WAという物語は、由綺からの一途な愛が不動のベースとして置かれているとの信用を元に読まれていきますが、これまで述べたように、それは呼びこみのために打ち出された信頼性のない誤情報です。また恋人たちが結ばれた由綺ED後ですら由綺の恋情が継続するとは限りません。「(初めてが)冬弥君でよかったと思う」という風なことを言っているということはつまり、由綺としては、現時点ではそう思っていても以降の気持ちは定まらないということです。由綺の言葉のどこがどうおかしいのか的確に指摘できませんが、全体に漂うニュアンスがどこかすんなり受け取れない言い方です。特に望んだ展開ではなく、婉曲的で実感が伴っていないというか。実際、他に言いようはないので仕方ないですが、それでももっと別な言い方があったんじゃないかと思います。「でよかった」というのは「でなくても別によかった」とも等価で「どっちでもよかったけど、とりあえずそれでよかった」といったおざなりな印象を受けます。冬弥と英二の選択において、あるいは冬弥が必要か不要かの二択において、特に強い意志を持たず惰性で何となくたどりついた結果のようです。由綺の意識に特に問題がないのなら、順当でも陳腐でもいいから、ありきたりで当たり障りのない台詞を真心こめて言わせればいいはずの所、あえて小骨の刺さる表現を由綺にあてているのは、その引っかかる小骨が主旨だからだと思います。先にも述べましたが、由綺の重要台詞は2パターンの解釈が可能です。一方は愛に満ちた健気なもの、もう一方は自己愛に満ちた薄情なものです。普通であれば前者と受け取りますが、後者の意味でも通じる以上、本当の意味を持たされているのは後者だと思います。特に特別な意味がないのなら、台詞の意味を二重にする意味がありませんからね。わざわざ邪推を招く表現を用いているのは、それが邪推でも何でもなく、意図する解答として仕込まれているからだと思います。由綺は、冬弥こそを求め、そして欲したのではなく、ただ単に、自分の気持ちを無視した英二の接近に混乱した心を静めるため、精神安定剤として頓服的に冬弥を受け入れただけでしょう。冬弥はいつでも言いなりで、由綺を気分よく満たしてくれますから。英二にくすぐられつつも踏みにじられた自尊心を回復できます。冬弥への想いを募らせたからではなく、由綺自身が自分を持て余し、感情をぶつけるあてがないので、何とかしてほしくて冬弥を呼びつけただけです。その思考は台詞や態度でも露骨で、由綺は何も取り繕っておらず、特に本音を隠そうとはしていません。きわめて俗っぽくいたって正直です。全部が全部自分のためです。
冬弥というのは、由綺が好きな時に、好きなだけ、好きなように自由に呼び出して願望を満たすのにちょうどいい道具です。由綺にとっては彼に人格は必要なく、ただ自分のために存在し行動してくれればそれでいい、専用の便利アイテムです。冬弥君の愛情も、由綺がそうと認識すればそこに確かにあるのです。冬弥本人がどういう性格で、どういう考え方をするのか等、相手の人間性にはまったく興味ありません。冬弥を知ろうとも思いません。由綺は自分の欲望に忠実です。ただし冬弥という媒体を通さなければその欲望は実現しないので、見かけの上では冬弥を必要とし、重用します。由綺は日頃から冬弥をとても大切に想っていると表明し、態度でも存分に強調します。しかしその実、由綺は自分の欲だけを重んじ、それに応える冬弥の存在自体はそのためだけのものと軽んじています。けれど冬弥側ではそんな裏事情を知覚するのは難しいので、言葉通り、自分は由綺に大切に想われていると実感しています。また由綺の方も我欲で冬弥を使っている自覚はなく、まず自分がわがままであること自体知らないので、何の疑問もなく、一点の曇りもない冬弥君への純粋な愛情を自負しています。
冬弥は何かと由綺に温かみを感じますが、綿毛のような柔らかさとぬくもりは見た目だけで、雪は事実、冷たいのです。あまりの冷たさに、触れた手がかじかんで熱を持ち、自分の体温を熱く感じるだけで、本当は最初から雪は温かくなどなかったのです。当たり前の話です。また由綺は努力家で、自分のための自分磨きの努力は惜しみませんが、冬弥等、他人のために努力することはありません。一切です。誰かのために自分を変えようとすることもありません。チョコ作りのように、一見、相手のためを想った行動でも、それは単に時間をおしてでも「自分が」チョコを作りたいという由綺の意志だし、あらゆるパターンで「誰々のために何々をしたい」と口では言っていても、それが他人を対象としている限り、実際に行動に移されることはほぼなく、実現することはありません。いつも口先だけです。ちなみに常々語る「部屋の掃除をしなきゃ」という願いは自分のためのものですが、実際には由綺は別に掃除したい訳ではないので、これまた口だけで、いつまでたっても掃除することはありません。したくないことは何かと理由をつけて、絶対にしません。自分がしたくて自分が満足することだけ、有言実行、初志貫徹で、どんなに忙しくてもちゃんと必ず遂行するのです。困難なことや面倒なことでも、由綺がしたいのであれば果敢に着手するので、そこが誤解されやすい所で、由綺がいつでも物事に気持ちよく取り組むからといって何でも快くこなすとは限りません。由綺がすることは皆、由綺が選んだことだけなので、結果、由綺の行動はすべて意欲に満ちているというだけです。冬弥は「由綺はいつも約束を守ってくれる」と言いますが、それらはすべて由綺の方から言い出した約束で、単に彼女は自分の願いを自分で叶えているに過ぎません。冬弥が一切自分の要望を口にしないので、逆の状態で由綺がどんな対応をするかは明確ではありませんが、少なくとも、事実として二人の約束パターンは必ず一方的です。ちなみに約束というほどのものではありませんが、冒頭で、冬弥の方が「明日は同じ職場(TV局でバイト)」と伝えた翌日、TV局で会った由綺は「今日ここでバイトだったんだ」とまったく予定を知らなかった様子で話します。自分の立てた約束以外は彼女の頭には残らないのです。
冬弥と由綺はぱっと見の外見や雰囲気こそ似ているけれども、自意識や対人姿勢は正反対です。それでいて、互いを媒体として全然違う存在を相手に映し見ているという点で共通します。二人はよく似て真逆、対称的な鏡写しの関係です。冬弥が由綺に映るはるかの面影を愛するように、由綺もまた、おそらくは冬弥の姿が自分に似ているという理由で、男版由綺として理想の男性像を求め、冬弥を媒体に鏡写しの自分を愛しているのだと思います。冬弥も由綺も求める幻を愛して互いを見ていないので、WA本編があの有様なのは必然と言えます。ですが彼らにはその自覚がなく互いに想い合っていると思いこんでいるので、多くの流れに戸惑うことになります。すれ違いを嘆くも何も、二人の気持ちが合っていないのは初めからなので、別に不思議でも何でもないのです。なるべくしてなった展開です。
作品の構造上、どうしても冬弥の方の非だけが目につき、槍玉にあがりますが、けっして彼だけが悪い訳ではなく、由綺の方にも見過ごせない原因があります。どちらか一方だけが悪いなんて偏った話、めったにあるものではありません。両成敗です。冬弥は、自らを顧みないのに自分のほんの少しの利己心を拡大してほじくりだしては過度に省み、他人のことなんかこれっぽっちも思いやらない由綺を「いつでも他人を優先する」と錯覚して大絶賛するので埒があきません。逆ですよ逆、バイアスがかかって人物認識が根本的におかしいです。冬弥は際限なく自分を責め通し、自分を悪しざまに言うことしかしないから、そのまま鵜呑みにし、彼の言い分の流れで物語を追ってしまいがちですが、読み手の方で事情を察して言い分を割り引いて、ゆがみを補正してあげないと道理に合わず、正常な状況把握はできません。浮気するのは確かに冬弥が100%悪いですが、二人の破局それ自体については、冬弥だけに原因があるとは言いきれません。由綺は相手を尊重するという当たり前のことがまったくできていないので、人並みに自尊心がある普通の人なら愛想を尽かしてすぐに別れている所です。冬弥だから続いたようなもので、普通なら即刻由綺への対応に音を上げていたはずです。その点、冬弥は虐げられ蔑まれるのが好きというか、負担を強いられることを好むマゾ傾向があるので、奉仕を強要されても特に苦にせず、喜んで従います。身を粉にして尽くしたい冬弥と尽くされて当然の由綺とで、利が一致します。冬弥と由綺の関係のみに限定すれば、二人の歯車はうまく噛み合い相性は良いのですが、そもそも冬弥は人物を見誤って由綺を愛しているので、そこから関係はきしみだします。冬弥は相手を過度に尊重しているものの、肝心の相手を間違えていますから。
冬弥がはるか命なのは、初期設定で基本設定で固定設定なので、これは絶対に変わりようがなく、多くの混迷展開に影響しますが、由綺EDに限り、悲しいことに彼は初期化されて元の冬弥ではなくなり、はるかを知らない別人の冬弥になります。いわゆる「冬弥らしさ」というのははるかがいてこそ成り立つものが多く、はるかを失えば、彼はもう冬弥とは言えません。冬弥がはるかへの依存を失くすということは、彼のアイデンティティの喪失にも等しく、はるかそのものを失ったとしたら冬弥は冬弥のままではいられません。そして一個人の藤井冬弥ではなくなり、後に残るのは新しく生まれ変わった「冬弥君」、つまり由綺のご都合の集合体だけです。大切な何かを失った冬弥はそのことに気付かないまま、由綺のためだけに生きる由綺理想の恋人となるのです。一方的に食い物にされ収奪されるという問題はありますが、はるかの存在抹消という特例を認めれば、冬弥と由綺は、それはそれで両者の希望を満たしあう、お似合いのでこぼこカップルと言えるのではないでしょうか。冬弥の心身がもつ限りは。
冬弥というアイテムを使うにあたって、いたわり?ねぎらい?というか、由綺が彼を使い続けるための相応のメンテナンス?ケア?をしているとは到底思えません。元より使い続けるという意識はなく使い倒し上等でしょう。現時点では由綺の器が小さいこともあり、要求も小規模で他愛ないものだらけで、その点ではまだ助かっていますが、この先、由綺が増長して要求レベルがさらに高まれば、とてもじゃないけど冬弥では要求に応えられなくなります。そうなれば用無しで多分あっさりポイだと思います。そうでなくても、おぼつかない自己メンテ頼みの冬弥が空回って不具合を起こしたとして、それに由綺がまともに対処するか疑問です。やっぱり使い捨てだと思います。ただし、何度も言いますが由綺は視野が狭いため、冬弥が消耗したその先まで見通せておらず、いつまでも存分に冬弥を使えると思っています。冬弥はこれからも自分の願いを叶えてくれるし、冬弥との関係は将来もずっと今まで通りに続くものと純粋に信じきっています。自分が冬弥を捨てるだなんて考えたこともないでしょう。捨てる時点になって捨てようと考えるだけのことです。そして思い立ったら即処分です。由綺が愛しているのは「冬弥君」であって冬弥ではありませんから。冬弥の無力があまりにも度重なれば、由綺は幻滅し「冬弥君」ともかけ離れるので、決断は思い切りが良いでしょう。すべては由綺の信じる幻想の強度次第です。それに、誰にでも優しいだけの「冬弥君」は、由綺が子供のうちしか好かれません。そして子供はすぐに大人になるものです。由綺が、大好きだった冬弥を簡単に放ってしまうのは必定です。熱愛関係が続くためには由綺の幼児性の存続が必須条件となりますが、それでは何の発展性も将来性もなく、冬弥という恋人に存在価値があるとは言えません。さて、冬弥の耐用期間についてですが、現時点では一応、冬弥がたびたび消耗しても、逐一はるかが介添えして心身を回復してくれるので決定的な局面には至りません。ちなみにはるかは自己回復もするのでほぼ無尽蔵です。冬弥と由綺の交際ははるかの陰なる支えによって維持されています。何とも不健全な構図ですね。さらに由綺EDではそんな奥の手のはずのはるかも心神喪失してまともに機能しなくなるので、順次不幸が連鎖していきます。はるかを壊して、冬弥を壊して、そして決別。それでも由綺は悪びれることなく、以降も冬弥君との美しい過ぎ去った想い出の数々を糧に、自分の道を前向きに、一生懸命に邁進していくことでしょう。弱肉強食、自己中最強、ポジティブは無敵です。
由綺に常々、容量と持続性を度外視した献身を強いられる冬弥ですが、それでなくても彼は過去に大病を患った疑惑があり、体調維持にすこぶる不安があります。由綺はそれを知らないからこそ常にいきなりで無理難題を持ちかけるのでしょうが、まず冬弥を知ろうともしないので改善の見込みはありません。出方によっては、感動の支え合いをテーマにした涙の長編大作の絶対ヒロインになれたかもしれないのに、由綺は本当に自分だけで、自分ヒロインの話にしか身を置かないので、みすみす高評価を得るチャンスを逃しています。自分がアイドルであることだけが重要であって、添え物に過ぎない冬弥の隠し設定なんて完全に無駄要素で、一瞥もしません。自分以外の見所は必要ないのです。作中冬弥は、由綺は多忙で時間が取れないから、もし自分が倒れても彼女は看病「したくてもできない」んだと主張しますが、それは冬弥の希望的観測に過ぎず、時間があっても初めから由綺は看病なんかしないと思います。由綺も、もしものことがあっても自分は看病「してあげられそうもない」からと、さもできることなら自分が看病するつもりでいるかのように言いますが、言うだけでその気はさらさらないと思います。
脳の病気の予後が悪く、仮に後遺症が悪化して冬弥が再び倒れたとして、由綺の場合、その時になって「私なんかじゃ、冬弥君の苦しみに連れ添えるはずないもの」等々、自分を下げるようなお綺麗な口上で、その実、うまいこと都合よく冬弥を切り離す姿しか思い浮かびません。自分が希望しないことは、相手を言い訳にして、絶対に受け付けません。自分に役立てることだけが冬弥の存在価値で、行動不能になったその時点で彼はただのお荷物です。そんなの抱える気は由綺にはありません。由綺のために使われるべき冬弥が、逆に由綺の手を煩わせるとなれば、何のためにいるのかという話です。いる意味がありません。由綺は不要なものを必要としません。由綺が冬弥を切るとして、それは厳密には拒否や排除といった能動的な意志ではなく、感情が無に帰して繋がりが自動的に断たれ、結果的に何の感慨もなく断絶する形です。ただし、言葉の上では相手を思いやるがゆえのような切り出し方となります。それは故意でも悪意でもなく、無意識の純真な言葉指定です。相手が好みそうな言動の癖を自然と身につけ、気負いもためらいもなくまっすぐ口にできるのは、もう、由綺固有の一種の才能です。アイドルになるために育まれたような特性で、魔性の女と言ってもいいくらいです。由綺は恋のおいしいとこだけ頂きたい人なので、自分の苦労は分け与えても、冬弥側の苦労はいらないので共有もしません。結局はるかが冬弥を介護する形に落ち着くのは目に見えています。病気に限らず健康体においても、冬弥がどんなルートをたどっても、のちに相手の女性に見限られて無情に捨てられ、最終的には必ずはるかの元に戻ってくるというのが正史のような気がするのは私だけですか?運命はがっちりと定まっていそうです。由綺EDで両者壊れた後も、そこから再び一から関係を築き始め、由綺からの三くだり半の後、のちに冬弥とはるかは結局結ばれ、時を越えて記憶も正気も全部取り戻す大団円が待っているのかもしれません。それでこそ苦難と純愛が報われる展開で、カタルシスを得られるというものです。
冬弥が由綺の望みに応えられなくても、由綺は特に気を悪くする様子もなく「仕方ないよね」と受け入れてくれますが、別にそれでよしとしている訳ではありません。「自分が」無理を言ったことではなく、「冬弥に」無理なことを振ったことを反省しているだけで、着々と「冬弥君ポイント」は下がっています。口では「ごめんね無理を言って」と恐縮していても、本当は「冬弥君にはどうせ無理だったよね」という侮蔑と落胆、納得の意味です。また複数人で話をしている時に、蚊帳の外に置かれた由綺が無言で苦笑していることがありますが、あれ別に気を遣って発言を控えているのではありませんよ。由綺はちやほや歓迎されて当然なので自分からは話に加わらないし、自分中心でない話にも加わりません。そして自分を立てず優先もしないで他の人と話す冬弥にめちゃくちゃ機嫌を損ねているんです。由綺は天性のアイドル資質により、マイナス感情が表情に表れません。顔に出さないように努めるとか我慢して無理しているとかそういうのではなく、そういう「顔」で、由綺の内心にかかわらず、マイナス感情は確かにあってもそれが表情にほとんど反映されず、好ましい顔にしか見えないということです。よほど意識的に顔をしかめようと尽力しないと、不満の表情を明示できません。普通にしている顔がそのまま元から笑顔寄りで、アイドル適性がやたら高いです。好まれる容貌という意味で、美醜に関係なく由綺はとても見た目に恵まれた器量良しと言えます。けれど優しい感じの微笑み顔でいても中身もそうとは限らず、ここでも「冬弥君ポイント」は下がる一方です。元より冬弥と「冬弥君」には大きな隔たりがあるので、どんどんかけ離れていくしかないのは仕方ないことなのかもしれません。
由綺の顔効果について他にも具体例を挙げましょうか。マナに好きな人?ができて、よろしくやってるらしいということに対して「生意気」と由綺が言っているのは、何気ない軽い冗談でも何でもなく、言葉通り、いたって本気の見下した本音だと思います。けれど表情や態度が微笑ましいのでほのぼのした雰囲気に錯覚してしまいます。由綺の見た目に惑わされず、そこにある文言をそのまま切り取って検証すると、事例の積み重ねにより真実は自ずと浮き彫りになります。おそらく由綺には冗談という概念が元から欠落しており、言われたことを真に受けるのはもちろん、言うことすべて額面通りの意味しか持ちません。よしんば冗談を言うことがあるとしても、由綺が実際に「冗談」「なんてね」と口頭で指定しない限り、それは冗談ではなく言葉通りです。由綺の思考直通の言葉に余分な見解を挟む余地はなく、他人が勝手に解釈を付与してはならないのです。なお由綺がマナの恋に敏感に気付いたのは、妹を案じる姉ならではの繊細さゆえではなく、単にマナの注意が冬弥にそれたことで由綺に注がれる絶対量が減ったのを敏感に感じ取ったからです。由綺という人は本当に自分の思考範囲だけで生きているのです。
どうも、由綺とマナの間でなされているだろう会話は、すべて由綺発信の、彼女中心の話題ばかりのような印象を受けます。由綺は自分周りの話しかしていません。マナの方からおしゃれ話を振ることもかろうじてあるかもしれませんが、それはあくまで由綺にも興味があったから許可され続けられた話題というだけで、マナが自分自身の話をすることは認められておらず、遮られます。マナ編の進行に従い、その一方的な会話パターンにも変化が生じ、マナは話を折られてもめげずに自身の話を通すようになったようで由綺も驚いているみたいですが、従妹の成長に目を細めているのではなく、その感想はひたすら「生意気」です。マナはよく冬弥に「生意気」とか「召使い」とか口にするものの、それは冗談に過ぎず本気ではありませんが、特に憎まれ口を叩かない由綺が根底からそういう感覚を無意識に備えて無邪気に微笑んでいるというのは空恐ろしいことだと思います。マナは由綺について「雰囲気がある」「優しいイメージ」と、あくまで「外部に与える印象が良い」と語っているだけで、肝心の実質については何も示していません。由綺そのものの中身が優しいだなんて、実は一言も言っていません。マナの方でも由綺との関連は冬弥に伏せているため、近い立場を明かさない程度の距離感でしか由綺を評せないという制限はあるとはいえ、マナは普段から、よく知りもしない人間の人物像を断定するような性格で、その彼女が由綺の性格を断言せず、印象表現に留めているのはある意味異様です。これは、よく知っているからこそ明言を避けており、まただからこそ虚偽の証言もできないのだと思います。確かにマナは由綺が大好きですが、それは虐待された子供がそれでも親の愛情を欲しがって、関心を繋ぎ止めようと涙ぐましく慕おうとする本能のようなもので、その関係性はけっして対等ではないのです。
育児放棄の母でも、たとえそんな重大な欠陥があったとしてもマナにとってはたった一人の愛する母には違いないように、その母と同じ人種の由綺もまた、マナにはそれでもやっぱり大切な身内に違いなく、彼女と縁を絶つことなどできません。困った人だけど、そんなお姉ちゃんがマナのお姉ちゃんには変わりなく、その事実はもう仕方ないことです。それでも由綺が好きなんです。それでもマナは迷わず由綺を好きでいられるということです。マナを好きでいてもらうために由綺を好きな訳ではなく、由綺を好きでいるからってマナも好きになってもらおうとは要求しません。まれに関心を示してくれるにしてもそれはただの暇潰しで、向こうには欠片も真心がなくても、そういう、自分だけを重んじる人たちなのはきっと変わらないんだから、それを嘆いてもどうにもなりません。マナの方で大人になって、彼女たちの自由すぎる生き方に合わせ、柔軟かつ寛容に順応するしかないのです。それを受け入れさえすれば、そんな彼女らでも、欠けているからこそ愛しい存在として、まるごと愛することができます。マナは振る舞いの幼さに反して、ああ見えてものすごく精神年齢の高い、大人枠の人物です。どっからどう見たって完全にただの子供でしかないマナについて「ひどく大人で、ひどく子供」と真剣に評する冬弥の感性に、「は?どこが大人?子供はすごく同意できるとして、何言ってんだ?」とつっこみたくなるのも当然のように思えますが、言語としては濁されている裏の事実関係に沿って彼の見解は展開されており、マナが際立った大人の側面を持つことは、確定的な知られざる真実です。そしてそのことを正確に把握できている冬弥が、にもかかわらず沈黙を貫き、あえて説明を加えないので、あたかもマナへの評価が不的確に見えてしまいます。ですが知っていて詳しく言わないだけで、言っている内容は固定の真理なのです。見た目子供のマナは頭はすっかり大人だし、見た目アダルトな弥生は中身てんで女の子だったりするし、外見なんて全然あてになりません。
冬弥は由綺の顔だけ気に入っているのかと思いきや、そうでもないのかな、いやいややっぱりそれだけなのだと、事情は二転三転します。一見、冬弥の状態は、由綺の大人しくて従順そうな外見にまんまとだまされて、中身を知らずに骨抜きにされているという締まらなさですが、実際には、由綺自体の印象がどうこうではなく、かつてのはるかにぱっと見が似ているという要因で、はるかとしての中身ありきで惹かれているので、厳密には見た目偏重ではありません。由綺の見た目からの想像で勝手に彼女に健気さを当てはめているのではなく、由綺をはるかだと思いこんでいるので確かに実存するはるかの健気さをそのまま当てはめているだけです。冬弥は由綺をルックスで選んだのではありませんが、考えようによっては由綺個人のルックスだけを気に入っている方がよほどましです。はるか軸では、冬弥は見た目も中身も全部まるごと彼女が好きということになりますが、由綺軸では、冬弥が好んでいるのははるかと重なるその見た目だけ、中身は一切問わない、見えていない、由綺の姿自体も単体では評価されないという非常にひどい有様です。屈辱の極みです。いつか由綺に錯視の実情が知れたらと考えると、そんな日が来るのを恐ろしく思います。それでもあえて、はるかを上回る由綺固有の持ち味を挙げるなら、万事に秀でるはるかと違い由綺はやや不出来な側面を持つので冬弥でも優位に立て兄貴風を吹かせられる点と、甘い言葉で持ち上げ気分良くさせて冬弥のちっぽけで頑迷な誇りを十分に満たしてくれる点くらいです。それもこれも冬弥の器の小ささに起因する相対的なメリットであって、由綺自体に値打ちがあるとは言えませんが。どれも由綺の中身のなさありきですからね。
基本的に、各キャラの高レベルパネルは本人の実像・真相に関わる重要な話として置かれていることが多いです。ただし外観は相変わらずの無駄話ですが。そして、他キャラパネルにおいても、なぜかはるかに言及することが増えてきます。本題がそのままはるかであることはそこまでありませんが、何かにつけ、ちょろっとはるか話を挟んできます。各項目に集中して高パネルを狙うというめんどくさい作業を続けていると、苦労して取ったパネルにはるか話が出てくるのがほぼ常なので、冬弥がはるかを特別に好きすぎることは体感的に判ります。こうした構成からも、はるかが最重要キャラであることは確実です。もっともこれは、パネル取りに熱中した人間の主観による感覚的な話で、無駄な繰り返しを経ない限り軽重感を比較できないので、パネルの重要度の実感には個人差があると思いますが。そんな中、由綺の高パネルに限り、重要性が感じられないものばかりになっています。どれもこれも「今日も忙しそうだね」という主旨の、短くつまらないものばかりで、バリエーションにも乏しく、見るからにやっつけ仕事のようです。話す時間が取れないから手短に切り上げるしかないという仕方なさはあるとはいえ、あんまりな内容です。しかし他パネルでは重要度を示す構成が徹底されているのに、由綺だけ手抜きということは考えられません。何か意図があるはずで、それを以下のように推測します。他キャラのように、由綺について高パネルで深掘りしてしまうと、結局その隠された欠点を示すものばかりになってしまい、由綺への愛を深めていく物語の進行とは逆方向に、彼女に冷める流れになってしまいます。冬弥は感覚がおかしいので、由綺が彼や他者を侮る失言、自己愛に満ちた妄言を吐いても気にせず、あえてプラスにこじつけて由綺に好意を持ち続けますが、プレイヤーは必ずしも冬弥のマゾ感覚に共感するとは限りません。都合の悪いことには目をつぶる冬弥と違い、類似例が続くのを目の当たりにすればプレイヤーはさすがに嫌でも由綺のヤバさに気付きます。由綺編という由綺に萌えるためのシナリオにおいて、由綺に好感を持ち、その交流を愛あるものに感じるためには、由綺の実像を彼方に追いやらねばならず、そしてまた、由綺の真設定を曲げて本当に健気で優しいキャラで押し通すことはできないので、結果、本来なら真実を描くべき高パネルを味気ないものにせざるを得なかったのだと思います。話の進展に逆行して高パネルで由綺の人物描写が薄れるのは、真実を遠ざけねば、由綺への愛情も由綺からの愛情もまことしやかに打ち出せないからです。クライマックスに向けての日常で、愛のない真実が露呈してしまっては話になりません。WAの基本構造であるシナリオの二重設定を楽しむためにも、いったんは順路通りに話を受け入れなければならず、間違っても初見で逆解釈に至ってはならないため、表面上の流れでは「由綺は健気である」という前提ですべての話は進み、それを打ち消す要素は彼女と親交を深めるにつれ鳴りをひそめます。それは脚本的に由綺について黙秘する状態であり、さらに彼女の多忙とも相まって、苦労して高パネルを取っても中身のない取ってつけたような内容しかなく、がっかりする結果になります。特に注目に値しない、重要性の欠片もないような普段の見過ごした会話の中にこそ真実がこっそり見え隠れしており、伏線はむしろ序盤の方に多く、ばっちり張りめぐらされていると言えます。ミステリとしては鉄則通りです。
由綺EDがそのまま純粋で完全なハッピーEDとして存在しているのなら、ただでさえ事なかれ主義の冬弥が、何もそのポリシーを捨ててまで、無駄な心痛を伴い後ろ指を指されるというのに無意味に浮気する必要はない訳です。由綺EDがあらゆる側面においてワーストEDとして存在しているからこそ、それを避けようとする力が働いているのだと思います。泥沼にはまらないうちに早いこと別れないと本当にヤバいんです。何はなくとも、甘い夢とはおさらばし、盲従状態を解かないことには。浮気するのは順序がおかしくて、けじめをつけてから次に進むべきという筋もありますが、冬弥には由綺とどうしても結ばれる訳にはいかない裏事情が水面下にあり、それが少なからず心離れに繋がっていると思われます。WAの本題として「はるかを探す」という主目的に沿って、一つの達成といくつもの迷走が描かれるほか、「由綺を避ける」ことも冬弥の行動原理として物語に大きく影響しています。冬弥にその意識はないものの、由綺の真実は現実なので、無意識では彼女の危険性を察知しているのでしょう。冬弥が望むと望まざるとにかかわらず、多くの展開が由綺と別れる運命に向かうのは、それが行き違いによる不慮の脇道ではなく、無意識とはいえ正当で一貫した根拠に裏付けられた、ゆるがない軸を持つメインの本道だからだと思います。
真ヒロインのはるかが完全に飛び抜けた規格外の設定を持っているだけに、人の良さだけが取り柄の押しの弱い地味っ子ではヒロインとしてまったく並び立ちません。身代わりとしての役割しか持たされていないとしたら、それこそ由綺に対してひどい話です。はるかの設定は伏せられているとはいえ、由綺の立場はただのお飾りだと確定するようなもので、馬鹿にするにも程があります。由綺が何でも譲ってしまう無欲な聖女だとするなら、はるかと丸かぶりな上、設定の僅少さによりただの下位互換となり、存在意義はなくなります。素質も力量も足りていないのにヒロインに抜擢されていることが逆に哀れなくらいです。百歩譲って、同質・同価値であるなら、冬弥が失くした記憶をえぐってまではるかにこだわらなくてもよく、一度身代わりに立てたのなら由綺で妥協して彼女のもとに安住すればそれで収まるはずです。まあ同等であってもはるか本人以外受け入れないというのが冬弥という人なのかもしれませんが。冬弥の意識はもう手の施しようがないとして、由綺が、単に浮気被害者としての悲劇的な宿命を背負っただけの、本人には特段個性もなく存在感も薄い空気キャラだとするなら、それでもなお正規のメインヒロインとして堂々と置かれている現実に説得力がありません。はるかの設定に負けないほどの強力な設定が必要であり、そうでなくてはヒロインの名に値しません。そこにきて「由綺は一貫して『自分が一番』のとんでもない性格をしている」という思いきった説を持ちこむことで、役満のはるかですらものともせずヒロインの地位に居座るだけの図太さと厚顔さを持つことが保証され、すべてに納得がいく結論となります。由綺は由綺でかなりの優遇と重用が確定し、一応それなりに待遇バランスの取れた妥当性のある仮説だと思います。ヒロインの立場に固執しているというのとも少し違って、由綺にとってその場にいることは当たり前なので、ヒロインの座という明確な意識も何もなく自覚なしにそこにいます。由綺は由綺のまま自分の場所にいるだけで、たまたまそこにヒロインの椅子があてがわれたというだけです。
由綺について、いい子すぎるだけにインパクトがないからあまり印象に残らないという人は多いけれど、まさか逆に、物議をかもすほどのかなりの問題をはらんだ強烈な個性の持ち主だとは夢にも思わないんじゃないでしょうか。描写の少なさから、ヒロイン/アイドルとして物足りない感のぬぐえない由綺ですが、実態はけっしてそうではなく、ヒロインとしてもアイドルとしても、自己肯定に基づいた圧倒的なポテンシャルを備えています。それは他の追随を許しません。はるかでは及びもしません。英二が「偽物が本物を超えることもある」と言っているのは、こういうことだと思います。それに、はるかは強すぎて隙がなく「俺がいなくても何とかするだろ」的な所がありますが、由綺ははりきりすぎておぼつかないので放っておけません。足りないがゆえに手助けする余地があり、それが力になれた感を満たします。つまり由綺の夢実現に自らも参画している実感を得られるのです。これもまた偽物が本物に勝つ所以です。由綺が自分の信念を貫く限り、誰が何と言おうと、彼女は確かに最高のヒロインであり最高のアイドルなのです。たとえ冬弥に裏切られても、それをバネに人間としてさらに飛躍できるような気丈な人物として設定されています。だから浮気しても全然問題ない、というのはさすがに違いますけど。また、由綺の性格が想定と違って実は残念なものだからって、それなら浮気しても別に構わない、というのもやっぱり違います。それでも相手として尊重するべきです。作品的に由綺を蔑視・嘲笑するためにトンデモ設定が徹底されているのではなく、「それでも由綺は由綺のままであり続ける」という彼女の尋常じゃない強さにある種の敬意をもって、深い愛情をこめて人物像が描かれているのだと思います。それは表層で描かれる由綺編のテーマともちゃんと一致します。笑い者にし叩かせる目的でキャラ設定されているなら、何も隠すことなく大々的に公表すればいいはずなのに、真相を伏せるという段階的な温情措置がなされていることから、軽はずみに由綺を断罪することなく熟慮することが要求されていると考えます。けっして褒められたものではない部分を知っても、それを認め、欠点ごとありのまま受け入れることができるか。恋愛ものとして、かなりえぐい所を抽出して煮詰めた真剣な物語だと思います。マナEDを見る限り、冬弥は由綺の本質を知った上でも付き合い続ける選択をとっているので、大前提である幻から醒め、大幅に愛が冷めても彼女を愛そうとはしていくんじゃないでしょうか。
はるかEDで、順序はどうだったか「はるかのことは愛してる、でも由綺を愛せる」どうのと、詭弁とも言葉遊びともつかない酔いどれた語りをする冬弥ですが、要約すると、はるかを愛しているのは生涯絶対変わらないとして、それでも幻の消えた由綺を愛そうとする努力はできるということだと思います。冬弥の意志は確定しており、愛する対象を決められず迷っているという意味ではありません。はるかEDは結末が不透明で、冬弥とはるかが恋人関係に進んだかどうかは判りません。二人が恋人関係を選ぶにしろそうでないにしろ、どのみち冬弥にとっての一番がはるかで、はるかが冬弥の側に居続けるのは変わらないので、その関係性はそこまで重要ではありません。冬弥と由綺の交際が続くにしろ終わるにしろ、冬弥とはるかの関係には関係ありません。交際続行の場合、はるかの存在を最高位に置きながらも、由綺を愛さなければならないのなら、本心をのみこんでそうすることは可能だ、ということだと思います。その由綺との交際は「浮気」扱いにはなりません。冬弥の心にいるのははるかだけで、由綺はその枠に入らないまま形式だけの関係になるからです。冬弥ははるか以外の誰に対しても心のスペースを割かず、由綺へは気持ちがないこと前提で付き合うので、元より浮気という語句は当てはまりません。それでも「愛」だと自分をだましだましやっていくことはできるということです。由綺に「正直」であるとの嘘を本当にもできます。初めから愛がなければ、それが失われることもなく、継続は可能です。義務感で付き合い続けるくらいならいっそすっぱり別れた方が良いと思うんですけどね。
最も大切なのに普段は後回しにされるはるかの位置づけの妙により、冬弥は元来、両面から浮気という状況に陥りやすい心理状態ではありますが、上記のように正確には浮気とは呼べません。はるかは元から完全に別枠のくくりに置かれており、誰も同列にはなりませんから。浮気という世俗的な概念とは無縁な所に位置づけられています。冬弥の持つ性別カテゴリーは「男」「女」そして「はるか」に分かれています。「男」にも「女」にも分類されない「はるか」という特別枠が別個存在しているんです。それは物語を読み進めていくと何となく感じられることで、読みこむにつれほぼ確信に変わります。はるかは単独で、他とは全然違う枠に入れられています。作中、冬弥はほとんどはるかを女性として扱わないので、それはそのまま、彼女を軽んじる態度だと見なされがちですが、実際には「はるかは女扱いされていない」のではなく「はるかは他の女とは違う」のです。格下ではなく、別格の最上格です。はるかだけが「はるか」という無二の存在で、男女の別なく他の人がその区分に匹敵することはありません。いわゆる男女関係としては不条理でめちゃくちゃな話ですけど、冬弥とはるかの関係はもう、初めから徹底してそういうもので、変えようがないのだと諦めるしかありません。何にせよ冬弥ははるかの意向を尊重するので、すべてははるか次第です。はるかの意向が身を引くことなら、その意向とはるか本人、どちらを大事にするかという選択になるだけで、はるか最優先は変わりません。はるかEDでは、自分の最も大切に想う人がはるかだと冬弥もようやく自覚するので、その気持ちがゆれることはありません。この二人も少しは離れた方が互いのために良さそうですが、互いの存在が互いの存在理由になってしまっているので、共依存を解消するのは無理だと思います。