弥生の難パネルについていくつか。おしゃれ話で、弥生の髪を褒めるという切り出しからの、由綺の代理役としての可否を向こうから訊ねられる流れがあります。冬弥の「髪綺麗ですね」に対し、弥生の「私は由綺さんの代わりになれていますか?」という唐突な返しは、論点が飛躍しすぎていて話の繋がりがおかしいようにも思えますが、裏を整理すれば順を追って話を繋げることができます。少なくとも弥生内部の冬弥認識としては「冬弥の記憶とはるか自身から失われた『ロングヘアイメージだけ』に引きずられて由綺を選んだ」「それだけが条件となっており、それ以外に由綺が冬弥を惹きつける要素はない」と踏んでいます。だからこそ、見た目の上で他にはるかとの共通点が存在しない自分についても、長い髪たったそれだけにそそられて、冬弥が気にかけ言及したのだと弥生は考え、自分の推察を確信します。それならば「『はるかの代理でしかない由綺』の代理」としての機能は、長い髪一つで十分にまかなえているだろうと判断し、その確認のために、あるいは嫌味のつもりで冬弥に問いかけたという訳です。そんな、弥生内部の決めつけを知った日には、冬弥は「俺の由綺への気持ちをばかにしてる」とむくれそうですが、状況証拠的にどう考えても、「髪長い」たった一つっきりで由綺をはるかと取り違えたとしか思えないんですよね、言っちゃ悪いですけど。だって他にどこが似てるってんだよ、はるかと由綺とで。髪長いってだけじゃん。寝ぼけてないでよく確かめろよまじで。
冬弥が由綺に惹かれた理由を「『髪長い』だけ」と厳密に切りつめて限定するのはさすがに言い過ぎで、髪長いだけじゃなく、細身であるとかぼーっとしてるとか、要因の項目自体は多岐にわたりますが、要するに「はるかに背格好と雰囲気が似ている」というその一点のみに影響を受けます。「かつてのはるかに似ている」というたった一つの条件がすべてです。これは言い過ぎでも曲解でも何でもなく、冬弥の設定説明として必須で不可欠な真実です。はるかに関しては、髪についてのパネルで「昔の方が好き」「今の方が好き」の両面から冬弥の本音を読み取ることが可能で、その二つに軽重の差は見られないことから、結論として「はるかは髪が長かろうが短かろうがはるか自体が好き」ということになります。けっして「髪長い」自体は冬弥の好みとして確定しておらず、また彼の選択や希求に直接影響を及ぼすものではありません。ただ、冬弥にとって失ったものがあまりにも大きすぎたので、結果的に、その「遺失物」に対し無自覚に固執してやまない状態になっています。数あるはるか要素のうち「髪長い」だけが本人から欠けることで、とりわけ偏重的に、その要素に冬弥は惹かれることになります。冬弥内部からとはるか自身からの両方で失われた「ロングヘアイメージ」は、現に失われたものであるからこそ特定は困難で、またはるかの見た目が激変しているためにイメージ源である彼女に行き着くことも困難です。そして「かつてのはるかの姿」は、そこだけ切り抜かれたようにすっぽりと冬弥の記憶から消えているのか、「失ったもののアウトライン」としては明瞭すぎたので、それが有力な手がかりとなってしまった。手元に残された抜け跡から「失った何か」を探し出すしかなかった冬弥は、とちって、姿形のよく似た別人をそこに当てはめてしまった。まったくの別物なのに、それがたまたま誤差として無視できるくらい理論値と適合してしまい、また、ほぼ隙間のない形で枠の中へと無理やりぎっちり押しこんでしまったために、どうにも抜けなくなってしまった。そんな、誤って固定されてしまったパズル片が由綺だった、という訳です。
「失われた」ロングヘアイメージを「取り戻したい」冬弥は、だからこそロングヘアイメージ「ただ一つ」に影響され、「失くした」何かを求めます。そして「失われている」からこそ、彼には焦がれの決定的な原因が自覚できず、何を探しているのかも判らず、また自分が大切な何かを探している状況そのものを意識することすらできません。冬弥としては、普通に由綺と出会って普通に由綺本人の性質こそに惹かれ普通に恋に落ちたとしか感じられず、裏側で展開している複雑怪奇な真事情は認識できません。由綺が気になった根本の理由が「髪長い」以外には何も存在しないだなんて、冬弥本人には全然。さっきは頭ごなしに冬弥を罵倒しましたが、いやはや正答にたどりつくのが無理ゲーすぎて、彼のうっかりな見間違えだけを糾弾するのは酷というものでしょう。確認不足を正そうにも、彼には確認の取りようがないのですから。冬弥にとって、正答のはるかを見つけづらい条件が加算されまくっていて、こんなじゃ間違えても仕方ない、間違うなという方が無茶な注文だと同情してしまいます。
さて「髪長い」一つで由綺に幻惑されたという、どうしようもない裏の真実を知らない冬弥は、知らないからこそいたって本気で由綺への偽らない誠意を語ります。弥生との密会が定着し、のめない条件をのんでもなお、心までは由綺を裏切らないと訴えます。「由綺に対する気持ちは変わっていない」「由綺と別れるなんて考えられない」と。そして、弥生とどんなに関係を重ねても、自分はどのみち「由綺のところに戻ってしまう」と確信しています。弥生編通して「いくら離れていても、一緒の時間を過ごせなくても、それでも由綺を愛し続けていられる」というのが冬弥の基本理念です。トータルの作品内容として、冬弥が由綺を裏切る実例に事欠かない以上、いくら由綺への変わらぬ愛をうたおうともすべてがむなしい虚言に変容し、彼に割り当てられる人物像というのは誠意の伴わない口だけ男みたいになっていて、その発言には少しの信用も持たれていませんが、本人としては至極大真面目に自分の本気を誓っていて、そしてそれは彼の中では確かな真実で、そこに関しては嘘をついている訳ではないようです。それなのに、その基本方針が作品通しての冬弥の行動大半と噛み合わないのはなぜなのか?それは、冬弥が絶対としている由綺へのスタンス、これらはすべて、はるかを前提とした話だからです。冬弥には、どんなに離れていてもはるかはいつも俺を想ってくれるし、俺もいつでもはるかを想っていられるという、絶対の安心と絶対の自信があります。これはけっしてゆるがない不動の心情です。やつらの絆は何にも比べられないくらいに最高の強度を誇ります。そしてこれははるかだけが持つ土台であって、由綺の土台ではなく、また由綺に土台はありません。誤って、土台なしの由綺が最高強度のはるかの土台に安置され、その土台由来の強靭な信念を冬弥から一身に浴びているだけです。有効なのは「はるかに対する誓い」だけであって、それは、由綺との関係においては何の効力も持ちません。あるのはフィールド依存のまやかしだけです。
冬弥は自分の本心として、ひたすらまっすぐに「気持ちは変わらない」「別れたくない」と語ります。その心は不変らしく、どんなに道に迷っても、たとえ道を誤ったとしても「最終的には元の場所に戻ってしまう」とも断言しています。冬弥はこれらの主張を由綺を対象にして展開しますが、すべてはピースのはめ間違い、本当ははるかを相手とした話です。冬弥にとっての回帰地点は由綺ではなく、ただ一人はるかだけです。「はるかへの気持ちが変わることはない」「はるかと離れてしまうことに耐えられない」「何があっても、それこそ記憶を失くしてしまっても、俺ははるかを求めて必ず彼女のもとへ帰る」と、無自覚に言い切っているのです。先の誓いを由綺へのものととらえていたらそれは、大半の展開で破られる口先だけの綺麗ごとでしかありませんが、はるかへのものと考えれば、作品全体で隅々まで張りめぐらされる徹底した大前提として、精緻かつ堅固に成り立ちます。「元通りに、はるかのもとへと戻る」というのが、自分の事情を知覚できない冬弥が無意識に願い、そして果たそうとしている唯一の命題です。
パネルで、由綺代理としての満足度を弥生に問われ、弁解がましい反論として「由綺への気持ちは変わってない」と愛情宣誓をぐだぐだ始めようとする冬弥に向けて、弥生は「判ってます」と容赦なくカットします。一見、冬弥が必死に主張するような誠意は彼の実質として確かではないと見下し、発言そのものを無価値なざれごとととらえて聞く耳を持っていないかのようにも取れますが、弥生の台詞の本意は「(それははるかさんとの話ですね)、判ります」、これに尽きます。弥生は、冬弥本人以上に彼のことを把握し、理解しているので、冬弥本人が判っていないことを第三者の弥生が判っているというねじれが生じます。冬弥の、はるかへの気持ちが今なおまったく変わらないことは、本人に説明されなくても判ります。心に決めた人が圧倒的すぎて、心変わりなど理論上不可能なのは弥生も同じなので。冬弥の口から由綺に対する不変の気持ちが数々語られるとしても、それらは全部、本当ははるかについての信念を指したものです。弥生は、表向きのぞんざい気味な態度とは裏腹に、冬弥の誠意のありようを何一つ疑問視してはおらず、むしろ確信し、全面的に承認してくれています。ただ、心を寄せる対象というのが由綺ではなくはるかの方であるという「見えない真実」は、弥生の発言の「見えない注釈」としてしか存在できないので、弥生の認識の向かう先がまったく別地点にあることは、外野からは読み取りづらい状態になっています。
弥生編通して冬弥は何かにつけ、暫定相手の弥生に向けて「俺は必ず由綺のところに戻る」と断りを入れ続けますが、弥生は百も承知とばかりに受け流します。「現状、本意に反しているあなたがはるかさんのもとへ戻ろうとする反動、それは確かで、その『気持ちだけ』はきっと真実なのでしょうね」とでも思っているのでしょう。互いの指定先の食い違いをそのままに、冬弥渾身の由綺話を話半分に、ただし話の筋自体は真面目に聞き入れています。間違っているけど嘘は言っていないので。由綺への愛情には何の根拠も確実性もありませんが、はるかへの愛情はひたすら一直線で真剣で、信用できる純正ものです。しかし、そんな冬弥の強い信念とは裏腹に、真実だけをただ一つ探し当て、それのみを限定して達成するというのは実質困難です。冬弥が心からはるかを探し求めているとしても、必ずしもはるかに的中して見つけ出せるとは限らないからです。由綺からそれて手にしたものもまた間違い、つまり間違いに間違いを重ねかねない重大な落とし穴があります。はるかへの愛情のあり方も構造的に堅牢ですが、そのはるかにたどりつけない仕組みもまた構造的に堅牢です。はるかはいつでも普通に当たり前にその辺にいるので、彼女こそが切実に探し求める「失った何か」だとはなかなか考え及ぶものではありません。古典的な話ですけど、幸せの青い鳥は探し回るまでもなく元々手元にいた、でもその事実に気付くのは容易でないということでしょうか。まあ、青い猫か。はるか何でもかんでもポケットに仕込んでいて、収納的にどう考えてもそこが異空間に通じているとしか思えないです。脱線修正。つまるところ、冬弥はどんなに回り道をしたとしても必ずはるかの所へ戻ってくるというのが、彼に定められた運命、確定的な結論事項で、けっして流れに背くことはできません。それ以前に、その結末は彼自身の強い望みでもあるので逆らう意味もありません。ただ、そこに至るまでの間には、本来なら彼が望むはずのない道筋や道状態もざらにあり、時として、無理にでもそこを行くしかない状況に陥る場合もあるということです。
単純には目的地に達せない制限こそあるものの、冬弥が自分の本気を貫く限り、彼の「元に戻る」方向の作用はいずれ確実に生じてしまいます。それは「弥生から由綺へ」ではなく「由綺からはるかへ」の回帰であり、また肝心の回帰地点のはるかがunknownとなっていることから、冬弥は帰還場所を特定できず、眠れる帰巣本能だけを頼りにさまようしかありません。そんな不安定な状態でただ一つ確かなのは、冬弥が自然と必ず由綺から離れていってしまうということです。ここで筋が通らなくなるのは、弥生が最終的に「冬弥を『由綺のもとに』帰す」という始末をつけることです。冬弥がはるかのもとに戻るというのが絶対不可避の流れで、またそもそも正規の本流であるなら、余計な障害物でせき止める必要はありません。弥生は、冬弥がはるかへと戻る結末が確定的で正当だと判っていながら、無駄手間にも、わざわざそれに反する状況を挿しこみます。背景としての心理が「冬弥は元に戻りたい」「戻ればはるかは救われる」「弥生ははるかの幸せが第一」であるなら、何はなくとも、順路通りに冬弥がはるかの所に戻るのをそのまま防衛しきればいい訳で、横入りさせる意味などどこにもないはずなのにです。はるかの苦境を間近で見てきて、心を痛める弥生ならなおのこと。それに、はるかの所に戻りたがっている冬弥を、しいて由綺に繋ぎ止めようとするなど無意味な行為です。無理に縛りつけたって冬弥はいずれはるかの所に戻ります。今すぐにではなくても、いつか必ずです。彼の心をよそに縛ることはできません。このように、由綺とは離れることが冬弥にとって自然の流れなのに、その摂理に逆らってまで弥生が不要な状況を仕組むのはなぜなのか。それは背景としてもう一つ、「由綺は何も知らない」があるからです。
冬弥には色々複雑な致し方ない事情があって、たとえやりきれない別れに行き着くとしても、それはけっして彼の不徳のいたす所ではないのだけど、由綺にとってはただ単に「何の理由もなく」「訳も判らず」切られる状態になります。切迫した心理状態でなされる選択からでは、由綺本人に対して公正な処断は下せません。つまり、現行の期間では、正当な形でことを収めることはできないのです。由綺が冬弥の事情とは無関係で、何も判らないのなら判らないなりに、その条件をリセットして無効化した状態で彼女との関係を見直さないことには、由綺についての裁定の場は整いません。作品期間を何事もなく切り抜けて、冬弥が制約と焦りから解放され、由綺がはるかによる加算を失うことで初めて、冬弥は何の付加価値もついていないそのままの由綺本人と向き合える訳です。厳密に本人だけに限定された由綺を見て、そして心を落ち着け冷静に考えた上で「どうも何かが違う」と感じるのなら、それは冬弥の心次第です。弥生は、最終結論の是非にかかわらず、冬弥のためにも由綺のためにも正常な状態での審理を願い、その状況を設けるべく、ひとまず現状維持に努めたということです。
加算のなくなった由綺がはるかに敵う可能性など万に一つもなくなるので、結果的には、冬弥がはるかへと落ち着く未来は確定したも同然で、万事が滞りなく、収まるべき所に収まってゆくでしょう。見切りをつけられてしまう由綺側の尊厳は一体どうしてくれるという話になりますが、まずもって「由綺は何も知らない」のです。由綺にとっての冬弥は「私の応援」以外の何の役割も持っていません。由綺は冬弥の持つ彼自身の価値を何一つ知りません。なので彼そのものに執着する理由はどこにもなく、自分のために有効なメリットが頭打ちでその先を見いだせないなら、いずれ由綺の方から先に冬弥への興味を失うことでしょう。その順番でなら、由綺の気持ちを害することはないので無事ご破算になります。それが由綺たっての望みなら何も問題は起きません。その条件さえ通過すれば「元に戻りたい冬弥」「ことを荒立てたくないはるか」「はるかを救いたい弥生」、全員の望みが順次に叶います。フルコンプリートです。
もういっちょ難パネル、恋愛話。そこで弥生は「私はこれまで、男性の方を愛したことはありません」と宣言します。そして「決まり事のように恋愛をして幸福を得るなど、下らないシステム」だとぶった切ります。はいはい、強がり強がり。いつもの「言ってるだけ」です。ステレオタイプな男性憎悪と、押しつけな社会通念への反抗がそう言わせているようにしか見えませんが、背景を知ってしまえば、必死に自分に言い聞かせているのが明白です。表面上は「弥生の指向として男性は恋愛対象にならない」かのような言い回しがされていますが、実際にはその逆で「弥生が恋愛対象とするのはただ一人、かつて関係を持った男性だけ」というのが真実です。めちゃくちゃ条件のいい男を捕まえておいて「大したことではございません、興味ありませんわあ~」とか平然と抜かしていると思うと非難轟々ものです。気のないふりして何気に全力ひけらかし、実に微笑ましい限り。苦虫噛み潰したような顔で発露を必死に抑えているご様子。男一人にすっかりのぼせあがっちゃってまあ。でも、それをねじ曲げてでも全否定しないことには、つまりその男性を「なかったこと」にしてカウントせず、意識から除外し、ゼロから仕切り直して考えないことには、とてもやっていけないからそうしているだけです。
ここで今一度、クライマックスでの弥生の過去話を、直の発言に即して補足的に要約しつつ整理するとしましょう。彼と結ばれるまでは大切に自分の体を守っていた弥生が、粛々と彼に体を捧げた後、なぜか彼との別れを経て一転、捨て鉢なのか何なのか、特に懇意でもない複数の女性と立ち替わりに遊び半分で乱れるまでに自分を粗末に扱うようになった。彼がいた時と彼が去った後とで、そこを明確な境として、弥生の自身への尊重度がまるっきり違います。そこで意識が完全に切り替わっています。弥生が壊れた決定的な転換点は、まさにそこなのです。作中でもどことなく壊れていることが示唆される弥生、それは何らかの「結果」で、さも「壊れる前」があったかのように文章展開されますが、肝心の「壊れた瞬間」、そしてその「引き金」については、脚本的に、一切直接の表現としては記載されません。実際に語られる言葉の、うろんな繋がりの機微から間接的に導き出すしかありません。ことと次第を並べて、落ち着いて見比べれば、「境界」として、一つの解へとたどりつくはずです。
自分に熱い想いを寄せていたはずの男性に、とうとう根負けしてガードを軟化し誘いに応えたそのタイミングで手のひら返し、相手に一方的に失望され、こっぴどくふられて裏切られたというんで、弥生は現在あんな風に壊れて男性不信になっているかのように取られがちですが、その割にはいまだに「彼から寄せられた愛情」というのは彼女の中で不変らしく、それ自体に関しての否定はされません。それどころか確信して自負しているくらいです。結論から言うと、彼の誠意は少しも変わることなく、悪い所なんて何一つなかった。それこそ最後の最後まで。だからこそ弥生は壊れないではいられなかった。人並みに恋をしたばかりに、ていうか考えられる限り最高の恋をしたばかりに、その心のままでは、その恋を失う痛みを受け入れることは到底できなかった。自己防衛的に心の回路を壊して切り離し、感覚を麻痺させ、痛みを消すことでしか、彼との別れを受け止めることができなかった。さらには、心を守るためのやむを得ない防御反応であったとはいえ、感情の鈍麻により彼の死をちっとも悲しむことができない自分に直面し、弥生は自分の愛情というものに自信を持てなくなってしまった。そういう痛ましい顛末を経ての「決まり事としての恋愛に幸福を求めるのは下らない」主張と思えば、弥生の極論も随分と印象が変わってくると思います。
愛する人もなしに、心を打ちのめされた時に何を支えにするのかな?みたいなことを冬弥は語りますが、人を愛することそれ自体が逆に心に激痛を生む原因となった弥生には、それを問うたところで話は平行線です。なまじ人を愛したばかりに心を打ちのめされたのだから、何を支えにするもありません。いわゆる恋愛というものにとらわれさえしなければ、心乱れることなく平常でいられたと考えるなら、恋愛そのものをばっさり切り捨てるのも当然の心理です。もっとも、強がりでそう言い張っているだけで、本心ではその場しのぎのごまかしに過ぎないと自覚していると思いますが。恋愛にとんと縁がないから、そんなものに価値はないと馬鹿にしているのではなく、過去どっぷりはまった恋愛の重みで潰されそうなので、その真実から目を背けているだけです。本格的にこじらせた弥生の頑固な恋愛観、認識前後での主旨の総入れ替えな大転換を味わうのも乙なものかと思います。
「男性を愛したことはない」「恋愛など下らない」と語る一方で弥生は、冷えきった自分の心情の、たった一つの例外として「由綺を愛している」ことをとつとつと強調します。表面上は「これまで人を愛したことのない弥生が見つけた唯一の対象、それが由綺」かのように思考誘導されますが、謎を解いてしまえば全然そんな話ではなく、あくまで、過去に失った愛を一番の前提とした二次的な感情に過ぎません。しかし二次的とはいえそれは軽いものではなく、過去に負った傷を忘れさせるに十分な鎮痛効果を持った、弥生にとっての救いの特効薬と言えます。この時、弥生が口にする「由綺さん」が由綺本人を示すのか、はたまた由綺の名を借りたはるかを指しているのかは判別できませんが、はるかのダミーである由綺に尽くすことでとりあえずの充足が得られ、また現在苦境に置かれているはるか本人を裏で全面的に包容することで、自分にしかできない役割への充実感が得られます。故人の立ち位置を受け継いではるかを見守っていると思えば、ダミーへの通常業務にも、はるか本人が抱える試練への特別補佐にも熱が入ります。こうして使命感を高めることにより、時間配分として感傷に浸る暇というのを実質的に潰し、後回しにできます。苦悩する間もないほど諸事に埋もれていたら、苦悩する状態にまで思いつめることがなくなるという理屈です。過去を考えないようにするために、今、目の前にある使命に向き合うという条件を選んで全力を注いでいます。そして、過去の痛みから注意をそらし心を安んじることが献身の決め手ということはつまり、痛みが存在することが逆に、弥生に熱心な行動を取らせる大元の原動力になっていることになります。弥生が自分の傷を何とか紛らわそうと奮起して活動するためには、結局は、それが癒えないことが当然の必須条件なのです。痛みを伴い辛くとも、たとえそれから逃れようと思考を遮っても、故人への想いは不変です。そうした真の事情ありきで、付随的に、弥生の「由綺への愛情」は構造上、非常に強固に成り立っており、何を犠牲にしてでも厳守される、一番の優先事項となっています。「『真の』一番」は白塗りにされているため、見せかけの由綺が「『便宜上の』一番」に据えられ、そしてそこだけに集中する形で弥生の意欲が向けられるという仕組みです。