マナ編は、他の混同シナリオとは毛色が違って、はるかの面影のほか冬弥自身をマナに投影させたシナリオだと思います。どっちかというと冬弥成分の方が多いです。内弁慶ですぐ逆ギレしますしね。逆に、はるかとマナのどこに共通点があるのかまったくもって謎ですが、しいて言えば、出会った時の感じの良いマナと普段のマナの「ギャップ」そのものでしょうか。はるかは普段あんな感じですけど、かつてそうであった時と変わらず、人前ではわきまえているようですから。冬弥はマナ編通して、初対面のマナが誰かに似ていると感じ続けますが、結局明確な結論を出さないままEDを迎えます。表面上マナと由綺が従姉妹であることが判明するため、当然それは由綺のことだとミスリードされがちですが、由綺に似ているとするには、マナの態度は親切とはいえあまりにも素っ気なく淡白すぎるんです。由綺だったらあの場で長々と話しこんでいる所です。マナ編は記憶喪失の事情とはそこまで関係なく、普段当たり前になって意識していないはるかの二面性と、冬弥自身の暗部をマナに映し見ているシナリオと言えます。マナの名の持つ意味は、月を観る眼差し。一方、藤井冬弥という名前には、文字すべてに「月」が、隠れていたり、虫食いになっていたり、変則的にずれたりして存在しています。マナに接することで、冬弥は自分の心の陰から目をそらせなくなります。はるかに似た少女が自分と似た境遇にいる。今まで与えられるばかりだったはるかに恩を返しているような、満たされなかった自身の子供時代を癒しているような不思議な感覚を覚える訳です。ままごとというか、そういうセラピーありそうですね。
冬弥・由綺・マナの修羅場が裏設定的に何を表しているのかよく判らないのですが、幼少期、記憶損傷部位からもさかのぼることはるか昔に、冬弥は子供らしいしょうもない嫉妬心から、はるかに「俺と兄さんどっちが大事なの!?」あるいは兄に「俺とはるかどっちが大事なの!?」と詰め寄ったことがあったのかもしれません。でも所詮、冬弥はよその子ですから、自分は選ばれないと自分で思いこんでいるので、答えを聞かずに拗ねて逃げ出した。そんな時、自分を選んでほしかったという想いをこめて、自分を投影させたマナを選んだのではないでしょうか。なお性的な関係に及んだのは冬弥とマナ独自の展開です。投影する人物や投影先、立場や役割分担がころころ変わるので整理しにくいですが。
クライマックス後、冬弥は数日間マナと二人きりで過ごしますが、その際に自身の秘密を打ち明けていたとしたら、意味合いが大きく違ってきます。ただ単にマナのわがままにほだされて関係を結んだのではなく、冬弥自身がマナを選んで自分をさらけ出すに至ったことになります。何か大事なことをマナに言いそびれていたと冬弥が後悔して、分岐ルートではそれきりになっているということはつまり、対比する正規ルートでは反対に、そのことを明かすという展開になっているはずですから。一方、由綺が冬弥の事情を知っているかどうかですが、おそらく知らないと思います。冬弥は大事なことに限って黙っていることが多いですからね。交際するにあたって特に打ち明けるべきことではないでしょうし。それでもそれが事実であるなら確固たる事実として存在する訳で、数年来の恋人なら由綺も知っていて然るべきだけれど、作中での由綺の語る冬弥像を鑑みるに、冬弥が闇を抱えていると知っているとはとても思えない。一見、何の非もないように見える由綺ですが、冬弥本人に対する関心のなさが浮き彫りになります。
最終的な選択でマナを選ぶにしろそうでないにしろ、その後の展開で、冬弥は由綺に若干冷めた態度をとっており、心が離れているのが感じられます。ただの無設定主人公として存在するならともかく、冬弥にも不幸な境遇があると考えられる時点で、由綺のマナに対する扱いは微妙にニュアンスが変わってきます。由綺はマナの境遇を知りながら、自分の気が向いた時にだけ同情して満足していたことになります。ということはつまり、冬弥が心の傷を由綺に明かした所で、自分もまた、そういう扱いを受けるだろうと察します。由綺は、自分を支えてくれた河島兄妹とは違うのだと痛感します。ここで変則的に、由綺とはるかの混同が解けます。とはいえ冬弥は自分がはるかの面影に左右されていることを知らないので「由綺は、求める理想像とは違った」という形でですが。まあ、はるかのように親身になってくれるのが特例なのであって、由綺にはるからしさを求めるのは筋違いです。誰もがはるかみたいに甘やかしてくれると思ったら大間違いです。冬弥に関する条件が、幼なじみのはるかに有利すぎる気もしますが、高校からの知り合いの美咲あたりも事情を把握している様子ですし、進んで口にはしないとはいえ冬弥が特に境遇を隠している訳ではなく、由綺が知らないのはひとえに彼女の無関心によるもののようです。ただ、該当の美咲イベントを見た限り、傷口をいじられて冬弥の態度がこわばっている感じなので、無関心でいてくれる由綺はむしろ冬弥にとって都合が良かったのかもしれません。由綺は藤井父との面識はあるようですが、それ以上踏みこむことはなく、冬弥に関する認識は「面白いお父さんがいる」止まりです。それ以上には認識は深まらず、母親がいないことはまったく気に留めず、気付いていないようです。案外その態度が、冬弥には気を遣って黙ってくれているように映っていたのかもしれません。ちなみに彰の場合は少し特殊で、姉たちの横暴を愚痴ることがありますが、冬弥の境遇がどんなものであれ構わずああいった言動をすると思われ、特に悪意も変な気遣いもありません。冬弥は、常にあるがまま、純粋な素の状態でいてくれる彰をとても大事にしており、そのため冬弥側でも、完全に素に近い状態で心を開いています。そんな冬弥が彰を裏切る展開になる美咲編は、きわめて例外的な状態と言えるでしょう。
言外の、自分の中にある河島兄妹との確かな想い出に浸って、マナにもそんな存在がいるならどんなに辛くても大丈夫と安心していたのは大きな間違いだったと判ります。由綺が実際にマナの心の支えなのだと信じていられるなら、何も冬弥は由綺の目の前でマナを追いかけるというひどい行動に出なくていい訳です。冬弥の性格上、マナと由綺の間にひびを入れたくないとして関与を自粛するはずです。しかし、相関を把握するに至り、これまでの聞き伝え話の子細が繋がり、真相が一気に冬弥の頭を駆けめぐることで反対に、由綺が支えとしてまったく機能していなかった事実、マナを理解し案じてくれる存在は近辺に一人もいなかった事実を身にしみて思い知らされたからこそ「誰にも任せておけない」と、迷いを振り払い意を決して名乗りをあげます。自分の感傷に溺れて、マナに重なる追憶にひそかに癒され満足していた間に、目の前で救いを求めていたマナを見逃した。その気持ちは、同じような傷を持つ自分が他の誰よりも判っていたはずなのに。冬弥は自分の愚かさを悔いる気持ちで、挽回のためにマナを追うのです。
冬弥はマナ編の流れで何度か、意図不明な言動や行動控えをする際に「その自分の行動/抑制の理由がなぜだか判らない」といちいち表明することがあります。これは本当は「判らない」のではなく「判っていて、あえて言及や断定を避けている」ことで、シナリオ的に、重要箇所を知らせる目印となっています。冬弥が無意味に「判らない」と言い出したら「注目!」ってことです。それらを念入りに整理していくと、ある傾向が見えてきます。冬弥は、マナの家庭環境の一端に触れるたびに「何となく」立ち入らない方がいいと言い、そして関わろうとしないことで生じる罪悪感の出所を歯切れ悪くごまかし「判らない」と言って封じます。冬弥はマナ編通して「経験から得た知恵」で、複雑な家庭事情には気安く関わらない方がいいという強い持論を示します。「経験」って何のことだよって思いますが、冬弥は詳細は吐きません。少なくとも、自分が下手に干渉して痛い目を見たことからの教訓ではなさそうです。無駄な面倒ごとを避けたいとか、そんな表面的な理由ではありません。それなら特に責められるまでもない思考だし、普通に堂々と言えばいいのですからね。一方で冬弥は、そういった家庭事情に軽々しく踏みこむ行為に、反発がかった明らかな嫌悪を示します。つまり冬弥の「経験」とは、「自分が」口さがない他人に家庭のことをとやかく言われて不快に思ったことを指し、そして結論として自分がされて嫌だったことは、自分も人にはしたくないということです。それでも内心では、親身で有効な働きかけがあったならば何とか状況を改善できるのではとの願望もあります。関わりを持たない立場を続行することに対し、冬弥はマナに気付かれないようにこっそりと謝ります。そして何に謝っているのか「判らない」と述べます。それは現時点のマナに対し、マナを見過ごせない良心に対し、これまで自分にも見過ごされ保留されてきた本当の自分の処遇に対してだと思います。さらには最終局面として、冬弥が生来嫌ってきた、特段関心もなく寄り添うつもりもないのに、ただその時の気分で他人の家庭環境に土足で踏み入り、安易な同情心を見せつけ、自分の優位と善行に満足するといった感心しない大衆性を持つ人物、それが由綺だった、と明かされる所にマナ編の要点があります。今までマナの支えにもなってきた非の打ち所ない天使のような模範的良い子の由綺を外道に裏切るのは心に痛い、とするのはまったくの取り違えです。そんな話じゃありません。心からその人柄を信じていた彼女が、自分にとって最も受け入れがたい苦痛要素を持った人間だと知ってしまったという点でひどく痛ましい結末なのです。誰が悪いのでもありません。由綺は良かれと思っていて悪気はないのだし、冬弥はこうまで育ちきった拒絶感を今さら捨て去ることはできません。価値観の不一致と人物認識のずれによる、悲しい行き違いの結果です。
冬弥は、マナとの二人きりの数日間について短くさらっと流しますが、ここはマナ編で最も重要な期間です。通常、子供っぽさの仮面で本音を隠している者同士、お互いありのままでいることで、自らの傷を癒しているのです。お互いキャラは変わりませんが、互いの前提を知っているかどうか(特に冬弥側)で交流の根本が変わります。母の不在、己の罪深さ、子供っぽさの仮面、諸々の事情を冬弥がマナに打ち明けることにより、二人はより密接な関係となります。はるかも冬弥の事情を知る者ですが、彼女の場合、冬弥が何も言わなくても理解してくれるので扱いはまた別です。マナとの場合、冬弥が自発的に自分自身について打ち明けることに意味があるのです。
マナは、冬弥との数日間の交流の中、子供の仮面を取っ払い、ありのままの子供でいられることで急速に大人へと成長します。しばらく滞在した後、帰宅を申し出る冬弥に、マナは「ここにいてよ」と強く要求します。それに対する冬弥の返答はこの際問題ではありません。承諾されようが断られようが構わない。子供として当たり前に、思うまま、本音で訴える経験をすること自体が重要で、それによって子供の期間を卒業できるのです。本気の感情吐露をもって、ずっと置き去りにしてきたマナの子供時代は終了します。一方冬弥ですが、お互いありのままで過ごして癒されたはずが、彼の傷が重すぎたのか、心を開ききることができなかったのか、冬弥はマナが子供を卒業できた後も心の檻に取り残されてしまいました。結局、冬弥が年上である以上、マナよりは大人でなくてはならず、完全にはありのままでいられなかったのです。
エピローグにて、気のない感じではあるけれど由綺と付き合い続ける冬弥に、マナは再び戻ってくることを宣言していったん離れていきます。時を経たとして、はたしてマナに勝算があるのか疑問ですが、マナは由綺の知らない冬弥、本当の冬弥を知っているので、そこは自信がある訳です。ひょっとしたら言葉とは裏腹に、由綺のかわりに冬弥の恋人に成りかわろうなんて気はないのかもしれません。単なる恋愛感情ではなく、冬弥本人を想う、より根本的な感情ですからね。冬弥に先んじて大人になり、彼の元から羽ばたいていくマナは、いまだ寂しい子供のまま殻に閉じこもり続ける本当の冬弥に対し「もっと成長していつか戻ってくる、そしたら今度は私が藤井さんを心の檻から連れ出してあげる」と約束してくれているのです。