マナ3


ここまで冬弥の生い立ちを不遇なものと仮定して話を進めてきましたが、それを確定するには、冬弥の思考の空白や言い淀み、はぐらかしを検証して、まさに「無い」ものから推定しなければならないので、非常に困難です。特筆事項がないから何も言うことがないのか、特筆事項がトップシークレットであるため黙っているのか判別がつきません。という訳で、マナ編の考察(冬弥自身の掘り下げ)は、他にも増して与太話程度に思って下さい。ただ、この仮説がないと、マナ編だけ格段に内容が薄い話、表層だけの話になってしまい、シナリオの存在意義がなくなるので、他シナリオとのバランスから、やっぱり冬弥の事情ってそうなんじゃないかなと思っています。母関連の話がメインと思われる割には、肝心の結論がうやむやになっていますしね。自分の誕生日はろくに祝ってもらえなかったでしょうに、他人の誕生日だけでも祝おうとプレゼントを甲斐甲斐しく用意するあたり、切ないなあと思います。中盤の「子供は割り切れない問題でも何にでも答えを出して白黒つけてしまう」という嘆きの独白は、冬弥自身の、母にまつわる誓いのことだと思われます。冬弥は自分に、母に関する悩みを吐露することを一切禁じています、おそらくかなり幼少期から。それは、作中全体での彼の様子を見ても明らかで、独白の中ですらそのことに触れることはありません。母の不在自体よりも、むしろそのことに関する感情を封じてきたことが問題のようです。その抑圧は、母の死の原因である自分を責める形へも転化し、それもまた外部にはさらけ出せない弱点であるため、冬弥の内部圧はものすごいことになっています。冬弥としては内心、それが自分のいびつな人格形成に大きく影響したと自覚しており、マナには同じ轍を踏ませたくなくて、せめて彼女が自分らしくいられるよう、本音で過ごせるよう、以降努めて他愛ない雑談を繰り出しているのだと思います。態度の出方は変わりませんが。家庭教師としてはあまり役に立っていない冬弥ですが、カウンセラーとしてはそこそこ有能みたいです。冬弥標準装備のおうむ返し、あれは単に彼のうだつの上がらなさを表しているのか、それとも人心をほぐす才能を素で持っているのか、はたまたれっきとした技術として意図的に駆使しているのか、彼一人称の自己描写からではどうにもはっきり断定できません。


読み手としては、冬弥の鬱陶しい独白や彼の一人時間の様子を読めるので、彼が相当根暗な性格と知ることができるのですが、表面を見た限りでは、ちょっと子供っぽい頭軽そうな青年にしか見えません。友達の多い活発なタイプではないとはいえ、基本的に話好きで誰に対しても友好的です。心に闇を抱えた人物にはとても思えません。気の置けない態度と話しやすい雰囲気で、相手の本音を引き出すことに長けている冬弥ですが、一方で自分自身の事情や本音はなかなか表に出しません。周囲をだまし、自分をもだまして、普段のゆるい会話をしていると思うと、冬弥に対する見方も変わるのではないでしょうか。また素で間が悪く天然である一方で、発言・独白の区別なく、知っていることでもあえてとぼけて話を誘導するといった芸当も時にはするので、物事への反応がそのどちらなのか判別しにくい。単純そうに見えて、冬弥は結構複雑で判りにくい性格をしています。藤井はファジーfuzzy(曖昧な)、冬弥はあまねき冬。冬弥は、広大に凍てつく本性を曖昧にぼかすことで、表層のシアワセそうなキャラを保っているのです。普通で平凡な青年という名目で主人公をつとめている冬弥ですが、後遺症で頭がおかしい上、その性格もどこかおかしい。ただ、それを裏付ける決定打が作中に「存在しない」ため、軽い違和感としてしか表面化せず、見過ごされています。


中盤、マナは「藤井さんと付き合う人って幸せよね」と呆れながら、想像上の冬弥の未来の奥さん像を語ります。冬弥は浮気しなさそうだから、奥さんの言いなりになって、奥さんはそれに甘えてぶくぶく太る、なんてひどいこと言います。表向き冬弥は浮気ゲーの主人公なので、彼を一途と評するマナの見解は、一見、的外れで甘いのですが(冬弥もいけしゃあしゃあと「よく言われる」とか言う)、ふたを開けてみればマナの言うことは真理を突いていることになります。マナの語る想像上の奥さん像は、冬弥に甘えてだらしなく過ごすはるかそのままです。まあ彼女は活動的なのでぶくぶく太りはしませんが。冬弥が記憶を失くして由綺と付き合っている現在の状況がいわば特殊なのであって、本来なら、何となくはるかと一緒にいて、何となくはるかといい感じになって、何となくはるかとくっついて、そのまま何となく家族を作って年を取るまで一緒に過ごすといったぬるま湯のような人生が予定されていたのかもしれません。想像するだけでめまいがします。


幸い、冬弥にはるかのことを「好きなんでしょ?」と真っ向から訊く人はいません。その問いに、冬弥が「そんなことない!」とむきになって顔真っ赤に反論するのか、「いや別に」と淡々と素っ気なく否定するのか、訊かれた相手や時と状況によって変わってくるので、反応は読めません。冬弥は、表層の人格はあけすけで判りやすく、本性は感情起伏がなく判りにくいという、仮面としてあべこべの状態になっています。冬弥は子供っぽく振る舞うのが常態になっているため、幼稚な仮面も空虚な本性も、その境界は曖昧で、どちらが冬弥の素なのか判らない状態になっています。どちらも素と言えます。仮面は幼稚に見えるけれど根本的なメンタルは安定した大人であり、本性は冷静で知性はあるけれど拗ねた幼児性そのものです。どのみち冬弥は大人になりきれない子供みたいな人です。態度の出方や性質が違うだけで、基本的に冬弥本人の性格は変わらないので、物事への考え方は大体共通です。認識度合いや思考そらしのため、若干意識にずれが生じることもありますが。シナリオでは悲観的、パネルでは楽観的という一応のテキスト傾向があるので、それが人格の境かと思いきや、パネルでもくどいぼやきを並べたり、シナリオでもくだらない冗談をかましたりすることから考えて、必ずしも各サイドを境に明瞭かつ厳格に人格が区分されている訳ではなく、状況に関係なく二者を行ったり来たりしているようです。あるいはひょっとすると、辛気臭いのもお気楽なのもどちらも感情豊かな仮面の一部で、外殻上のそれらを制御する、まったく別の無感情で荒廃した本性が最深部にいるという形態かもしれません。仮面要素も二面性を持っており、さらに仮面と本性にも分割されていて、それらが渾然一体となっています。冬弥の性格はとにかく曖昧です。


仮面も本性も、独自の別人格として冬弥内部から互いを客観視できるとしたら、マナ編通して、マナについて冬弥が誰かに似ていると感じている暴走気質の主は、冬弥自身(仮面)なのかもしれません。ところが二つに分かれた人格は境が曖昧な上、視点が流動的に切り替わるため、自分のことと認識できず、冬弥本人には自覚がありません。さらに冬弥全体の自意識の乏しさにより、既視感の原型がまったく掴めない状態になっていると考えます。またさらに、通常冬弥は本質である仮面/本性の基本構造に加えて、人当たり向けに常識的な反応をするための猫もかぶっています。普通にプレイしていたら冬弥は猫かぶって普通にしているのでそこまで個性を感じませんが、パネルレベルが上がるにつれ独白の中で素(仮面の方)を出し始め、冬弥独自の勝手な想像からさらに妄想を展開、延々続行するという暴走をしばしば見せるようになります。その想像力の豊かさをもっと有意義なことに活かせばいいのに大概くだらない話に終始します。由綺も同じく想像を暴走させがちなので、件の既視感は彼女のことを指している可能性もありますが、由綺はあくまで表層上のヒロインで、真相の物語にはあまり関与しません。由綺に似ているとする部分は、冬弥はちゃんと語りとして「由綺に似てる気がする」と明確にするので、そうではなく、相似の対象が判らず首を傾げたまま放置されているのは、それ以外の別の要因と考えられます。マナの初対面時の感じの良さ、普段の暴走気質を由綺に似ているとすることで、一応、話に決着をつけることもできますが、それだと謎解きが簡単すぎて、何のひねりもないつまらない物語で終わってしまいます。由綺とマナが親戚同士かもということは、冬弥は最後まで気付きませんが、読み手には早くも中盤から判りきっていることですからね。たったそれだけの結論にたどりつくために、それまでのエピソードが描かれているとするなら、いささか大仰で無駄が多いと言えます。各エピソードを無駄にしないためには、根本から視点を変える必要があります。つまりは由綺中心の視点から、冬弥中心の視点に。マナに対する二種の既視感はそれぞれ別の所以で生じているもので、そしてそれら、はるかへの好印象と冬弥の二重構造は、WAの真相を基礎から支える二つの柱となっています。話変わって、観月母のモンペ問題は結構重大ですが、一介の学生である冬弥には対処のしようがなく、マナが強くなる他に解決法はありません。母関連の話は未解決で終わっているかのように見えますが、母の不在に悩む者同士で傷を分かち合い成長するというテキスト裏の展開により、物語に一応の決着はついているのです。モンペ問題と由綺・マナの血縁発覚がマナ編表向きのシナリオテーマですが、マナ編に限らず、WAの全シナリオは、表層だけでも消化不良ながらコンパクトに一応まとまった物語として存在します。けれど焦点を変えることで、まったく同一のテキストでありながら、まったく別次元の物語としても成立しています。冬弥が投げっぱなしにしている事柄の数々を改めて拾い上げて、一呼吸置いて考えてみると、また違ったあらすじが見えてくるのではないでしょうか。


過去、大学入試の願書提出やその他諸々の冬弥の記憶が曖昧なのは、単に過ぎたことを忘れただけかもしれませんが、うがった見方をすると、そういった事務手続きは知性のある本性が一手に引き受けており、対人関係に特化した仮面はまったく関与していないからかもしれません。つまり脳炎による記憶喪失とは別件で、各人格の意識共有が不十分で生じている記憶障害もあるということです。仮面への伝達は本性の意志一つでどうとでもなるので、今まで知らなかったはずのことをいきなり知っているというおかしな展開もありえます。普段は簡素で適当なくだけた言葉しか使えないのにたまに妙に小難しい語句を使ったりと、語彙力の幅がアンバランスなのも、シナリオさんの作風以外に、もしかしたらそれが冬弥の特徴としてしっかり設定されているのかもしれません。また冬弥は、敬語の使い方がなっていない時と普通に使えている時のゆらぎがあります。基本、敬語の誤用は弥生相手が多く、冬弥はああ見えて根性曲がっているので、慇懃無礼な弥生をわざと皮肉っている、あるいはまれに敬意の向かう先が混線して珍妙な敬語で文言を組み立ててしまう彼女の偶発的失態をあげつらい、わざと自分も言い間違う罠をしかけて挑発している可能性もありますが、素で間違えているのなら、それも仮面が言っていることで、時たままともに話せるのは本性による補正が効いているためでしょう。冬弥は悪意に気付かずスルーしたと見せかけて、後で根に持ってそうな態度を見せることがあるので、やはり冬弥二重人格説を推します。仮面はのんきにしていても、その実、本性は冷ややかに人間観察しているのかもしれません。怖いですね。ただ冬弥は本性を心の奥に封じ、ひた隠しにしており、他人から病んでいると思われるのをひどく嫌がります。ごくまれに、本性が表面化したのか冬弥が無表情になっていると思われる場面で、はるかが彼の表情を読み取れず不安がることがありますが、両者ともに非常に珍しい状況と言えます。


当項目で何度か例にあげましたが、美咲の父親話イベントも、冬弥の二面性を知る上で重要な会話です。冬弥は初めの方こそほのぼのとしたのんきな語り口をしていますが、ある時を境に、会話の終わり付近では明らかに態度が凍りついています。本性の発現です。美咲は心の機微に敏感なので、冬弥の変化に気付き、彼の地雷を踏んだと察知して、すぐさま話を切り上げます。多分に、何も知らない人が意図せず地雷を踏んだなら、冬弥は心を押し殺して平静を装ったでしょうけど、美咲の場合、おそらく事情を知りながらあえてそのことに踏みこむ真似をしたので、冬弥は静かに怒っているのだと思います。冬弥について美咲は、どこか辛そうに見える、そこにいない誰かにいつも謝っているようで、と言います。この話は冬弥の浮気に関係なく発生することから、冬弥には「素地で」常に何かに謝っている条件が存在するということであり、美咲は彼の秘められた出生条件を知っているのです。しんみり切なく幸せそうに父の話をしてくる美咲ですが、年頃の女性が父親依存を示すエピソードを語るのは割とみっともないことのようにも思え、心証を気にする美咲だけに普通なら避けるはずの所、父限定で詳しく家族の話をしてくるのを見るに、やはり冬弥には父しかいないことを知っているのだと思います。父の話なら冬弥にも共感できるから率先して取り上げる、反対に、母の方の話は冬弥には共感できる下地がないため、あえて避けているのだと思います。ただ、そうした美咲の作為は逆に冬弥の境遇を指摘しているようなものです。基本、心優しい美咲ですが、気を引く策なのか、たまに余計な根回しと気遣いが裏目に出て、冬弥の気持ちを害しているみたいです。本性の発露は作中でもごくまれなので見逃されがちですが、冬弥は時折、自分の表情について「~な顔で」と意識的に作りこんでいるかのように語りますし、意図的に、また自覚して、場に応じた感情豊かな表情をしてみせており、基本は無表情なのだと思います。作ってもいない限り、自分では見ることのできない自分の表情を、客観的に表現することはないはずです。ただし本性としては作為的でも、仮面としては率直な喜怒哀楽で、ごく自然な表情になると思われ、そこにわざとらしさはないようです。冬弥本人はわざとらしくないか気にしますが、相手が特に気にする様子はありません。