由綺6


本編通して冬弥の心変わりを心配したり、弥生編で弥生の焦りに気付いたりすることから、あたかも由綺が他人に対し繊細な感性を持っているように思われがちですが、相手の心情変化に敏感というよりは、相手が自分に関心を払わなくなったことに対してのみ敏感に察知して、それを指摘してくるのだと思います。由綺が弥生の表情を読み取れる?というのも、大抵は、弥生が自分に同調してくれるとして、単に由綺の心境を弥生に当てはめているだけでしょう。マナ編でミルク粥に反応するのも自分のよく知る好物だからで、それを食べる他人の状態や心境には特に関心はありません。自作のミルク粥提供を申し出て、好きなものを共有したがりますが、現状の冬弥がその後回復するかはどうでもいいようです。冬弥に黙ってキッチンに忍びこむのも、別に他の女の存在を疑って証拠を探そうとしたからではなく、純粋に気になるミルク粥の確認のためです。由綺自身がひたすらミルク粥が好きなだけです。由綺が気にしたり、気が付いたりするのは常に自分関連のことのみです。


また、由綺への意識がそがれたことに対する彼女の反応の一例として、マナ編の修羅場導入は数パターンありますが、入試の合否確認の付き添いを由綺に依頼しようとしたマナがそれを断られた後、由綺に固執することなく他(冬弥)を当たって解決した場合、由綺はマナの薄情を不服として、最寄りの待ち合わせ場所を割り出し現場待機しています。由綺は、マナがへそを曲げたことを気にしてやっぱり駆けつけた風なことを言いますが、へそを曲げたのは由綺の方です。マナの依頼(重大な岐路)を内容すら聞かずに蹴って冬弥と遊ぶ約束(未確定の私事)をしようとしていたのに、親戚の子を優先するようにと冬弥に断られ(常識的な感覚)、再度マナに連絡を取ったら、その件はもういい(遠慮)と言われていますから、由綺としては心外で、微妙で複雑な気持ちをふくらませています。自分から頼んでおいて申し出を取り下げるマナに由綺は不満を持ちますが、マナは当初むげに断られており、代案として他を当たることは特に非礼ではありません。むしろ、自分がマナの頼みを一蹴しておいて、いざ冬弥に自分の誘いを断られたら、一転マナを必要として、当然のごとく約束を取りつけようとする由綺の方が虫が良すぎるのです。由綺は別にマナの付き添いを買って出ている訳ではありません。せっかくの休日、誰にも構われず一人でいるのは寂しいので、気晴らしに自分が誰かと遊びたいだけです。一応の序列はあるものの相手は冬弥でもマナでも構いません。由綺が遊ぶことが重要なのです。ここ周辺のチャートを検証してみると、由綺が本当に自分の都合しか考えていないことがよく判ります。冬弥に対してもマナに対しても、常に彼らが由綺を最優先にすること前提で、条件が満たせなければ由綺の都合に従って繰り下がるだけです。まず電話の切り出しからして、あらかじめ親戚の子に誘われていることを告げた上で、冬弥を遊びに誘うという言動も奇異っちゃ奇異です。「私は別の人からも誘われてるんだ」という誇示アピールなのか、それとも「それなのに私は冬弥君の方を選んで断るよ」という固辞アピールなのか、明確な意図は判りませんけど何にせよ強烈な自己アピールです。押しつけが凄まじいです。形式上は冬弥に伺いを立てるという形ではあるものの、選択肢の所有権は由綺にあります。先の展開では、そんな由綺の絶対ルールが損なわれ蔑ろにされたので、由綺なりにことを修正しようと、マナにかけあうために現場に出向きます。


とまあ、具体例はこんな感じですが、基本由綺はとにかく自分が注目されていないと気が済みません。承認欲求の塊です。街中スカウト等で思いがけず芸能界入りしたならともかく、由綺は初めから養成所に通っていた訳で、その顕示欲のほどは初めから何一つ隠されることなく提示されており、テキストとしても明らかです。しかし、由綺は見られたがりな反面恥ずかしがりで、自分からは率先して目立とうとしないのもまた事実であるため、それが彼女の真相発覚防止に一役買っています。けれど、それもまた「自分では特に何もしないのに周りが放っておかない」という状況を好むゆえだと思います。由綺があえて素顔での往来散策を強行するのは、まんまその思考が反映されたもので、人目を引くステージ衣装で「森川由綺」と認識されているだけの状態では面白くなく、何の変哲もない由綺のままでうろついて、その条件で発見されて騒がれてこそ喜びを感じられるからです。自分を過小評価する発言とは裏腹に、自分の認知度のほどを探り、確認したいのです。「自分では自分を特別可愛いとは思っていない、(それなのに誰もが私を可愛いって言うの、…何でだろう?)」と声を大にして言いたいのは台詞化されない後半の、自覚している他己評価と純粋な疑問です。別に本音を隠していい子ぶっているのでもなく、後半の文言は、由綺の中で当たり前な公然の事実なので、わざわざ言葉にして誰かに強調して訴える必要はありません。由綺が言わずともそれは真実で、自ずと公言されているのと同じですから。結果、由綺の口からは謙遜の句だけが表に出ます。ですが口で何と言おうと、何のためらいもなく辺りを闊歩して回るその事実がすべてです。現に、エピローグにて道行く人に気付かれてやたら嬉しそうにはしゃいで駆けていくでしょう?そういうことです。ただし、周りにまったく気付かれない場合もそれはそれでよく、隠れんぼ的な感覚で、由綺は見つからなかったことを喜びます。見つかるか見つからないかのすれすれ状況自体が楽しく、由綺はどちらの展開に転んでもプラスにとらえます。由綺にとってアイドル生活と私生活に継ぎ目はなく、彼女自身も身を置く状況で何が変わるという訳でもなく、いつでも天衣無縫です。スクープに対する不安は特になく「認識された」という満足や「認識されそう」という期待で彼女は胸いっぱいなのです。加えて由綺は自分のことを「そんなにカリスマって訳じゃないし」とも言いますが、実際「カリスマと思っていない」のが主な文脈なら、何で先頭に「そんなに」とつけるんですかね?それ必要ないですよね?要は、少なからずカリスマであることは自負しつつ、しかしながら絶対的レベルではない、あるいは自分が追求するだけの注目レベルには達していないと言っているのです。自分はもっと上に行けるとの向上心の表れです。


でも由綺はしょっちゅう「私なんか」と自分を卑下する言い方をするじゃないかと思われるかもしれませんが、それも多分、冬弥が過去に何気なく言ったであろう「美咲さんを見習うといいよ」みたいな無責任な助言を、由綺は鵜呑みにして、そのままそっくり真似ているのだと思います。美咲を模倣する過程で、弱々しくへりくだってみせると、逆に想定以上に持ち上げられることを経験的に学習しているので、由綺は褒められたい一心で謙遜表現を多用します。その際、相手にどう思われるか自体ではなく、相手の賛辞という結果だけを要求しているので、作為には余計な邪念が入らず、純粋な願望だけが反映されます。好感を誘発するあざとさはあっても、他人の認識に干渉してだます意図はないので計算がましくはありません。自然体で天然の計算です。また芯から自己卑下の傾向のある美咲と違い、由綺の発言はどこかあっけらかんとしていて湿っぽさはありません。別に自分を卑下するつもりはないからです。言葉だけの発言で、中身はないのです。それでも、ここ一年の芸能生活で「皆に見られたい」だけでは実力の世界で通用しないことを思い知ったようで、自分の力量不足を恥じる殊勝さは出てきているみたいです。


作中、由綺がアイドルを夢見るに至った大元の理由やきっかけ等は特に明らかにされませんが、それはそのまま、特に明確な志がないから、特に言及されていないのだと思います。ただ「頑張る自分を見てほしい、だから頑張る」というだけです。単に好きなことをしてちやほやされたいという浅はかな考えで、いわゆる芸能人らしい芸能人です。好きなことで受けるものならどんな苦労もものともしません。「あれだけ引っ込み思案な由綺が人前に立つアイドルをあえて目指すということは、それなりの相当重大な理由があるのでは」と読み手に期待させますが、由綺が前面に出たがらない性格というのはまったくの誤解で、逆にひたすら主張の強い人物です。主張する中身が空っぽなだけで、由綺は常に由綺自身を強く主張します。由綺が由綺であり、それを皆に認められること、それ自体が由綺の夢です。そういう訳で「アイドル」という自己表現形態は、自己主張そのものである由綺にとって、まさに天職と言えます。部屋の中の様子で実際に示される通り由綺の内面はがらんどうですが、余計な中身がないからこそ、ただあるがまま存在することのみに絞りこんだ自意識は突出して強調され、彼女は純粋に「アイドル」という表現者たりえるのです。


接触回数の少なさが有効に働いているのもありますが、作中テキストの表現が、由綺の自己中心性と顕示欲に満ちた性質を秘匿・隠蔽するのみならず、まったく真逆の、謙虚で奥ゆかしい性質として誤誘導し、顕現させていることに、さじ加減の絶妙さを感じずにはいられません。読み手の認識を翻弄する悪意すら感じます。物語上の大前提として、主人公を初期状態で魅了し、夢中にさせているという十分な説得力が必要になるため、由綺のあまり直視したくない本質はそう簡単には露呈しません。そのためテキスト上では冬弥寄りの解釈しか提示されませんが、どちらにも取れるように調整されており、発覚するか否かのぎりぎりのラインを常に維持しています。由綺に期待される実質がないと知れたら、目玉要素が土台からゆらぎ、作品の価値そのものに影響します。由綺の本質がたやすく発覚するとなると、作品のごく初動の評価に差し障るためか、そこは厳重に管理され、極秘扱いになっているようです。


パネルで、自身の体型について「はるかみたいにスリムだったり、美咲さんみたいにグラマーだったらいいのに」と謙遜する由綺ですが、その二人の体型は、由綺を軸にして両極端です。行って、戻って、結局その中間である由綺が一番と言っていることになります。他でもない由綺が。面白いですね。無邪気な発言で他意はないのかもしれませんが、スリムなのにもグラマーなのにも憧れるというなら、別に二人をわざわざ連ねて挙げる必要はなく、スリムでグラマーな理奈一人を出せばこと足ります。はるかの身長と美咲のスリーサイズを組み合わせると、おおよそ理奈の体型と一致します。なぜ理奈を出さないのか?自分が優越感に浸れないからです。由綺が比較対象としてはるかと美咲を挙げる真意は、彼女たちをそれぞれ単独では自分に及ばない引き立て役とし、自分の魅力を最大限にアピールするためです。由綺は悪意も自覚もなく、悪びれることなく二人を下に見ているのです。該当パネルは、由綺の微笑ましい自信のなさと他者に対する惜しみない賞賛を示すものと思いきや、実はまったく正反対の内容で、ナルシストで人を人とも思わない由綺の徹底ぶりに思わず吹き出してしまいます。真の由綺ファンにおかれましては、作中の彼女の健気台詞を総ざらいし、冷静に、そして冷笑的に検証することをおすすめします。他に類を見ない絶対的魅力を持つキャラとなること請け合いです。別に悪い子という訳ではなく、本当に純真さから愛らしく健気な発言をすることもあるのでそこが難しい所で、全部が全部ひねくれた解釈をする必要はありませんが、ものの見え方が一転するというのは由綺というキャラの醍醐味だと思います。


本編外の話になりますが、面白展開として、アミューズメントソフトの由綺一人称の短編小説で「全身白い服を着るのは高度なセンスが問われるからためらっちゃう」みたいなことを語りつつ、さっき言ったことを全部撤回するかのように、当然の如く「普通に着て」いきますからね由綺は。「冬弥君のためなら無理もできる」というより「でも私なら着こなせるんだから」って意味だと思います。すごいですよね、笑うしかないほどの自信過剰です。由綺自身は「私、自信なくて冴えない人間なんだ…」とでも思っているかもしれませんが、彼女は自分を知らないだけで、本当の自己認識はご覧の通り、流出する思い上がりは明らかです。言葉の雰囲気でだけは健気なことを言うものの、その本質は抑えようがなく、本人も気付かぬ間に自然と噴出しています。本編でも、たとえば弥生について由綺は「いい人よ、私『には』優しい」と限定しますが、いくら事実といっても自分で自分の特別性を強調するのは傲慢だと思いませんか?それに由綺の他人への良し悪しの評価は自分に優しいか否かだけで全部決まるということです。由綺編クライマックスでも「冬弥君のためならわがままにも乱暴にもなれる」という言葉を単純に受け取っちゃいけませんよ。「なれる」ってことは元来は「そうでない」ということですが、となると由綺は普段から冬弥を自分の都合のままにこき使うことをまったくわがままだと思っていないことになります。通常、由綺は誰のためでもなく初めからそのままで相当わがままなのに、自分ではそう思っていないだけ、逆の自己像を自分に当てはめているだけ、そしてその誤った自己像を恥ずかしげな慎ましい態度で恥ずかしげもなく堂々と表明しているだけです。


声付きのWA作品については私ノータッチで実際に聞いていないので実のある論評はできませんけど、のちのリメイク等でミスキャストと不満がられている由綺ですが、むしろあの声優さん以外に、名実ともに由綺を完璧に演じられる人はいないと思います。ただ、由綺ほど天然の詐欺能力に恵まれておらず、本質がそのまま露出し、隠れていないだけです。由綺が「冬弥君は私のライフラインだから」と可愛くのたまったとして、うまいこと言ったつもりでもそれは、冬弥が由綺に不可欠という意味ではなく「私のために全部出しきれるよね?」という誠意確認です。ライフラインなら、彼女に役立つ養分となれてさぞかし本望でしょう。いや用例先が若干違いますし、声優さん本人の言動の真意はどうだか判りませんけど。まさか揚げ足取られるとは思いもせず、単に思いついたことをうかつにそのまま素直に発しただけで、特に悪気も、深い意図もなかったんだろうと思います。彼女の中で当たり前になっている感覚が無意識に出てしまっただけでしょう。ついでの仮想話ですが、由綺が間違った水着のつけ方をしていたとしても、冬弥は元からそういうデザインだと思って全然気付かないと思います。それがれっきとした正しい由綺スタイルです。


おべっかというか気休めというか、恋してる感という、形ばかりでその場限りの高揚と快楽がほしいだけ、表向きの慰めがほしいだけならそれもいいです。現に冬弥は、言葉だけで十分、それだけでも嬉しいといったことをいつも語るので、別にそれならそれでいいんですけど。でもそれは、由綺の健気な申し出が「実現しない」ことを踏まえて落とし所としているのであって、まさか由綺の内面に「実体がない」とは思ってもいないと思います。けど由綺の甘言には何一つ真心はありません。嘘をついている訳ではありませんが、中身と裏打ちがないのです。恋話に限らず、いつでも媚びた風なことを天然と思いつきで口八丁に言っているだけです。まあ、言葉の上では相手を立てる内容で、誠意だと錯覚されやすいので、特に目上には可愛がられるタイプです。由綺・マナの従姉妹関係も、親戚の集まりなどの際に大人世代は皆、快活で率直で気持ちのよいことしか言わない由綺だけを可愛がり、「それに比べて」と、眉根を寄せて様子を窺う可愛げのないマナを冷遇し、扱いに明白な差をつけていたのだと思います。その結果、肯定感に満たされた由綺はのびのびとして他人の目を気に病まず、かたやマナは、自分は由綺のようには無条件に愛されない、その資格も持たないと思いこまされ、完全にひねくれて不信感でいっぱいです。元々の性質が、周囲のお仕着せによってさらに拡張され、手のつけられない状態にまで格差は広がっています。


英二や弥生が由綺の実態を認識しているかどうかですが、所属アイドルの特性すら把握できないようなずさんな管理をしている訳ではけっしてなく、すべて織りこみ済み、承知の上だと思います。由綺の純然たる自己中心性を、それこそがアイドルに必要とされる資質だとしてちゃんと評価していると思います。単に冬弥の好みにそぐわないだけで、それが由綺のありのままの魅力なのですから。事情持ちの弥生は弥生として、英二は別に由綺が健気でいじらしいから好きなのではなく、可憐な見た目に反した唯我独尊な中身、その中身に反した健気な雰囲気を好み、由綺のそうしたギミック性/トリック性に惹かれているのだと思います。冬弥と違って英二はそんな底浅くないです。英二は由綺の知られざる本質をありのまままるごと、正当に評価しているのです。冬弥は由綺のおそるべき本質に気付かず単純に健気一直線だと思いこんでいる上、水面下でははるかと混同して由綺を愛しているので、もう話にならない訳です。「簡単に『愛してる』なんて言うなよ」的なことを言われても反論できる立場ではありません。


とはいえ、冬弥は由綺に対し一方的に彼好みの幻想を当てはめているものの、由綺の方でもてんで勝手に冬弥に要望を押しつけ彼を従わせるのが常なので、両者のエゴはペイします。どちらが不利益を被っているのでもありません。二人の浅い恋愛に限って言えば問題なく成り立ってはいるのです。そのため英二は「恋に恋するのは、お互いさまみたいだし、まあいいんじゃない?」と現状を許容してくれていますが、かといって由綺に求める実質がなかったからって、それを理由に心が離れるようなら、立場の格差による由綺を愛する上での自信喪失はもちろんのこと「初めから『愛してる』なんて言うな」と警告しているのです。ただし英二は、冬弥が由綺の本質が見えていないことを判っており、不用意に夢を壊すことのないよう冬弥の認識と理解力に話を合わせてくれるので、本格的に由綺について暴露することはありません。嘘も普通につきますし、論点をずらして話すことも平気でします。「気付けば届く」あるいは「届けば気付く」程度のニュアンスです。大人の振る舞いですね。英二が由綺をケナゲだと言っているのは「冬弥君」に対してであって、冬弥はその対象ではないことにも気付いていると思います。ちなみに理奈はというと、人生経験に乏しいので、冬弥同様、由綺の本質に気付いていないと思います。WAの真相というのは、いわばごほうびシナリオみたいなもので、一応、真相抜きでも一作品として成り立っていなくてはならないので、真相が損なわれない程度に、表層側の論調に沿った描写がされています。


弥生が由綺を、はるかを映す媒体としているのは、これまで通して述べてきた見解ですが、はたして由綺本人についてはどのように思っているのでしょうか。作中「弥生は由綺の才能に惹かれ、そして愛している」という話が、弥生本人あるいは英二の口から出てきますが、弥生の方はWA特有の言及対象の置換だとしても、英二側は確かに由綺本人の話をしていると思われ、弥生が由綺に才能を見いだしているというのは本当のことのようです。しかし、どうも腑に落ちません。あの手厳しい弥生が心酔している相手としてはもう一押し足りないというか。確かに熱意と頑張りは認めますけど、正直由綺にそこまで音楽的/芸術的な才能は見受けられません。理奈が由綺の才能を認めるような発言をすることもありますが、それが心にもない美辞麗句であり、全然そんな風に思っていないことは作中のあらゆる描写から明らかです。バージョンアップの度に歌唱力が上がっている感?はあるものの、初期のものは完全に素人同然で、そこがウケているのか知りませんが、客観的に見て、由綺には歌手としての才能は特にないものとして描かれていると考えます。また、弥生の評価対象が由綺のその性格にあるとするなら、彼女の子供のような愛らしさと純真さにほだされていることになりますが、弥生がそれしきのことで心を動かされる単純な人には思えません。やはり、もう一押しの決定打が足りないのです。しかも弥生は四六時中由綺と一緒にいるので、彼女が見た目通りの思いやりのある出来た人物ではなく、まさしく子供のように自分のことしか考えられない小人物であることは自ずと判っているはずです。ここは思いきって、物事を逆さまに見てみましょう。由綺が、誰に対しても情に欠ける利己的な人間だからこそ、逆に彼女を投影に存分に利用してもさほど心は痛みません。エゴにまみれているのはお互いさまだし、一方的に利用されたとて由綺は他人の動向に無関心なので気にもしないと思います。つまりおあつらえ向きで、ありがたく、何者にも代えがたいのです。身代わりの身ではありますが、現状、身代わりとして代えがききません。そんなこんなで由綺は、本人の実質はともかく、純粋な白紙の媒体としての価値は申し分ないので、弥生はその反映の才能に惚れこんでいるという訳です。本当に才能があって多少なりとも開花する可能性を秘めているなら、それを身勝手な投影で押し潰してしまうのは忍びないけれど、元より展望のない由綺を盛り立てることで、彼女も注目を浴びることができ満足、弥生も内心で理想を映し見ることができ満足、非常に合理的です。いかにクライマックスで感情が高ぶった場面だとしても、ガードの固い弥生が安易に自分から弱点を晒す訳がありません。由綺は本当は弱点ではないのです。弥生がいかれた人だというのは初めから判りきっていることなのでそれはまあいいのですが、由綺への愛情が唯一の人間味のように思われているのに、当の由綺に対し扱いが非道すぎてひどすぎます。由綺に心から同情します。エゴについては弥生自身認める所、投影の業の深さは重々承知の上で、悪いと判っていてやっていることなので、それを責めても弥生が悔い改めることはありません。


まず弥生の基準が河島兄妹である以上、見劣りするのは何も由綺に限ったことではなく、誰であっても霞んでしまうと思います。彼らは、謎を解くにつれ人間離れした桁違いの人徳を備えていることが明らかとなり、弥生が心酔しているとすれば間違いなくこっちの方です。そうさせるに十分な実質があります。兄妹と由綺、両方の本質を知る者にとって、由綺を選ぶ理由はほぼ皆無です。さらには弥生にとって兄妹は心の通じ合えた数少ない理解者ですから、彼らを特別視・神聖視するなという方が土台無理な話なんじゃないでしょうか。だからって彼ら以外のすべてを軽んじるのはどうかと思いますけど。脚本的にやりすぎです。もっとも長所はそのまま短所でもあり、弥生は彼らを妄信的に崇拝しているのではなく、実物には何かと口を挟んでいさめることもあったかもしれません。彼らは確かに高潔ではあるけれど、自分の価値に自覚を持たず自分を粗末にするその性質は、彼らを大切に思う人を悲しませる類のものゆえ、弥生から長文でお叱りを食らい、矯正を受けていそうです。弥生は、はるかのことは甘やかして優しく諭すようにたしなめているでしょうが、彼に対しては徹底的に論破してこてんぱんに叩きのめしてそうです。でも彼らは弥生の説教なんかどこ吹く風で、どうせ聞いてるのか聞いてないのか判らない態度で、目をそらして知らん顔するばかりだと思います。「うん」と素直に小言を聞き入れても結局全然聞きやしません。その結果が過去の事故であり、現在の苦境です。強情な所も欠点です。弥生は教育的指導を行いつつ、その辺の不変さもひっくるめて信奉してしまっているようです。