補足7


とどのつまり、由綺とは一体どういう人物なのか?その真実の姿とは?特に理由もないのに単なる好き嫌いで、私怨にかられて理不尽に中傷しているだけと誤解されるのも困るので「テキスト描写に忠実にのっとって」おいおい検証していこうと思います。これまでも基本的に実テキスト準拠で解説してきましたが、仮説の方針宣言として、念のため。えー、回りくどいぼかしもなく、端的かつ単刀直入に言うなら、由綺というのはヤバいキャラです。俗な言い方でなんですが、これ以外に適した表現が一つも浮かばないのでこの言葉を採用することにします。普通に見えて実は全然普通じゃないっていうのは冬弥も同じなのですが、彼の場合は努めて普通を維持しているという裏事情ありきであって、かたや由綺のように、本人にはまったく隠す所がなく奔放にしているにもかかわらず、その明らかなヤバさが世に伝わらないのはすごいことだと思います。


皆さんも少しくらいは思ったことありませんか?冬弥の扱い、ひょっとしたら思いのほかひどいんじゃないかって。プレイしてて普通に感じません?立場の格差により、時のアイドル相手ならこっちでひたすら要求をのむばかりの対応になるのも既定路線で仕方ないかとまるまる従順に受け入れてしまいがちですが、由綺って完全に冬弥本人の都合を無視した使い放題を前提にしていますよね?完全に奴隷ですよ。冬弥は「たまたま」いつも暇してるから、特に問題もなく、しかも喜んで由綺のお願いを聞き入れますが、どう考えてもひどい交際状況です。交際と言えるのかも判りません。ただ一方的に利用されているだけのような。恋人なら誠意として当たり前にこなすべき尽力で、その負担すら恋する喜びなのかもしれませんが、本当にそうかなあ。それにしたって限度があります。「冬弥が暇してる」というのにもそもそも疑問があって、本人はっきりとは言わないんだけど、由綺のために「いつでも」対応できるように初めから自分の個人的な活動を制限している節があります。美咲パネルで「冬弥は、自分の将来を決める一大事においてさえも、由綺を主眼に置き、由綺の利益に添った方向を選んでしまうだろう」とされていますが、その要点が「身を尽くす恋愛の素晴らしさ」ではなく「身の崩壊に繋がる危うさ」として、一次元上の視点からは否定的に描かれているのは確実です。美咲さんも先がヤバいと多分に見越していて、しかも対象がダミーに過ぎないことも知っていて、生ぬるく眺めて破滅を温かく見守っているんだからほんと偽善者です。弱った時が狙い目だから超虎視眈々。


冬弥の気質は飼い慣らされた奴隷そのものなので、配慮されない状況を強いられてもそれが普通で、しかもそれすらも喜ぶべきと自分に刷りこんで自分を納得させているため、自ら率先して無茶な待遇を選びます。それが彼にとってはいわゆる「ありがたき幸せ」なのです。歓喜にひれ伏して申し上げるあれです。由綺編とは、奴隷が奴隷としての生き方を追い求め、かろうじてとどめていたわずかな尊厳である、一番大事な個の心さえも失うまでの過程です。由綺EDは見た目こそ幸せいっぱいですが、実益を得たのは、由綺のためだけの存在に達した冬弥を手に入れた由綺だけで、冬弥側では実際、人としてすごく悲惨な結末だと思いますけどね。


由綺にとって冬弥はイエスマン、つまりは奴隷であることだけが存在理由であってそれ以外に価値はありません。由綺の目に映る冬弥には「顔が良くて優しくて、言うことを聞いてくれる」以外に特徴はないのです。だって由綺、いつもそう言ってるじゃないですか。それしか言わないじゃないですか。それが真実です。いつでも私に優しくて、会いたいと思ったらいつでも会ってくれて、みたいなご都合以外に、由綺は冬弥を説明する言葉を持ちません。冬弥というキャラそのものにそれしか特徴がないんじゃないですよ。冬弥には、これまで取り上げてきた通り、一言じゃ書ききれないほどの大量で複雑で重要な特徴をその身に抱えているのに、全部が全部「無い」ことになるのです、由綺の認識では。知らないことは存在しないとして、初めから除外されます。あるのは由綺手持ちの冬弥君イメージだけです。


他にも言葉にならない冬弥への認識が各種多様にあって、それらを胸の内いっぱいにたたえた上で、たまたま上記の性質だけが顕著に挙げられているのかというと、別にそうでもなさそうです。由綺によって示される冬弥の性質は厳密に限定されており、他の認識の可能性に繋がる断片すらありません。いつでもどこでもどんな状況でも「顔いい、優しい、言いなり」と、必ずこの三点セットです。たまにセットから揃いが欠けることもありますが、セットのラインナップに番外はありません。必ずこの三つのどれか、あるいはその亜種です。それ以外の系統は一切存在しません。見た目が良くて人当たりがソフトで、何でも聞き分けてくれるという、自分所有の「見せびらかし彼氏」としての都合の良さだけで、それ以外には何もありません。冬弥はあくまで由綺のお気にのアクセサリーです。その興味範囲の狭さから考えるに「冬弥君はただ、かっこよくて優しくて私の言うことを聞いてくれるだけでいいんだから」と言っているも同じです。「それだけで嬉しい」と言っているんじゃないですよ、「いるのはそれだけ」って意味です。言うなれば、由綺の都合の前では冬弥個人の意思や感情すらものの数に含まれず重要視されないということです。冬弥の魅力を大層絶賛しているように見えて、由綺好みのルックス条件をクリアすることが最低限、そして冬弥の都合に構わず由綺の意のままにできることこそが彼の唯一の値打ちだと宣言している訳です。もうどうしようもないです。


よくよく由綺の話を読みこんでいったら、彼女がヤバいのは泡立つように感じられるはずです。かなりヤバい筋金入りの地雷案件です。由綺本人は何ら自分の思考がヤバいと認識していないので、いたって平然と、場合によっては媚びとして当てつけるくらいにありのままの想いを口にします。秘するどころか表立って強調して開示されるヤバさ。本人、好印象に繋がると疑いもせず、ばっちり評価を得られるつもりでこれ見よがしに見せつけてくるから余計ヤバい。ヤバさはとどまることを知りません。でも表面上はぱっと見どれも、心のこもったまっとうな賛辞でしかないから、単独ではそのヤバさがすぐには判らないんですよ。事例の積み重ねを経て、パターンを解析することで初めて、見えなかった主旨が自ずと浮き上がってきます。たまに私みたいな、重箱の隅をつつくような粘着質なプレイヤーが発言内容をほじくり返して、由綺の本質を白日のもとに晒すこともあるのです。


由綺の無茶ぶりの実損害を受けないプレイヤーは、その負担を我がことに感じられないから、由綺の言い分を言葉のままいじらしくありがたいものと受け取ってしまうのもそれは仕方ないとして、問題は、そんな劣悪な奴隷待遇を実際に課せられている冬弥当人が、そのひどさを疑問にも思わないことです。冬弥は、だってほら、頭おかしくて現実見えていないから…。冬弥は「たまたま」精神的にも機能的にも頭おかしいから、由綺のヤバさを実感できないのです。二人の交際が続いているのは何より、冬弥がとことんマゾで認知機能に深刻な異常があるからこそです。由綺のヤバさに直面しても少しも問題とせず、長らく夢中で恋していられる冬弥が特別おかしいだけなのです。


冬弥は基本的に卑屈ですが、それでも、相手が誰であってもひたすら奴隷の立場に徹せられるほど自分を低めてはおらず、あくまで「仕える主人のためなら」すべてを捧げても構わない誇りある奴隷なのであって、その区分けははっきりしています。そしてその本来の主人とははるかです。別にはるかとの間に主従関係が成り立っているってことではないですよ。冬弥が個人的にはるかの恩に報いたいと望み、心の中で彼女を主人認定しているだけです。はるかとの場合、彼女がまず自分を気遣ってくれるという強固な前提があるからこそ、冬弥は彼女第一で生きる生活もやぶさかではないのです。はるかのためなら死ねるとばかりに身を尽くし、本当に死にかけ、結果死に損なっての今ある現状です。はるかのためならいくらでも、自ら進んで彼女だけの奴隷になれます。口にするにはあれすぎるので表立っては言えないけど。そして、小さい頃から普通にはるかに振り回されてきたので無茶に慣れており、冬弥自身が被虐気質で振り回されるのが好きなので、そんな大変さは少しも苦ではなく、日常化しています。


はるかにならどんなに振り回されたっていい、むしろそれが嬉しい。はるかだから何を求めてくれてもいい。彼女を信頼しているし、彼女に信頼してほしいから。それこそ自分をわがままに利用して私物化してくれたって構わない。そうするに十分な資格がはるかにはある。「はるかになら」「はるかだから」「はるかには」です。でも由綺ははるかじゃないですよね?冬弥ははるか前提で無茶を快く受け入れているのに、無遠慮に無茶を強いてくるその人物ははるかではないのです。由綺自体はちっとも冬弥に配慮がないのに、冬弥は信頼に足るはるかの性質を当てはめて、ありもしない由綺の気遣いを的外れに信じこんでいます。しかも由綺は思いやりを自己申告してくるからね!そうなのかとそのまま感激してしまいますよ。本人がそう言っているなら、それをわざわざ否定する理由はありません。そして、元であるはるか対応での行動パターンからして無茶が当たり前になっているので、由綺対応で無茶を続けたとしても冬弥は割と平気で、すぐには問題は起こらず、事態は慢性化してしまいます。無茶するための無理は日々蓄積していくのに、冬弥の無理は少しも顧みられることなく、急すぎる由綺の要求だけが相も変わらず、冬弥の前に次々展開していきます。


作中、冬弥は繰り返し「由綺は俺に仕事の話は全然しない」と語り、それに関する由綺の気遣いを想定します。冬弥の解釈通り、由綺誠心誠意の気遣いで仕事の話をあえて避けているというのなら一貫して避けるはずの所、実際にはそうではなく、仕事上の助っ人要請は普通に、というかかなり押しつけ気味に頼んでくることから、別に何ら気を遣っている訳ではないと考えられます。公私をわきまえて冬弥への依存を控えている可能性はゼロです。公私混同で冬弥をむやみに現場に呼び寄せるのはむしろ由綺の恒例ですから。冬弥の見解とは違った、何か本当の理由が、そこにはあるのです。


由綺は自分が第一なので、自分にとって有意義な選択しかしません。由綺は、自分のためになることしかしません。そして自分のために他人を使うのを当然とする、周りを利用して生きるというのは、由綺が由綺であるのに欠かせない絶対不動の性質です。自分のために生きる、自分のために人を使う、というのはもう由綺に備わった本能です。そのため、冬弥が自分の役に立てない分野なら、わざわざ彼を頼って登用することはありません。由綺は自分に役立つ範囲でしか冬弥を必要としません。別に冬弥への負担を慮るとか、対処しきれない場合の彼のプライドを守るための差し控えではなく、自分にとって有用か否かだけが重要なので、冬弥ではこなしきれないことなら、由綺ははなから冬弥をあてにしません。使い道のない冬弥を無駄に呼びこむ必要はありません。冬弥は必要な時にだけいてくれればいい、あとは別にどうでもいい、特にいらない存在です。由綺は自分に必要なければ相手を見やりもしません。元より相手が脳裏に浮かぶことすらないのです。


冬弥の役立ち度を利用基準にするというのは、いかにも小ずるい計算のようで、由綺はそんな損得勘定はしないはずと思われるでしょうが、それはまったくその通りで、計算などではありません。何ら思考を介さない直感、本能的で場当たり的な、むき出しの勘です。「役に立たないから使わない」と意識的に冬弥を除外しているのではなく、感覚的に「冬弥が役立つ範囲」を察知してそれに応じて行動を起こすのが登用パターン、「役に立たない範囲」では由綺内部に何の反応も起こらず、冬弥が意識にのぼることもないのでそのまま素通りして、結果、依頼には繋がらないという理屈です。


由綺の視野から外れると、その人物は存在自体を撤去されます。由綺の意識では「無いもの」として扱われます。ていうか意識から「消える」のです。例として、由綺は弥生を先に外に向かわせ車で待たせているのに、知ったことかとばかりに全然構わず冬弥と長々話しこみます。冬弥が促してようやく気付いて話を終わらせるくらいで、由綺は完全に弥生を空気扱いで蔑ろです。はたしてこんな由綺のために命張れると思いますか?笑止です。とはいえ由綺が普段から弥生に無情かというとそうではなく、「本人を前にすると」彼女は露骨に思いやりをアピールし、自分がいかに相手に善意を注いでいるかを訴えます。ひとたび圏内から離れたら完全に意識から飛ぶのにです。つまり、相手が目の前で自分を見つめてくれている時にだけ、自分をよく見せつけるためだけに、由綺は一過的に好ましい態度を見せるのです。由綺の「見られてる感」は徹底して自分主体です。由綺自身がそうと感じて初めて「人の目」は存在するのです。


これは弥生相手に限った話でなく、冬弥を始め誰に対してもそうであると疑われます。日頃から由綺は、冬弥君をいつも気にかけている風な強調をしますが、弥生のケースと同様、それは大抵冬弥を前にしたその場限りの見せつけで、由綺が過ごす日々の大部分で冬弥はまったく意識に浮かばないと思います。ただ、由綺が「冬弥君を意識している間」は、彼女には「冬弥君を意識する自分」しか認識できません。そのため「自分の意識が彼に向いている間」は「いつも彼を意識している」ことになります。由綺の中では「自分の意識している範囲」が彼女のすべてです。一時的に限られた彼女の意識の中では、それでも「『いつも』冬弥君を気にかけている」ことになるのです。


冬弥使用打診の際、由綺は「いつも急でごめんね」と口では言いますけど、「急でも、それでも当然受けてくれるよね?」と初めから足元を見て、あって標準の誠意確認を含んで頼んできます。冬弥を信頼しているというよりは、ただ冬弥が言いなりだからふるって使っているだけですが、使われる冬弥としてはそんな実情は知らずに頼られることを誉れに感じてしまいます。喜んで従います。その浮かれた様子を見た由綺は「冬弥君になら、これくらいならわがままにはならない」と安心し、味をしめて、ますます図に乗ってわがままを連発します。何せ「わがままと思っていない」から歯止めなくわがまま放題です。そこには「有用範囲でしか登用しない」「必要ないことには必要としない」という前提がありますが、それがぴったりはまって、由綺の要求は基本的に、冬弥の力量を最大限に使い切る、ぎりぎり冬弥で対処可能なものとなっています。つまり、無理強いが限界あとちょっとの所で問題なく通ってしまうのです。そして由綺が冬弥を思いやりもせず自分勝手にこき使う状態は、限界付近のゾーンを曖昧にし、ある意味では冬弥の無理のきく範囲を拡張することにも繋がります。由綺が冬弥を軽視し大事にしないことが逆に、彼の耐えうる有効範囲を引きのばす効果を持っているのです。


なお、はるかもしょっちゅう冬弥を、主に体力的に連れ回しますが、現状においては、あれはいわばリハビリなんです。サイクリングでもお構いなしに漕ぎまくっているように見えて、ちゃんと冬弥の様子を見ています。はるかは冬弥の健康状態に問題があることを知っているので、無理のない範囲で適度な負荷をかけ、彼の体力向上を促します。由綺とは違って、重病サバイバーの冬弥のことを考え抜いた最善のアプローチです。ただしそこには、はるかの見守りの中、彼女の手のひらの中でしか冬弥ののびしろは見込めないという制限がつきます。その点、由綺だと無理な要求に際限がないので、たびたび火事場に放りこまれる冬弥の馬鹿力見込みは未知数です。数値がどこまでも見込める「無限大」じゃないですよ、あくまで、実値の予測がつかない「未知数」です。それに馬鹿力ってほどでもないか。追いつめられた鼠が猫を噛む程度の底力かな。まあいいや、実力以上の力量を引き出せるかもってことです。人生、何がプラスとなるか判らないものですね。もっとも、冬弥がそのまま焼け死んだり食われたりしてしまってはどうにもなりませんが。


由綺へのはるかイメージ追加というのは、ものすごい加点要素です。はるかの面影による圧倒的な加算があるなら、はるかに備わるスタンスを冬弥はそのまま何もゆがめることなく由綺に複写するはずで、はるかと培った絶対の絆により「彼女は何があっても絶対俺から離れていかない」と、それがたとえエゴに過ぎないとしても無根拠に自信満々信じきっていられるはずなのに、由綺に対してはそこがどうも脆弱で、反対に「いつか由綺の方から離れていく時が来る」とおぼろげに確信している所があります。作品内容として結果的に、どうしても冬弥の方で由綺から離れていくことになるので、その不安描写に何の伏線回収もされないままうやむやに話が途切れ、読み手側では心境把握として認識にとどまらないこともままありますが、そのように、あえてストーリー展開とはまったく逆方向の予測が、冬弥根底にしみついたぬぐえない懸念として挙げられているのは興味深いです。「自分は結局、大抵由綺を裏切ることになるというのに、逆に由綺の誠意を疑うのか」と非難を受けそうなおこがましい悩みですが、冬弥は徹底して「由綺の方から別れを告げる日が来るまで、俺はせめて一緒にいるだけでいい」との消極的な交際方針で、「どちらにせよ由綺の一存だけが決定力を持っており、自分の方には由綺をどうこうする権限はない」みたいな考えを示します。それもまた「自分の責任で決断することを放棄している」という非難に繋がりそうですがそれはそれとして、冬弥としては自分の方で由綺を捨てる可能性など、もしもレベルですらまったく考えていません。由綺がいつか自分を捨てるとしても構わないとだけ切々語ります。自分がする浮気とは全然別次元の見切りで、「いつか突きつけられる由綺との別れ」を前提に割り切っている一面が確かにあるのです。


そうした由綺との別離の不安とはまったく逆に、冬弥は「由綺は自分と一緒にいるためなら、今あるすべてを捨てるかもしれない」との行きすぎた見解を語ることもあります。これだと「彼女が自分のもとから離れていく」事態など前提段階で想定されていないことになります。二つの見解は真っ向から矛盾しています。自分への彼女の執心をひたすら信じているのが基本だけど全部は信じきれないという、拮抗する複雑な男心として至極自然なあり方のようにも思えますが、ところがですよ、冬弥はオリジナルであるはるか本人には、共にいられることについて完全に信頼全振りなんですよ。ただまあ、はるかは普段、冬弥を置いてさっさと行ってしまうのが常なので、冬弥はその薄情を全力でくさしますが、それが一時的な捨て置きで、はるかがまた普通に近寄ってくることは冬弥も経験からの実感として判っています。そのため本気ではるかが自分から離れていくとは思っていません。はるかに捨てられる可能性は、冬弥の中でゼロなんです。それなのに由綺とでは「いつか捨てられる」と、何となくだけどひしひし察しています。


はるかはただ、単純な時間の積み重ねのみで評定が有利に上回っているだけで、また気楽な友達であるはるかと真剣な恋人である由綺とでは「一緒にいること」に対する冬弥の心構えの重さからして違うから由綺との今後に余計に不安を感じるのも無理はない、よって必ずしも由綺への信頼がはるかへのそれを下回っているとは言えない、と思いたいところですが、何度も述べてきたように、由綺への恋はそれ一つで独立して成り立っている純然確固たる恋ではなく、投影されるはるかの幻あってのものです。はるかへの信頼がそのまま由綺への恋を持続させる原動力となっており、はるかを投影するからこそ冬弥は「由綺は自分と一緒にいてくれる」と疑いもなく信じていられる訳です。「由綺が冬弥のために自分の道を捨てる」とする方の強力な認識は、まさにはるか情報の写しでしかないのです。


はるかからの持ち越しで「疑いもなく」由綺を信じている一方で冬弥は、「いつか捨てられる」という、はるかとでは存在しなかった「ぬぐいきれない疑い」を少なからず由綺に寄せています。はるかとの関係ではありえなかった、本来存在するはずのない不信が、由綺に対してはあるのです。つまりこれこそが、はるかの幻とは無関係な、由綺だけを限定指定した彼女固有の人物認識ということです。絶大なはるか加点をもってしても否めない由綺自身の本質を、冬弥は何気ない会話の中で直接的に感じ取っており、そしてそれは彼の未来展望に強く影響します。由綺の性質は真性で不動なので、予測結果もそれだけ真実味を持ちます。「いつかきっと、この先必ず由綺に捨てられる確信」というのが、冬弥が唯一手にしている、はるかに関係のない、由綺本人そのものの特性に基づいた見解です。


冬弥の持つ幻想はちょっとやそっとじゃ破れない根強いものです。現に、大筋では幻想に沿って、由綺をはるかに寄せて過大評価しています。そんな中、ごく一部の実感ある観点において、はるか幻想にはない、それに相反する不穏な性質を、冬弥は由綺に見いだしています。ただでさえ由綺に溺れきって贔屓目な評定を下しがちな冬弥が、それでも不信を抱かずにいられないというのはかなりのことです。よほどの根拠でもない限り、きわめて頑丈な幻想をひっくり返すような別種の見解には至らないはずで、そこには何かしらの手堅い理由が想定されます。


恋人大絶賛という単純な形式の裏で、ひたすら自身の都合だけを追求しているという、由綺本人の自覚を介さない本当の意味があるというのは、冬弥には察知しにくい現実です。表面上は他意を疑いようのない純粋無垢な賛辞でしかないだけに、何ひねくれることなく言葉を受け取る冬弥には、由綺の本質に繋がる手がかりを掴むことはできません。少なくとも、この種のケースにおいては。けれども、由綺の本性発覚の導入としてはそれとはまた別のパターンも設置されています。由綺の項目で随時ちょこちょこ挙げてきましたが、話全体の流れとしては特段おかしなことを言っているようには見えないんだけど、文章構成の中で部分的に、わずかに引っかかる独特な言い回しを、由綺は確かにたびたびしてきます。順当に聞き入れる流れとは逆方向に毛羽立った、カエリのような摩擦発言が多数見受けられます。「え、待って、それ言う?」って感じの。あまりに各所に散在していて一つ一つ挙げていたらきりがないので完全網羅は断念しますが、そう希少な頻度に絞られている訳ではなく、意識的にテキストを読めばことあるごとにぶち当たるありふれた情報レベルなので、各位で原作を確認していただけたらと思います。異質な言葉の使い方をした該当箇所は本当にごく小さな規模の断片であることが多く、普通に読んでいたら意識に残らず見落としがちですが、疑いを頭に置いた上で改めて読みこむと、面白いくらい際立って目につくと思います。大体の場合で、他人を侮るか自分を持ち上げるかのどちらかの含みを、由綺の本心として読み取れることでしょう。


由綺の本性というのは、本人ヤバい自覚がないだけに何もやましく思う理由がないため、包み隠さず全開です。つまり、冬弥をこけにし、利己的な満足だけを求める由綺の性質は、「実際に本人の口から発せられる言葉」として明確にがっつり表に出ている訳です。気の迷いからくる「思い過ごし」などではなく、実際の発言という根拠のある「事実」です。一方で、冬弥というのは普段から、どうでもいいちっさい気になることのあれこれを、胸中でいちいち指摘するような人物です。特に細かい言葉の使い方にはうるさすぎる冬弥のこと、由綺が時々、けれども確かに口にする、引っかかりのある変な言い回しに気付いていないはずがないのです。頻発し、系統の一貫している無意識の失言は、正真正銘、由綺の正式な本音として確実性を持ちます。そのナマの証拠にあてられた冬弥は、自分が低く見られている事実、由綺が自分本位でしかものを考えない事実を、心の奥底では薄々感じ取っています。そういう訳で冬弥は、「由綺直々の」侮蔑発言、利己発言を元に、本人の得しか頭にない由綺にはしがない自分に対する執着は欠片もないから「いつか捨てられる」としても全然おかしくない、十分に起こりうる未来だとして、内心で悲観しているのです。


けれども作中、冬弥はまったく由綺の問題発言を指摘しません。由綺は明らかにヤバい内容を平気でぶっぱなしているのに、実際読めば判るのに、冬弥の地の文としては見向きもされず、まるでなかったことのように何の補足もされません。それでも根深い不安を否めない未来展望を見るに、冬弥が由綺の本質を幾分か察知しているのは確かで、また細かしい彼の性格上、変な発言が気にならないはずがありません。にもかかわらず、そのまま捨て置かれているというのは、あえて気付かないふりをして現状にとどめている様に他なりません。冬弥としても、心の片隅では本当は引っかかっているんです。彼は、由綺の問題発言を心に留め置きつつ、決定的な判断自体は保留にしています。冬弥はけっして馬鹿ではなく、馬鹿なふりをして話を聞き流すことを処世術として会得しているので、受け入れがたい事実の確定は先延ばしにされます。冬弥としてもなるたけ恋人を信じていたいのです。信じていられるならそのまま信じ続けるに越したことはありません。


由綺の冬弥見下し事例は地味に蓄積していきます。気になりつつも決めつけきれない冬弥の心境お構いなしに、疑わしい発言は連発します。黒に限りなく近づきます。けれども、由綺の本質をそうと断定するには、由綺本人にあまりに邪気がなさすぎるのです。問題発言を繰り出す由綺の様子はあまりにも自然で、特別な意図など欠片もありそうにない。話全体では媚びて可愛さを訴えかけるような流れであり、そんな態度の由綺が、まさかそれに逆行して自分を馬鹿にする方向で発言してくるとは思えない。由綺の「実際の発言」は、由綺が持っている「何となくのイメージ」でもって、その証拠としての確かさにもかかわらず、含まれる疑惑ごと否定されます。黒なのはほぼ確実なのに、イメージとしての白の発光が強すぎて、フラッシュで、現実を見る視界が白く明滅してしまうのです。


由綺に一部疑念を持っていながらあえて目を背けて見ないことに徹する冬弥の視点を読むしかないプレイヤーは、それだけ彼女の現実を知る経路が制限されます。冬弥はけっして由綺を悪く言いません。それだけに、プレイヤーはどうしても由綺を良いようにとらえてしまいます。臆面もなく堂々と「冬弥君絶賛」を口にする由綺の気持ちというのは、心から冬弥を好ましく素晴らしいと思って純粋に褒めている以外ありえない。ひたすらまっすぐで、そこに嘘なんてあるはずない。また何の気なく自然に「見下し発言」を口にする由綺にはそれでも、本心で冬弥を見下す気などある訳がない。たまたまの言い損じでなぜか変な言葉選びになっているだけで、何の意味を含んで言っているのでもない、特に深い意味はない。現に由綺の態度は可愛げそのもので特に何のマイナス兆候も見られない。いい子の由綺がそんなことを言い間違い以外で言うはずがない、由綺はそんな子じゃない。それで、何を根拠に由綺をいい子だとしているんですか?彼女、本当にいい子だと思いますか?「由綺は『いい子』だからひどいことは言わない」と安易に信じられていますが、そうではなく、「由綺は『そんな子』だから、ひどいことを言っても気付かず平気でいられる」んです。確かに嘘はなく悪気もないですよ。でも実のある人間ではないし、褒められた人間でもないのです。


はるかという見るからに異様なキャラが密接な幼なじみとして常在していることも、冬弥の認識傾向に強く影響します。はるかは中身は結構普通なんですが、何せ表面化する形態が変なので、付き合いが長くてはるか自体になじみ深い冬弥であっても、ご多分にもれず「変」という認識で受け取ります。そして、変は変なんだけど、変なのが変なままありふれた日常になっています。そのため冬弥は「変」に対する耐性が高いんです。だから日々、由綺が口にする違和感表現に「ん?」って気付いたとしても、取るに足らないこととして、聞かなかったことにして流してしまいます。いちいち気にしてもきりがないから。実際聞き捨てならない内容を発してはいても、由綺当人の様子にはしかしながら、まったく変わった所は見られないだけに、そう聞きとがめることではないだろうと不問に付してしまいます。


ちなみにはるかも作中、冬弥がバキバキのマッチョだと気持ち悪いとか(極端な意訳)、自分は今のままが一番可愛いとか、冬弥けなしと自分褒めを平然とかまします。でもそれは、聞いた冬弥がたしなめるのを見越して挑発して言っていることで、彼の返し前提の、いわゆる「構って」の冗談です。冬弥が聞きとがめるのを狙ってあえて行き過ぎたことをちらつかせます。由綺で言うところの「私、特別可愛いとかじゃないし(チラッ)」の逆パターンです。由綺の場合も、自分の望むレスポンスを期待しての前振りという意味で、意図から外れたことを言うのははるかと同じ形式と言えます。彼女はとにかく「言わせたがり」で、いつでも訂正で甘い言葉が戻るのを予定調和に、心にもないことを言って促します。表面上で減らず口叩くはるかは別にそこまでそんな風に思っておらず、表面上で謙遜する由綺は発言打ち消しの反動込みで相手からの賞賛を目いっぱい要求しています。WAの台詞回しの絡まりって面白いけど、地味にめんどくさくてすごく消耗します、読解作業的に。


由綺に対する冬弥の認識には、混同と幻惑と自己催眠、全部の思いこみが影響します。そのため多重の強力なフィルターがかかり、彼の由綺語りには根本からして致命的な不備があります。でも、そんなのプレイヤー側は知ったことじゃないですよね。語り手の冬弥がそう言っているなら読み手はそのままそう受け取るしかないし、逆に「語り手の語りを疑え」というのが要求ミッションだなんてめちゃくちゃな趣向です。知るかよそんな。「由綺はいい子である」というのは、冬弥の語りを介し、彼自身およびプレイヤーに対してごりごりに刷りこまれていく共通認識で、いわば作品の「大前提」なので、まさかそこに偽りがあるとは思いも寄りません。既存の作品像に真っ向から反する結論に至るというのは、その固定観念が強固であればあるほど、異端の考えだけに自信を持てないものです。現状への疑念は本当に、儚いくらいに論拠が薄いですから。もっとも「由綺の発言に時折違和感がある」と指摘する意見は、かねてからちらほら見られたものです。が、やはりどうしても定説とは逆行する論旨になるのでためらいがあるのか、そう強く主張されることはなかったように思います。「気付いてもむやみにえぐらない、ことを荒立てない」というのが、平穏を保つための暗黙のルールだったのではないでしょうか。下手につついたら総力で叩かれるのは目に見えていますからね。


世間でほぼ基本常識のような確信の上で認知されている作品内容的に、由綺はまったく罪のない完全なる被害者だとされています。由綺には「何一つ悪い所はない」のに、にもかかわらず非道にも理由なく裏切られた、みたいな。由綺側に立つ人だけでなく、由綺にあまり肯定的でない人でも、彼女に直接の非を見いだすことはなく、「影が薄くてキャラとして大して興味を持てないから、そこまで由綺の心情に添った見方はできない」くらいの評価が大半です。「これでは浮気されても仕方ない」と見限る場合にしても、冬弥の注意を引きつけておく決定打に乏しく、「遠慮」という消極的理由で冬弥を繋ぎ止めきれなかったとするものが主な見解です。間違っても「元凶」という直接的な意味で、由綺自体からしてまず激ヤバな欠陥があったとは、ほとんど誰も言いません。


が、話の裏側はこれまで説明した通りです。相手に対する思い入れとか思いやりとか、由綺から冬弥個人への実質的な想いはまったくなく、二人の交際は冬弥の献身一つでもってのみ成り立っていた関係です。むしろ苦節の冬弥をねぎらうべきです。自分は相手を馬鹿にしきっていいように利用しているのに、かたや相手の方が自分を最優先に大事にするのは当然って、由綺イズムは無茶苦茶です。そんなのまかり通らないです。少なくとも、自我を持った人間としての一対一の対等な恋愛関係においては。由綺はその好きアピールに反し冬弥のことなんかさほども考えてはいないし、冬弥は何よりも由綺を大切にするけどそれは対象を間違えての不慮の結果だし、元々続く訳がなかったんです。続くとしたらそれは、頭おかしい冬弥が自分の置かれた状況をおかしいとも思わず、よりによって低待遇を至上の幸せと思って喜んでいられるのが普通と化し、慢性的な異常が定着してしまったというだけの話です。


由綺と別れる場合にしても、冬弥は基本、由綺の本性に目が行かないままです。別に、由綺の性格が本当はヤバいからって、そこに絶望してそれを理由に心が離れたのではありません。思いこみに対する内なる自覚の有無はともかく、冬弥は破局に至っても変わらず、由綺を健気でいい子だと思いこんでいます。由綺には何も問題点はなく、真人間な彼女がその尊厳を傷つけられる無体な現実を突きつけられていい道理などどこにもないと思うからこそ、彼女を裏切った自分がより一層、人の道に外れたものに思え、逃れようのない心苦しさに縛られるという仕組みです。実際には由綺にそんな前提は存在しませんが。でもまあ、たとえ実像が想像と違って、由綺というのがどんなに心なく害しかない残念な人物だったとしても、筋の通らない不実な浮気は完全に冬弥の非なのでそこはしっかり反省しなくちゃいけませんよ。それは信用問題です。


冬弥から手ひどい裏切りを受けても、憤って彼を強く責めるようなことはせず、なおかつ大人しく身を引いて、見苦しい追いすがりを見せることもない由綺にぐっとくる人も多いのではないでしょうか。ですが、由綺の引き際がことのほか良いのは、彼女自身の押しが弱いから自分の個人的な我欲を貫けないとか、聞き分けが良いから不遇も甘んじて受け入れるとかではなく、ひとえに、冬弥それ自体に執着がないからです。冬弥が自分の求める条件を満たさなくなればもうどうでもいいんです。


由綺は、彼女が思い描く素敵な冬弥君が好きなだけで、加えて、その入れ物である冬弥は便利だからというんでやたら愛用しているだけで、別に冬弥本人のことはどうとも思っていません。初めから、冬弥自体がどんな人物かすら知らないのです。由綺は冬弥の人となりを知って好きになった訳ではなく、好みの人物像を冬弥に押し当てて自分の好みを好んでいるだけです。だから冬弥本人に良からぬ一面があると判明したとしても何も変わりません。由綺は冬弥の実物を見て判断している訳ではないのですから。良いも悪いも、冬弥本人に関する興味は元から一貫してゼロで、増えも減りもせず、ゆえに評価上での減点という概念もありません。


由綺が、素晴らしい人物だと一心に信じ、こよなく愛する対象はあくまで冬弥君であって、冬弥そのものを信じていたのではないので、冬弥が由綺を裏切ったとしてもその信用が砕かれることにはなりません。身持ちを崩した生身の冬弥とは違い、冬弥君は依然、由綺の心の中で変わらず素敵な冬弥君のままです。「汚れた冬弥」と「私の冬弥君」は別物なのです。冬弥が変質したって冬弥君の方は何も変わりません。冬弥君は冬弥本人の性質の一つではなく、由綺の観点に所属する由綺の所有物、つまり由綺の一部だから。由綺が破局に至ってもなお「冬弥君を嫌いにはなれない」と語るのはまさにこのメカニズムが絡んでおり、一方では変わることのない愛を表明しつつ、その一方で別れは後腐れなくあっさり承諾するのはそういうことです。「『自分の考え』が好き」なことは変わらず貫かれます。「私はずっと好きでいられるけど、冬弥君がそうじゃないなら私だけわがまま言えないよ」とか全然そういうのじゃないですよ。それっぽい雰囲気を押し出してはいますが、ただのいつもの見せつけ仕草です。単に由綺の心一つで、冬弥自体はもういらなくなったから手放すだけです。自分の中の冬弥君幻想さえあれば、由綺が想う限り冬弥君への愛情は不滅です。


世間で広く認知されている由綺像は、「健気で優しく一途で、ろくにわがままを言わず、自分を抑え、ひたすら好きな男のために頑張る女の子」という、理想としては古すぎるステレオタイプと言っていいほどの都合の良さの集合です。発売当時の世相や流行りがどんなだったのかは、幾分世代から外れているのでよく判らず何とも言えませんが、おそらく当時としても、ひどく古めかしい時代錯誤なヒロイン像だったと思われます。それが推されている価値観だとすれば、場合によっては男のエゴの表れとしてすごく叩かれてもおかしくないくらいです。けれど解読によってその由綺像は一転します。由綺は全然そんな性格ではなく、むしろ正反対の自分第一キャラです。周知されている由綺像は虚像なんです。「言っとくけどそれ幻だからね」という軽妙で強烈な皮肉込みでの、あえての表向きのコテコテ健気像です。


由綺という人物は、虚像と実像、両方揃えて初めて一つの個性として成立するように作られています。どちらか一つでは由綺のキャラとしては不完全です。ただ何となく甘い印象のぼやけた健気キャラというだけではヒロインとして他を出し抜くことはできません。そこに、本当は目を見張るほどのどぎつい自己愛キャラだったという一押しが加わることで、由綺の特別性は一気に飛躍します。そしてまた、そんな実質でありながら、よりによって真逆の印象で普通に世に通っていること、疑われもせず信じられていることが何よりすごいのです。目に見えてわがままと判る、単純なわがままさだけでは、ただのありふれた普通のわがままキャラにしかなりません。由綺は徹底してわがままなのにけっしてそうとは受け取られず、また自分でも自覚がなく、周りによる評価をそのまま素直に自己認識に据えている大物です。わがままに対する自己肯定レベルが違うんです。であるのに、由綺がうつむきがちの角度で見せる、しおらしく弱々しい微笑みからは、彼女のおそるべき真実など何も見えてはきません。虚像は虚像で、実像とは完全に切り離され、別個一つの形質として何の支障もなく存在しています。両方が両方の面で極端に幅をきかせており、にもかかわらず、その両方がもう片面には一切噛んできません。真っ向から食い違う両形質が独自に並立していてこそ、なおかつ両方ががっちり確立していてこその希有なキャラ、それが由綺なのです。


他人を踏み台にしてでも何より素敵な自分の夢を一番に掲げて考えたい、輝ける自己実現のためには自分以外の何を犠牲にしても構わないという由綺の清々しいまでの自分最優先の姿は、昨今もてはやされている進歩的なニューヒロイン像そのものです。由綺のヒロイン性は当時から全然古くなんてなくて、時代を大幅に先取りしていたんです。加えて、社畜精神にも似通った、冬弥の献身スタンスにおける報われない悲哀とか、WAの隠し設定というのは、今だからこそ共感を呼び、理解を得られる一大テーマにもなりうるのではないでしょうか。隠し設定が知られれば、の話ですけど。