WAの一般的な作品イメージとして、「際立った個性がなく何の価値もない、魅力に欠ける主人公」が、それなのに不相応にも理想的な恋人ヒロインに愛され、さらにはそれにもかかわらずおこがましくも彼女を裏切って浮気する話だと広く認識されています。冬弥の特性として唯一まともに認定されている「優しさ」の要素すら過大評価であって、それは元を正せば単なる「意志の弱さ」に過ぎず「本当の優しさ」ではない、とも見なされがちです。まったくもって「何もない」上に「何の良さもない」と。しかしこれまで一言では語り尽くせぬほどの文字数で説明してきた通り、冬弥は主人公の価値としての実質ポテンシャルは膨大であるにもかかわらず、それを伏せられているという事情があります。冬弥には、人一人の人生譚として空き容量が残らないほどいっぱいいっぱいな裏設定が過搭載されています。内部設定が飽和状態ぎりぎりで、かろうじて外部に流出しないで保たれているので、結果的に表面上でだけは「特性のない主人公」として彼は平常に存在できているのです。
冬弥には「え?優しいか?」と疑問に思えることに対してまで、安直にただ「優しい」の一言で済まされることが多々あるので、彼の優しさの実態というものにいまいちピンと来ないプレイヤーも多いと思います。「いや、こいつただ流されてるだけだろ」って。冬弥について評される「優しさ」には、確かに「弱さ」によるものもいくらかはあります。由綺の突然の依頼にも文句一つ言わず従うといった例がそれに該当します。この場合「立場の弱さ」転じて「強いられた状況に甘んじる様子」であって、由綺はただ、そんな冬弥の使い勝手の良さを「優しい」と評価しているだけなので、彼女の賛辞は冬弥を掘り下げる上で何の参考にもなりません。あれは冬弥の優しさとしてカウントに入れなくていいです。ああいう、何かと指摘が入る方の「優しさ」はそこまで重要ではなく大した長所ではないんです。それとは別系統に、特に言葉で褒められることのない「見えづらい優しさ」というものを、実は冬弥は確かに持っていて、彼の長所としての優しさの真髄は断然こっちの方なんです。
はるかは冬弥の優しさを明確な形で言語化することはほとんどありませんが、目には留まりにくいちょっとした彼の行動に対し何かしら反応を示すことがあります。その行動を優しさと認識しているからこそ生じる反応で、何もないように見えてもそこには確かに冬弥の「優しさ」はあるのです。はるかは「冬弥は本当に優しいね」だとか直球の褒め言葉なんて、何も口に出しては言いませんよ?言いませんけど。でも、明らかな微反応を見せるはるかとのやりとりにおける冬弥の行動を検証すると、特段のことはしていないようで着実に好ましい状況に繋げる動きを見せており、それでいながら特に何も主張しない傾向が見られます。多くを語らずして自然と良い方向に導いてくれる優しさがそこにはあるんです。両者言葉にしないがために、読み手がそれを「優しさ」としてカウントしないとして、はたして「優しさ」と認められることに何の意味があるというのでしょう。お互いが理解しあえているなら、外野の評価なんてどうでもいいことじゃないですか?人から認められなくても「優しさ」は二人の間で確かに行き来しているのですから。
冬弥の真の長所としての優しさは、特にマナ編で顕著に描かれています。「え?マナ編通して特に何もしてないでしょ?」みたいに思われて、彼がなしたことがどんなにすごいことかあまり認知されていませんが、実は冬弥は「何もしていない」訳じゃないんです。確かに冬弥は一貫して、マナの抱える諸問題に積極的に関わろうとはしません。何かとまめまめしく干渉し、しんどく停滞した現状を精力的に打開しようとするような、いわゆる主人公らしい活発な行動はまったく見せません。そのかわり、冬弥はマナと、何でもないお喋りをするんですね。特に問題をクローズアップすることなく、まったく関係のないどうでもいいことを。「今ある問題について話すこともしないで、一体何の意味があるんだ?そんなの無駄でしかないだろう」と思われるかもしれませんが、くだらない雑談、あれ全然無駄なんかじゃなく、本当に重要なんです。冬弥は普段、馬鹿みたいに能天気にマナに話を振りますが、あれによってマナは、飾ることのない本音のままの自分を出すことができ、そしてそれをそのまま受け止めてもらえることで、精神的に安定します。冬弥がしているのは、今あるマナを肯定し、彼女の足場を整えること。ここでいう足場とは、身を置く地面そのもののことではなく、踏ん張る足の状態のことです。確かに冬弥は何も状況を動かしませんが、状況に対するマナ自身の姿勢を変える下地を作ってくれます。冬弥が問題を解決するのではなく、問題に向き合うマナの底上げをします。患部をいじるのではなく、そこではない別の活かせる部分を強化して、全体で対処できるように促しているのです。冬弥にとって自分の実績評価なんかどうでもよく、結果的に、マナが彼女自身の決断に納得できるだけの基礎固めに少しでも繋がればそれでいいのです。何も、問題に対する正面きっての論議と体当たりだけが唯一の解決法だとは、私は思いません。冬弥式のアプローチも、一つの手段としてあってもいいと思います。それには、相手の複雑な立場や心境に理解を持った上での的確な見定めと段取りが必要で、直接手を下すよりもずっと難しいことなのではないかと思います。
いやいや、単なる口任せの浅い雑談がたまたま結果的にそういう有効な方向に働くこともあるというだけで、冬弥本人には特に見上げた意識なんてないだろうって?いえ、意図がないにしては、作中で冬弥は明確に、他愛ない世間話をすることのささやかすぎる意義を繰り返し主張します。しっかり目的意識を持って、能動的に行われている証拠です。冬弥自身、へっぽこ父さんや河島兄妹との何気ない無駄話で心救われてきた長年の実感があるので、意味のない会話に優れた効果があると確信した上で、あえて馬鹿話をしているのだと思います。冬弥には「俺は不幸なんだから、それを察して気遣ってもらって当然だ」というような、自分の境遇を拗ねて悲劇ぶり、周囲に当てつけるような所はまったくありません。現に隠し設定は隠し設定のまま、一切話題には上りません。そんな冬弥の強さを維持する上で、本人の気概だけを頼みとしているとは思えません。背後には周囲の温かな支えが受け皿としてあり、そしてそれはけっして高らかに特別性を自己主張するものではありません。そんな周りの手助けも含めて今の自分を形成する一部となっていると自覚している冬弥は、そういった、日頃のごく小さなことの何でもない積み重ねをとても大事にします。無いものねだりの強欲でねじくれることはなく、身を置く環境もそう悪くはないと、手元にある幸せにちゃんと感謝できる人です。そして与えられるだけの立場でいることを良しとせず、受けた情けを少しでも世に還元しようと、冬弥もまた同じような形で、目に見えにくい小さな働きかけを実践しているのです。
「優しさ」と称して大々的に、何らかの慈善行為として他人に働きかけようとするなら、冬弥が実際「行動する」上でも、また冬弥の「行動を描く」上でも、非常に簡単なことです。「判りやすく」善行すればいいのですから。けど冬弥はそれをしないし、筆者はその手法に走らない。なぜならそれは、おそらく彼らの定義する「優しさ」ではないからです。大きな傷を負って生まれ育った冬弥は、「優しさ」という名の、これ見よがしで直接的すぎる働きかけが必ずしも痛みの緩和に有効とは限らないことをよく判っています。下手に駆け寄って、高ぶった同情心なんかで騒ぎ立てることには、そこまで好転的な意味はないのです。かえって傷が広がるばかりです。辛く悲しい痛みと長らく付き合ってきた冬弥だからこそ、人の痛みへの干渉も、その場の勢いでではなく、よくよく細部まで考えた上でなされます。これは痛みを知る人間だからこそ可能な対応です。自分の痛みをけっしてあらわにしないこと、他人の痛みに気付きながらもそれをほじくり返しはしないこと。手持ちの苦慮を外部に見せないことこそが、冬弥の真の強さであり真の優しさでもあるのです。
善意の表現の形として明確になっていないものは「優しさ」とは言わない、能動的で実効性のある積極的善行以外「優しさ」とは認めないという価値観の人には、冬弥の優しさはあまりにも不明瞭で、無価値なものに映るかもしれません。しかし、目にも明らかな行為に目にも明らかな効果しか求めないというのは、ほんの目先のことだけにスポットを当てているに過ぎません。意味があるとかないとかそんなの小さいことで、長い目で見たら何がどんな風に影響するかなんて即答できないものです。
同様に、目にも明らかな耳当たりの良い賛辞が真理を表しているかというと、その限りではありません。由綺は冬弥の真の持ち味を知らず、手持ちの評価基準は厳密に、彼の都合の良さだけです。「いつでも何でも私の言うことを聞いてくれる」それだけです。本当に「それだけ」です。であるのに、そんなイエスマンぶりを、由綺はそれはそれは素晴らしいことのように大層褒めちぎります。実際、言葉にしていっぱい褒めてくれるので、それが冬弥の魅力の要で、また由綺の愛情の熱量としても多大であるようにも思えますが、彼女が言っている内容は「自分の思い通りになって嬉しい」一つきりです。冬弥の価値や、彼に対する思い入れなど関係ありません。「自分が」満足する要因かどうかだけです。そんな、大した認識量も持たない人物が強力な発信力を持たされていることで、何が大事なのかがずれて伝わってしまいます。何も知らない人に限って、いかにも判ってる風に語るので、特に重要でもないことが作品でうたわれる主要ファクターなのだと錯覚します。大々的に絶賛されまくるのが価値に乏しい要素でしかないので、その結果、作品的に推されている美学は「その程度でしかない」と思われがちです。由綺が言う、価値とは呼べないレベルのくだらない価値だけが冬弥の持てる価値のすべてであると。そして冬弥は真の価値に目を向けられることなく、存在理由をいぶかしまれ、当然のような侮蔑を受けているという訳です。表立って言われていることなんて、全然参考にならない場合がざらです。逆に、知りえたことがかけがえなく希少な固有価値であれば、言及するのもそれだけ慎重になります。冬弥の真の優しさに直接触れた人は、胸いっぱいになって言葉にならないというか、感動を表す言葉が見つからないと思うんですよね。「優しい」だなんてそんなありきたりな言葉では全然足りません。
冬弥の真の特質としての優しさにはもう一つ、「危うさとしての優しさ」というものがあります。その優しさというのは、もはや病気の類です。本人がいつ限界を迎えるとも知れない危険をはらんだ、とても純粋すぎるものです。冬弥は自分を勘定に入れず、特に見返りも求めません。自己愛の乏しさゆえに、自分がどうなろうと構わないのです。これは冬弥が冬弥である限り、変わることのない性質で、改善される見込みはありません。マイナス思考っていうか、冬弥の精神世界自体がおそらく常に氷点下な環境なので、彼の思考がマイナスな性質を持つのは当たり前っていや当たり前なんです。
冬弥は文字通り、冬を象徴するキャラです。そんな冬弥を受け止める形で隣接し、彼を温める存在というのが、春を象徴するはるかです。冬と春の境目、二人が接触するその境界は不明瞭ですが、それぞれ同じ四季のエレメントとして、お互いがお互いのまま個別に存在します。自他のけじめのつかない二人ですが、けっして混ざりきって己が己である意味を失くすことはありません。冬弥は冬弥として凍てつく冬のまま存在しながら、氷解をもたらす春のはるかと触れあう部分で温められ、一部では性質の変化もありつつ、それでいてすべてが解けきることはなく、全体ではその固有性が際立ちます。冬が冬であるのは、来たるべき春が、冬とは別物であるからこそです。春があるから冬は冬たりえるのです。冬弥とはるかは、よく似たものでありながら、その違いが互いの存在を意義づけ、互いを肯定するのです。ちなみに雪というのは冬ならではの定番要素といえますが、しかしながら冬にとって必ずしも不可欠なものではありません。雪が降ろうが降るまいが、冬は冬として存在します。雪がなくても、冬は当たり前に「冬は冬」なんです。
派生の前後関係から考えて、ちょうど中継ぎに位置する冬弥にも根本的な下地として、生い立ちの面で家庭環境に何らかの重いハンデがあることはほぼ確定的です。でなければ、連綿と続く派生の流れの一部として存在していることに意味がありません。冬弥だけが例外的に、特に環境に問題を持たないというのはどう考えても不自然です。みんな訳ありですからね。冬弥の背景には前後キャラと同程度に、苦しい何かがあるはずなんです。にもかかわらず、それが明らかにならないというのは、それこそがまさに冬弥の強さに他ならないということです。その大きな切り札を自己表現の勝負に持ちこまないっていう。きわめて甚大でドラマチックな前提を持ちながら、全然本題でないうわべのくだらない要素だけで勝負していることになります。価値の大半を占める奥の手を出していないんだからまともな勝負になる訳がありません。
冬弥は、痛ましい背景に起因する自己否定ゆえに極限まで利他性に特化した人物です。その偏った生き方についての是非、悲観的に過ぎる人間性への好き嫌いはあるとしても、そこまで非難されるほど低質な人間ではない、というか本当は、見せしめとしてうってつけのサンドバッグ的に、公然と示し合わせた感じの冷遇を受けていいような人間ではないんです、けっして。問題点である浮気にしたって、そんなの本人はまったく望んでいないことで、本当ならはるかさえ側にいてくれればそれだけでいいって人が、病気でおかしくなっているだけの話ですからね。確かに閉鎖的で一点に固執しがちな難点はあるけれど、世間の総意的に問答無用の袋叩きを受けるには、あまりに清廉すぎる人間です。「こいつは叩くっきゃない」みたいな烙印を押され、誰でもが手軽に見下せる手頃な対象として、思考停止で何かと蔑視し存分に嘲笑って全力で叩くのが正義みたいな目で見られがちですが、はたしてその扱いが本当に妥当なのか、疑問を投じたいと思います。
WAの世界観を気に入ることとはるかを気に入ることは密接にリンクしており、前者が欠落しているのに後者が有効になることはほぼありません。WAの世界観はいまいち好きになれないけどはるかは好き、なんてことはあまり起こりません。はるかが好きであれば確実にWAの世界観自体も魅力的に映っているはずです。WAの中にははるか的でない要素もいくらか含まれますが、はるかに含まれる全要素がWAの根本を指し示すものだからです。そしてまた、はるかは好きで冬弥は嫌い、ということも、まあ完全にない、とは言いきれませんが、あまり起こらないケースです。はるかは冬弥の人間的価値を最も知る人物なので、はるかを好み、彼女の立場に添った見方が可能なのであれば、彼女から見た冬弥がどう映るかも何となく感覚で受け取れるので、はるかの持つ冬弥の人物像上、そこまで彼に否定的な印象を持つことはないはずです。冬弥という一筋縄でない主人公に魅力を感じる上で、はるかに惹かれる前条件は必須なんです。
はるかEDは、共依存の二人が何を高め合うでもなく、ただずるずると変わらないまま癒着し、相互スポイル状態で、無価値な人間であり続けることを許すという、発展性のない結末であるかのように思われがちです。まったくもって時間の無駄に過ぎず、代わり映えもなく、作中での進行は何の意義も持たなかったと。いや?変わってなくなんかないですよ?はるかEDの冬弥が一番人間的に大変化して急成長していますよ?何しろ記憶が戻って、制約のない万全の冬弥に切り替わりますからね。他の冬弥とは一線を画した別物です。遮る覆いが取り除かれるので、それこそはるかの対として遜色ないくらいに、根性以外のパラメータ全項目が爆上がりで跳ね上がっていると思います。本気出した冬弥。ゲーム自体にはパラメータの概念はありませんがね。元々冬弥は境遇にしろ体調にしろ、どうやってもまともには生きられないはずの人が、何とか普通を保って過ごしている人です。日々すごく頑張っている人なんです。冬弥が何の努力もせず無駄に過ごし、自分を甘やかしていると決めつけるのは、認識不足による誤解です。人目につく派手ごとで努力を見せびらかすのではないだけで、当たり前の普通を生きることに精いっぱい努力しています。そんな基礎状態でうまくレールにはまれば、それは一気に躍進しますよ。ただ、冬弥の努力の方向は「普通を維持すること」だけに絞られているので、見た目には結局変化はありません。
一方で、はるかも見えない所で人知れず辛苦に耐えてきた経緯があります。彼女もまた、見た印象と違って、何もせずそぞろに生きている訳じゃないのです。それまではるかに強いてきた状況を自覚し、それでも変わることのなかった彼女の愛情を実感することで、冬弥は人間として一皮むけます。はるかにふさわしい男になれるよう決意を新たにするのは、ごく自然な流れでしょう。本来の支えであり献身対象でもある、かけがえのないはるかをようやく取り戻し、目標がしっかり定まることにより、冬弥の向上意識は根本から強化されます。もう迷いはありません。つまりはやはり、冬弥の行く手にレールがはまって、一気に伸びる条件が揃うということです。
はるかEDはまた、それまで制限のかかっていた二人にとって、本来の自分を取り戻し、そこから「自分」としてごく当たり前の選択を取れるようになった結末です。選択内容の是非ではなく、選択に、自分と向き合った上での本当の意思が当たり前に反映されるようになったこと、自分の考えを主体的に練れることが大事なんです。そんな、当たり前のことが当たり前にできなくなっていた二人が、当たり前を奇跡的に取り戻す話です。手にしたものが、ごく当たり前な「当たり前」なので、話的には一見地味で大した盛り上がりはありませんが、何よりも大切な「当たり前」のあり方というものが描かれています。
冬弥には、幼少期からはるかに重荷を二分してもらってきたという大きな前提があります。こんなのもう、はるかを選ぶしかない、っていうか、はるかしか選ぶ気になれないしはるかしか選ぶつもりもない、はるかを選ぶ以外ありえない、という究極の絶対条件です。単に一緒にいて楽だからという安易な理由だけではなく(それも確かにあるけど)、はるかの人間性に命を懸けて尽くすに相応な価値があることがまず一つ、そんな、側にいることがはばかられるくらいに上等な存在であるはるかが何を思ってか、生まれに是認性を持たない自分でも構わず好きでいてくれる過分な果報がまた一つ、さらにははるかが身内を亡くすことで、傷を負って生まれた自分にもついに命に意義ができた、それは同じく傷ついた彼女を今こそ支え返すためだという高ぶる使命感がとどめの一つとなり、当時冬弥はいよいよ本格的に「はるかのために生きる人生」を生きる理由に定めました。こんな自分がそれでも生まれてきた理由があるなら、はるかが大切な身内を失ったこの時に、その痛みを誰よりも理解し、共有するためだと。そこにちょうどエラーが発生した訳です。誰にも横入りできないがっちり幾重にも結びついた絆、これら全部含めた経緯が真の正式なWAの土台で、その膨大で強力すぎるはるかイメージをそっくりそのままほぼ100%持ち越しての、残りわずか数%のほんの手違いが、由綺への恋です。由綺の場違い感ものすごいです。お前じゃないっていう。何で平気でその役割超過で不相応な立ち位置に居続けられるの?って思います。まあ冬弥が勝手に間違えてるのが悪いってだけなんですけど。
冬弥が由綺に尽くすのに一生懸命で何ら見返りも求めていないのは、はるかという熟成した下地あればこそです。由綺はそこに無関係にただ乗りしているに過ぎません。はるかに向かうべき軌道がそれて、本来の対象とは全然別のものに尽くしているという事態など、冬弥本人まったく想定していません。「はるかのためだけに生きる」と心に決めている冬弥が、それなのに間違えて別の無関係な人間に無駄に全力を注いでいる状態です。はるかの面影という付加価値の方が絶大な効力を持っているだけで、由綺自体には冬弥に献身させるだけの掴みはありません。付加価値がすべてです。そこにあるのは「はるかだから」という絶対的理由一つきりで、そしてその理由はちょうど認識の損傷箇所で冬弥には自覚できないので、取り違えた彼は、何の理由もなく何の意味もなく、ただ無条件にダミーにのめりこんでいるというのが実情です。
冬弥は、目の前の別人を無自覚にはるかに見立てることで、その人物への執着を募らせます。冬弥がことあるごとに主張する「俺、そんな現実と妄想の区別つかないアブナイやつじゃない」を目にするたび、「ええ…」って言葉につまります。じゃないことないですよ。典型症状そのままなのに、どの口が?? っても、病気の人は病気の自覚がないものらしいですし、冬弥の病気が詐病ではなく真性である証左です。冬弥の混同の極みに関して、はるかの言葉を借りるなら「ばかみたいだね」の一言に尽きます。理屈の及ばない現状に「何でこんなことになっちゃったんだろうね」と、答えの期待できない問いを空に向けるしかありません。冬弥が脳関係、記憶関係の冗談を言うと、はるかはきまって愉快そうににこにこ笑いますが、あれって本当は相当胸を引き裂かれる思いで応対しているんだと思います。でも、はるかには気の毒なんですが、悲劇的な運命に胃がきりきり痛むというよりは、あまりにも取り違えのこじれがひどすぎて、逆に笑えてきます。苦行が逆に快感みたいな。ランナーズハイっていうんですか?はるかも「もう笑うしかない」と諦めて、ああやって笑って乗りきっているんでしょうね。
EDテーマに「楽しそうに話をしてくれたあなたが」「私には心から恋しく思えた」とのくだりがありますが、冬弥は日々はるかの目の前で由綺との罪のないよもやま話を何かと盛大にのろける訳ですよ。内容の種類を問わず「由綺がさ、今日も何たらかんたらで」といつものように色々。でもその時の冬弥の目は確かでなく、遠くのはるか向こうに注がれている。どうも自分を脳裏に描いて由綺との話を展開しているらしいと、察しの良いはるかは気付いてしまいます。対面ではけっして聞くことのできない、自分に対する彼のむず痒い本音を、別の女を経由する形で、まざまざ直接知らされることになるという、このもやもや。嬉しいけど、喜べません。遠く分かたれた彼を恋しく思い、「私はここにいるよ」と伝えたくても伝えようがない、このやるせなさ。冬弥が楽しそうであればあるほどはるかは心切なく、けれどもそれは明かせず彼をただ見ていることしかできません。そしてその葛藤を冬弥は何も知らないのです。本当に罪深く、心に痛い構図です。前半歌詞と人物配置を揃えてあるならば、間近で「話している」状況にありながら相手を「恋しく思う」という謎の距離感は、はるか設定ならではです。はるか想定でないと歌詞構造の工夫がまったく意味をなさなくなるので、やはり彼女以外に適用できる歌ではないということです。
冬弥きわめつけの理想像なはるかと常に照らし合わされ、その投射を受けているとなると、とてもじゃないと思うんですが、そこんとこ由綺は自己中で、判断基準はきっかり「自分がどうであるか」だけなので人と自分を比べないし、はるかの価値にも目を向けないので何も気になりません。そもそも由綺は自分以上の存在がいるとは思っておらず、はるかが正式な立ち位置で持つ真ヒロインとしての最重要性なんか知らないし。それでも普通、あんなにも身を削る冬弥に尽くされるとなると正直怖いっていうか、納得のいく理由を知りたいっていうか、自分がその厚遇を受けるにふさわしい存在なのか不安になりそうなものですが、由綺は自分の心境以外には無関心なので冬弥について深く考えることはありません。冬弥の過剰な献身というのが、もしかしたら自分に相応ではないのではないか、と疑問に感じることはありません。「冬弥君はどうしてそんなに私に優しいの?」とは思っているかもしれませんが、冬弥がただ優しいのが嬉しくて、自分には優しくされて当然な値打ちがあるんだという実感を得て、のろけた恋人気分に至るだけです。これは恋人だから当たり前、恋人ならではだよねって。口先では「私なんかがこんなに良くしてもらって本当にいいの?」とか申し訳程度に遠慮する素振りを見せるとは思いますが、その言い口でいて特に気兼ねはなく、まるまる余すことなくありがたく厚意を頂戴します。
冬弥の異常すぎる献身に、本当ならストップをかけなくては危ない状況なのに、由綺は食べ放題とばかりに浅ましく、それを当たり前にしゃぶりつくします。由綺側から何もしなくても冬弥は何かと尽くしてくれるというのが定型になっており、由綺にとっては冬弥が自分に尽くすことはもはや彼の本分で、彼が好きでしている彼の喜びみたいなもので、それこそ「彼の望みが叶うように」、何かにつけ自分に尽くす嬉しいシチュエーションを提供してあげようと、依頼を次々持ちかけてきます。由綺の気持ちとしてはあくまで善意です。自分に尽くすことは冬弥にとって割の良いことだと由綺は思っています。自分は良いことをしていると本気で思っているのです。こんな感じで、冬弥の思いこみの強さと由綺の徹底した自己愛の相乗効果により、冬弥の取り違えは当人たちに感覚としての引っかかりを起こすこともなく、誤認は一向に解けないままになっています。
冬弥は喜び勇んで由綺にひたすら尽くしますが、その献身のほどを強調し、善意を無理やり押しつけることはありません。あくまで由綺が望む通りに従う形です。仕事のことにもとやかく口出しせず立場をわきまえるというのが冬弥独自のスタンスで、普段から我欲を抑え、個人的な願望をあらわにすることはほとんどありません。そんな対応を見るにつけ、由綺からの意思表示はともかく冬弥の本音について、そもそも二人の間で十分なコミュニケーションが取れていないのではないかという素朴な疑問がちらつきます。相互理解に必要な説明が全然足りていないのです。実はこれもまた、はるかとの絆に影響を受けた問題点です。冬弥とはるかの間には、長い付き合いによる甘えというか過信というか「俺たちは言葉を交わさなくても解り合える」という幻想があるので、両者何かと言語による説明を省略します。ただはるかに限って言えば、想定と実態にそこまでのずれはなく大筋では合っていて、実際通じ合えてしまうのでさほど問題にならないんです。はるかとの場合、幻想と現実がたまたま一致するから、たまたま問題ないんです。はるかはそれでも別にいいんですよ。はるかは。ところが由綺ははるかじゃない訳です。はるかじゃないのに、はるか前提の思考が持ちこまれ、言葉を尽くさなければならない場合においても説明が手薄になります。でも冬弥は由綺をはるかだと勘違いしているから、それが何の問題になるのかが判りません。はるかとは解り合えるのが事実だから。問題など起きるはずがないから。それどころか「言葉にしなくても解る」という疎通状況自体をこの上ない喜びに感じてしまうので、ある意味意欲的に言葉を省こうとさえします。由綺がはるかでないことが判らない冬弥には「言葉に出さなくては通じないこともある」というごく当たり前のことが実感しにくいのです。
かつて冬弥は、可能性に満ちたはるかが自分のために歩みを抑えてきたことをずっと気がかりに感じていました。はるかはいつもそうして連れ添ってきました。俺がいなければはるかはもっと自由に上を目指せるのに。その上、冬弥がわがままな束縛心を抑えきれなくなって「ずっと俺の側にいてほしい」とうっかり口を滑らせてしまったなら「うん判った、そうする」と何の未練もなくすべてを捨てて冬弥だけを選ぶ可能性が非常に高い訳です。だからこそそれは禁句で、口が裂けても絶対に言ってはならない。冬弥の自惚れでも何でもなく、それがれっきとしたはるかの本質で、事実そうなってしまうのは間違いありません。だから冬弥の方で自分を律して、はるかの行く道を狭めないように努めなくてはなりませんでした。冬弥が本当に言いたくてたまらない包み隠さぬ本音は、言いたくても絶対に言ってはならない制約をはらんだものなのです。そしてその姿勢は由綺に対しても持ち越されます。そのため「一緒にいたい」という気持ちは人一倍強くて常々ぐちぐちと関連独白をしつこく展開するものの、それを直接口に出して朗々とストレートに本人に伝えることはほとんどありません。内ではほんとごちゃごちゃうるさいけど、反面、外から見える態度というのは至極さらっとしていて何でもないんです。語られる心情と実際の態度との不一致が不思議に思えるくらいに。「もっとはっきり自分の気持ちを表に出せばいいのに」と冬弥のコミュニケーション不足を歯痒く感じる人も多いと思いますが、一応、彼なりの考えあっての訳ありの対応なのです。
ああ、でも由綺ははるかとは全然違いますよ?冬弥は由綺について間違ったはるか説明を堂々とやらかすので、その辺何かと誤解され、上記の性質が由綺所有であるかのように受け取られがちですが、「見れば判る」通り、彼女はいつでも自分主体で、したいことだけにまっしぐらです。冬弥のために自分の道を捨てるなんてことは絶対にしないです。そこは安心して良いです。由綺に関しては、別に冬弥が何か言ったところでさっぱり影響しやしないんだから、干渉をためらわなくても大丈夫なのに、無駄に腰が引けている状態です。冬弥の誤証言のせいで、あたかも由綺が、現在のアイドルとしての立場にそこまで執着を持っていない人物のようにとらえられがちですが、いや全然違いますよ。むしろ逆で、由綺は自分がアイドルであることが何よりも一番で、そのためなら何でもしてみせるって人ですよ。ただしそこには何の理由も目的も理念もなく、単にアイドルとして「見られてる感」を満たしたい、たったそれのみですが。現に「事実」は徹底してそうでしょ?冬弥の「話」に惑わされちゃだめです。勝手な先入観で、由綺がいつやめてもいい腰掛け的な気持ちでアイドル業と向き合っていると考えるのは、何より由綺に対して失礼です。何があったって、由綺自身が自分の積極的意志でアイドル業に見切りをつけない限り、つまり自分にとって何らかの発展が見込めるステップアップでない限り、その気もないのに由綺自ら「やめる」と言い出すことなど絶対にありません。
由綺に対する冬弥独特の対人姿勢、それは由綺本人との間で編み出されたものではなく、全部、はるか想定で構築したはるか対応の行動様式です。由綺がフル稼働している間、基本ほったらかされて冬弥が平気なのも、元々冬弥とはるかの間で、お互いの個別行動には干渉しないまま想いあう一方、一緒にいられる時間に集中してとことん寄り添う形態が普通になっていたからだし、由綺の仕事専念を一番の優先事項にするのも、自分のせいではるかが道を狭めることがないよう配慮してきた過去の姿勢が大元です。由綺への入れこみにひたすら没頭していたいのをぐっとこらえて、普段自分の生活は自分の生活だけで完結するよう律するのも、深刻なはるか依存の問題を自分なりに自覚して、はるか一辺倒にならないよう努めて満遍ないフラットな日常生活を心がけていた痕跡です。たまたまそれらが由綺との関係でも有効に働いているというだけで、全部はるかとの関係が基礎にあります。冬弥の行動モデルは由綺と出会う前から既に確立しており、由綺はたまたまそれにあやかっているだけです。