪我を心配して痛そうに騒いでいる。どうも自分の怪我を痛がっているのではないらしい。怪我が痛くないのか、それとも痛いのが判らないのか。はるかの目にそんな冬弥の姿は、世にも珍しい奇異なものに映った。「この子、変」と思うと同時に、その危うさに「誰かがついててあげないと」と思った。そして「私がやる」と決めた。また、見返りを求めることも自分を顧みることもない、芯から純粋で含みのない善意に強い感銘と恩義を感じ「この子についてく」と誓った。冬弥生来の特色パターンが、幼女はるかの原初の母性と乙女心を最大値で刺激したという訳です。作中でも、時としてはるかは冬弥を「おかしい」と思っている様子を見せます。変なはるかに「変」と思われているってことは、それは逆に冬弥が「普通」ってことでいいのでは?とも思えますが、実際はるかの方が実は常識的で、冬弥の方が本当は異常者の域なので、はるかの見方は至極まっとうと言えます。はるかは、そんなおかしな冬弥に興味を引かれ、彼から目が離せなくなったのでしょう。はるかにとって、危うげで見過ごせない愛すべきたった一人の存在として冬弥は認定され、以来、はるかは連れとして常に冬弥の側に寄り添い続けているのだと思います。意味なく無為に一緒にいるようで、ちゃんと彼女なりに深い理由があって冬弥に決めているのです。


ここで、ある疑問が生じます。初対面時において既に、冬弥が今のように、自分の怪我に気付かないような特殊な傾向を持っていたとするなら、一体どんな幼児だという話になります。普通痛かったら泣きます。泣かないにしても、痛いのにまったくの無関心でいられるとは思えません。幼児なんてのは基本、自分の感情赴くままな存在だというのに、幼児だてらに他人の様子にばかり気を取られ自分の感覚に意識が回らなかったのだとしたら、冬弥の人間性は根本から「おかしい」と言えます。人生序盤であるにもかかわらず、既に何らかの重い負荷がかかって、我慢あるいは鈍麻が常態化していたことになります。とても普通の幼児ではありえません。私が一貫してこだわって主張し続けている割に、一向に証拠皆無な「冬弥、母を死なせて生まれた説」ですが、冬弥の異常を説明しようとする上で、時期、状態、理屈の面で、これほど条件を満たす仮説はない気がします。理由もないのに冬弥があの性格だとすると、その性質がぶれずにしっかり徹底されていることに説明がつかなくなります。意味があるからこそ性質として強調されているはずですからね。冬弥設定の疑惑を証明する根拠は依然ありませんが、疑惑を一つの可能性として説明するとしたら、持ち寄れる事項はいくらでもあります。まあ、ここでしか提唱されないはちゃめちゃな珍説程度に思って、癖の強い独自色どうしようもねーなと諦めつつ、酔っぱらいの荒唐無稽な絡み酒に付き合って下さい。あ、なお、はるかの方も幼少時から怪我に平気でいそうですが、彼女の場合は、心身の持てる生来の強度がやたら高いだけです。耐久値の高すぎるはるかも、あれはあれで、人として「おかしい」ってことです。


弥生編クリスマスにおいて「母親の帰りを待つように」冬弥が膝を抱えてTVを見つめ続ける様子が描かれ、追って「誰を待つともないままに」と撤回されています。いかにもな待機モードで座ってはいるけれど別に何か特定のものを待っている訳ではない、という意味ももちろんあると思いますが、先の文だけで十分に完結している状態描写にあえて後の文を付け加えているのが奇妙に思えます。この追加文の必要性とは何か?先の文は「母親の帰りを待つ」という行為があたかも過去の経験に実際に存在して、そして「まるでその時のような気持ちで」という直喩のように語られますが、はたして本当にそれだけの単純な話なのでしょうか?帰ってくる母親というのが、冬弥には「初めからいない」から、だから母親の帰りを待っているのに「誰を待つともない」状況になるのではないでしょうか。「帰ってくるはずのない母親を待つ」ように、けっして寂しさが解消されることのない虚無感を示しているのではないでしょうか?つまり「~ように」という直喩の前提であるべき「母親の帰り」すら元より事実ではなく、ある意味「実現不可能な望み」という暗喩でしかないのに、「待つ」状態だけに事実を限定して比喩に比喩を重ね合わせることで、外観上シンプルな直喩として成り立っているということです。このように、本当は比喩なのに事実めかした表現が使われるのは冬弥の語りではよくあることで、あえてそういう手法が取られているようです。プレイヤーを引っかけるための意図的な言い回しです。こういうごまかしは特に、家族構成にかする場合に見られる傾向で、冬弥が持つのは特別な家庭環境ではなく、何でもないごくありふれた家族があたかもそこにいるかのような印象を持たせ、何の関心も抱かせない効果があります。姉たちがひどく理不尽だとする彰の愚痴を聞いてもなお姉の存在を羨むことから、冬弥には「姉はいない」と暗に導き出されますが、その一方で、弥生の妨害イベントにて「『いとこ』の」との付け足しがあるとはいえ「姉さん」が遊びに来るから約束守れなくなったと普っ通~に由綺に嘘をついてしまえるあたり、普段から架空の家族をでっち上げる、ではないですけど、それっぽいはったりを曖昧に打ち出してごまかすことに慣れている感があります。痛い事実につっこまれないようにするための、必死で何でもなさげな防御策です。


冬弥は「平均化」の能力がやたら高いので、見た目普通に見えてしまって、異常が異常として認識されにくい状態にあります。自分の内部をゆがめることで、物事を丸く収め、表面の平坦さを保っています。十分とは言えない環境に生きながら、それでもそのことを感じさせません。けっして自分可哀想ぶることなく、何気なくぼさっとしていられるのが冬弥の強さで、それは「真の強さ」とも言えるものです。はるかは、そんな冬弥に出会うなり直感的に「こいつできる」的な感想を持ち、熱視線を送るようになりました。全然普通でない事情を抱えながら「普通で『いられる』」冬弥は、それこそ普通でない努力をして普通を維持していることになります。それがいかに難しいことか、冬弥が裏でどれだけの無理をしているのか、側で付き添っているはるかにはよく判ります。はるかは誰よりも冬弥その人の素晴らしさを認めています。元々はるか自体が幼くして強すぎる心を持った人間ではあったのでしょうが、加えて冬弥の心根に価値を感じることで、彼のように「私もなりたい」と願い、自分もまたそうあろうと努めています。はるかの強さというのは、冬弥の強さへの憧れから生じ、日々更新されている代物なのです。


一方、苦痛を抱える冬弥としては、単純に「母がいない」事実自体よりも何よりも「自分が母を殺した」と思いつめているのが一番の問題です。つまり冬弥は「取り柄がない」どころか「罪深く呪われた」存在なのです。生まれながらに重い十字架を背負うって、先の世でよほど許されない罪を犯したんでしょうね。そんな汚れた自分をわざわざ選んで、好きで側にいてくれるはるかが、彼にとってどれだけ救いの存在であるかお判りいただけると思います。すべてに恵まれ、一身に祝福を受けた光の存在のようなはるかが、呪縛で身動きが取れず、自由に生きられない闇を抱えた自分に寄り添って歩調を合わせてくれるとなれば、「せめてもの恩返しになるなら、はるかのために生きることが俺に許されたたった一つの喜び」みたいに一点集中してしまうのももう仕方ないことだと思います。はるかとの間にそびえる太刀打ち不能な格差の壁に、冬弥が運命的なめぐり合わせの不満を抱かなかったのかですが、持たざる自分を嘆くことこそあれ、持てるはるかに妬ましい反感を覚えるようなことはそれほどにはなかったようで、引きずり落としてやろうなどという悪意はつゆほどもなく、ただひたすらに彼女の足を引っぱってしまう自分に不甲斐なさを感じています。冬弥は純粋なままゆがんでいるだけで、中身がどす黒く淀み腐りきっている訳ではありません。屈折していても心は澄んで綺麗なままなんです。


先天的に罪を背負った、悲惨モードな冬弥ですが、彼の身の上には、先の世?と繋がった派生設定が大きく関わっています。派生元の兄妹が犯した罪というのは、古今東西、一部の例外を除き基本的に特級の重罪なので、その罪の縛りを引き継いだ冬弥が重い罰を受けているのは、これはもう仕方ありません。そして特級の罪人を派生させるとなると、特級の罪でもって条件を置き換えるしかありません。冬弥は、罰と引き継ぎとして「母殺し」というこれまた特級の罪を背負わせられています。あれ?じゃあはるかは何なの?彼女もまた同じく、目にも明らかに派生を経たキャラなのに、何であんなにも優遇されまくった余裕モードなの?何か特殊な理由がありそうですね。というのも、冬弥とはるかでは派生条件が違うのです。はるか(河島兄妹)は、かの兄妹が初動の不幸に見舞われなかった場合を想定した理想的なモデルケースなので、傷からも罪からも隔離された、非常に綺麗な汚れない身の上です。この世の者ではありえないくらいの、天上人レベルです。河島は「かわし・魔」であり、名の通り「魔をかわす」河島兄妹には「魔が憑いていない」のです。河の字も割とのびやかなイメージで、あんまり陰性のニュアンスはありません。辛い境遇を経て罪を犯した身としての派生体である冬弥とは、住む世界が違うのです。


傷も罪も持たない河島兄妹を横目に「何で俺だけが」と思っても仕方ないくらいに不幸総かぶりな冬弥ですが、幸い、彼がその格差を呪わしく思うことはなかったらしく、河島兄妹のおこぼれで幸せの余波を浴びることで徐々に癒されていったようです。派生による設定の分散により、河島兄が不憫な冬弥の力になる一方で、冬弥は完璧さを求められないで済みます。原型兄が一人で抱えていた負荷要素を分散させることで、河島兄は期待に応える兄として、冬弥はしんどさを抱えた子供として、重圧をそれぞれ分担して、自分の持ち分だけに専念できるという訳です。自分一人では、支えることも頼ることもできないですからね。全部一人で同時に抱えて無理を通したら「ああなる」のは実証済みです。


原型兄ときたら、作品では調子に乗って下衆っぷりを全開で披露していますが、基本的には本来すごく純粋な人なのかもみたいなことが示唆されています。大したフォローにもなりませんが、純粋すぎたからそれだけ汚染も一気に進んだのだと思います。やることなすこと純粋に突っ走った結果で、ただ妹のために生きられればそれでいい、それ以外何もいらない的な人間に見受けられます。あんまはっきりとは語られませんが「パパとママに会いたい」系の、本人には悪意がなくても大ダメージな、実現不可能で無理難題な妹のわがままを日頃から継続的に長期間聞き入れ続けていたらそりゃ原型兄もかなわんだろうなと思います。無理なら無理って突っぱねるならまだしも、あの人、希望に添おうとして無理して自分が役割担当するから。本人も無力で未熟な子供でしかなかった頃からずっと。


原型兄には四字熟語で表現される系のあらゆる美徳が備わっていますが、原型妹にはそこまで特に優秀さの言及はありません。おそらくは、妹の方も潜在能力は兄同様に十分にありながら、大変なことは何でも兄が先回りして代わりにやっちゃうので、成長の機会を逃していたのだと思います。兄の過保護が妹の実力発揮の可能性を阻害していたという、ありがた迷惑です。全部裏目。はるかはそこんとこ、放任というか適当な距離で保たれて束縛から解放されているので、のびのび自由に自分を伸ばしています。本来なら原型妹もはるか並みの強キャラに育っていたかもしれないと思うと、原型兄の善意、何とも嘆かわしい限りです。


さて、冬弥の対応妹はマナです。こちらは罪の負荷のかかった不遇な派生コンビです。禁忌の罪についてはその性質上、連帯責任となり、両者散り散りになって一緒にいられないという、彼らにとって最も辛い罰を食らっていますが、実質悪いのは全面的に兄の方だけで、完全に被害者の妹は何も悪くないので、マナには縛りを続行させる新たな罪の付与はされておらず、彼女自身はそこまで深刻な身の上は背負っていません。しかし原型妹の下地として、兄を過信するあまり丸投げで重荷を課していた一面があったので、強制課題としてマナは、頼る人のいない境遇で、自分一人で何でも何とかしなくてはならない状況に置かれています。ただこの状況、マナにとってそう悪いことばかりではなく、兄の保護を受けられない一方で、身の危険から遠ざかっているとも言えるので、結果的に何が幸いするか判らないものです。兄の知らない所で友達だって普通に作れているみたいですし。兄の過保護を遮断することで、マナもやっぱり人間的にたくましく強化されており、ほんと原型兄って余計なことしかしてなかったんだなと嘆息します。


ザコい小悪党の印象があまりにも強くて、その持てる力量を実感しにくいですが、原型兄はかなりの高条件男子です一応。でも、ただ優秀なだけだと味がなさすぎて興味を引かない設定なので、身の上の不幸と内面の狭量さで、うまいこと人生のプラマイの釣り合いが取れるように工夫されています。その設定調整の引き下げ分のマイナスすらプラスに転じ、環境に余裕があって自身の性格も寛大っていうのが河島兄です。天は二物を与えたどころか、あらゆるあまたを与えられています。全部乗せの超チートですよ。何なのもう。無愛想なのとエロ耐性がないのだけがかろうじての困りごとで、後は何の苦悩も問題もない張り合いのなさです。スーパースターって、真面目に褒め言葉として実用するにはかなり恥ずかしい強フレーズですが、手前味噌がはばかられる身内であり、お世辞とか絶対言わないようなはるかが、それなのに普通にその言葉を用いるのは、本当に厳密に、それ以外に兄を形容する言葉が存在しないからではないかと思います。


妹はるかも案に違わず超チートです。恵まれた環境に恵まれた容姿、恵まれた能力、恵まれた人柄を持ちつつ、それが当人の普通で、自分が恵まれているという意識がないもんだから、恵まれた自分を顕示することもありません。要するに人として完璧です。ただし唯一の欠点として、恵まれている状態が当たり前すぎて、自分を過信じゃないですけど危機感に乏しくて、自分は死なないとでも思ってそうな節があります。あいつは確実に、何でも「大丈夫だよ」の一言で片付くと思っています。実際大概のことは何も問題なく片付けてしまって事実「大丈夫」なので、はるかが楽観するのも仕方ないといえば仕方ないのですが、完全に世の中なめきってます。少しは痛い目見た方がいいと思います。


河島兄妹は「傷」からも「罪」からも逃れていますが、やはり人生のプラマイとして、相応の引き下げがなくては設定に釣り合いが取れません。恒久的に絶頂期が続くなんて、世の中そんな甘くないです。そのため、遅れて「試練」が来たという形で悲運に見舞われています。はるかは、魂で繋がる半身の心の中で、別の誰かが自分に成りかわるという、自分が自分でいる上で非常に耐えがたい責め苦を負わされています。そしてかたや河島兄は、恵まれすぎていて事故時点で手持ちの幸運を使い果たし残量が底をついていたので、運良く助かるなんてこともなくそのまま他界します。まあ彼の場合、死後の充実した守護霊生活の方が人生の本番なのでそれでも別にいいんですけど、あまりにあっけなさすぎます。原型兄は消火器で頭どつかれても死ななくて、割とぴんぴんして、のちにのんきに温泉地観光デートとかしちゃってるのに。しかも下手人と。まったくゴキブリ並みの生命力ね!なんて悪運してるのかしら!その生き汚さを受け継いだ冬弥の方は、死にかけても結局死なないくらいにしぶとくて、特に代わり映えしない日常を、平気でごく普通に過ごしています。