弥生8


弥生とはるかが旧知であり、舞台裏で接触しているという疑惑のそもそもの根拠ですが、残念ながらそんなものはどこにもありません。それぞれ単独で冬弥に隠しごとをしていたとしても、各自しっぽを掴ませないでしょうし、二人が示し合わせて関連を伏せているとしたら、これはもう、冬弥には察知するすべはありません。仮に全キャラ揃う場があるとしても「ん」「どうも」で彼女たちの話は終わり、繋がりなんて絶対判りません。弥生が遠出の休憩の際に弥生らしからぬふぬけたはるか思考の呟きをしたり、はるかがたまに変にかしこまった弥生口調になったりと、一応相互にほのめかしはされているものの、証拠としてはかなり弱く、確定に足るものではありません。ただ、それらに対する冬弥の違和感が、テキストとして注意を促している以上、物語的に何らかの意図があるはずで、実際、弥生とはるかの関係性を仮定すると、弥生編で放置されている謎の多くは解決します。弥生編通してたびたび描かれる、弥生が由綺よりも優先している「何か」、これには冬弥も気付いていて、その都度、読み手に注意喚起されますが、結局最後までそれが何なのかは明かされません。表面上のシナリオを真に受けた読み手は「弥生に由綺以上に大切なものなんて存在しないだろう」と思いこまされているため、その引っかかりは冬弥の気のせい、または考えすぎだと放置してしまいがちです。けれど、弥生の言動から考えて「何か」が存在するのは確実です。かといって、それをはるかだと確定するにはやはり証拠がないのですが、弥生の「彼氏」事情に始まり「由綺の雛型」としての真価など、間接的に、はるかは条件をことごとく満たします。何より、従来、無価値で無意味なものとされてきた「契約」に、的確な意味を持たせられるという点で、はるかの存在は弥生編を読み解く重要な鍵となります。はるかの真設定を知らないと、文字通り話になりません。WAはパズルゲームの要素も多分に含んでおり、謎のスペースに符合するピースを見つけた時の爽快感は格別です。ともあれ、確実な解答は用意されておらず謎は謎のままではありますが、はるかが弥生の援護を受けた盤石の体制で試練に臨んでいると思うと、少しは安心します。そう思うと、何も知らされず、何の補助もないまま試練を受けている冬弥は心許ないですが、彼はまあ自己責任です。主人公なので、つまずいて痛い目見るのもまた物語でしょう。


由綺に一方的に話しかけられて頷いている姿以上に、はるか、あるいははるか的人物と、押し黙って何をするでもなく淡々と連れ添っている姿の方が、弥生らしいというか、スタンダード、本来のあるべき姿に思えて、はまりすぎてて「ああ…」って納得します。あの弥生が、はたして由綺のような、目にも明らかな見え見えの判りやすいフックにそのまま食いつくと思いますか?彼女だったらもっと、屁理屈な思考を間に挟んだ、傍目には理解不能な要素に特別な意味を見いだして重要視するに違いないです。河島兄妹の、コミュニケーション欠如といういわゆる欠陥と思われる部分が、見方によっては限定的な価値に転じ、それを感受できる弥生にはこの上ない専用の魅力となっています。弥生は「自分だけが判る」という貴重さを何より尊びます。必要以上に喋らないのが逆に居心地いいんです。過去の一コマは美男美女で絵になる構図だったかもしれませんが、図体でかい二人がにこりともせずひたすら無言で並んでいる様はかなりの威圧感だったんじゃないかな。二人だけの世界には誰も入りこめません。


衆人の前では素晴らしく超人的な彼が、自分に対して限定?で、心を許してたるみきっただめすぎる姿を見せてくれるとなると、弥生のような男慣れしていない人なら特にころっといってしまうと思います。頑なな弥生ですら、自分だけへの特別な歩み寄りに心をほぐされて気を許します。何か知らないうちにすいっと隣の席に居座って、チョコなんかをお裾分けしてくれますから。お嬢様、免疫がないからひとたまりもありません。上っ面だけのナンパ男と違って、誰でもいいから軒並み引っかけるって感じで近づく訳じゃないので、ガードも自然ゆるみます。「私にはもうこの人しかいません」って心に決めちゃったんじゃないですか。鋼鉄の女のはずが、愚かにも、何のてらいもない男に腰砕けで人生狂わされて、締まらないやら示しがつかないやら。恥ずかしい話です。手はかからないけどだらしなくて世話が焼ける、迷惑はかけないけど回りくどくてめんどくさい、素っ気ないけどたまにやたら構ってほしがる等々、その適度に困った性質の何もかもが、世話焼きで生真面目で教育的で、細かくまめで甲斐甲斐しい弥生に狙いうちでヒットします。有能だけじゃだめなんです、何かしら手を添えられる部分がなきゃ。そんな弥生の難しすぎる理想をことごとく満たし、まるで弥生専用に存在しているかのようなフィット感。欠点こみで、弥生の希望要項に完全一致します。辛口で因縁がましい弥生ですらけちのつけようがありません。その上、お互い対人スキルが絶望的という条件のもとで出会い特別に仲良くなっているので、もう、お互い以外の相手など考えられるはずがありません。お互いがお互い、ただ一人しかいません。現状、弥生の生きる糧と見なされているのは由綺ですが、こんな対弥生特注仕様の盛り合わせに匹敵するとはとても思えません。ていうか本当は由綺全然関係ないでしょ。「由綺さんを愛しております」だなんて、どの口が言うのか。明らかにブラフです。そっちの方が「嘘ですけどね」だったなんて、完全に詐欺ですよ。


クライマックス、由綺への尊い愛情を語る弥生の様子は真にせまっているので、その発言に嘘はないと信じてしまうのも無理はありません。が、感情の内容自体は本物ですが、言及対象はすり替えられているというのが真相で、本当ははるかの話です。弥生にとってはるかはいわゆる「主筋の姫」で、こっちが正式な対象です。はるかも冬弥を兄に置き換えて話すことをしますが、彼女たちは感性豊かであると同時に理性的でもあるため、こみ上げる気持ちは本物だけれど、人物指定を違えて話す離れ技という芸当も普通にできてしまいます。弥生の場合、深く愛してやまないはるかへの想いを「名前だけ」由綺に置き換えて話しており、惚れぬく才能にしろ人柄にしろ、その人物説明はすべてはるかを指したものです。ちょっと由綺では、弥生の説明をカバーするだけの資質の絶対量はなく、条件として何もかもが足りなすぎます。弥生の話を本当に由綺のこととしてそのままのめますか?そこまでのめりこむほどかなあ?ってなりません?私には無理です、比較対象としてはるかの真設定を知ってしまった以上は。比較にもならず、本物はどちらなのか、自ずと知れるというものです。褒めてほしいとばかりに何かにつけ、しなを作ってみせる由綺の振る舞いは、むしろ逆に、弥生が「三流」と言い放つ人間性にそのまま該当します。由綺自体には正味、弥生の心を射抜くような実質はないのです。はるかの面影補正ありきで、それによる加算がすべてです。実際弥生は「素晴らしい女性『でした』」としっかり過去形で話します。あいにく、いつものうっかり誤植と思われて、いつも通りスルー必至ですけど。その過去において比類なき輝きを放っていたはるかを偲び、そしてまた現在、冬弥のせいで不毛な制限を受けているはるかを案じ、不自由な彼女が望むままの彼女として生きられる今後を弥生は願い、力添えします。それは、テニスという既に退いた表舞台にはるかを復帰させるという意味ではなく、はるかの人生全般において、彼女が彼女のまっとうな自分自身を取り戻せるように。


由綺関連のカミングアウトにより、弥生の性指向は同性愛だと固く信じられていますが、そう見せかけて実はそうではなく、彼女が最も愛した元々の相手は異性である男性です。弥生の発言の上で同性愛が強調されているだけで、正確には彼女は厳密な同性愛者ではありません。とはいえ「愛する人は異性」というのが真相だからといって「同性は対象にはならない」かというとそうでもなく、現状はるかという同性の人物を深く愛しており、その同性愛の気持ちに偽りはありません。では両方いけるクチなのかというと、そういう話でもありません。そもそも弥生は愛する相手を性別で決めているのではありません。身もふたもなく言ってしまえば、河島兄妹に性別は関係なく、彼らを愛することにも性別は関係ないんです。ただ、弥生が過去に愛し、今も愛し続ける彼が男性だったというだけ、そして今生きている中で最愛の人物であるはるかが女性だというだけです。彼が女性でも弥生は彼(彼女)を愛しただろうし、はるかが男性でもやはり弥生は彼女(彼)を愛するだろうと思います。本人、そういうことこぼすでしょう?女性でも男性でも構わないって。さすがに、どこから見ても女性然とした由綺に対して「女でも男でもいい」とやってしまうと不自然なので、そこは思慮が働いて、相手に関する限りはあえて除外し、表に出ているテキスト上では「自分が」と限定指定してはいるけれど、その範囲は「相手も」にも同時指定されると思います。「女でも男でも構わない」つまり「女でも男でも通用する」「性別制限に左右されない」存在として普通にはるかというキャラが作中にいるのは、偶然でも何でもないのです。完全にはるかありきで敷かれた台詞です。WAはかなり昔の作品ですが、愛の多様性がうたわれる昨今の風潮をいち早く先取りしていたようで、色々と早すぎた作品だったのかもしれません。


「処女を捧げた」だの「女性だろうと男性だろうと(一つになりたい)」だの、真実の愛に関する信念として絶対に外せないキーワードは、弥生の中で固定で不動です。大事なことについては、性格上、絶対に嘘をつけません。巧妙な言い換え、ごまかしの中、真実だけが真実のまま、繕われることもなくそのまま馬鹿正直に発せられるので、そこだけが際立ちます。「弥生さん、さっき『処女を捧げた』って言いませんでした?」とズバッと指摘してやればいいんですよ、鬼の首を取ったも同然です。本人、流れでナチュラルに本音を口に出してしまって発言に自覚がないので「言っていません」と意固地に否定する、あるいは「言ったかしら」ととぼけて独りごちるでしょうが、図星を指されて、内心言葉に困ってうろたえまくると思います。顔には出ませんが。このように、弥生を懲らしめるネタは作中にいくらでも転がっているのに、冬弥はちっともそのことに触れようとせず、何一つやり返せないままです。弥生というキャラを全然引き出せておらず、主人公としての仕事をまっとうしていません。おいしい部分を手つかずで持て余しているのが現状です。でもまあ、くどいようですが、弥生は冬弥のヒロインとして存在している訳ではないので、それも仕方ないことかなと思います。弥生の弱みをつついて弄ぶ醍醐味は、話の裏側で幽霊か英二にでも譲り、弥生の行き過ぎをたしなめるのもそのまま彼らに任せておきましょう。


冬弥では受容しきれない弥生の魅力の大半は、真相解明後の、河島兄との関わりを中心とする想像の中で暴かれます。頭の中で勝手に兄を主人公にでも取り立てて、ありそうな情景を適当に思い浮かべて繋げば、それはもう真弥生編として十分に有効だと思います。想像上のシナリオは、読み手の数だけ存在するといっていいでしょう。冬弥がはるかの行動について、その真意は量れずとも、常々「読めすぎる」「いつも通り」「大体こんな感じ」と言い連ねるように、兄もどうせ大したことはしていなさそうです。作中で日々はるかが過ごしているような、あんな感じのままを想像すればいいと思います。


河島兄というのははるか編限定のキーパーソンで、それ以外に役割があるとはよもや考えられておらず、他との関連性など初めからまったく想定だにされませんが、実は、冬弥に隠された各編のメイン真相が発覚すると同時に、何かしら兄に関するサブ情報もまた付随的に浮上してきます。詳細については各キャラ話のついでに適宜取り上げるとして、兄の存在は見えない所で、大なり小なりまんべんなく全体に影響を及ぼしており、特に関わりが見当たらない?のはわずかに由綺編のみです。兄のメイン要素と思われているはるか編での重要性が、むしろ最も軽いのではと思えるくらい、別の話にも何かと関わってきています。


いや、由綺編もどうかな?障壁としての英二の存在が兄と重なるのかな?だとすると、はるか絡みで冬弥にとって看過できないハードルとなっていたということになりますが、それだと兄の性質としてちょっとあれですね。冬弥に加え、兄まで妹に思いつめたアブノーマルな変態さんだったら、はるかが無傷でいられる保証がなくなります。よく無事だったな。もっとも英二の場合は解読した後々に、由綺に対する行動はただの引っかき回しで冬弥が思うような後ろ暗い思惑は何もなかったと判明するので、兄の場合も本人は何とも思っていないのに、冬弥が疑心暗鬼から勝手に不安材料に押し上げていただけなのかもしれません。ただ、弥生が誘惑の際に「女性としての体なら他にもあるでしょう」といった意味の殺し文句を、元々持っていた当たり前の観念のように事もなげに言うのは、やっぱり兄にもちょっとはそれ系の下地があったのかもしれません。因子を持つのは確かですからね。いいのか、そんなシスコンありきの恋人関係で。まあ一応は克服前提で向き合っているということで、弥生となら共に乗り越えられるとでも思って、パートナーとしては弥生だけが対象なのだと思います。弥生の方も価値観がおかしいので、彼が彼女を信じて、致命的な欠陥を隠さず打ち明けてくれたのは、それはそれでかえって喜びなのかもしれません。「私はあなたがそのままでも構いませんが」とか言って許容し、兄はまたさらに彼女に惚れ直して夢中になっていそうです。


兄の存在が肝心要のはずのはるか編ですが、真相解明の過程で、冬弥には一時期、部分的に記憶の損傷があり、はるかが作中で語る「兄との想い出」はまさにその損傷箇所、本当は「冬弥との想い出」を指すことが浮上します。冬弥との想い出というのが「真実」ではるか編の真の本筋なのだとしたら、一見本筋に見える兄との想い出は、全部とは言わないまでも、ほとんどが「虚偽」ということになります。その言及が意味をなしていないのなら、兄という存在が一体何のために作中に出てきているのか判らなくなります。はるか編の真のメインテーマである「失われた想い出」と「人物のすり替え」の判明をもって、作品における兄の存在価値は、いったん完全に失われます。


とはいえ、見かけの上で兄がはるか編の大部分の領域を占めているのは確かで、重要人物としての器は否定されません。本当に必要のない人物なら、初めから存在自体を構築しなければいい訳で、あんな風に悲運の大人物ぶりをもっともらしく描写する必要はありません。ところが思わせぶりに存在を打ち出した割に、兄に関する具体的な情報はほとんどありません。本当に不自然なくらいに、なさすぎるんです。これ、おかしいと思ったことありませんか?あまりにも遠景で淡白すぎる経緯描写に始まり、後になってもこれといった目ぼしい追加情報も与えられず、「えっ、それだけ?」ってなりません?普通なら、影響力の大きな近しい人物の死なんて、エピソードとしてこれ以上にない垂涎要素で、気合いを入れて設定盛りこんで、大小様々な関連情報を片っ端からあれこれ描写しそうなものなのに、そのセオリー通りに抗うかのように、読み手当然の予測を裏切ります。素人目にも「そこ掘り下げなくちゃ意味ない」って所がなぜか手つかずで、まったく掘り下げられていません。だから「兄の死が周囲の皆に大きな衝撃を与えた」と言われても、彼の実像自体がまったく掴めないので、どうしても実感を伴う要素として受け取れません。読み進める流れで、何の感慨もなく「あっ、はい」と訳も判らず頷くくらいなものです。どう考えても「不可欠」なはずの情報が、明らかに「無い」と判る形で「無い」ということは、それが故あっての構造だということです。謎解きを進めて後々に、弥生編を通して本格的に兄のプロファイリングがなされ、その秘められたキャラ特性が十分に補完されることを見越してのあえての余白、表面上の設定不足はあえての引き算なのだと推測します。はるか編解読で一度限界まで消失した兄の価値は一転、弥生編という真の舞台で、より強い輝きを伴って盛り返すことになります。同時に、あのはるかが全面的に信頼して慕うだけの人間性が補強され、はるか側においてもやはり、間違いなく兄はかけがえのない存在だったのだと確定します。兄を冬弥の代理、言い換え対象としているのははるかとしても本来本意でなく、冬弥は冬弥、兄は兄と、別個切り離し、それぞれをそれぞれで大事にしていると思います。はるかの中で、冬弥と兄を絶対に間違えない自信があるから、彼女はどんなに口で二人を言い換えても頭での区別はついており、ゆえにいたって平気でいられるのです。


これまで河島兄の性質を、「はるかの公式」が代入可能という仮の前提のもと当てはめることで、はるかとほぼ同質であると見なして論じてきました。実際、試しにはるか思考と弥生思考とで対話を適当にシミュレートしてみると、何の支障も違和感も出てこないので、この手順で合っているのだと思います。両者の独特なコミュニケーション形態はそのままに、和やかになじんで、なぜか普通に会話が成立してしまう奇跡が起こります。実際のはるかの会話では、冬弥が歩み寄って完全にはるかに合わせる形で成り立っている場合がほとんどであり、また弥生の会話は、彼女が理屈っぽい内容を延々連ねる形で相手の理解を必要としない一方的なものですが、そのはるかとその弥生を組み合わせると面白い化学反応が起きます。まず、はるか特有の、話を聞いているのかそうでないのか反応薄い大儀そうな態度が、相手の話を結論の最末端まで遮らず、大人しく聞き入っている姿へと変換されます。冬弥の場合は、どうせ大したことないいちゃもんしか言わず、その指摘内容も大体判りきっているので、はるかはなめて最後まで話を聞かず次に移りますが、弥生のように丁寧に諭す相手には、はるかも馬鹿じゃないので意図を十分に理解し、また基本的に素直なので最後まで従順に聞きます。弥生式に順序だてて論理的に話を進めれば、余さず受け入れ、納得し、好反応を示します。弥生特有の、論文的あるいはスパム的な解説に、はるかがちょちょっとじゃれて混ぜくる感じです。弥生としても、普段周囲からは取り立てて乗り気な反応は得られず白けて話が弾まない分、手短でウィットに富んだ切り返しが戻るのを心地よく思います。要点を心得た手応えがあるというのは結構嬉しいものです。


またはるかには、真面目ってか頭の固い人間の調子を狂わすことを楽しがる一面がありますが、兄もその傾向があったと思われます。特に反応を期待しない、ちょっとかき混ぜただけの軽口にも、弥生はいたって真顔で、心乱されることなく馬鹿丁寧に返答してくれるので、そこが面白くて嬉しいんだと思います。はるかがよくやるような、猫みたいに目を見開く様子が目に浮かぶようです。興味津々です。要するに、得がたい話し相手が見つかってお互い嬉しかったということです。WAは一貫して「無駄話最高」がコンセプトのお話です。お互いがお互いのまま、お互いのツボにはまり、そのままの自分を受け入れてもらえたことで、その相手が何よりも必要な存在になっていったのは、何も不思議なことではありません。


そんなこんなで、弥生の長話に静粛かつ熱心に聞き惚れる兄の様子が、見ようによっては目を輝かせてあがめている態度にも思えたかもしれません。弥生の彼氏評は、彼女の主観と偏見に加え、「彼が私を思うほどには、私は彼を何とも思っていませんでした」と強調する、事実に反した虚勢も入っていそうなので本当の所は判りません。ていうか見かけのつれなさとは反対に、本音はそのまま言葉通り、ただ単に、声高に彼氏自慢、愛され自慢したかっただけなんじゃないかとさえ思えてきます。彼女、嘘つこうとするとそこだけは平然と取り繕えるんですが、無理が周辺にひずみを生み、それた変な所で必要以上に力みが入って真実を全力で主張しちゃう人だから。


弥生の彼氏談として、彼女の面前でもはばからず悲しむ態度を取ったというのは、大筋ではベッドでの話ではなく事故現場での話で、それはまさしく彼がその場で事切れた様子を指しているのであって、弥生本人に対するネガティブな感情を表したものではないと思います。それが寝物語をもカバーする二重描写だとして、はたしてはるかの兄が、自分の負の思考をそんなあからさまに表に出すだろうかという疑問が生じます。はるかについて言うなら、彼女が自分の悲しみで悲しがるということはほぼなく、実際に悲しむ描写があるとすればそれはわずかに、自分の過失で相手に支障を負わせた場合のみです。つまり兄の場合も、弥生の方に問題があったのではなく、兄側に何らかの不備があって、それが結果的に弥生への申し訳なさへと繋がり、悲しんだと考えるのが妥当でしょう。大体、兄は弥生のツンな所も含めて好きになったのでしょうし、加えて、無情に徹する弥生の本音が実際にはその逆でデレということは、心を読むのに長けた兄には判りきったことなので、弥生の冷淡な態度に兄が傷つき悲しんだという線は真っ先に消えます。第一、OKが出ている時点で弥生の気持ちの表明はクリアしているのでそこは問題ないはずです。さて相手の痛みを痛がるという性質上、兄は弥生に痛い思いをさせたことに対して悲しんだとも考えられますが、それは身体構造的に仕方ないし、避けられない通過儀礼を不必要に気に病むような感傷的な人物ではなさそうなので、これも無しです。そこで兄側の失態という線をあたることになるのですが、とはいえしっかり貫通はなされているみたいなので、できなくて弥生の面目を潰したという訳ではないようです。二人の間で一体何が起きたのか?弥生を抱きながらしょげたという状況から、条件はかなり絞られます。弥生の、一度しかない大切な初めてを、不十分な形で一人勝手に終わらせてしまい、想い出にミソをつけてしまって、せっかく受け入れてくれたのに台無しにして申し訳ないという気持ちで悲しんだという訳です。直後の嘘寒い死の場面とは対照的に、本人は身の置き場がなくて気落ちしているけれども、その瞬間というのは最も命を感じられる熱い生の場面だったと思われます。幸せいっぱいに充填、人生の頂点です。それだけに、その後の急降下によって弥生は心身ともに急冷し、彼の熱ごと持っていかれ、以降はもはや温感すら失われた状態になっています。


注目の行為模様についてですが、弥生には、それまで黙りこくっていたのに突如一気に喋り倒すような所があるので、いきなりモードが変わって急激に強烈に締めつけ、絞りきったりなんかしたんじゃないですか。あえなく撃沈です、げきちんだけに。これからって時に。はるかもそうですけど、えっちな場面に限り、普段の大物ぶりが嘘みたいにへなちょこで、所有特性が絶妙すぎる、ある意味最高のキャラ性能です。再三言及するのは死人に鞭打つことになって可哀想だからこの辺でやめておきますが、早さの数値が突出しているのもいい悪いがあるって例です。早さに限らず全パラメータほぼMAXなのに、一点だけ目に見えて弱いって、お姉さんもうたまんないでしょ。そんな初々しい彼が大変可愛らしく思えて仕方ありませんでしたわなんてのは、弥生の胸の内にひそかに大事にしまっておけば良いことで、いちいち冬弥には打ち明ける必要のない話です。そんな恥ずかしいことは誰にも口外しない方が良いと思います。近しい人のそういうなまめかしい秘め事の詳細なんて、できれば耳に入れたくないし。


結ばれた直後に彼が急死したという、ある意味ジャストなタイミングは弥生の中でものすごくトラウマになっており、二人の進展が死をもたらしたと関連づけてしまっています。自分が災いを呼び、何一つ陰りのなかった彼の道を潰してしまったのだと。だからこその「私が誰かを好きになってなどいけなかった」です。そして今、はるかを救う手段として、彼女の純潔をいただくことで不自由な連動を断つという方法が手持ちの選択肢としてありますが、弥生には「不幸を呼びこむ自分と愛し合ったら、かえって別の悪条件のめぐり合わせで、はるかの運命もまた強制的に暗転し、死んでしまうのでは」という変な不安があります。ジンクスというか。ただでさえはるかは自転車マナーがなっていないので(冗談だけど)、いつ本当に事故に遭ってもおかしくないですしね。非科学的なこじつけに惑わされる弥生ではないと思いますが、それでも不安材料は初めから除外しておくに限ります。そういう訳で、はるか救済に有効で、弥生個人としてもはるかを抱きたいと強く願っても、弥生はそうそうはるかに手を出すことはありません。はるかを死なせるのが怖いから。で?冬弥は死んでもいいってのか。冬弥とはまあ、別にそこまで絆が深い訳ではないので弥生の法則は適用されず、無事で済むと踏んでいるんじゃないですか。


非科学的といえば、避妊目的なのかハーブティー(ミント?)を常飲している弥生ですが、眉唾の迷信でもとりあえずは試して、対策強化の一環としているようです。あれで結構、験を担ぐタイプで、おまじないには弱いのかもしれません。単にコーヒーは苦くて飲めないとかのお子様な理由だったらさらに可愛いですけど、あんまり弥生の恥ずかしいチャームポイントを暴きまくってもイメージがた落ちだし非営利すぎるので、コーヒーくらいは普通に大人っぽくスマートにたしなんでいてほしいです。カップに口つけるだけで飲まないのは冬弥に対するただの嫌味な当てこすりです。けっしてコーヒーが苦手という訳ではございませんよ。そういうことにしておきましょう。苦いの絶対飲まずに全部吐き出すって別件は気にしちゃだめです。コーヒーの話に戻しますが、あれだけ格式ばった弥生が、カップについた口紅をそのままで残しておくというのは、ちょっと考えられない不始末です。そんなマナー違反をあえて必要とする何か別の事情があると考えるならばそれは、口紅でもつけないことには「飲んだ」という痕跡が見つからないくらい、カップの中身が変わっていないからだと思います。コーヒーは全然減っていないのです。おもてなしを完全拒否するのはそれはそれでマナー違反なので「供されたものは確かにいただきました」というポーズのために申し訳程度に口だけつけたのだと思います。それを見た冬弥に、その遠回しな嫌々感がばっちり伝わることをも狙った上で、かつコーヒー自体が飲めないなんて絶対に悟らせない絶妙なラインで。後の展開によっては、デミタスコーヒーを頼む場面こそあるものの、実際にそれを飲む決定的現場はというと、不思議とまったく描かれていません。そういやはるかもコーヒー飲むの全然見たことないよね。ひょっとしたら兄もそうで、「おんなじ。気が合うみたいだね」とにっこり構われて完全に本気になって、弥生もすっかり心の向かう先が一点に定まったんじゃないでしょうか。矢が心臓のど真ん中に命中、反応が単純明快です。なんという弥生さんキラー。


はるかを介して想定される河島兄の性質というのは、すこぶる面白い特異な魅力を備えたもので、登場しないのが惜しまれるくらいですが、あくまではるかという実装キャラに完全依存しており、兄固有のキャラ特性とは言えません。その特異さというのははるかそのものなのであって、生まれ順の上では逆ですが、これでははるかの完全コピーに過ぎず、兄が「存在」として存在した理由がなくなります。同キャラならわざわざ二人もいなくていいですから。故人であるため実際に登場できないのは仕方ないとしても、それでも物語上、何のために存在を提示されているのか判らなくなります。人格的にまったくの同一個体であるならば、だったら初めからはるか一人でも別によく、再び兄不要論が出てきます。しかしここで、弥生との関わりにより、兄の特性は別途加算されます。兄自体の性質としてははるかとさして変わらないと考えられますが、弥生の人物像を従来のものから反転させる重要なトリガーとしての役割を持ち、それこそが妹はるかとの大きな違いとなります。はるかははるかで、対である冬弥の存在価値を底上げする役割を持っており、ペアの違いがそのまま、兄妹各々の独自の性質へと繋がっています。運命の出会いが自分だけの特質獲得をもたらしたとでも言いましょうか、恋で人は変わるってやつです。


ほぼ同一の型と思われる河島兄妹ですが、各相手に対応して専用化することで、多少の違いが出てきます。はるかははるかで冬弥に完全に適合していますが、兄は兄で弥生限定の個体となっていたと思われます。冬弥の細かすぎるつっこみを求めてわざと遊びを持たすはるかのとぼけが標準化しているように、弥生のうんちくを促し、会話を長引かせて楽しむのが兄の基本スタイルだったと思います。打ち返しやすい球を、狙って打ちこむくらいお手のものでしょ。はるかの場合は冬弥とはもはや腐れ縁の仲なので、不要な社交辞令は省いて必要最低限の配慮しかせず(無配慮ではない)、言葉にしなくても通じる感を大事にしていますが、兄の方は、相手が弥生ではアバウトが全然通じないのでそういう訳にもいかず、それなりに気遣い、言葉を尽くす必要があり、少なくとも弥生にちゃんと通じるくらいには、好意を明確にする努力はしていたようです。感情を表に出したがらない基本性質上、比率としてはものすごく頑張っているということで、絶対に逃さないよう手厚く接し、懸命に恋い焦がれていたと思われます。はるかが本気を出した状態というのが、兄のイメージで、それは表層で語られる兄の人物像ともぴったり一致します。そうした冬弥専用の部分、弥生専用の部分が、まさに河島兄妹の数少ない差異となります。といってもそれら自体、兄妹間で共通して持っている要素で、実際違いというのは、各々のペアに見合ったその配分くらいなものでしょうけど。一見「そんな、同じようなのが二人いたってさあ」的な河島兄妹ですが、当人としては「同じじゃないよ」と心外です。厳密には、若干毛色が違います。ですが、たとえば似た柄の猫を指して「この辺がちょっと違う、全然別だよ」と胸を張って説明されても「判るかそんなの」としか言えません。ほんのちょっとの微妙な毛色の決定的な差なんて、ぱっと見では判別できません。それが血縁の近い兄妹猫ならなおさら。かろうじて判るのは雌雄の差と大きさが違うくらいなものです。


はるかは兄と冬弥に挟まれた中間子ポジションで、妹でもあり姉でもあるという、いいとこ取りのおいしい立場にいますが、兄は純粋に長兄の位置づけなのであまり人に甘えた経験がなく、また元からして感情を表に出さず弱みを見せない性格なので、それだけに、相手にするとしたらそんな自分でもうまくあしらってくれる年上の人が良かったのかもしれません。でも、何でそこで、よりによって弥生なのか。年上のお姉さんに甘やかされたいなら、もっとそれっぽい女性を選べばいいのに、全然甘えさせてくれそうにない弥生をあえて選ぶというのは理解不能な心理ですが、基本お堅く接してくれて、ごくまれに「仕方ありませんね」と渋々受け入れてくれる特別感がいいんだと思います。簡単に了承されてもつまんないし。その余分な手順が好きなんだと思います。甘やかさない人にあえて甘えて叱られたいという、ストイックなのか逆に図々しいのか何なのかよく判らない微妙な好みなのでしょう。甘えてもろくに甘えさせてもらえない、その境がいいんでしょうね。また、甘えたい気持ちはあっても、かといって露骨に甘え甘やかされるのはどうも好きではなく居心地が悪いようで、普段はつかず離れずの適度な距離感の方が性に合っているのだと思います。


追憶の構造について。冬弥が意識的に気負って抜粋的に取り上げる河島兄の姿はきわめて完璧なものですが、そうではなく気のゆるんだ状態、それこそ雑談の片隅に自然と出てきている当たり前の前提を拾っていくと、兄って別にそこまで立派な人じゃなかったんじゃないかと考え直す余白が出てきます。写真写りでうまく笑えていなかったり、はるか同様、公園などで無意味にぐだっている様子を冬弥が当たり前に想像している所を見ると、優秀であること自体は否定されませんが、それと同時に、気だるく無為的で、人付き合いを苦手とする一面も確かにあったのだと推測されます。いかにもなはるかの兄です。その傾向は、はるか本人についてもそうで、特記的には「一時期のはるかは今と全然違った」と語られる一方で、当たり前に流される前提では「はるかは昔から今まで、変わらずずっとこうだった」とされています。作中、普通に矛盾がまかり通っています。冬弥は記憶の一部に欠損があるので、その該当部分である「一時期のはるか」の説明が不十分になるのも、それは当然というものです。はるかは昔からずっと、髪が長かった頃も通して、一貫してぐうたらなんです。そしてその一方で、今も変わらず、やる時にはちゃんとやる、しかも何でも並以上にこなせる万能選手なんです。しかし冬弥が「一時期」を思い返す時、その出来る片面しか出てこず、もう片面のゆるんだ姿は記憶に存在しません。視野が欠け、結果的に見方が偏り、超絶完璧なはるかだけが極まって思い出されるので、必要以上にその過去が美化されてしまうのです。ただし現実の経過としては、はるかが飛び抜けた才気を発揮する一方で普通に冬弥とだらだらしていたのは本当なので、そのまごうことない真実自体は動かず、記憶の欠けた冬弥の中であってもなお、当たり前の前提として無意識に定着しています。


作中人物として河島兄を「出さない」ことにより、表現の限界による限界が取り払われ、一級品の人物として、無限の表現が可能となります。表現しないことで、無制限に、思いつく限りありったけの素晴らしい特質が付与されます。つまり、地の文ではこれでもかと祭り上げて言及されているのに実際に描かれる人物の具体的な姿そのものは大したことなくて程度が知れてしまう、といった落差がない訳です。書き手の表現の腕による頭打ちもない訳です。幻滅とか期待外れとか、そういうことは起こりません。最初から描かれておらず、実物を直接見て想像と照らし合わせることがないのですから。そのメカニズムは現役時代の英二や中高生時代のはるかについても言えることです。


英二は、自分のメディア映りについて「繊細で美しい作曲家・緒方英二」と自称します。もっともそれは皮肉のうちでしょうが、少なからずそういう自己イメージを構築して世間に発信しているのは確かなようです。作中での徹底した変人ぶりからはまったく想像もできませんが、それが現実みたいです。現代音楽もたしなむけれど、基盤では堅実に、クラシック方面を重視しているかのような描写がされており、いいとこの高貴な御曹司がポップスやってますみたいな売りこみ方をしていると思われます。少なくとも熱心な英二信者の美咲はそういう認識でいるようです。お薬してるっぽいチャラチャラした破滅型不良系ミュージシャンだったら、安全志向の美咲の好感枠から大きく外れますからね。という訳で、品行方正な王道路線説は手堅いです。


英二の普段を考えるとちゃんちゃらおかしいですが、冬弥に対するあのくだけた態度の方が本当はまれなのかもしれません。いやーでもあの人、常にオープンな、素であんな感じな人にも思えるけどな。でも理奈も兄について「人前では優等生ぶっている、でも本当はあんなの」と告発するしな。TVでの緒方英二は全然別人なのです。冬弥はたまたま身近に「本来は話すのもおそれ多い立場にいる人なのに向こうから親しんでくれて、俺で遊んで困らせる面白兄さん」という実例があったため、その不動の土台ゆえに英二の落差をも当たり前に受け止めて特に驚きを示すことはありませんが、本当は、英二の知られざる素顔を目撃したのならもっと絶句とかして愕然としなきゃいけないショッキングな場面なんです。でもなぜか冬弥は「うん、知ってた」みたいな感じで何となく反応薄く、したがって読み手側も、画面上の英二が実は希少な姿で、作品世界内においてはまったく別の姿で知られているということが認識しづらい構造になっています。英二と、時として不躾なくらい普通に喋れてしまう冬弥の感覚がまず普通じゃないんです。


表側ではよそ行きの態度著しい英二ですが、それが現役時代ならなおのこと、模範イメージで固められ、いわば、ちょうど理奈の男性版といった完璧さだったと思います。あの兄にしてこの妹あり、先に英二あっての世間みな納得の理奈なのです。今の英二の姿だけを見て「こんな愉快なおっさんキャラ、おっさん受けはするかもだけど、多感で敏感な難しい年頃の女の子たちが群がるとは正直思えない」と断じるのは尚早です。理奈的な男性像が過去の英二に確かに備わっていたのだとしたら、そりゃもうキャーキャー言われて、老若男女問わず誰からも一目置かれていたでしょうよ。今の英二像から過去像を復元するのはかなり厳しい作業になりますけどね。


はるかのかつての姿もまた、あえて現物を出さないことにより、由綺にも理奈にも引けを取らない、それどころか二人を足してもまだそれを容易に上回るほどの絶大なヒロイン性の確保が可能となります。のびしろは想像力の及ぶ限り無限です。真価を封じられているはるかこそが作中最高の宝石で、並の光り物ではまったく比較になりません。何しろ核にいる本物の正統な真ヒロインですから、表面を見目よく派手に見せつける飾り物のヒロイン二人とは格が違い、その本領は質、量ともに段違いです。本当に良質なものは、キャッチ―さをこれでもかと押し出したりはしないものです。虚飾の必要がないからです。「でも今は…」と落胆するのが今ある現実のすべてと思われるかもしれませんが、別に、今でもはるかには往年の輝きの名残があり、完全に色あせてしまった訳ではありません。今でもはるかは抜群の美少女で、並外れた人格者でもあります。お風呂で腕をクロスしてる一枚絵なんかもう最高に可愛くて、眩しくて、その尊さは天使か女神かなんかの域です。私の個人的な好みの感想。そしてまた、元から優れた人徳を有していたと思いますが、ここ数年、人知れず苦難と向き合うことで、人格的な練度はさらに深まっています。その才能もいまだ衰えが見られず、ちょっとした腕試しくらいなら十分に復帰できるレベルでありながら、自ら放棄している宝の持ち腐れ状態です。名声というものにあまり執着がないので、彼女は自分を誇示することをしません。はるかが自分の可能性を自分で殺している上で、現在のこのレベルなのだから、余計な制限のなかった過去においてはその魅力をのびのび発揮し、周りをそれとなく最大限に魅了していたと思われます。これでこそ秘蔵の真ヒロイン、徹底した出し惜しみの末にめんどくさい手順を経てようやく読み手が実態を手中にできる構成で、「あの森川由綺」や「あの緒方理奈」さえをも前座に留め置くほどの作品内重要度を持った立場で好き勝手しています。


はるかは普通に女の子としても、あれで結構繊細で、キュートな可愛らしさもあって魅力的ですが、男として生まれていたなら、さぞかし周囲を存分に魅了したことだろうと思います。その「はるかが男なら」という実例がまさに兄である訳です。はるか男版が兄で、兄の女版がはるかです。もっとも、それぞれ男性的、女性的というよりは男性寄りの中性、女性寄りの中性といった感じで、そこまで顕著な男女差はないと思いますが、さっぱり悠々とした性質上、どちらかといえば女性受けの方面に傾いていると思います。はるかにもまして兄が、涼しげな顔つきで、性格も冷静でなおかつ温和、それで才能にあふれているなら、非の打ち所がありません。どう考えてももてないはずがなく、そして言い寄られれば素直に「うん」と頷いちゃいそうだから、弥生と付き合うまでもなくよりどりみどりで選び放題だったでしょうに、それなのに、どうも圏内に弥生しかいないっぽいのは、やっぱ愛想の悪さが災いして誰からもお声がかかりにくく、表面上は全然もてなかったのかもしれません。一般受けはあっさり見送って、ただ一人弥生受けだけに特化してしまっているようです。はるかの場合、好一対の冬弥と出会ったのが物心つき始めた人生の最初期で、以来ずっと離れず一緒にいるので、何かもう完全に当たり前の馴れ合いになってしまって、その貴重性が全然感じられなくなっていますが、一度ロックオンしたら、後はその相手しか見ないという選抜的な貫徹性を持っています。兄の場合はたまたま、人生がかなり経過するまで運命の人である弥生と出会わなかったというだけで、ひとたび出会ってしまったならもう他の選択肢は存在しません。という訳で、先の「言い寄られれば誰にでも頷く」説は撤回します。ちゃんと人を見定めて、しっかり選んだ結果です。人生を決める運命の選択が、いつどの段階でなされたかの違いでしかありません。


冬弥は「はるかはもてたことがない」と言いますが、周りから目に見える形で露骨に持ち上げられないだけで、意外と隠れファンはいたのかもしれません。現在では集客性皆無なはるかセンスの味気ない私服を着ているので、いまいちその真価が注目されませんが、素材は文句無しに可愛いし、高校時代には常時、制服という強力なオプションがあり、それは無口なはるかを、出過ぎず節度ある物静かなお嬢様へと仕立てていたと思われます。冬弥を始め、気心の知れた相手にはあの通りふてぶてしいはるかなんですが、どうも公に向けては猫かぶってわきまえているのが普通なようで(曰く「接客用」)、優等生然としていた模様。人だかりの中心となる人気のアイドル的存在ではなく、人知れず崇拝される高嶺のマドンナ的存在です。はるかが過去、傍目には輝きを失ったようであっても、彼女をいいなと感じる人たちは元から彼女の対外ランクだけに価値を置いていた訳ではないので特に潮が引いたのではありません。元から騒いで熱狂していた訳でもありませんし。そのため状況はまったくの変化なしです。はるかがそうした浮かれた称賛をほしがるような人間でないことは、コア勢の中では常識で、であるからには静観一択です。格調高すぎて、本人は軽やかかつ柔和に人当たり良く接するのが標準だとしてもちょっと無理めで、よほど自分に自信のある人でない限り、とてもじゃないけど気後れして、「我こそは」と名乗り上げるに至らないほどのクオリティです。はるかが?はるかがです。冬弥もちゃんとそれらしきことを間接的に言っているはずです。冬弥はたまたま幼なじみだから彼女の価値を当たり前と思って重宝できず、平気でこき下ろしたり文句言ったりしていたと思いますが、周りから見れば「なんてことを」、身の程を知らない無作法者です。それなのにはるかからは特別に受け入れられ、身に余る光栄を手にする果報者でもあります。そんな公のはるかと、自分だけのはるか、両側面のすり合わせに冬弥が苦悩し「俺なんかがはるかの幼なじみとして側にいて、ほんとにいいのかな」とか何とか、ぐちぐち考えていたことは想像にかたくありません。いつもの定型思考パターンです。そのため、冬弥なりに身を正し、はるかへの対応を周り準拠に改め、あえて距離を置いた「時と場合」が過去の一部に存在します。それがそっくりそのまま記憶損傷から免れたことで、その「一時期通して」はるかとずっと疎遠だったかのような、誤った記憶がまことしやかに定着しています。なお「はるかのくせにもててる」みたいな認識は、普段のはるかを独占したい側の思考に分類されるので、普段のはるかの記憶ともども欠損しています。結果、誰にも近寄ることのできないはるかの研ぎ澄まされた姿だけが残り、孤高の美しさを今に伝えているという訳です。