澤倉美咲/七瀬彰1


基本評判の悪い冬弥ですが、美咲編はとりわけ評判が悪いです。それもそのはず、美咲編の冬弥はもはや通常の冬弥ではなく、記憶を取り戻そうと無意識にあがいて、おかしくなって暴走しています。作中、特に個人的な問題を抱えているように見えない冬弥ですが、過去に深刻な脳障害を負っている上、現時点でも後遺症が多大であり、全然大丈夫じゃありません。読み手は冬弥の「大丈夫」を信用しすぎているのです。冬弥には、自分のことを棚にあげて無自覚なまま喋るという特性があるため、他人に対する発言が冬弥本人にも当てはまらないか、その都度確認しつつ読み進める必要があります。たかが数か月由綺に満足に会えないからって冬弥は浮気しません。冬弥自身、完全に狂う一歩手前で切羽詰まっているのです。物体的に由綺に会えないことが問題なのではなく、想い出の中ですら愛しのはるかに会うことができないのが問題なのです。はるか本体はそこら辺にいますが、冬弥は自分が何を失ったかを知らず、また自分が徐々に壊れていっていることにも気付いていません。彼は自分が記憶喪失ということを知らないので、色々御託を並べますが、その見解は大概、的外れです。事情により精神崩壊の重篤な因子を抱えている冬弥に、普通の常識ベースを当てはめようとして人でなしと断じてもあまり意味のないことです。実際正常でなくなっていくのですからそれはそうだろうとしか言えません。むしろ彼の状態から考えて、自分を保っているのが不思議なくらいです。


美咲は冬弥が暴走していることを知っていて、ある意味その隙に乗じてどうにかなりました。美咲も心優しい先輩とはいえ、打算や邪心もある普通の女性なので、積極的には動かないとしても、冬弥がおかしくなったのを絶好の機会と見たって何も不思議ではありません。冬弥が異常をきたしたとしても、美咲は彼のことが好きなんです。いつか元の藤井君に戻ってくれると信じて支えようとします。愛が深いですね。冬弥が完全におかしくなってしまっていたら、まだ読み手にもそうと判るのですが、正気と狂気の狭間で、基本しぶとく正気寄りなので、そうと判りません。彰EDラストの一文に至ってようやく冬弥発狂の描写が入りますが、それにしたって地味で判りにくい様子で、適当に見逃してしまいがちです。美咲との関係が進行してもパネルでは相変わらず能天気な世間話をするのも、ゲームシステムの都合だけでなく、生殺し状態の冬弥の危うさを表現しているのかもしれません。冬弥がなまじっか通常モードに戻るので、美咲もなかなか彼を見放すことができません。


美咲は冬弥が暴走していると知っている、つまりその原因も知っているということです。冬弥はすぐに「はるかなんか」と悪態つきますが、高校時代から彼を想い続けて、さらにとりわけ心細やかな美咲だから冬弥本人以上に知っているのです、冬弥がはるかなしに生きられないくらい好きすぎることを。冬弥はそんな関係じゃないと頑なに言い張りますが、どう見ても現恋人である由綺よりもはるかべったりです。パネルのレベルが上がるほどはるか話が増えてきて、いい加減にしろと言いたいくらい。見る人が見ればバレバレです。で、どうやら冬弥がはるかの記憶を失っているということも美咲は気付いています。ずっと冬弥を見つめているから知っているのです。冬弥・由綺・美咲がどの順番で知り合ったかは曖昧にぼかされていますが、由綺ははるかがテニスをしていたことを知らず、美咲はそれを知っていることから、美咲→由綺の順番だと確定します。美咲は髪の長い状態のはるかを知っており、冬弥が由綺をはるかだと思いこんで取り違えていることに気付いています。作中何度も美咲が懸命に言おうとして、結局冬弥に伝えることのできない何かというのは、まさにこの、冬弥が知らない彼自身に秘められた真実です。


美咲は、冬弥が好きだとか、由綺に申し訳ないとか、そういうことを言いあぐねているのではありません。第一、それらは隠れるでもなく普通に表面に出ていますよね?美咲編の要点はそこじゃないんです。折に触れて美咲が言いたいことを言わないのでもやもやした冬弥は都度引っかかりを示しますが、当事者のはるかが黙っているのに部外者の美咲には余計なことは言えません。事実、ややもすれば由綺への遠慮は何かとお留守になる一方で美咲は、なぜだかはるかには徹底的に遠慮しています。美咲編ではただの第三者のはずのはるかに。それはつまり、実はそのはるかこそが自分のシナリオの主軸をなすとの構図を美咲が知っているということです。本来は、フェンスのこちら側にいる冬弥とはるか二人の問題で、フェンスの向こう側にいる美咲には触れることは叶わず、ただ見ていることしかできないのです。フェンスイベント前、美咲は罪悪感からはるかに合わせる顔がないので、はるかが冬弥と話をしている間は近寄ってきません。はるかが気を利かせて立ち去ってようやく、美咲は冬弥に近づいてきます。美咲ははるかが唯一の当事者であることを知っており、自分は立ち入ることができないのを判っているのです。仮に「藤井君ははるかちゃんを探してるんだよ」と言った所で、自覚のない冬弥には意味不明ですし、下手すると頭がショートして冬弥自体を失いかねません。そのためはるかの話は伏せねばならず、さらにはそれに起因する己の悩みを表面上は由綺の話として取り繕わなければなりません。そういう訳で美咲はもどかしい態度を取り続けます。


美咲はオリジナルを知っているので「由綺ちゃんははるかちゃんのかわりなのに…」という邪念を捨てきれません。棚ぼた式に冬弥の恋人となった由綺には正当性を認められないため、美咲としては自分の恋をいつまでも諦めきれないのでしょう。由綺を軽視している訳じゃないんですが、はるかに似ているというだけでぽっと出の由綺に冬弥を持ってかれたのは釈然とせず、納得できません。由綺が正当な恋人でないと知りながら、当たり前のような顔をして、由綺を冬弥の恋人として普通に取り扱っているというのは、美咲には何も悪い所はありませんが、それでもすごく偽善的な行いです。内心、全然その立場を認めていないのに、話を合わせて不満をのみこんでいるだけのこと、自分の立場を信じきっている由綺の馬鹿さ加減を眺めているようなものです。でも現状、冬弥はダミーの由綺に夢中で、美咲にはどうすることもできません。そしてまた記憶喪失云々というのは冬弥の個人的な都合であって、由綺はそんな事情あずかり知る所ではなく、一人過酷な日々を過ごしています。実情はどうあれ、由綺が冬弥の現恋人であることは動かない事実。美咲は、由綺が音楽祭へ出場することが決まったと知った時点で、彼女を軽んじてしまったことを悔います。はるかとか身代わりとか関係なく、冬弥を信じてひたむきに頑張っている由綺本人を裏切ってしまったと。由綺に対する美咲の悔恨に「終盤になって今さら?」という印象が拭えませんが、中盤の美咲の頭は、はるかを探して現在進行形で壊れつつある冬弥が大部分を占めているので、いわば部外者の由綺を気遣う余裕はないのです。


「『由綺は冬弥の本命ではない』と知っている」ことが美咲一番の手札で、また「『冬弥の本命であるはるか』は正式な恋人ではない」ことも強力な場札として現状を支配します。その隙間に、美咲にはどうにも抗えない邪念が生まれます。実質のない由綺から冬弥を奪うのに何ら気兼ねする必要はなく、実質を持たないはるかへも何の伺いを立てる必要もない。冬弥は、実質フリーなのだから。美咲にとって「知っている」ことが一番の有利条件で、また一番の不幸でもあります。いっそ知らないでいられたら、わきまえぬ望みなど初めから抱くこともなかったのに。目の前においしい餌をでんと置かれているようなもので、そのまま我慢しろって方に無理があります。両方の間隙をついて冬弥に攻め入ることは、美咲にとって千載一遇のチャンスで、これを逃す手はないのです。それでも一方では「由綺が公式の恋人」として立場が認定されていることは確かであり、また「はるかが正統な相手」として冬弥の意識および状況を左右することも確かです。美咲が「知っている」すべてのことは、彼女にとって追い風であり、向かい風でもあります。つけこみ可能な冬弥の隙が、急所的に、かなり奥の方にまで開ききっているのを認識しながら、世間体から今一歩踏み出せず、ただ指をくわえて見ているしかできません。これまではそうでした。その上で、さらに冬弥の調子が乱れていく美咲編において、美咲が一点突破で牙城を崩す一手を持ちながら、それを行使することなく、変わらぬ善人面をし続けることはかなり難しいと思われます。ずっと手にしたかった冬弥は、もう、もう、目の前で弱りきっており、美咲にはそれが目に見えて判るのですから。好機と体裁、邪心と良心、四方八方からの風に煽られる美咲はよろけ、惑います。心ゆれ、とても立っていられなくなり、思わず手近なものにしがみつきます。そのしがみつき先は当然冬弥なので、バランスを欠いたものがさらにバランスを崩し、共倒れ寸前です。そして両者ふらつきながら、寄りかかり合うことでかろうじて互いの抑えとなり、何とか踏みとどまっています。