補足6


河島兄の死に直面するにあたって、はるかというのが何でもものにしている無敵の究極ヒロインではなく、彼女もまた自分と同じく、足元のおぼつかない一人のか弱い少女に過ぎなかったのだと冬弥は思い知りました。さらにその折に河島夫妻を誤解して受け取ることで、はるかには自分以外に支えは存在しないのだと気負うことにもなりました。はるかへの慰めは冬弥の肩一つにかかっていました。ところが冬弥の頑張りはえてして裏目に出て、良くない結果に終わります。直後の熱病により、はるかにも支えを必要とする弱い部分があるという確定事項に対し、一番肝心な実証的根拠が冬弥からは失われてしまいました。そのためはるかを支える必要性というのが宙に浮いた状態です。本当なら冬弥とはるかの間で何とかしなくてはいけない二人の問題だったのに、そこに何でだか由綺が間違って据えられることで、「理由はよく判らないけど、彼女を支えなくてはならない」という切実な義務感のもと、冬弥はダミーの由綺の方に強い執着を感じて一心に尽くしているという次第です。


冬弥手持ちの意識には残っていませんが、兄の死を境に、はるかのイメージは目に見えて弱体化しています。そして冬弥が目を向ける対象がはるかから由綺にすり替わることで結果的に、弱体化したはるかが俺を認めて寄りかかってくれるようになった、という都合のいいイメージを由綺に映し見てしまうようになります。独立心の塊なはるかが、それなのに俺を選んで頼ってくれる、というのは何だかすごく誇らしいものです。いや由綺は由綺で、欲望の向くままに冬弥を使いまくるのは通常運転なだけですが、当の冬弥には、頼みごとに不慣れなはるかが無理をして一生懸命に頼んできているように映る訳です。しかも?弱体化したってそれでも依然めちゃくちゃ強すぎるはるかが?男心をくすぐり俺を殺すテクとして?相手を立て自分を弱く見せる可愛げを覚えて?あざとさと全幅の信頼でもってがっつり甘えてくれるっていう?あのはるかが。俺だけのために。「あ…何か俺ちょっと嬉しい…」ってなりますよ。冬弥さあ…。天地がひっくり返ったってはるかが人受けに特化した振る舞いなんかする訳ないじゃない。キャラ考えなよ。何妄想爆発させてんの?冬弥は時々「(由綺はけっして弱くなんかないのに、俺を立てるためにあえて)『無理して』弱々しく振る舞う」みたいなことを言います。特に強くもない由綺には特に弱さを装う理由がなく、また常にあるがまま、特に無理なんかしていないのにです。たわごとすぎて、一瞬ちょっと何言ってるか意味判んないですが、これぞはるかを前提とした話なんですね。普段けっして表に出てくることのない根底の願望が透けて見えます。


絶対に考え及んではいけないことなのだけど、河島兄が亡くなることで、少なからず冬弥は役得というか、恩恵を受けた面もありました。「兄が死んだ『おかげで』」今まで控えだった冬弥が一番の支えとして認められる可能性が出てきたのです。何気ないプライベートにおいても、はるかの才能を伸ばす上でも、兄は支えとして完璧だった。兄のようにはるかを万全に支えることは、自分にはできない。でも、兄がいなくなった今なら、不十分な俺でもはるかは支えとして認めてくれるかもしれない。それどころじゃないこんな深刻な時に、わずかでもそんな卑しい考えが頭をよぎったのを自覚した冬弥は、ものすごく自分を恥じ、責め、激しい自己嫌悪に陥った。それなのに、一度意識に上がってしまった感情は消えてくれません。残されたはるかを前に「俺がいたってだめ?」と確かめたかった。それをはるかに訊くのは酷なことだし、何より許されないことだと判っている。だから訊けなかった。でも、どうしてもあの時訊いておきたかった。その「あの時」は冬弥の中から消えてしまっているけれども。それを踏まえて由綺編クライマックスを振り返ると、話にかなりの奥行きが出てくると思います。冬弥は「ままならぬ自分でも、それでも、後がないここ一番の時に迷わず真っ先に自分を選んでくれる」という証が欲しかったのです。


つまり「私い、緒方さんにキスされてえ、もうどうしたらいいのか判らない!」どうこうの痴情話ではなく、冬弥の脳裏のさらに最深では、それよりずっと重大な事情、大切な身内を亡くした最愛の人の心のケアの問題が再生されて展開しています。いやまあ由綺にとってはあれが人生最大の耐えがたい傷心ごとだったのかもしれませんし、安易にはるかと比べての軽重を決めつけることはできませんけど。けどね…。並べてしまうとどうもね…。由綺とのドラマでは、英二を交えた三角関係というくっそどうでもいいことにすり替わっていますが、絶対存在である英二が、同じく絶対存在の河島兄の残像にぴったり重なることで、冬弥が乗り越えるべき背中として目の前にそびえることになります。さらに「障壁がこの世からいなくなる」というずるくて仕方のない不戦勝条件ではなく、「障壁健在」の状態でそれでもなお意中の相手に選ばれることで、直接壁を乗り越え、その心に近づき、そして勝ち取った実感を得られます。由綺でまやかしの安息を得ても何の決着にもなりませんが、冬弥は自分が過去の心残りにとらわれて、それこそを解消したいと望んでいるという自身の心理構造を知らないので、それでそのまま納得してしまいます。


冬弥の中で英二の位置づけというのはどうも、対立的な恋敵という色合いは持っていないんですよ。実際に悶着が起きて、英二の心境が疑われる状況においてすら、彼に対する信頼はゆらいでいないというか。英二が広い視野でもって、何らかの回りくどい善処的意図で、わざと自分たちあるいは由綺単体に試練を提供したみたいな。本人に害意はなく、一次元上の立場から導く感じで糸を引いてくれているかのような。自分と相克する一人の男として敵視してはおらず、自分を俯瞰する父性的存在として、初めから敵わない敬意の目で冬弥は英二を見ています。英二はつまらない個人感情で動くような人間ではないとする暗黙の前提があります。事実、それは英二の真実に違いありませんが、冬弥はそれに対し無根拠な確信を持っています。由綺への、というよりは英二への信頼がすこぶる厚いため、由綺から英二との一件を聞かされても、冬弥が英二に怒りを覚えることはまったくありません。


その一方で、普段の日常場面の中で時々なんですけど、冬弥は英二に対し、見ているこっちがひやひやするくらい失礼な口のきき方をします。独白でも遠慮なく彼に毒を吐いて、それが自然と態度に表れることもしばしばです。相手は飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子プロデューサーなのにですよ。怖くないのか。それも、基本臆病で万事腰が引けている冬弥が。その辺、理奈に対してはしっかり線引きして一般人距離を保ち、絶対に踏みこんだ態度は取らないんですよ。あくまで別世界の人だとして、壁越しに遠巻きに接します。それなのに、理奈より明らかに上位存在であるはずの英二に対し、段階すっ飛ばしで一気になあなあという不可思議。ただでさえ人見知りがちな冬弥ではありえないくらい、異例の進行でなついているんです。この謎には、見えないワンクッションがあるんだと思います。


冬弥は、たとえば理奈なり美咲なりをよく褒めます。これだけ褒めるということはそれだけ彼女たちが冬弥にとって好ましく、心が傾いた対象であるからに違いないと思われがちですが、実はそうではありません。手当たり次第持ち上げるのは、その相手を認めているからではなく、心を開いていないからです。様子見の気持ちの方が強いから、無難な褒め言葉で何となく形ばかりによいしょしているだけです。反対に、はるかや彰など、既に心を開いて信用している相手には、冬弥は実に素っ気ない態度です。確実に信じられる人間だと認定完了しているから、外面良く「無駄なお世辞」でわざわざ取り繕う必要がないのです。で、そんな親しさゆえの図々しい無遠慮モードを冬弥はなぜか英二にも適用することがあります。英二とは出会って日が浅く、まともに絆なんて構築されているはずがないのにです。人間不信の冬弥が人と本当に打ち解けるまでにはかなりの時間がかかります。冬弥と英二の関係を説明しようにも、そもそも実質的な時間が足りていないのです。そこで、「既に関係が確立していた近しい誰か」との時間経過をそのまま英二に繰り越しているとしたらどうでしょう。つまり、冬弥がその心身を預けて信じきってやまない亡き河島兄のイメージを、そのまま英二に直移ししているということです。はるかとしての実質をまったく持たない由綺の場合とは異なり、英二は方向性こそ違いますが期待される「兄属性」の実質はちゃんとあるので、何の違和感も生じることなく、「関係継続」という形で絆はすんなり深まっていきます。そういう訳で、冬弥はあっという間に英二になじんでいるのです。


英二への態度の雛型と考えられる河島兄との関係自体が、障害の問題でか冬弥の意地でか、多くは語られず描写に乏しいもので、さらには冬弥は作中「河島先輩」呼びで通すので、そこまで慣れ親しんだ関係でなかったように思えますが、現実問題、冬弥が英二に異様になついてしまっている確定的事実の裏側を説明する理由があるのだとしたら、間違いなくこの箇所に答えがあります。冬弥から欠けた所に理由があるから、詳細が欠けてしまうのです。冬弥、無理して「河島先輩」なんて変な呼び方しなくていいんだよ。前みたいに「兄さん」でいいからね。そんなはるか喋りかは知りませんが。こじらせた心境的なことはスパイが冬弥の分まで代わりに洗いざらいゲロってるので、根っこの部分は大体あんな感じなんでしょう。あいつ何から何まで喋りまくって次々ボロ出して漏洩してマジで平静維持とか秘密保守とかできないのな。スパイ失格だろ。混線終了。兄を身近な年長者として心から敬愛する一方で冬弥は、消えた日常シーンでは「兄さんは暇になるといつも俺をからかって遊ぶんだ、他にやることないのか」とかの内容で、対面でぶつくさ言っていたかもしれません。はるかに対するいつものあれと一緒ですよ。「俺の前ではスーパースターなんて見る影もない、人前でのすごい姿と同じ人に見えない」とか何とか、いつもの英二評と似たようなことも言っていたと思いますよ。ていうか言わないはずがないです。よく知らない人の英二に対してすらあんな感じなんだから。冬弥の台詞回しは独特なので、つたない脳内再生の機能では正確完璧な形で再現することはできませんが、言わんとする主旨は大体そういう感じだと思います。言いそうな台詞を想像で勝手にあてると冬弥いつもぷんぷんで怒りますけどね。


音楽祭前日の英二の行動の真意について。状況的に、その場にいない英二から事情説明を聞き出せる訳もなく、また語り手でない英二の本心を直接読むのも叶わぬことで、由綺に対する行動の理由というのは、テキストとしては一切明らかになりません。ただ、冬弥が英二の思惑について、単純な私情でない何か彼なりの深い考えがあるのではないかといった見解を示すことから、表層上で受け取られがちな惚れたはれた的な理由でない「真の理由」の存在が、高いリアリティを持つ可能性として示されています。


屋上イベントなどで、感情で軽率に動く冬弥を軽く軽蔑し、苦言を呈して整然とたしなめる理知的な英二が、それなのに終局に至って、当の自分は人のこと言えたもんじゃなく、度を越して由綺を寵愛するあまり、自分の立場や彼女の身辺も構わず、しかもあらゆるコンディションを万全に整えておかなければならない正念場で、こらえ性もなく無分別に前のめりで言い寄る、なんておかしいでしょ?絶対ありえないです。だってそうでしょ?それって英二自身が評価に値しないとしている、刹那の感情にのまれる低次元な人間性そのままじゃないですか。ね?考えられないです。英二は普段ちゃらんぽらんですが、自分の美学や価値基準には非常に誇りを持っており、そこはゆらいだりなんかしません。ポリシーは絶対に変えないはずなんです。依然、英二が由綺にせまった「真の理由」は明らかにはなりませんが、しかしながら、一目で叩き出せるいかにもな理由「由綺への愛が高ぶったため」だけは、確実に「答えに該当しない」として、可能性の集団からはじかれます。


第一、英二が想いを寄せる存在として誰かを愛しているとしたら、その相手とおぼしきは弥生で、由綺は対象外です。本当に英二が弥生を愛しているかというのは、これもまあ確かとはっきり言えたものではないんだけど、弥生が自分に近づいた不届きな理由を知っていながら、それをとがめるでもなく、むしろ逆に彼女の望みを満たすべく鋭意取り計らっている時点で、そこにただならぬ感情があるからなのは明白で、つまりはそういうことです。愛がなければとても考えられない最上級の遇し方です。


英二は、内なる幻を意識的に素材に投影することで対象を愛する、そんな弥生の価値観をいたく気に入っているので、彼女の生きざまを尊重します。不毛に幻想を追いかけて、それなのにそれをしっかり現実へと繋げ、理念を強化してみせる弥生には一目置いています。弥生の価値観を大事に守りたいのが一番で、弥生の心を得ること自体はそこまで重要ではありません。その心が変わることなく、遠い視線の向こうに意味を求め続けていても、それはそれで構いません。そこにいない誰かをひたすら狂おしく愛し続ける弥生を、英二は不毛にもひそかに愛してしまっています。別に全然隠しておらず、好き感情自体は普段からあけっぴろげですが。日々の打ち合わせを通して、独自の価値観を持ち寄ってとことん語り合い、互いに敬意を払い、信頼関係でもって繋がっていればそれでいいのです。このように、英二の感情は非常に観念的な性質で成り立っており、即物的な情欲とは無縁です。


そんな訳で「弥生の夢を叶えること」が英二の活動において大きな目標の一つとなっています。弥生の投影には、英二に対するもののほか、由綺にはるかを求めたものがあり、現行の活動内容では後者の由綺育成がメインです。したがって英二が由綺にせまった裏側には「河島はるからしきもの」の完成に向けての仕上げの一押しで、由綺が耐えきるか否かの強烈な負荷をかけたというのが理由の一つとしてあると考えられます。弥生としては「はるか」が何の支障もなくただ穏便に、輝けるステージで存分に力を発揮するという理想、つまり悲劇が起きなかった「あるべき姿」の実現を夢見ている、要するに「悲劇をなかったことにしたい」ようですが、英二はそんな「未満」の次元で終わらせたくないようで、由綺に「はるか」の先行イメージを超えさせ、偽物を本物へと繰り上げようと試みます。英二が由綺へのデモンストレーションを事前通達していたら弥生が絶対に許すはずがないので、あれは英二の独断専行でしょう。英二は弥生の見えない所で、彼女が踏みきれない最後の一歩、幻の本物を上回った生身の偽物に「本物としての座」を明け渡すための手はずを請け負っているのだと思います。叶わない夢を永久に見続けたい気持ちは判りますが、以後も幻への愛を続行するにしろ何にしろ、現行のプログラムには一つの決着をつけることが必要です。英二は客観的に見通せる立場から、弥生の心の区切りを促すべく裏で暗躍しているのです。


英二というのは、巷で思い描かれがちな人物像とはかけ離れ、想像以上をさらに超えて綺麗な人間です。俗事に惑わず純粋な美学に徹する、芸術家としての理想像ともいえる存在です。そしてその性質は、指導者としての彼の方針にも直結していると思います。目上の立場をいいことに、たかだかその場限りの下劣な興味で、支配下の相手に関係を強いるなんてことはまず考えられない事態です。彼は権威的な人間ではなく、そんな征服感には価値を見いだしません。


そもそも英二自体に何ら由綺に下心がないことは、あらゆる状況証拠からほぼ確実です。英二は由綺に強引に言い寄りつつ、本当はそのつもりはないことを一番の裏前提として、仮に由綺が他のお偉いさんに強要された時どう出るかを試したのではないかと考えます。つまり予行訓練を行ったという見方です。英二の行動は「ふり」なので、もし由綺が要求に応じたとしても、英二の方で即刻「待った」がかかり、状況は遂行されません。由綺ちゃん、それは良くないぜ。この場合、英二は「本気でない」から何事もなく済むだけの話です。英二の管理の及ばぬ所で、「欲に目が眩んだ」由綺が見返りを望んで勝手にそういう条件を安易にのんでしまうのなら問題となるので、先回りして一芝居打ち、ロールプレイとして、考えさせて「経験を積ませた」ということです。英二は支配欲はそこまででもない一方、完璧主義者で、「作品」が管理下から外れることをとても嫌がります。把握可能な範囲内での意外性は喜びますが、無制御な好き勝手は好みません。英二は由綺に、優遇に対する見返りを求めているように見えて、実は逆に、その手の話には乗るな、優遇という見返りを求めて飛びついてはならないと警告しているのです。処世を教える指導者として理想的な、一つの完成型です。英二の人物把握というのは、作品解読の総仕上げに相当します。それまでの謎解き過程で出てきた余剰の副産物をかき集め、意味を持った塊になるよう組み上げていくと、実テキストではけっして描かれることのない英二の本質を読み解くきっかけとして有効になります。謎解き結果の目安として、見かけの定説から主旨が正反対に裏返れば、基本的にそれが正しい答えです。


由綺編クライマックスの裏側では変な現象が起こっています。由綺が英二にキスされた云々の話が、幻想投影の逆流により間接的に、はるかが兄にって禁断話に置き換えられます、冬弥脳内の最奥で。「うそ…はるかが兄さんに?え?え?」と無意識では大パニックですもう。起こりうる可能性として十分すぎること、それは派生の片割れである冬弥本人が一番よく判っているはずです。元々河島兄妹はすごく仲が良く、それは傍から見ても判るほどだった。それでも河島兄には特に、実妹に病的に固執して思いつめなくてはやっていけないほどの要因はなく、本人の性格もいたって淡白なのであんまりそういう傾向は見られなかった。とはいえ設定上では縛りから解放されているといってもそれは確かなのか。はたしてそんな、いともたやすく綺麗さっぱり解けるような縛りなのか。やはり起こるものは起こるべくして起こるのではないか。冬弥としても「河島兄妹」という聖域には絶対に入りこめないという日頃からの鬱屈があり、兄妹仲をやっかんでいた部分もあった。それが時を超えて今になって「一番考えたくなかった非常事態が現実になった」かのような「妄想」として、英二と由綺の図式に投影されてしまいます。何もしていない河島兄妹には言いがかりもいいとこだし、勝手にアブノーマルな兄妹図を転写される英二と由綺としてもいい迷惑です。自分の意識の及ばない所で妄想大暴走状態の冬弥は、内部のショックとパニックが極まりすぎて思考が止まってしまうため、かえって水を打ったように心静かな境地で、冷静に由綺の癇癪、もとい信じたくない兄妹の既成事実(妄想)をあるがまま(妄想)受け止めます。悟りモードです。そして今の自分にできることは何かと模索し、落ち着いて話に耳を傾けるという現実路線な応対(ここだけは本当に現実路線)に臨みます。


怪しい疑惑当人の河島兄ははるかじゃなく弥生の方にしつこく憑いているって現状があるので、それはそのまま彼の熱愛対象は弥生の方で、禁断の兄妹愛については無実であるという証になります。うまく気をそらして無事修正軌道に乗った模様。兄もまあ、弥生にぎっちぎちにシメられるから、そんな過ち犯すなんて無茶はしないでしょう。わざと挑発してシメられたいっていうんなら話は別ですけど。でもま、挑発っていうくらいだから、ちらっとほのめかして弥生を動揺させてからかう程度で、実際にマジ宣言はしてこないと思います。


放置され、いまだ果たされないはるかへのケアについて。現在の由綺への働きかけを見ても、冬弥は「自分のすべてを彼女のために使わなくてはならない」という強迫観念のもと、自ら望んで日々無償奉仕に励んでいます。それでいながら「彼女が望まない限りは身を控えていなければならない」という抑制も効いており、自分から接触を強く希望することはありません。それは元々の対象であるはるかへの強い報恩感情を持ち越したものであり、また彼女の自立性を尊重しているからこそ貫かれている対応でもあります。彼女が誰かを必要とするその瞬間まで「ぎりぎりまで粘る」のは、何より彼女の度量を信じているからです。そして彼女が補助を必要とした時にはその瞬間で「真っ先に駆け寄れる」よう、常に受け入れ態勢で待機しています。そんな中、予備段階なしで、兄の死という生まれてこのかた経験したことのない最大級の不幸がはるかを襲いました。ところが、打ちひしがれて冬弥に寄りかかりながらも、おそらく例によってはるかはその時「冬弥が必要」だと明確に意思表示をすることはなかったのだと思います。言葉による説明が足りないのははるかの最たる難点です。そしてそれを冬弥は非常にネガティブに受け取ってしまいました。そんな一大事でも「俺は必要とされなかった」とする思いこみが心の棘として食いこみ、冬弥の無意識に暗い影を落としています。何も言わなくても、はるかが冬弥の側を選んだということはそういうことなのに、当の冬弥はそうと受け取れず、はるかが両親に見捨てられて行き場を失くし、仕方なく自分の所に来るしかなかったと思っています。そして当時の記憶が不完全な今もなお、自分の無価値を責め続けています。以心伝心の彼らなのに、肝心な時に限って意思疎通が叶わなかったのです。


冬弥は「きわめて優れた河島兄妹、『のおまけで末弟的にくっついた冴えないみそっかす』」の立場です。兄妹弟のようではあっても、結局は自分だけは赤の他人で、どうやったって彼らと同列にはなれない。選ばれた存在である彼らだけに許された境地には至れない。特に兄に対しては、冬弥は羨望と劣等感の入り交じった複雑な感情を抱いていたと思います。それでも兄との絆は深く、信頼はゆるがないものでした。これまで、いつだって困った時には兄を頼れば大体何とかなってきました。だから今回も兄を頼れば…って、その兄がいないから困っているんです。残されたはるかにどう対処していいか判りません。兄と同等かそれ以上の度量を持つ弥生ならばあるいは、はるかを包容して善処することも可能かもしれませんが、頼みの彼女もまた事故直面のダメージで行動不能になっており、駆けつけは望めません。本当に、冬弥一人にかかっていたのです。それなのにはるかは依然として冬弥を頼ろうとしない(と冬弥は思いこんでいる)。こんな時なのに、俺は何の役にも立てないのか。兄さんじゃないから。その事実が冬弥を苛み、のしかかる無力感に思い悩む元凶となったことは想像にかたくありません。


兄の死に際し、いかに身を裂く悲嘆といえども仮にもはるかなので、そうヒステリックな状況にはならないと思いますが、まともに立っていられないくらいで、いつものはるかからは想像できないほどぼろぼろになっていたと思われます。そしてそんな状態でありながら、はるかはおそらく、けっして泣きごとを言わなかった。「どうしていいか判らない」だとか「兄さんがいないとだめ」だとか、はるかが明らかにその状態であることは確実なのだけど、彼女はそれらを声に出して言うことはなかった。はるか最大のアイデンティティである自立性を、横から勝手に無理やり侵害してはならないという規制意識が冬弥にはあります。はるかからの要請があって初めて冬弥は動けるのであって、直接の泣きごとがなければそれに応じる次の手は打てません。由綺や理奈が発する台詞は、それこそ冬弥が「はるかに」待ち望んでいた一言で、それをきっかけとして、冬弥は一気に目の前の相手に強制チャームされます。思考は完全に飛びます。そこにあるのは「はるかのために生きたい」という冬弥かねてからの願いと「はるかを取り戻し、そのまま繋ぎ止めておきたい」という抑えがたい欲求だけです。別に、満たされない自己肯定感の充足を図ろうとして、不特定に幅広く、困っている女の子全般に向けて頼られたい願望を持っているんじゃないんですよ。冬弥はただ一人「はるかに」頼ってほしかったのです。


かつての不幸にまつわるすれ違いは、冬弥とはるか、両方の独自性と信条が全部裏目に出た結果です。冬弥には、無力を思い知った上で、それでもなお力になりたいという渇望があります。そしてそれが高じて、はるかの気持ちを得たい、はるかに全身ですがってほしいというやましい期待があります。それでも彼女の意思を重んじるあまり、自分からは今一歩踏み出せず状況は動きません。思うように進まないケアと意識から消えてくれないエゴの狭間で苦しんだ冬弥は、自信喪失と自己嫌悪でいっぱいになり、それが二大ストレスとなって、体調不良に影響しました。ただでさえ平常でない状況下で運悪く熱病を発症し、そんな中、脳を酷使して思いつめる要因が深刻すぎたのです。普段、冬弥の思いつめを緩和しているはるかによるセーフティモードも、はるかが本調子でないから全然機能しません。抑止の入らない冬弥全力での思いつめの結果、彼ははるかに関する大事なあらゆることを失ってしまいます。


負荷に対する耐久力として、元来悲観的で自罰性の高い冬弥の方がはるかより自分を追いこむ度合いが大きいので、はるか周りでひたすら心をすり減らして世話を焼く冬弥の方が先に限界に達してしまいました。冬弥が倒れてようやくはるかは持ち前の冷静さを取り戻します。そして、前後不覚で取り乱した自分を悔います。はるかが「何も言わない」ことが少なからず冬弥を追いつめた一因となったのは確かなのに、はるかは肝心のそこに気付かず、感情にのまれてやみくもに冬弥を振り回した自分の身勝手を責めます。そのため、はるかはいよいよ「何も言わない」性質をこじらせ、自分だけで何とかするようになりました。冬弥は頼ってほしくてたまらないのに、はるかは一層頼りません。状況は悪い方へ悪い方へと転がっていきます。冬弥が記憶を失くしたことに気付いても「何も言わない」、冬弥が取り違えて別の誰かを自分だと思いこんでいても「何も言わない」、現状耐えがたい精神的失調に苦しんでも、それでも「何も言わない」。冬弥じゃなくても「言えよ」って言いたくなります。実際「言えよ」と言われてもやはり頑として真実を「言わない」はるか。はるかがはるかである限り、その口を割らせるのは不可能です。


裏事情に関し「何も言わない」ことが重大な問題点となっているはるかですが、しかしながら、この「何も言わない」というはるかの性質、作品上ではどこまでも理想的な最高の価値観として描かれているようです。でもなければ真ヒロインとしての魅力要素を精緻に設定され、そしてその判明に至るまでの仕掛けを大事に守秘しておく理由がありません。とても貴重な人間性なのにやすやすと公開して、価値の希少性を損なうようなことはしたくないのでしょう。実際、言葉でまとめてしまえば、はるかの設定は割とありがちな内容に収まります。想い人が病気で記憶を失くし、その不幸な運命に傷つきながらも、相手を優しく見守り続けている。記憶喪失ものの陳腐なテンプレもいいとこで、何一つ目新しさはありません。なんてことない話です。それこそ創作物の世界では石ころみたいにそこらじゅうで見かける胸焼け定番要素です。でもはるかは、その話を作中で一切明かしません。その話がメインなのに、その肝心なメインの話をしないまま話を終えるんです。これはかなり珍しい趣向です。単純に、記憶喪失ものとしての悲劇云々を売りとしているのではなく、その悲劇を「黙っている美学」の方を売りにしているのです。それでも真実が判明しないことには話としての始末がつかないので、一応は手がかり的な匂わせ発言はいくつかあります。けど直接的な内容は一つの明言もされていません。真相を解明できるかできないかは本当にぎりぎりのラインで、正直、WAにそこまで興味を持てない人にとっては初めから真ルートを断たれているようなものです。よほど入れこんだ人でもなければ、物語を深く追求しようなんて普通思わないです。WAの世間的な評価がすこぶる低いのは結局、「判る人だけ判って、そして察して」という、その排他的理解要求のほったらかし精神が一番の原因だと思います。だがそれもまた良しです。


はるかの抱える事情が想像を絶する過酷なものだとして、かといってそこで「私、ずっと寂しかったんだから」とか「私は頑張ってきた!」とかやってしまうと、はるかとしての魅力は損なわれる、ていうかそれはもうはるかではない訳です。何も抱えていないから「何でもない」と言っているんじゃないんですよ、重荷を抱えていても「何でもない」と言って、何でもないことにしてしまえるのがはるかです。自分の辛さをひたすら黙っているはるかの、その真実に自力でたどりついた時点で初めて読み手は彼女の辛さに直面することになり、抱えた辛さの深刻さもさることながら、それでも徹底して沈黙を貫いて平静を保つ彼女の健気さに胸打たれることになります。「はるかは何も言わない」というのはひときわ大きな掴みです。はるかが所有する真実は、現在冬弥が認識している現実世界を転覆させかねないものであり、はるかが何か明かした時点でそれは、冬弥の心よりもはるか当人の復権を優先させることになります。冬弥の心を壊してまで自分の立場改善を図るなどはるかにはできません。はるかは、自分がどれだけ切迫してもけっしてその選択には至りません。それが「間違えている」冬弥にとって本当に適切な対応なのかはさておき、はるかが冬弥を守ろうとする思いやりは間違いなく本物だと確信できます。論より証拠です。ここまで含めてのトータル内容がはるか攻略です。努力宣言を発言者の言葉通りそのまま受け入れて手放しで評価してしまうのが、いかに浅い感動だったか思い知らされます。本当に頑張っている人というのは「自分はこんなに頑張っている」なんていちいち声高に主張しない、人知れず困難な日々を送りつつ、ごく当たり前に普通に振る舞っているもんなんだよ、というのがWAの根底に流れる普遍テーマです。冬弥にしろはるかにしろその流儀は徹底しています。WAのメインキャラは由綺と理奈ではありません。目立たしい芸能話ではなく、地味で地道な普通話の方が、WAの本当の本題なのです。


由綺と理奈、どちらがWAのヒロインとしてふさわしいか?正史はどちらか?と比較した熱戦でよく語り上げられますが、無駄な議論です。どちらもヒロインに値しません。両方ただのはるかの噛ませです。それぞれ冬弥が自分に夢中になっていると思い上がったり、冬弥そっちのけで自分本位にキャンキャン吠えて乱闘したりしている間に、何食わぬ顔のはるかが冬弥の隣という定位置でどっしり茶なんかすすって落ち着いている構図は徹底しています。勝者の風格。ほんとひどすぎる内容。ですが、そういう話だから仕方ないんです。初めから話がそういう構造で作られているんだから。はるかを端役と思うこと自体が間違いです。与えられた役割が全然違うのです。残念ですが固定配置は少しもぶれません。はるかほどの極上の度量を持ち合わせている人なんてそうそういません。トップアイドルすら並の俗人に霞ませるほどのスーパー幼なじみって何なんだ。


「はるか相手なら、向こうも大して気を遣っていないからこっちでも付き合いに手を抜いて構わない」「はるかと過ごすのは何も考えなくていいから気楽この上ない」と考えるのは大間違いで、実際にははるかにとことん心配をかけている上、過剰な心痛を負わせており、相応の対処の必要がある訳です。それでもはるかは微塵も苦悩を見せず、冬弥に配慮を要求することもありません。それがはるかです。実際過酷な環境に置かれたとして「私、こんなに頑張ってるんだよ。偉いでしょ?褒めて?」みたいな素振りをしてしまうと、さすがにそんな直接的な口頭表現はしないにしても、そんなのもうはるかではありません。それは真っ赤な偽物です。そしてその偽物はよく喋ります。はるかが言わないから判らないままになっているはるか事情と違い、非常に判りやすい言葉で片っ端からお気持ち表明してくれるので、ある意味どう対応すればいいかが判りやすいんです。主張をそのまま受け止めて、要求通りにすればいいだけですから。でもそれって本当に妥当な対応ですか?言われたままを無条件に認識に取り入れて本当にいいんですか?


常々「冬弥君が心配」と広言する由綺と、何も言わないはるかとで、どちらが本当に冬弥を案じているかなんて、単純には判定できないものです。はるかははるかで、どんなに心から想っていても直接口に出さなきゃ何も受け取ってはもらえず意味ないって部分がありますが、由綺は由綺で、どんなに健気なことを口にしてもそれが必ずしも彼女の真実を指すとは限らないという落とし穴があります。言ったという「事実」は確かですが、言った内容が「真実」かは必ずしも確かとは言えません。口からでまかせということもままある話です。ですが、健気台詞は言ったもん勝ちです。「心にもない台詞」でも「言えば真実」なのです。言って、音のある言霊になったら、それが真実になってしまいます。それが真心空っぽの内容でも。言わなきゃ何も判らない、言ってもそれが本当かは判らない。でも、確かな「言葉」になっているのは後者の方です。「言葉」という明確な証拠があればそれを受けて信じざるを得ません。私たちは、手に取れる判りやすいものに対し、もっと懐疑的にならなければなりませんね。


言わないはるかにしても、中身のない由綺にしても、両方がそうした「個性」というだけで、どちらが上とか下とか、そんなランク分けはありません。それぞれ向きの異なる、それぞれの突出した特性を比べて、その優劣を決めることは不可能です。二人は同じ基準にいる訳ではなく、また同じ尺度を使うこともできないですから。ただ一般尺度では優劣が定まらないものの、冬弥の個人的尺度という限られた条件においては、はるかの性質というのが価値観として至高の位置づけなので、自動的に、物語の上で冬弥の意識をことごとく方向づける要素となっています。


何も考えてなさそうなはるかが実は日々色々と深く考えているという真実を、直接本人から言われなくても冬弥は無意識にちゃんと判っています。そりゃ判るでしょう、長い付き合いの中、目に見えぬ確かな彼女の優しさに浸されて生きていれば。判っていてわざと、彼女を侮る発言を強がりで繰り出しているだけです普段は。そんな中、現況にまつわる認識については制約があるので把握不可能な部分も多いですが、それでもそういう不完全な状態にありながら冬弥は、自分がはるかに何らかの重い苦痛を負わせているという消えない罪の存在を薄々感じ取っているようで、時として言葉にならない想いに声をつまらせ、泣きそうになる場面もあります。意識では判らなくても、はるかのことは感覚で、肌で感じ取れます。何も言われなくても、それが何か判らなくても、欠けてなお冬弥は物言わぬはるかに大事な何かを察しているのです。


このように冬弥ははるかについて、判らないことまで判っている状態です。表面には出てこない彼女の価値を彼はちゃんと知っています。しかし冬弥はそれで良くても「プレイヤーに向けて」十分に良さが伝わっているかというと、必ずしもそうではありません。「はるかはちっともデレないから、冬弥に特別な感情を持っているように感じない」と切られても、それは仕方のないことです。必要とされる心情説明を完全に放棄しているのだから、プレイヤーにそう受け取られたってそれは全面的にはるかが悪い。はるかが何かと軽視され、その重要性が知れ渡らないのは、何よりはるか本人の責任です。


そう考えれば、由綺の性質もけっして悪いだけのものではないのです。言われて嬉しい言葉をいくらでも浴びせてくれますから。「プレイヤーとしては」恋愛ゲームに恋愛展開を期待するのはごく普通の心理で、甘いやりとりを気分良く味わえるかどうかが満足度を上げる有力なポイントです。その点、由綺はセールスとしての役目をしっかり果たしていると言えるでしょう。話の中で、冬弥が由綺の存在に背く選択をしたとしても、由綺の「発言だけ」に限定して参考にするなら、彼女から得られる愛情というのは熱意の変わらぬ純粋なもので、それだけに心の痛さとともに不動の愛され感を得られます。疑いもなくそうと感じて「いられる」ことが、物語をストレートに味わう上で重要なのです。そのための「判りやすい」台詞回しです。結局、由綺の中身がどうあれ、受け取り側の方で好ましく受け取りさえすれば、由綺そのものが実に好ましいものとして立派に成り立ってしまうのです。判定基準は主観がすべてです。自分がどう感じるかです。冬弥としても何かと「言われて嬉しいことをただ言われるだけで、それだけでも嬉しい」みたいな慎ましいことを言うし、与えられる言葉というものに、言葉によるお墨付きからくる満足感を得られるなら、それでいいのではないでしょうか。薄っぺらい言葉の中に確かなものは何もなくても、その言葉でもって確かに満足はできているのですから。由綺に関して、本当はどうであるかなんて深掘りするメリットはありません。そんなことをしたら彼女に期待されるすべてが失われてしまいます。ただ彼女の言うことを真に受けて、そのままだまされていればいいのです。それが由綺との交際を喜ぶ秘訣です。