観月マナ/藤井冬弥1


冬弥からネグレクト疑惑を持たれている河島夫妻ですが、多分に放任の気はあるとはいえ、はるかがあれだけ満たされて物事に動じない性格をしているのは、両親と兄から十分に愛情を受けて育ったからでしょう。過酷な運命を耐えるのに十分な、しっかりと安定した基盤があるのだと思います。兄の葬儀でのCGを見るに、はるかが現場から離れた所におり、かつ普段着を着ている?ことから、冬弥が後に再構築した画像である可能性があります。冬弥は実情を見誤ることが多々あるので、彼の言い分はあまり本気にしない方が良さそうです。翻って、冬弥の家庭環境にこそ問題があるのではと考えます。これは仮説中の仮説ですが、藤井家は父一人子一人の父子家庭なのではないかと。それもかなり幼少期から。だからこそはるかとの絆が異常とも思えるほど深いのではないでしょうか。冬弥がしっぽを出さないので確証はないのですが、実際冬弥は、作中一切母親の話はしないんです。違和感なしにそれとなく話をそらすので気付きにくいですが、自分の家族について「母」「両親」という語句を意図的にか避けて使わない傾向も見られます。母親の影がまったく見られないにもかかわらず、冬弥が何となくマザコンっぽいのははるかを小さな母親がわりにしているからでしょう。本人は認めないと思いますが重度のはるかコンです。他にも、マナ編中盤のイベントで美咲が自身の父親の話をした時も、冬弥は何か含みのあるような受け答えをしますが、結局濁します。母のいない寂しさに苦悩してきたという冬弥の家庭環境が、マナの「ママなんていない」発言への関心に繋がるのではないでしょうか。


冬弥には母親がいない?という疑惑への立証。入試の合格発表についての雑談で、マナは冬弥に「お母さんに見に行ってもらったんじゃないの?」とからかいますが、それに対し冬弥は「全っ然っ、違う」と全否定します。日頃、曖昧な物言いを崩さない冬弥がこういった強い言い方をするのはきわめて異例のことです。他人への偏見による冗談での決めつけ以外で、特に自分に対して断定的な言葉を使うことはめったにありません。よほどの理由があるということです。マナの発言はただのからかいに過ぎないのだから、そこまで掘り下げる必要はないはずなのに「こういうのには勘が鋭くない」とぼやく冬弥、何が「こういうの」で何が「勘」なんだか、おかしな話です。マナが気付けていない何かが、先のからかいの内容に含まれているということです。単純に「いい年して、そんなことするもんか」という体面の問題ではなく、母の代行は頭から「あり得ない」事象なので冬弥は力一杯きっぱりと言い切っているのだと思います。やはり、冬弥に母がいないというのは、限りなく黒に近いグレーです。母のことに限らず、家庭に関することについては他にも疑わしい発言が手を変え品を変え幾度も出てきます。最終分岐ルートにおいて冬弥は、他人を信用しきれず、いっそすがりついてしまいたいぎりぎりの所でも結局頼ることをしないマナの性質について「俺と似た弱さ」と語るんですね。マナの場合、それは満たされない孤独な生い立ちに起因するもので、そして冬弥がそんなマナに自分を重ねるには、相応の要因がなくてはおかしいことになります。冬弥もまた心を閉ざし、他人の存在をはなから期待していない部分が、弱点として確かにあるということで、ただ単に甘く気弱で流されるだけの主義主張のない青年、いわゆる巷でよく知られている冬弥像とはまったく異なる実像があるという疑いが出てきます。冬弥の生い立ちに関する確証は確かに皆無ですが、どっこい状況証拠には事欠きません。「何がある」のかは確定しませんが「何かある」のはほぼ確実です。


冬弥がマナ編通して心苦しく思っていた隠しごととは、由綺との関係ではなく、自身の境遇の方だと思います。分岐にかかわらず、由綺のことではない、より大事な別のことをマナに黙っていた気がする(意訳)と冬弥が省みる場面があるので、マナ編での最重要事項が由綺の話ではないことは確かです。その大事なことが何なのかテキストとしては明らかにされませんが、マナ編の流れから考えて、それが家庭環境に関わるものだろうということも確かです。冬弥は最重要事項の存在をほのめかすものの、自分では事実を明かしたくないのか、はぐらかします。中盤でマナが、一人暮らしについて寂しくないかと冬弥に訊いた時、冬弥もまた幼少期から寂しく過ごしてきたことを言えたはずで、早々にマナの苦悩に寄り添えたはずなのに、冬弥自身、その話は考えたくないため、単純に現時点の一人暮らしの話として思考をそらします。そして由綺と美咲を例に挙げ、彼女らがいるから一人暮らしでもそこまで寂しくないと語ります。ここで、より近しい存在であるはずのはるかと彰を優先的に出さないのは不自然だと思いませんか?この二人は、冬弥が一人暮らしをする「以前」からそうした支えとなっていたので、ここ最近の状況説明としてはあえて指定されないのです。相当小さい時にはどこかに預けられていたかもしれませんが、作中での数々の要素から考えて、冬弥は家で一人で過ごすことが当たり前になっていた感じです。はるかに、冬弥は家にこもりがち(意訳)だと言われることもあるので、やはりそういう事情があるのではないかと思います。そんな冬弥を、河島兄妹は努めて陽の当たる場所に連れ出してくれていたのでしょう。


一つ引っかかるのは、はるか誕生日イベントで、彼女が「私が生まれて良かった?」と冬弥に訊ねること。真相でより明確になるはるかの性格上、構ってほしさに思わせぶりなことを言っているとはどうしても思えません。はるかは自身に執着がないので、不遇に酔って他人に当てこするような真似はしません。彼女が意味ありげに語る話は大抵冬弥関連です。ひょっとしたら冬弥の方にこそ「生まれてこなければ良かった」という事情があるのでは。たとえば、母親の命と引き換えに生を受けたとか。母がいない原因は、他でもない自分にあるから、けっしてそのことで弱音は吐けないのです。今どき片親がいないというだけならそう珍しいことではなく、冬弥がああまで頑なに口をつぐむ必要性はありません。冬弥は、自分の痛みに極端に鈍感で、後回しにする性質を持っています。彼の異様なまでの内罰性と自己犠牲を考えるに、可能性の一つとしてあり得るのではないでしょうか。大晦日の電話口で登場する豪快な藤井父に、そんな不幸な過去があるようには思えませんが、なにぶん彼は冬弥を育てた張本人なので、苦労を抱えていたとしても、表面上は能天気で愉快な父さんを演じることなど造作もないはずです。父が「坊さんに褒められる」というのも、男手一つで息子を育てている背景が関係しているのかもしれません。冬弥は、人が自分を責めない分、過剰に自分で自分を責める性質を持っていることから、父は亡き妻のことで嘆いたり、息子に辛く当たったりすることはなかったのでしょう。父はちょっとピントの外れたゆるい厳しさで息子を育てたらしく、冬弥は従順なようで、たまに反動なのか反抗的な態度を見せます。何事もなければ、基本的にいい子に育っていると言えますが、前述の通り、冬弥は自分を抑圧しているので、非常に危うい状態です。母殺しという重すぎる設定が事実なら、そんな大事なことをなぜ誰にも言わないのか、なぜ作中で明かさないのかとつくづく疑問に思いますが、重すぎる事情ゆえに軽々しく口にはできないし、何より自分の境遇を、何かの言い訳にはしたくないのだと思います。そうした我慢が、冬弥のすべての言動の根底にあり、少なからず影響を及ぼしているようです。仮に冬弥にそういった複雑な事情があるとして、先のはるかの問いかけですが、はるかは、冬弥が自分の質問に肯定で答えることを確信した上で、自身の命を自分では肯定できない冬弥がもし同じ質問をするなら答えは同じだと伝えているのでしょう。「冬弥が生まれて良かった」と。意味不明な発言の多いはるかですが、その実、意味のない発言は一つもないのだと思います。


中盤、マナは言います。「気にかけてくれた親戚のお姉ちゃんに素直になれなかった、わざと子供っぽく振る舞った」と。冬弥にとっては年上であった河島兄が、ちょうどマナにとっての由綺に当たります。普段から子供っぽく振る舞うことの多い冬弥ですが、本当の自分を俯瞰で見つめ、檻に閉じこめているような所があるのかもしれません。馬鹿を装うことで同情されにくくしており、兄に対しては特にそんな感じだった。さらには、それでも自分を理解し、好きでいてくれた兄に対して、有名な存在になったからって気後れして、壁を作って「河島先輩」なんて他人行儀に呼んだりして。冬弥の子供じみた意地なんて、兄にとっては全部お見通しで許容してくれていたのでしょうが、兄が遠い空の上に逝ってしまった今では取り返しがつかず、冬弥は謝ることができません。マナの嘆きを聞いて思う所がありそうな感を出しつつ、それでもやっぱり冬弥はしっぽを出しません。