河島兄


冬弥は河島兄の記憶も失っているようです。普段の記憶、おそらくはるかのと同じ期間を。該当期間の兄とはるかがほぼ同じ温度で描かれていることと、かつてのはるかに関する情報の欠落を照らし合わせると、兄の実像もまた冬弥から欠落しているものと思われます。しかし兄が亡くなった以上、何も問題は起こらずそのまま放置されています。故人の想い出は美化されがちなもので、日常のだめな兄さんっぷりは別に覚えてなくても問題ないし、何ならスーパースター像だけでも兄を語れてしまいます。記憶損傷部位以前の12、13歳くらいの冬弥の精神年齢から、亡くなる直前の兄の姿を思い返す形になるので、兄とはえらく年が離れているような感覚がありますが、実際はそんなに年上という訳ではないようです。兄との間に年の差があるように感じるのは、英二の設定と印象に引っ張られた錯覚だと思います。とても大人びた感じに描かれていますが、冬弥の言うことなので、どこまで信じていいか疑問で、話半分に留めておいた方が良いでしょう。なにしろあのはるかの兄ですからね。


はるかの髪が肩口の長さから背中に届くまでおよそ3年以上かかるはずで、それは冬弥の空白期間ともほぼ一致します。つまり、はるかCGの二つのセピア画像のうち、兄との画像が(ほぼ)空白起点、冬弥との画像が空白終点となっています。物語上で意味があるからCGになっている訳ですしね。中学生想定で縦の成長をほぼ終えたはるかと比べて、兄がすごくでかいような気もしますが、長身だったと冬弥も普通に語るので、特に不思議ではありません。


河島兄の人となりについて、はるかと似ているという以外、特に記述がないのは、キャラ丸かぶりなんで何も書く必要がないのだと思います。クールなのかおっとりなのか、過放任なのか面倒見が良いのか、よく判らない独特な性格。はるかをさらに高性能にして口下手を悪化させたような人だと思います。どうも笑顔がぎこちないらしく、はるか以上に感情表現が乏しかったようです。でも公式の場では猫かぶってちゃんと話していたのでしょう(はるかも電話口ではちゃんと話す)。だからスーパースター像は壊れません。猫が猫かぶってもどのみち猫です。はるかが二人いても正直扱いに困るだけなので、登場を割愛して正解です。ちなみに、お風呂好きということ以外、顔や態度、仕草といい、何もかもが非常に猫っぽいはるかですが、冬弥は一切彼女のことを猫っぽいとは形容しません。それは、冬弥にとっては猫よりもはるかの性質の方が身近にあり、優先されるからです。たとえば通りすがりの猫の仕草を見て「あの猫はるかっぽいな」と思うことはあるとしても、その逆はなく、はるか自体が猫っぽい性質を持っている事実には気付きません。認識の基準がおかしいのです。はるかパネルで、往来の猫に出くわし、猫はそのまま立ち去るという、何の起伏もないどうでもいい一コマがあります。もしかしたら猫は二匹いたのかもしれません。冬弥とはるかの写しのように。だとすれば、そこで冬弥が「俺たちみたいだな」と言うんじゃないかと期待しますが、結局、冬弥は特に相似に言及しないまま猫を見送ります。まったく自覚がないのです。相対する猫の方もそんな風に無自覚に二人を眺めているのではないでしょうか。


本来、雲の上の人である英二が冬弥に話しかけてくる時「この人も話を聞かない人っぽいな」とぼやきつつ、冬弥が心底嬉しそうなのは、英二に兄の姿を無意識に映し見ているからかもしれません。記憶がなくなったとはいえ、その間の感覚や感情は残っており、長年の習慣もそう簡単にはなくなりません。冬弥は英二の様子をして「はるかみたい」と形容することが多々ありますが、おそらくは、はるかとも共通ですが、実際には兄との共通点を指しているのだと思います。冬弥は英二に対し、はるか相手みたいに横柄な態度は見せません、当たり前ですけど。基本的に絶対服従、たまに突飛すぎる見解にたまりかねて反論、というスタイルです。英二パネルが高レベルになると、冬弥はすっかり彼になついてしまってそれはそれは嬉しそうに話します。下手すると由綺に対してよりも嬉しそうです。パネルでの舎弟っぷりになじみすぎると、いざシナリオ本編を進めようとした時、英二に対し疑心や敵意を向ける冬弥に「えっ」って戸惑ってテキスト二度見します。すごく違和感。そういえば、そういう「設定」だったなと認知をリセットしなければなりませんが、シナリオ冬弥としても、恋敵関係による英二との対立は「表向き」の「名目」で、実際にはやっぱり手懐けられ、英二さん大好きだと思います。また、冬弥が英二に「たまには自然の中に逃げ出したくなりませんか?」というニュアンスのことを訊くことがありますが、それは兄の逃避行動であって、都会的な英二はいまいちピンと来ないらしく、普通に否定されます。読みが外れて意外そうですが、兄の性質を前提とした英二との会話、冬弥の思いこみ恥ずかしいですね。兄と英二を混同しているらしき会話、兄との違いに面食らっているらしき会話は他にもまだまだありそうです。


兄がどんな人だったかは、まるで切り取られたかのように空白状態で、さっぱり描写されていません。それはおそらくちゃんとした意匠としての構成で、わざと詳細の欠けた形になっているのだと思います。実際にいる作中人物の性格や言動から、共通すると思われる箇所や似た感じで起こり得たであろうやりとりをピックアップして、公式を当てはめるとかパズルをはめこむ感覚で、段階的に割り出すというプロセスを経ることで抜け落ちを埋めていく作業工程が前提になっていると思われます。まあ実際、兄直結の話題が多くても困るだけですしね。実物は死んでいるんだから。そのため設定上、どうあっても本題としては取り上げにくいようです。それに、兄の存在欠落はWA全体の均衡のためにも不可欠です。兄が死にさえしなければ、はるかと冬弥は思いつめない。思いつめなければ冬弥が昏倒してはるかの記憶を失うこともない。記憶が失われなければ間違えて由綺に恋することもない。由綺と恋人にならなければWAの前提はほぼ成り立たず、また由綺関連の人々と深く関わることもない。兄の死はWA全体に通ずる根本的な前提なので、兄が死ななかった場合という仮定の元では何一つ物語が成立しませんが、それでもあえて、もし兄が作中にいるとするなら、えらい大変なことになると思いますよ。考えてもみて下さい。はるかみたいな、英二みたいな、そんな兄さんが今も健在で、冬弥に話しかけてくるとしたら。人のペースをまったく気にせず、それでいて様子はしっかり見ていて、新鮮な反応を面白がって構ってくるのが、はるかと英二の他にもう一人出てきたら、冬弥の負担超過で心身がもちません。独白にしろ口頭にしろ、とにかくつっこみが追いつきません。それぞれ個々で対応するのも骨が折れるのに、さらにはるかと英二を一挙同時に相手にするような手間と厄介さです。誰がそんなやつに鈴つけるんですか。冬弥じゃ絶対に御しきれませんよ。完全になすがままです。兄と話しただけで一気に体力ゲージが強制消費されゲーム進行に差し支えても、疲れると判っていながらそれでも話したがって兄との時間を喜ぶと思います。野性味の欠片もない性格上、ペット的立ち位置が基本の冬弥、けれども彼の動物イメージが一体何なのかいまいち特定できないので、しっぽ振ってるのか喉鳴らしてるのか、はたまた別系統のシグナルかは判りませんが、兄に構われてご機嫌な感情を隠そうともしないと思います。多分、他の誰とよりも兄と喋るのを冬弥は喜んでしまい、それでは他の女性キャラの全存在が食われてしまうでしょう。野郎と喋るのが何よりもの楽しみとか、現状、彰と英二だけでも既にそんな感じなのに、もうどういうジャンルのゲームだか判らなくなります。やはり兄はいなくて正解です。


裏設定等でちゃんと名前が付けられているのか、それとも単純に名無しなのか、情報がないので判りませんが、基本なれなれしく名前呼びの冬弥が河島兄に限って名前呼びをしないのは大きな謎。二人の関係がどうあれ、名前呼びする習慣自体がなかったという事実が浮かび上がります。じゃあ兄とは疎遠だったのかっていうと、後述しますがマナ編を見る限りそんな感じでもなさそうです。はるかが兄べったり、冬弥がはるかべったりなのに、冬弥と兄は疎遠、なんてことは現実的に考えにくいです。


あるイベントで、はるかの発言を受けて「兄さん」と反復しているのか、冬弥自身の心の呟きで「兄さん」と言ったのか判別に困るのですが、冬弥は確かに河島兄をシンプルに「兄さん」と呼ぶんです、一回だけ。そうでなくても多くの場合「はるかの『兄』」と手短には言わず、必ずといっていいほど「はるかの『兄さん』」とか「はるかには『兄さん』がいた」と、あえて「兄さん」呼びで語ります。これが答えなのではないかと思います。つまり、冬弥は河島兄妹と兄妹弟同然の付き合いをしており、兄を単純に「兄さん」と呼んでいた。この「兄さん」呼びの確定のために、あえて河島兄の名前を設定していない可能性が高いです。製作者サイドとしては、サブキャラの名前を付けることなどたやすいことのはずで(実際、ちょい役のマナの友人たちですら名前が付いている)、後々判りますが、結構な重要人物であるにもかかわらず、兄の名前があえて明かされないのは何らかの意図があると考えた方が良いでしょう。冬弥としては、よその兄さんなのに何で「兄さん」って呼んでるの?という話になって、自動的に自身の家庭環境が明らかになるのは嫌なのか、それ以外の場面では一切言葉にしません。


一定時期、冬弥はわざと「河島先輩」と呼んでいたでしょうが、兄ははるかと同じ思考パターンと思われるため、おそらく従来通りに「兄さん」と呼ばなければ、冬弥の呼びかけを無視したと思います。作中でもはるかのマイペースに冬弥が仕方なく折れることが多々ありますが、兄ともそんな感じで、結局根負けした冬弥が「兄さん」と呼んで、兄にっこりという展開だったと思われます。ところが冬弥の記憶喪失により、普段の兄に関する記憶が抜け落ちているため、無視された状態が常態になってしまい、いよいよ疎遠だったかのような絶望的な関係になっています。日頃の行いって大事ですね。そういう訳で、兄に相当なついていて、頭が上がらなかっただろうにもかかわらず、冬弥は兄について無味乾燥な追想しかできません。兄の死に関して冬弥は、はるかと同程度の悲しみを負っているはずなのに(冬弥は依存度が高いので、ある意味はるかよりショックを受けたかもしれない)、記憶喪失がちょうど麻酔がわりになり、痛みに乏しい状態になっています。3年半+3年余りで、7年近くも前に死に別れたも同然で、既に遠い昔の想い出と化しています。いまだ兄の死を引きずっているはるかと、それを悲しむ基盤すら失くした冬弥とで、どちらがましなのかは判りません。


過去、冬弥の兄への呼称が「兄さん」になったり「河島先輩」になったりと定まらなかったことについて、それを聞いたはるかが変に思わなかったのかですが、そこははるかなので、冬弥の兄に対する身近で眩しい複雑な親愛と遠慮の両極端な気持ちを理解しており、気付いていても特に何も指摘しなかったと思います。そういうものかとそのまま。兄が亡くなり「河島先輩」呼びに表向き一本化?された今も、変わらず指摘することなく、何より失われたものの大きさに納得するしかないので、やはりそういうものだとそのまま受け入れているようです。


呼称使い分けの類似例として、冬弥は父に対しても「親父」と「父さん」の二種の呼び方を持っています。いつもは「親父」で通していますが、英二に、父への呼称を不意に訊ねられ、うっかり「父さん」と口走ります。普段は反抗心なのか大人ぶりたいのか、意識的にあえて「親父」と呼ぶように自分に仕向けていますが、ふとしたはずみで意識を介さずぽろっと出てしまう「父さん」の方が本来の呼称だと思います。兄ににしろ父ににしろ、従来通りまっすぐ慕っていたい所を、成長過程でどうしても素直になれない意地があるので、あえて突っぱねて、今までとは違う呼び名を使うことで自分の変化(成長?)を示しているのだと思います。いつまでも子供みたいに甘えてられないからね。冬弥なりのたしなみで、現呼称を使っています。子供っぽさの脱却を狙う冬弥の思惑に反して、逆に子供じみた意地の表れでしかありませんが、大人になる道は一直線ではなく時に回り道もあるということです。法則性の判らない彰の「美咲さん」「美咲先輩」の使い分けと違って、冬弥の使い分けははっきり完全に、凝り固まった体裁によるもので、その使用理由も見こまれる意義もたやすく見て取れるので、横で聞いているはるかが察しないはずがないのです。顔色の読めない彰より全然判りやすく、冬弥の考えなど関係者全員に知れ渡っていると思います。にもかかわらず冬弥が茶番を続けているだけです。


そういえば彰が冬弥を呼ぶのに「冬弥」のほか例外的に「藤井君」を使うことがありますが、あれ何なんでしょうね?美咲か英二の呼称欄が混入したバグというのが一番考えられる理由ですけど、美咲への呼称の使い分けと同じく、彰の冬弥に対する複雑な感情の表れだとすると少し考えこんでしまいます。好意によるものならいいですけど、あえて「藤井君」なんて白々しい言い方、冬弥と距離を取っているんでしょうか。二人が何事もない不動の関係ならともかく、友情が破綻する美咲編という実例もあるので、先見による不信かと思うと怖いです。でもまあ彰だし、そんな鋭さがあれば衝突を美咲編の最後の最後まで引っぱっていないので、彼には何の真意もなく、呼称使い分けにも特に意味はなく、やっぱりただのバグでしょう。


はるか編で重要とされる兄の話題ですが、その存在の重さの割には詳細が語られず、いまいち訴えかけるものがないのは、冬弥の記憶が欠けているからです。はるか側でも、兄の死に際し冬弥を振り回して倒れさせた苦い経緯があるため、そのことで冬弥に寄りかかるような真似は二度としません。よってはるかの方でも、傷心の割には、作中でさらっとしか兄について触れることはありません。冬弥には頼る価値がないと軽視しているのではなく、二度と冬弥を失いそうな状況に陥りたくないため、はるかは自分を律し、けっして冬弥にすがろうとはしません。冬弥の方も、記憶喪失事情を抜きにしても、はるかの求めもないのに無理に傷口を暴くようなことはできず、彼女の好きにさせています。冬弥は自分を頼ってほしいけれど自分からは言い出せず、はるかには冬弥を頼りにしたくても控えるべき事情があるのです。その辺の意識のずれが、二人の物語を極限にまでこじらせています。ほんのボタンのかけ違いで、互いに想い合っているのに心と心が通い合わないまま、問題が解決されず時間だけが過ぎています。由綺編クライマックスでの、空虚な由綺の部屋に対する描写は、大なり小なり、長年置き去りにしているはるかへの胸のつかえが影響しているのだと思います。その後、部屋に由綺がいることで、その場所に温度が宿り、由綺も人間味を取り戻す感動の場面となりますが、残念ながら冬弥は人物を取り違えているのでことは単純ではありません。冬弥もまた自分の由綺を取り戻したかのように語りますが、おそらく無意識の中のはるかに働きかけることで「失くした何か」を見つけ、取り戻せたかのような錯覚で高揚しているのだと思います。ほんと由綺に失礼です。


生前の兄について、本当なら日常話が腐るほどあるはずなのに、ほとんど何もなく、話に挙がるのは形式的、定型的なことだけです。兄に心底憧れていたとする概要語りの割には、彼についての具体的な詳細語りは一切されていません。「兄の想い出は、はるかとは少なからず共有している(はず)」と兄との密接な繋がりを明示しつつも、実際に述べられる「兄と冬弥の想い出」は皆無です。要するに、兄を語る上での外枠と中身とがアンバランスなんです。てことは、実際は冬弥が一方的に憧れていただけで兄とそんな親しくなかったんじゃないの?とも疑われますが、だったら普段の冬弥の、はるかに対する偉そうな振る舞いの数々を兄が見過ごすとは思えず、けれどそんな確執は特に窺えないことから、それらをまるごと了承するだけの本人の器と冬弥への信用が推定されます。つまり、大人しくよそよそしい猫かぶった冬弥ではなく、馴れたら図々しくて厚かましい素の冬弥を知った上ではるかを任せて好きにさせていたはずで、それはそのまま、兄と冬弥の確実な絆を証明します。にもかかわらず、その交流のありようが確実なテキストとして作中に存在しないのは、一つはこれまで述べた記憶喪失という理由が主ですが、その他にも、幼少期以来、豊富に取りためてあるはずの昔からの想い出が語られないのには、とある重大なもう一つの理由が想定され、そのためか冬弥は兄との追憶の日々を伏せています。別に語っても問題ない話ではありますが、その背景はWAという作品における冬弥イメージを根本から覆すもので、また冬弥本人に少なくない心の痛みを強いるものなので、意図的に隠されています。詳しいことはここでは保留し、マナの項目にて改めて述べることにします。


スター性の話。兄という前例もあり、順調にいけば、はるかもまた兄同様に名をはせるポテンシャルを秘めていたと考えられます。はるかは、美しく才能ある、いわばスーパースターの卵でした。残念ながら、はるかは本格的に有名になる前に挫折したので、多くは語られませんが。トップアイドルの緒方理奈や新進気鋭の森川由綺が知り合いでも、冬弥にとっては別に大した自慢ではなく、稀代のテニスプレイヤー・河島兄妹との関わりがまず根底にあり、本来そっちが一番の自慢です。はるかのステージが厳密に完全な実力勝負であるのに対し、アイドルは虚構という追加のかかった、裏の力加減でどうとでもなるステージでのごまかし勝負ですが、はるかが「人間相手は難しい」と言っていることからも、安易にその優劣を決めつけることはできません。ですがまあ、完璧に上玉で本物の実質を有しているのは、由綺でも理奈でもなく、まったくの盲点である大穴はるかだったということだと思います。さらには、河島兄妹のスター性が重要なのではなく、むしろ、世間に知られていない彼らの変な実態を知っていることこそが冬弥の自慢です。表面上、WAは由綺と理奈のヒロイン二頭立てのように扱われているため、いかにも冬弥がアイドル好きであるかのように思われがちですが、実際、冬弥って割とアイドルとか有名人とかどうでもよく、自分周りの身近なありようの方を重要視します。そして彼が大事に思うのは一貫してはるかです。「河島はるからしきもの」という媒体としての役割に魅了されているのであって、由綺や理奈がアイドルであることはさして重要ではないのです。特に面食いという訳ではなく、必要なのははるかに似ているかというただ一点のみで、そのはるかがたまたますごく可愛かったというだけです。


かつて冬弥の心がはるかから離れたのは、彼女がやる気を失くしたことが原因ではなく、ただひとえに冬弥の記憶喪失ゆえです。挫折したはるかに幻滅、失望した訳ではありません。第一はるか自体は前後で何も変わっていませんからね。冬弥にとっては「スターになる素質のある卵、『でも、俺の前では素顔のまま、だらしない姿を見せるはるか』」という後半部分が好きなのであって、美しい外面はあまり重要ではありません。ただ、冬弥が記憶を失くすことで、輝く残像を残したまま、普段のはるかが手の届かない所に行ってしまったという感覚が影響して、結果的に、輝きとともに愛情も消え失せたかのような錯覚に陥っているのです。冬弥としては、輝きとともに大切なものが失われた感覚があるため、何としても輝きを繋ぎ止めておきたい想いにかられます。それが、アイドルである由綺や理奈への対応に大きく影響しているのだと思います。人気アイドルをだしに、たかが幼なじみへの憧憬丸出しなのはすごく恥ずかしいことですが、冬弥は元々そういう人ですからね。不特定多数を楽しませるアイドルより、自分だけの身近なはるかの方がずっと大事なのです。