「優しさ」の解釈。美咲が美咲編において立ち回る上で、彼女が一体何を考えているのか今一つ掴めないというのが、大方の読者感として主流だと思います。美咲は元からして主張が強くない上、急転後はろくに口もきけずに逃げ回り、ようやく話せたとしてもひたすら口ごもって言い濁すばかりです。とにかく本人による明確な声明がことごとく不足しています。手持ちの何か重大なことを言いたくて言えないでいるような、そんな感じがします。こっちの勝手な印象ですけど。美咲本心についての本人談がなさすぎるので読み手側でどうにか察するしかなく、しかも「冬弥視点からの美咲」という間接的なものを参考にするしかありません。そんな中、唯一の指標として「美咲は優しすぎる」という決まり文句だけが読み手に繰り返し与えられます。冬弥はひたすら「優しい」一つに振り切って美咲を表現します。初期配備の手持ちは「美咲は優しいから」一つきり、初動ではその理由しか美咲解釈に用いることができません。
「美咲は優しいから」冬弥の押しを拒みきれず受け入れ、「美咲は優しいから」由綺への罪悪感に苦しむあまり冬弥を避けて、「美咲は優しいから」最後には自分だけが責任をしょいこんで由綺と向き合った。一般的に美咲編は、すべてが美咲が優しいあまりに成り立っている、そんな風に解釈されています。はたして「優しいから」ただ一つに集約して、美咲の行動全般の説明を済ませて良いものでしょうか。そんな単純な話でしょうか。そんなに何でもかんでも「優しい」という要因だけにこじつけていいのでしょうか?たかだか「優しい」だけで到底片付く問題にあらず、違和感というか、普通に考えたら、単なる「優しさ」なんかでこれらの行動に至るものではありません。そういうのは「優しさ」とは言わない、その言葉のカテゴリーに置くにはふさわしくないと思います。
普通「優しい」からって、美咲編で美咲が進むような状況にはなりません。「優しさ」で語るには問題すぎる道を美咲は選んでいます。それは普通の優しさを通り越して、美咲が特別に優しいから?美咲が優しすぎるから?優しすぎる美咲なら重い負担でも何でも諸手で受け入れてくれる?優しいから優しいからって、それ美咲を馬鹿にしてないですか?各自根底の意識を自ら問い直すべき観点ではありますが、初期状態では「美咲は優しいから」以外に所持する説明文がない以上、そういう解釈にしかなりません。
冬弥は、優しい優しいって馬鹿の一つ覚えのように美咲を評します。別にそこ「優しさ」関係ないよねってことや、別に「優しさ」の枠に入らないよねってことでも無意味に「優しさ」を持ち出して、優しいどうこうの問題で済まない話でも「美咲は優しい」で済ませます。語り手の冬弥がひたすら「美咲は優しすぎる」理論で強調するものだから、これでは読み手としても「美咲は優しすぎるから結果として何でも受け入れてくれる」という、ある意味手前勝手な解釈でしか美咲編の結論を出せません。そういう考えはよくないと改めようにも、そのワード以外ろくに情報が示されないので、そう考えるしか答えの出しようがありません。
何をするにも相手軸で、何に対しても拒みきれず、ただただ無条件に受け入れる女性。おそらくは、そういう美咲像を確信させることを狙って、脚本的に意図して強調されている側面はあるように思います。彼女の特性を優しさだけに制限し、本人個人の主体的な思考は持たないものと見なして初めから数に入れない、そうした見方になるように自然と誘導されます。美咲は優しいからと、優しい美咲ならこう振る舞って当然だと、「優しさ」が義務付け的に割り当てられることにより、無条件の同調だけが美咲の役割で、さもなくば美咲は美咲ではないかのような人物認識を植えつけられます。
あえて言語化したにしてもはばかられて何なんですが、美咲個人としての人格を蔑ろにしたひどい考え方です。実際には美咲にも彼女なりの確立した私があり、都合のよい都合を反映させるためだけの空っぽな存在には収まらないということはこれまで繰り返し述べてきました。ですが、これだけ美咲情報が「優しい」一つきりに絞られた条件では、どうしたって誰だってその解釈にしか至れません。自身はけっしてそんな価値観を持たない場合でも、優位的観点に染まった結論を出してしまいます。「美咲編が」そういうコンセプトでできているのだと。ただちょっとここの辺の表現は複雑で、読者が「そういう図式で解釈する」方向に仕向けられるものの、別にそれが「人物モデルとして絶賛したい/されたいあり方」なのではなく、筆者はおそらく「あえて読みを釣っている」と思われます。別にそういうのをよしと思って書いているのではなく、むしろ疑問を投げかけているのでは。ともすれば何かと短絡的に、そういう主義の人間だからそういう主義に特化して強調する物語を書くのだといった物議になりがちですが、表現者って全部が全部そんな単純な回路ではなくて、多分に筆者は、自身の願望的な図案として従属美咲像を押し出しているのではないと思います。逆ではないでしょうか。そんな美咲に価値があると評価すること、それが一体何を意味するのか。本当は美咲をどのように認識しているのか。むしろ美咲の価値を押し下げているのではないか。逆にそんな風に、逆方向に揶揄し問いかけているように感じます。美咲の資質を都合よくはき違えるべきではない、だからこそ彰の鉄拳主張が最終結論として置かれています。さんざ煽って「それ違うからね」と断罪する転覆脚本です。人間とかく陥りがちな、優しさに対する侮り心理の暗部を深くえぐってきます。優しさはけっして弱さとイコールではないのに、どうしてもそこに勘違いが起きやすいようです。
そうした意識を持つことに疑問を感じず、本気も本気で従属を評価基準とする層は一定数見込まれ、美咲編美咲の位置づけはある意味「餌」とも言えます。自我を持たず、ただひたすら受け入れるだけの役割にこそ価値がある、そういう女性規範としての美咲像を好むことを私は否定しませんし、それを享受する立場を優位で自在な主人公権益として味わうことも私は否定しません。特に共感はしませんが、各個人で持つ価値観は人それぞれであっていいと思っているので。そういう思想的なことはいっそどっちでもいいんです。ただ、その美咲像というのが、冬弥像というのが、本当に本人の特性を示したものなのか?本人とはまったく別物の、幻の人物像に反応しているだけではないのか?私としては断然そっちにスポットを当てたい。なのでそんな話をしたいと思います。
当事者である冬弥が「美咲は優しいから何でも受容する」との想定ありきで動いている一面はあると思いますが、とはいえ「美咲のそこが素晴らしい、だから好き」という思考ではないと思います。けっしてそこを美咲の評価基準とはしていないのです。冬弥は普段から「優しい美咲」に好意を示す言及をしますが、人として好きというのはあれど、かといってそれが個人的な思い入れを抱く決定打に結びつくかというとそうではありません。まず根本として、冬弥は別に美咲を特別な意味で好きではなく、その手の女性が特に好みという訳ではありません。「プレイヤーに」そう受け取らせて落とそうと煽らんばかりに狙った描き方がされているけれども「ただ優しいだけの美咲は無条件に自分の言いなりになってくれる、だからいい」だなんて、「冬弥本人は」これっぽっちも思っていません。プレイヤーと冬弥の感覚は必ずしも一致するとは限らない、というか冬弥は原則プレイヤー感覚から大きく逸脱しているのが通常な存在なので、どうしても温度差が出てきます。
というのも冬弥の場合、その性格上、自分に都合がいいからってその都合のよさを称賛する結論には多分ならないのです。冬弥本人は別に、自分の好き放題を誰かに無理やり許容させることに喜びを感じる人間ではありません。むしろ逆です。自分の都合に相手が応じるという状況において、冬弥は「相手に喜ぶ」のではなく「自分を責める」方向に思考を進めます。言いなりになるから好きという回路は持ちません。「自分が認められた」の優遇感が相手に好意を持つ主因になる訳ではないのです。彼は勝手が通ることを喜ぶ人間ではなく、逆に申し訳なさに苛まれます。勝手を自覚しているからこそ、美咲が「温情で」合わせているだけだと受け取ります。「美咲は優しい→だから不都合をも許容してくれる→そんな美咲が好き」とはならず、「自分の勝手が通る→美咲が優しさゆえに我慢したに過ぎない→そうさせたのは俺のせい」となります。論理を自分本位に展開して相手に評価を下すのではなく、状況判断基準は相手主体、審判は自分に下します。そういう性格なんです。自分を全肯定する存在がほしいのとは違うのです。
一口に自己肯定感が低いといっても一律ではなく、ざっくり分けるなら二つのパターンに分かれます。自分が欲するほどに周囲が認めてくれないことで自信を持てない場合と、周囲の評価にかかわらず本人が自分に価値を置いていない場合があります。前者は自己肯定感の低さと裏腹に自尊心は高いですが、後者はその辺の感覚がとても微弱で、自分をさほどの者としていません。世間的に主張されるのは主に前者ですがそうでないパターンもあり、その基準は根本から大幅に異なります。冬弥はもっぱら後者です。自分自身に価値を置いていない彼には、自分を当然に受容されたい、自分は当然に受容されるべき存在だという意識がないので、別に受容を絶対とはしていません。されれば嬉しい、ありがたい程度の慎ましさです。そのため受容されることが必ずしも自意識の肯定に直結するとは限りません。また相手の従属によって自身の優位を実感し、それをもって自身の価値の証明と考えるような人間でもありません。美咲が受容したからといって冬弥自体が自分の勝手に心苦しさを感じる以上、美咲の対応は冬弥の心に響かず、彼が彼女を意中にとらえるには至りません。冬弥本人が肯定していない自分を美咲が容認したとして、彼の自己肯定に寄与することはありません。
自分に原因を突き詰める冬弥は、それを対比で強調したい所があるのか「美咲は優しい」を繰り返します。美咲がその優しさゆえに本意でない負担をも受容しているだけで、彼女にはそんな望みはなく一方的に自分が巻きこんでいるだけだという図式を、「冬弥自身が」プレイヤーにこれでもかと刷りこんでいる実情があります。事実内容としては冬弥が自分自身に刷りこんでいる形ですが、それと連動して、プレイヤーもまた冬弥によって「彼の」現状認識を刷りこまれます。
冬弥の押し出す「美咲は優しい」発言は、自分の勝手を正当化する表れではなく、逆に否定が主旨です。美咲は賛同(許容)してくれるから自分はこれでいい、勝手をしてもいいんだと勘違いして開き直っているのではなく、あくまで美咲の優しさによってかろうじて許されているだけで本当は許されるべきでないと自覚しています。美咲の優しさにつけこむことに卑怯を感じる冬弥は自分自身を許しません。「美咲は優しい」というのは転じていわば「俺がいけないんだ」と自分を責める冬弥の言い換えです。価値観の系統が根本的に違う人だと理解しにくい脈絡かもしれませんが。冬弥が美咲の優しさを持ち出してそれを彼女の対応の根拠としているのは、ちゃんと自分の勝手を自覚しているからに他なりません。本当にわきまえのない人間ならそもそも相手に「優しい」感性を見いだしませんし、自分の勝手を勝手とも思いません。もちろん譲歩されていることにも気付きません。自分が身を置く現状がいかに美咲の一存で成り立っているかを、冬弥はよく判っています。
「美咲は優しい」を彼女の説明として連発することで、冬弥は対比する自分の醜悪を「自分で」強調しています。美咲との相関を描く中で、彼女を過度に持ち上げることで相対的に自分の価値を押し下げています。自分を正当化するつもりならこんな極端な配分で語ることはしません。多くのプレイヤーは冬弥を蔑むけれど、実はそれは当の冬弥本人の話をそのままで受けている影響もいくらかあるように思います。彼を全否定する割に彼の話はそのまま全肯定で信用して採用しているというか。冬弥自ら自分を悪いように悪いように位置づけようとして、特に挽回として良心的見地からなる表明はしない傾向にありますが、そんな彼の恣意的な片面発信を鵜呑みにしてそれを非難するだけでは見方としてどうしても公正を欠きます。
また美咲を同情的にとらえる人ほど、美咲側の気苦労を重大視するあまり冬弥の心情は感知しにくいのか、美咲に感嘆して彼女の徳を評価するばかりで冬弥の方はそこまで真剣に意識を割いて見ようとは思わないのかもしれません。私としては冬弥がものすごく自分を責めて苛む様子が端々から伝わってくる感覚がありますが、大方はそうではないようで、感じ方は本当に人それぞれだなと思います。「態度に反省の色が見えない」とかボロクソ言われているのを見ると、そういう感じ方をする人もいるんだなと、むしろそっちが主流なんだなと、感性の相違を面白く思います。いまいち理解を得られないことですが、何に遠慮しているのか冬弥って自分の言いたいことをそのままで表明するのを制限していて、何かと遠回しすぎて主旨が判りづらいことが多々あります。どうも彼は、有利な条件で自己説明することに出過ぎた罪悪感を覚えるようで、自己説明以前に有利な条件自体の方を自分から遠ざけてしまうみたいです。間接的に示すだけで言語としてははっきりした形で出さないので、自責の意図等、受け取られにくい所があります。まあ伝わらない伝え方をする冬弥の問題だと思います。
勝手を自覚して気に病んでいるならそもそも勝手しなきゃいいだろという話で、それはごもっともなんですけど残念ながらその辺がうまく働かないのです。背景さえ知ってしまえば色々子細が繋がり、迷走したとて無理もないほどのストレス過多が明らかになりますが、肝心の本人にはその背景を把握することができません。冬弥自身、何が何だか判らないまま、その行動に異常が、異変が出始めます。それでも不幸なことに彼の意識の大部分はまだ正常に機能しています。元々の前提として、普段から勝手放題している人間がいつも通りにそれを美咲にぶつけているという状況ではなく、まったく逆で、冬弥は本来なら他人に気を遣いすぎて勝手のできない性格です。そして異常事態においてさえも根っこ自体はその性格のまま何も変わっていません。
ここでいう異常を、美咲に強く当たって振り回す対応全般とします。普通なら冬弥はそんなことはしません。自分としてはいつもと何も違わないはずなのに、行動として異常が出ます。いつもなら絶対ありえない出方で動いてしまいます。そして冬弥自身にはその原因は判りません。判らないけど、行動がぐらついてきている自覚だけははっきりあります。自分の意識で行動している自覚もあります。異常側に傾いた意識もまた紛れもない自分の意識として、正常な意識の視点から認識できてしまいます。けれどもその異常をきたした思考回路は自分でも掌握できず、思いもしない行動になります。正常な頭のまま自分の異常行動を結果として突きつけられる不安感はいかほどかと思います。起きた異常は自覚できても、発生原因は不明なので自力で未然に回避することはできません。依然正常な思考ができる部分が確かだからこそ自分の異常を異常と認識できる上、それなのに自分がその異常に手出しできない制限も認識できるので、かえって一層苦痛となります。とかく表面的な言動だけを切り取って冬弥の人間レベルを低く見積もりがちですが、くずどころかむしろこんな過酷試練の中ようやってる、というかこれを持ちこたえて何とか自我を保っているのはそれだけである意味超人すぎな訳で、あんまりむげに人格否定するのは彼の実質にそぐわないんじゃないかと思います。
表面上では特にストレスを感じる環境に置かれている訳ではなく、冬弥には思い当たる所がありません。本人としては何とか答えを出そうと由綺との距離感にこじつけますが、単に自分の心の弱さだとしてそこまで重度の問題と位置づけておらず、そして実際、そこはほとんど影響していません。冬弥は自分には大したストレス条件はないと思っており、大した条件もないのにストレスを感じてしまう自分をひどく恥じます。しかしその条件は「存在しない」のではなく「認識できない」だけです。たとえば過労なら過労、不和なら不和と前提条件が明確であればそれがストレス原因と特定できますが、彼には異常を起こす原因が判らないという無理すぎる条件がかかっています。そして、そんな無理すぎる条件が課せられている状況すら彼は知りません。そんな設定超過具合で冬弥に善処できることは限りなく少なく、徹底制限下にある彼にかわってその責任範囲を適正に把握した上で彼の立場に立ち会うというのが、視界を共有しつつ客観的意識をも働かせられる読者目線の醍醐味なのですが、まあ…、娯楽にストレスを望まない人には訳判らん拷問勘弁してくれもいいとこかもしれません。ちなみに私は状況整理するのが好きなため、こじれた重い内容でも取り扱う分には特に拒否感はありません。状況に対して「読むのつらい」と「そうなんだろうな」は別です。共感と共感能力は別物だと思っていて、心情に想像を寄せるとしてもそれはそれとして分けて考える方なので、深刻な思考を展開してもそこまで苦ではありません。
それはそうと「優しい」の一言で雑に扱われ、人格を蔑ろにされるって、美咲に対してどうこう以前にそもそも「冬弥本人の」処遇でもありますよね。彼もまた元来「優しい」を口実に便利に使われる立場にあります。彼自体もそういう「都合」で扱われやすい、というか実際そういう扱いを受けています。つまり「冬弥自身が」自分を抑えて場を調整して受容する人だから、同タイプの美咲の心理にも痛いほど理解が及ぶ訳です。頷く美咲が本意で受容しているとは限らず、意に染まぬことでも仕方なしに了承しがちだというのは冬弥としても自分事のように判っています。一般的な構造原理として、抑圧した不満の矛先がより弱い相手に向かうという場合もえてしてありますが、冬弥はどうやらそのパターンではなく、全然違った見地を持ちます。「美咲の性格を判っているなら、無理を押しつけ彼女を困らせることなどできないはずなのに(要約)」といった自省を見せます。優しさ献上の序列?において下位の美咲が相手なら自分は何をしてもいいと傲慢にあたるような価値観ではなく、冬弥は自分が優位に立つことに単純に気を良くはしません。逆に自分の害悪を思い知り落ちこみます。共感性により、他人に無理を強いたと同時にその強いられた相手の苦渋にも過敏に感応するため、自分でも苦痛を負います。冬弥自身としてもダメージが大きく、そうまでして無理を通しても何もいいことはありません。美咲を言いなりにすることはけっして冬弥に益する本人希望のプラス条件ではなく、別に彼はそれが喜ばしい訳でも何でもないのです。
たとえば「気を遣う」意識一つとっても、素養として自主的に気を遣えて特に不平には感じないタイプと、気を「遣わせられる」こと自体を不本意に思う待遇不満タイプがあり、どちら寄りかで随分感覚が違います。また気遣いによる心労を他人には強要したくないタイプと、自分が経験しただけ他人にも強要するのが筋だと考えるタイプがあり、言動に大きな差が出ます。それ以前に気を遣う遣わないの方針決定時点でも人によりけりでしょう。挙げた両極なタイプ例だけでもその組み合わせや配分、度合いの強弱等、バランスは人によって様々で、それこそ状況や相手によっても変動しますが、冬弥というのは明確にオール前者全振りです。気遣いに特化した彼は本来なら誰よりも美咲の内面に理解を寄せられるはずで、「優しさ」にかこつけて利用するなど論外だと当たり前に自重できるのが自然です。そうした、ありうべき姿に逆行する美咲編の現実はやはりどう考えても「ありえない」状況で、美咲にせまることからして本質的には「冬弥の本意ではない」のです。美咲の心理を判っていて彼女を振り回す自分の心理が、冬弥には自分でも判りません。冬弥としては望んだ行動ではなく、むしろしたくない行動で、その不一致が彼にとって一番酷なことです。読者が横から彼の勝手を責めるにしても、勝手がきかない彼にはその勝手がどうにもならず、対処しようがありません。
さて冬弥自身「優しい」を理由に常々強いられがちな立場におり、大変さを知っています。そのため他人の気苦労にも理解を寄せられる方です。実際、何かと都合よく面倒を任されがちな美咲をしょっちゅう心配しています。美咲の厚意に甘える存在に(自分も含め)批判を向けることもあります。割を食う他人を気にかけ適正な待遇を願う、それは結構ですけど、その割の合わなさって冬弥本人にもきっかり当てはまるんだけど自分のことはいいの?冬弥バイアスとして、他人の貢献には敏感に気付いて適宜取り上げ評価に努める一方で、自分の貢献にはまったく無自覚です。他人のことはこまやかに気にかけるけど、自分のこととなるとまるで気にとめません。
他人の苦労をよく察知し評価する冬弥ですが、自分の苦労はさほどのことと思っておらずまったく評価しません。自分が都合で使われるケースは甘受するのに、他人が都合で使われるのには文句つける、加えて自分が都合で他人と接するケースでは過剰に自分を悪く位置づけます。自分が負担を負うことは何ら厭わない一方で、他人が負担を負うことにはひどく心を痛めます。自分に対してと他人に対してで尊重配分に極端な差があり、完全におかしいのが判ると思います。設定的にもう、冬弥基準は素で偏っていていかれているんです。利他が極まりすぎている、そういう固有の異常を持ったキャラクター性です。現実世界でそんな徹底理想主義の実践を貫くことは多分不可能なのですが、彼は架空キャラなので不可能をすり抜けてそれでも生きられています。彼は人間としてかなり特殊なタイプで、標準的な利己的思考ができません。ほどよく健全に利己的な「普通」の感覚を持っていません。いわゆる偽善とも違って、彼は自分が良いことをしているつもりでそうしている訳でもありません。「言わなくても俺の涙ぐましい姿勢を察して」と非言語への理解を期待するとかじゃなしに、多分根底から思考が偏っていてそれが素なので、特別要望することも特にないのだと思います。シナリオ的には補正読みを前提にあえて極端に仕組んでいる感はありますが、キャラ的にはその極端さは素の仕様として確立しているようです。冬弥は人格レベルで自分に対する正当評価が崩壊していて、本気で自分に評価を向けません。
備考。たまにもっともらしく自分のしょぼい善行を取り沙汰して「俺いいやつ」とか調子こきますが、いやあれはポーズ、冗談ですからね。第一しょぼいことでしか言わない時点でそんなの冗談に決まってるじゃないですか。たとえ本音でもそうだったとしても。普段徹底して自分を制御している人が、他人に知られない内々の範囲でささやかに気分転換しているだけです。俺たまにはちょっと自惚れてみたいっていう。私ってほら全然わがまま言わないよね?だから私ならどんなにわがまま言ってもいいよね?理論で常に当たり前にわがままを他人に持ちかける由綺と違って、冬弥の場合は誰に言っているでもない独白です。同じに見えて全然別物です。思っているだけで表には何ら提示しません。ああいうのまじに受け取って、くだらない些事ごときで尊大に自己評価してしまう真性の傲慢ナルシスト野郎と認定する人いるんですか?いるんですか…。冬弥のその卑屈ぶりがイラっとして気に食わんというなら判らなくもないですが、彼の人間性をよりによって逆転した形であげつらう人を見るにつけ、価値観が根本で食い違うとニュアンスの通じ方も違ってくるんだなあと言語感覚の個人差を感じます。
作中各所で美咲の気遣いに何かとスポットが当たって周知されるのは、「美咲が」ひときわ気遣い屋だからそれが目立つほどに明らかで目にとまるのではなく、「冬弥が」同じく相当な気遣い屋だから特に目立たないことでもその動向に気付けるためです。「美咲の」性質が特別に突出しているからそれに応じてこまめな説明が生じているのではなく、「冬弥が」美咲の性質にちゃんと気付けてこまかな機微をも察知するからそのたび説明が入るということです。「説明にあがる」ことに関しては冬弥依存です。彼は美咲(や由綺)について常々その気遣いを評価しますが、あれは実際には「冬弥自体が」そういう気遣い特化の考えで生きている人だからその線での行動という認識を基礎水準としているだけで、必ずしも彼女たち当人にそうした意図があるとは限りません。冬弥はまだ青いので、世の中そんなに綺麗でなく、そうした理想に基づかない人の方がずっと多いことが判っていません。頭では一応留意はしているだろうけど、自分の指針の逆を行く価値観だけに、どうしても本質的な理解が及ばないのだと思います。
ちなみに美咲自体がひときわ気遣いに特化しているのはそれはそれで確かな事実で、冬弥が特に言及しない場合でも一貫してその方向性で描かれています。美咲さん、(由綺みたいに)特に善意を知らしめるために念押ししたりしないですよね?何かしら地味に気配りしていても、本人主張でそれが「善意」だなんて確定は入らないんですよ。だから冬弥説明が入らなければ何気ない普段の行動が実は気遣いの表れだと読者に気付かれないことだって当たり前にある訳です。そういう場合の認定は読者自体の感性というか裁量に委ねられており、全員一律な把握状態にはなりません。
昨今では風潮が激変して、自分の配慮をありがたがるよう声高に顕示したり、配慮に気付かない相手に不満を持ったり、はたまた相手に伝わる配慮でなければ行動する意味がないと断じたりが増加傾向のようですが、配慮って本来そういうものではないですからね。求めるものでも押しつけるものでもなく、両者の関係性の中、相手の身になった想像力で任意に成り立つものです。あくまで想像による働きかけなのでそりゃそぐわない時もあります。その誤差も当然に踏まえた上で「あったらありがたい」「受け取られれば幸い」くらいなもので双方に強制性はないはずです。何で配慮される側の受け取りにまで感度が求められたり配慮する側に思考の説明責任が課せられたりするのか不思議。配慮を評価されたいというのであればそれは配慮ではなく主張なので、主張したいのならそれを堂々と主張すればいいと思います。それこそ由綺型人間になればいいと思います。主張を主張する分には特に何もおかしくなく、配慮と称して主張を通すのは配慮としての根本から外れている気がします。話がそれましたが、本当に配慮ある人は自分の配慮を主張のだしにしないということです。
言語表現としての穴になりがちなことですが、他人を気遣える人ほど自分が気遣っている内容詳細を自分で説明しない傾向があります。それは冬弥についてもそうです。「こいつは人の気持ちが判らないのか」とか言われますが、彼は判りすぎるくらい判っていて、でも判っている諸々が彼の中で当たり前すぎる場合、特に文字に起こして説明することはないんです。何かしら心の機微に気付いていながらあえてそこに触れないで、相手のテリトリーを荒らさずそっとすることも多いです。人によっては本当に人の気持ちに疎くてそういうことにまったく言及しないタイプもいて、問題となる大半がそっちだと思いますが、冬弥はそうでない例外のケースです。冬弥はたまたま例外タイプで一般化の適用に当てはまりません。文面上は似たような発現になっても精神性はまったくの正反対です。
反省の句を言わないから「こいつ反省してない!」ではなく、常にあらゆる反省が下地として最低基準で据え置きになっているから「反省は当然のこと、その上で他に言及するなら」のスタンスで冬弥は延長線上の話を一足飛びに展開します。反省「していない」んじゃなくて、それは「言わずもがな」です。自責は常備機能として初めから組みこまれています。自分の中の常識は、説明するまでもない基本事項として、初期配備の必携事項としてすっ飛ばして語りを構築します。そういう「文章表現」としての角度から人物描写しているらしいのは窺えるのですが、冬弥の仕様に理解が及ばなければそこ止まりな訳で、そこはやっぱり説明不足を問われるんじゃないかなと思います。
通常、他人の気持ちを人一倍慮る中で、その最大限の感度でそれでも判らなかったことについて、それまでの無知に気付いた冬弥はすごく自分を責めます。傍目にはそんなことも判らないほど意識が低いのか!となりがちですが、いや、そもそも感度の基準が違っていて基本が高いレベルで設定されているんですよ。理解もれする案件はそれこそ人によりけりで、理解の広い人であっても何にでも理解が及ぶ訳ではないのは当たり前です。つまり標準以上に感受しすぎる人が、その中でたまたま気付けなかった個別の案件を恥じているだけで、必ずしも本人自体の理解力が低いのではありません。冬弥の場合はそれよりむしろ限度以上に考えすぎる方が問題で、そのために理解を通り越して一部突飛な方向に脱線して収拾がつかない事態を起こすので、そこは確かに思考をゆるめるなり改善を要する点ではあります。ただそれについても、当初いかにも見当違いに思えたことが最終的には事実関係が逆転して、冬弥がやたら意味不明に気にしていたことは実は核心にニアミスする重大事項だったというケースも割と多い、というかそんなんばっかで、考えるだけ無駄に思える思考範囲ですらあながち無駄とは言いきれない側面もあります。何と言いますか、知ることに真摯な人ほど自分の無知を真摯に自覚するということです。知らないことは際限がなく、知る自分には限界があるのを判っています。それは、空は無限に広がる一方で俺達は有限の中にいるだののはるか編テーマにも通じるもので、冬弥全域にかかっている彼の主要思考です。能ある人ほど素で「まだまだです」と言うのに近いかも。ただ冬弥ってイメージ的にどうしても無能に見えがちなので、無能が事実通りに無能を自覚しているようにしか見えず、額面通りの認知で人物像が固定されてしまうことが多いようです。