補足12


それで結局、冬弥を悩ませた「壁」とは何だったのでしょうか?由綺編では、「偶像・森川由綺」の壁に対し、自分の独り相撲で勝手に引け目を感じて怯んでいただけのように冬弥は結論づけます。由綺は何も壁など作っておらず、壁があったとしたら自分だけの問題だった、また自分の気の持ちよう次第でそれはいくらでも越えられたものだと。となれば、由綺編以外で大なり小なりその壁を理由に思い惑って心がゆらぐのはまったくの筋違いで無駄手間、何の所以もない愚行だったということになります。する意味のない浮気へと流されていることになります。だからこそ冬弥の世間的な評価は底辺で、少しの試練にも耐えられず音を上げる、メンタル弱すぎるヘタレだと思われています。ありもしない壁に翻弄される馬鹿なやつだと。でも本当は、自分を知らない冬弥が「壁はなかった」としているだけでそれは誤りで、実際彼の行く手は「壁に阻まれている」のです。しかも事実上「越えるのが不可能な壁」に。


「アイドル」という壁は一応、冬弥の現状にまったく影響しない訳ではなく、確かに彼の行く手を妨げるものではあります。けれど彼の言葉通り、それはいくらでも対処可能です。対等な関係性を築けないことが多少の萎縮に繋がるとしても、由綺自体にこだわりがない以上、冬弥側の少しの勇気で改善できるはずです。由綺が壁を作っていなかったのは本当、冬弥の認識する壁はどうとでもなるというのも本当。でも、かといって冬弥を取りまく壁が何の深刻性も持っていなかったかというと、それは事実ではない。文章で語られない、冬弥が「認識していない方の」壁がめちゃくちゃ強大なのです。


ブラウン管越しの有名人どうこうは実質、冬弥にとって特に何の障壁でもないんです。これは、冬弥が寂しさにとらわれて浮気してしまう諸展開において関係ありません。関係ないんです。冬弥が浮気をするのは、公に告知されている「恋人が多忙なアイドルで、最近満足に会えなくてなんか寂しいから」というふにゃっとした軟弱な理由じゃ全然ないんです。たかだかそのくらいでころっと浮気するのならただの意気地なしのふぬけでしょ?その場合には私も擁護するつもりはありません。でも実際は違うんです。冬弥が迷走する理由、本当は「生きる上での命綱とも言える、本当の想い人が刻々と自分から失われていくから」、つまり命綱であるはるかとの絆が一部ほころび、切れかかっているからです。真の作品内容においては、はるかの幻という見えない意識の層が絶対の壁です。そしてはるかの抜け殻による影響が唯一の問題です。偶像とかブラウン管とか以前に、お前のその脳内のブレないはるかフィルター何とかしろ。はるかの有無は冬弥にとって、生きるか死ぬかの重大要素です。それは大げさな話じゃなく。はるかがいないと彼は彼として生きていけないのです。冬弥個人の生存戦略として、何とかしてはるかを取り戻して自己存在を繋ぎ止めなくてはなりません。


そう長くもない作品期間を、冬弥が苦悩にまみれて過ごすにあたって、少しの放置にも耐えられないほど軟弱なのかと呆れるプレイヤーも多いと思いますが、本来彼は、むしろ逆に「人一倍放置に強い」んです。万事淡白なはるかとの関係が素地ですからね、好きにしなよ俺は俺で適当にやってるからのスタンスです。由綺の信頼性は定かでないものの、はるかは絶対確実に信用できるので、はるかならはるかでちゃんとやってるという確信のもと、それがそのまま由綺に持ち越されます。そのためお互いの自分時間を切り分け独立して過ごすことに、本来は何の不安も生じないはずなんです。本来は。


しかし、はるかが素地だけに、過去の問題が大きく影響します。かつて、おそらくテニス関連の強化か何かで、しばらくはるかと満足に会えない日々が冬弥に続いたと考えられます。それ自体は何の問題もなかった。そりゃほっとかれてちょっとは寂しいけど、はるかはいつも通り何も変わらないし、特別な大会?が終わったら元通り、彼女はまたいつものだらしない日常に帰ってくる。それは当たり前に確定した未来で、冬弥は何の心配もしていなかった。そのはずだった。ところが運命は急転し、はるかの道は途絶えます。そして追って冬弥自身を襲った別の不幸で彼は、日常で寄り添っていた普段のはるかの記憶を大幅に失ってしまいます。


一定期間はるかと会えない日々が続いた末に、冬弥からは普段のはるかの記憶がすっぽり失われてしまいました。それが冬弥の中では、普段のはるか、つまり「俺だけの愛しい彼女」と普段通りには触れあえない毎日を送った末に、彼女に「二度と会えなくなった」状態になっているのです。それは絶対の安心が、まず起こる可能性のない万に一つの災厄で完全に崩れたということ。本来は離れて過ごすことにつゆほどの心配もいらなかった関係ですが、その「確定した別離」の真実は否応なしに冬弥内面に影響します。冬弥は、過去と類似する状況が由綺との間に展開することで、経験を踏まえ、関連記憶自体はほぼ残っていないというのに、このまま行くとこの先由綺もまた同じく自分のもとから儚くいなくなってしまう、と確信にも近い重く不安な心境で作中時間を過ごしているのです。


はるかとの過去における現実経過として、優良アスリートとしての側面が強化されていく一方で、日常のだめはるかの側面が割合として減っていきます。だめはるかの正味自体は減らないけれども、彼女の急成長に伴い冬弥の体感としてはそれが激減していきます。はるかはいずれ高みに駆け上がり「俺だけのはるか」ではない特別な存在になってしまう。人々を魅了する「偶像」として世間で認知されてしまう。そんな「アスリート河島はるか」との間で起こり得た未来を、そして現実としては繋がらなかった未来を、冬弥は「アイドル森川由綺」との間で再構築していくことになります。それは、輝ける彼女との対比で突きつけられる自分の無価値に苛まれる過程であり、寄り添い続けることへの自信喪失の苦悩は避けて通れません。けどそれについては、可視化されていないとはいえはるかとの関係が不動のベースなので、その絆をもとに「こんな俺だけど、そんなすごい彼女と居続けることにそれでも迷ったりしない」と言い切れるはずで、冬弥は現に由綺編ベッドシーンではそんな感じの心境まとめをします。格上の彼女に対するわだかまりに限っては、冬弥自体の持つ地の度量だけで十分に解消できるもので、彼の中ではさほど妨害性のある壁ではありません。


冬弥は「はるかへの」信頼のもと、それを繰り越すことで由綺に対しても、「彼女を愛していく自信」を手探りで掴みとっていきます。だから、「偶像」というイメージの壁がどんなに厚くたって、それはちっとも冬弥を脅かすものではありません。二人の絆をもってすれば、余計なノイズなんていくらでもはねのけられます。ただ、それは「はるかとの」結びつきでしかないのです。由綺というのは、はるか由来の繋がりをベースとして、「誤って」暫定的に強い執着を冬弥に持たれているだけで、いわばはるかの輪郭をなぞっただけのものに過ぎません。はるか本人ではないだけに当然はるかとしての実質はありません。冬弥が頼みとして指定する絆は「はるかと」培うものでしかない以上、由綺本人とは何のパイプも通っていません。由綺編ではただ単に混同が極まりすぎて、「はるかへの」ゆるがぬ愛情のもと、由綺を「はるかフィルター付き」で「由綺本人」「そのままの由綺」と誤認識することで、今後も迷わず彼女を愛していけると確信する展開になっているだけで、「プレーンの由綺」とは基本的に、冬弥が殻を破ってぐっと近寄れるほどの人間関係など今までを通してまったく築かれておらず、作中の時間経過を追うにつれ仮の執着は次第に薄れていきます。逆に「はるかフィルター」という壁によって魅力が加算されるがゆえに由綺は冬弥に「愛する女性」と強く認識されている訳で、冬弥の心が由綺にとどまるのも離れるのも、すべては「壁ありき」です。はるかフィルターに対する由綺の適合率、それ一つによって、冬弥の由綺への執着度は変動するのです。


由綺編最終日、由綺の部屋に通された冬弥は、「この部屋は由綺の部屋なのに、なぜか由綺の香りがしなかった、でも今は由綺の香りがする」と語ります。「由綺がここで誰かを愛することで初めて、彼女がその空間になじんだ」とも。でもここだけの話、冬弥が求めているのは唯一「はるかの香り」で、そしてそこにいるのは由綺なのだから、冬弥の言う通り、それまで「由綺(本当ははるか)の香り」がしなかったというのは当たり前なんです。そこは由綺の部屋だから、初めからはるかの香りなんてするはずないんです。そりゃそうです、現場ではるかが暮らしていたことなんてないんだから。ところが冬弥が「由綺をはるかと同一視することで初めて」、ダミーの由綺は冬弥の愛すべき女性と認識され、あたかも彼女から愛しい香り、つまりはるかの香りがしてくるような錯覚を起こします。嗅覚が混乱するのです。人物を差っ引いた部屋そのものに対しては、現実通り正常にはるかの香りを感じないのに、幻想による混同で、ちょうど由綺個体限定ではるかの香りがするかのように錯覚します。原初の感覚である嗅覚に関する脳の処理さえもおかしくなって、あるはずのない香りを目の前の人物に当てはめて心底実感してしまうのです。そして冬弥は偽物をそのまま「愛する彼女」としてフィルター固着してしまいます。追って冬弥の認識異常は由綺単体に対してだけでなく、その領域である部屋中にも波及し、ひいては彼が認識する世界全域に広がります。異常な認識世界が、彼の世界の正常になってしまうということです。


由綺編Hシーンでは、由綺を前に夢心地になりつつ、冬弥が確実に道を誤っていく様がありありと描かれています。暗喩&暗喩で。由綺の破瓜後の、「病的に白い」シーツに「不気味な赤い血液のしみ」が広がっていくという描写は決定的な一節です。恋人同士が迷いを乗り越えついに結ばれた至福の場面にしては表現が不穏に過ぎますよね?これは、冬弥の「病状」である記憶の「空白」、つまり「白い雪に埋もれた」はるかとの大切な想い出が、由綺の「血を浴びて、赤く汚れた」ことを意味しています。この時点で冬弥の持つ「ホワイトアルバム」は血に染まり、「ホワイトアルバム」ではなくなってしまいます。そこにいたはずのはるかの存在は、由綺の染料によって由綺プリントとして上から塗り消され、無きものにされます。いつかはるかを取り戻すために保守されていた冬弥の「ホワイトアルバム」は、真の相手を迎えることなく偽物に侵食され、存在意義を失うと同時にその存在自体の定義さえも失ってしまうのです。


ちなみに行為について冬弥は「滑らかに由綺を愛し続けてたような『気がする』」って言うんですね。そこに気持ちはありません。つまりここで言う滑らかとはスムーズ・潤滑という単純な意味ではなく、起伏がなく平滑で平坦、取り立ててこだわって入れこむ取っかかりもなく無意識的ということです。当事者なのに他人事の上の空ですよ。そしてもう一つ、由綺といたしている最中に冬弥が見せる不穏動作として、なぜか「泣く」描写が挟まれます。「俺もまた涙を流していたの『かも知れない』」と、ここでも同じく、「泣く自分」の肉体を自分として実感できていないような、そんな語り方です。意識が分裂して遠くにあるかのような。頬を熱く感じるほど、つまり濡れた頬が冷える間もないほど、推定ぼろっぼろに泣いているはずなのに、冬弥は本人でありながら我がことの感覚がありません。どうも、歓喜で感極まって思わず涙、という高揚した雰囲気では全然ないんです。何だか茫然自失で、湧き出る涙を自分でも止めようがない感じです。


冬弥が訳も判らず自覚なしに泣きはらさずにはいられないのは、意識の届かない所で自分の中のはるかの存在が完全に瓦解し、消し飛んだ絶望のためです。半身をもがれた虚脱で、失意の底にあるのです。それは冬弥現行の意識では感知できない裏事情で、彼の心境説明として浮上することはけっしてありませんが、落涙という具体的で決定的な身体反応となってまざまざと表面化します。由綺に陶酔する表面の冬弥とは相反し、もう一人の自分、つまり奥底に住まう本当の冬弥は言葉もなく悲嘆にくれ、ただひたすらに涙として流出し、冬弥から失われます。今まさにめでたく結ばれた最重要場面なのによりによって、面と向かって他の女の消失を儚んで泣かれては由綺も立つ瀬がありませんが、彼女は彼女で目の前の冬弥全然お構いなしに、てんで勝手に自分の感覚だけを高まらせて夢中であえぎまくっているので、そこまで不徳を気にしなくてもいいでしょう。由綺はいつだって「私だけ一人でいつの間にか一人だけ私勝手に私だけ一人だけ」な人間です。向かい合う相手と向き合っていないのはどちらも同じです。


冬弥が道を踏み外し、その足場が崩れていく様子が内々で描かれる由綺編の一方で、真シナリオのはるか編では、後回しにしてきた心情の雪解け、および記憶の氷解という点でお風呂Hは必須となっています。謎を解かすには大量のお湯が必要で、何が何でもお風呂が舞台でなくてはならなかったのです。Hシーンでの直接的な性描写にこそ重要な記述があることからも判る通り、物語が展開する上で「Hシーンは削っても全然構わない」ものとはなっていません。冬弥の病んだ精神構造にピンポイントで影響し、暗喩を通して真実がしっかりほのめかされるため、Hシーンは不可欠です。削ったら基礎から話が成り立たなくなり、正当な結論が得られなくなります。そういう意味では、コンシューマ版はどうあっても画竜点睛を欠いた不完全版でしかないのではと思います。とはいえエロ描写が何よりも重要かというと、WAのHシーンというのはおそらく、実用目的を一番の狙いとはしていません。ただ単純に興奮させる目的でなら普通は入れないと思われる意味深な描写で水を差され、逆に冷静な頭に引き戻されることも多々ありますし。Hシーンの中で重要なのは何もそんなエロに特化した描写ではなく、むしろ直球の肉欲とはかけ離れた非常に文学的で観念寄りの部分が主です。けれどもそれは性描写の中でしか描きようがないごく局所的な範疇なので、結果Hシーンという一般向けにできない箇所でしか表現の場がない状態に制限されています。


冬弥が由綺と結ばれる、それはすなわち「ホワイトアルバム」が血塗られる瞬間であり、取り返しのつかない過ちであります。由綺を抱く直前、冬弥はこのように述べます。「由綺は、冬弥の知らないどこか別の世界に飛び立とうとしている」、そして「そんな彼女の痕跡はあまりに小さい」と。本当は、由綺周りには大した窮状はせまっていません。彼女が背負うのはあくまで常識の範囲内の重圧です。由綺ではなく「はるかが」別の世界に旅立たざるを得ない危機的状況にあるのです。同様に、冬弥自身も世界の境界に立たされています。冬弥が彼の持つ「ホワイトアルバム」の存続を保てなくなるように、はるかははるかで、彼女の持つ「ホワイトアルバム」を平常に維持できなくなります。冬弥と連動しているはるかは、彼の異変を受けて、彼女もまた脅威に晒されます。冬弥側の「ホワイトアルバム」が定義喪失した時点で、対であるはるか側の「ホワイトアルバム」は全方位封鎖され、抹消に向けての追いこみが始まります。はるかは、限られた該当期間である狭いエリア内に取り残されます。逃げ場を失ったはるかは、エリアが消却の雪で埋め立てられていくにつれ、徐々に自分としていられる領域を削られていきます。


はるかは通常、冬弥と連動しているせいで忘却の雪が吹きこみ記憶不安定な状態にはなっていますが、彼女個人の精神内での自由は割と確保されています。だからこそはるかは色々頭をひねって手を打ち、苦難の中でも何とか自分を保つための対処ができている訳です。それでも終局、魂の半身である冬弥との連動部分に致命的なダメージを負っては、はるかもただでは済みません。強制的に故障に巻きこまれます。はるかがはるかである拠り所、彼女の自我?かな?正気っていうか理性の部分は表に出られなくなります。はるかは精神内の一区画に閉じこめられ、外部と隔離された別の世界に住まうことを余儀なくされます。そしてその引き金となった冬弥自身も、本人そうと気付かないまま夢の世界に旅立ってしまいます。


由綺と結ばれた後の残り展開で冬弥は、節目節目で、壁を乗り越えた実感を繰り返し語ります。冬弥が自信満々に由綺への愛情を確信するのを見るたび、「あー…」ってやるせなく感じます。とても見てらんない。立ちはだかる壁に怯んでいたら、自分が感じてきたような「孤独の檻」「永遠の壁の中」に由綺が閉じこめられてしまう、だからこんな壁は取り外さなくちゃ、と冬弥は克服の意気込みを語ります。その裏で、肝心の「はるかが」心の檻の中という永遠の世界に一人孤独に取り残されてしまったというのに。冬弥と境を共有し直接対応している「壁内部」ごとシンクロし、今まで苦しんできたのは他でもないはるかです。一番大事な人を不幸に追いこみ失ったのに、手にした偽の幸福を疑わない冬弥が不憫でなりません。


冬弥は、自分を制限する壁が「偶像の壁」しかないと思っているので、自身の引け目を解消することがそのまますべての解決に繋がると思っていますが、実際「冬弥の中の由綺」と「森川由綺」のイメージが分裂しそうな不安を引き起こしている原因は「はるかフィルター」です。由綺は由綺のまま何も飾らず変わらないのに、冬弥の持つイメージとずれていきます。そもそもはるかとは別人だけに、当然由綺ははるかフィルターに合致しなくなるのです。だというのに冬弥のはるかへの思慕は募る一方で、彼は拡張展開したはるかフィルターでそのまま由綺をくるんでしまいます。はるかフィルターでフィルム掛けした包装状態の由綺を、混ぜ物なしの純度100%由綺として誤確定します。はるかフィルターは冬弥の視野に属する仕切りとしてではなく、由綺の所有する個人特性として固定されることになります。「自分の意識」ではなく「由綺の属性」となってしまうため、由綺との間を仕切る「壁」は事実上失われます。「壁」は由綺に吸収され一体化してしまうのです。そんな、贋作として「仕上がった」由綺を得るか得ないかで、冬弥およびはるかが終わるか助かるかが決まります。最後の最後で冬弥は、即死直結のトラップにかかってしまいます。


冬弥が由綺を誤って手に入れてしまった後、音楽祭当日とその後日、二回にわたって雪が降ります。これは間接的に、はるかを取りまく心象風景の経過を表しています。冬弥の心が一気に切り替わっても、その影響が瞬時にはるかの心を直撃し、即ダウンする訳ではありません。何といってもやはり、はるかはやたらしぶといのです。冬弥が詰むのとはるかが投げるのには、いくらかの時間差があります。ていうかはるかも同時に詰んでいるのに、先読み得意な彼女らしくもなく実際に片がつく最後の瞬間まで粘ります。冬弥の心が偽物で埋まった時点で、はるか内の心の交通網は詰まり、封鎖されます。その檻の中に容赦なく消却の雪が積もっていきます。大半は、音楽祭当日の情景でしんしんと示される積雪で、はるかの心はほぼ埋め立てられます。虫の息です。しかしそこからもはるかはしばらく粘ります。雪に完全に埋もれて凍える中、本人の体温だけを頼みに何とか忍びます。けれどそれも、由綺編エピローグでの季節外れの一片の雪をもって限界に達し、「もう無理」と、はるかの心はついに力尽きるのです。はるかが全身埋没している姿は絵面としては笑えるんですけど、その身になってみればとてもじゃないだろうなと思います。


冬弥がはるかを巻きこんで二人して精神崩壊を起こす由綺EDは、派生元の本筋に忠実に従った結末です。冬弥壊れるなら単身で壊れてほしいですが、対を道連れにするのが元の形式なので仕方ありません。いわば派生キャラとしてのトゥルー相当は由綺EDなのです。ただし冬弥は派生キャラとしての性質だけでなく、独立した固有キャラとしても既に確立しているので、冬弥個人としてのトゥルー展開は、失くした自分自身を取り戻すはるかEDで固定ということです。さて派生元という前置きが純然たる悲劇であることから、それを受けた由綺EDは実質失敗EDです。もっとも精神崩壊つっても、冬弥は冬弥で相変わらず見た目普通にしか見えないだろうし、はるかははるかで元々他人と距離を置いた性格かつ言動が独特だしで、今までとそんなに変わらなそうです。おそらくその辺も含めて原型通りなのだろうと思います。狂気の世界に足をつっこむだとか混濁する思念により理性が危うくなるだとか、健全な王道ラブコメに見えて意外と黒かったりとか、えぐくてひりついた心理構造をテーマとし主な売りとしてきたそれまでのメーカー路線を放棄し、WAは中身すかすかで著しく期待を裏切ったみたいに思われていますが、実はしっかりと、それこそお手本に忠実すぎるくらいに従来作品の流れを律儀に踏襲した内容なのです。ただその…、直接のテキストになっていないだけで。暗喩祭りという秘祭?売り物としてほとんど有効になっていないじゃない、それじゃ!


冬弥が実際浮気したにもかかわらず、その口で相変わらず由綺由綺言って一筋ぶっている恥知らずさに微妙な気持ちになる御仁も多いかと思います。けれども真実を暴けば、冬弥の浮気の多くは形を持たないはるか幻想への憧憬によって引き起こされていることで、その行動と、はるかの身代わりでしかない由綺にいまだ愛が残る現状というのは、冬弥の中では何ら矛盾はしていません。そもそも浮気ではないんです、誰と関係しようが冬弥が見つめる対象は初めから一ミリも動かず厳密にはるかただ一人なのだから。哀れにも無意識に誤作動しているだけで、本人に罪を犯すつもりはまったくありません。けどまあ結果的に由綺に対して罪悪といったらそうなんですけど。ていうかはるか以外に対してな。でも、美咲と弥生は冬弥の視線がはるかの幻に向けられていることを重々理解した上で相手しており、自分に対する誠意の有無は問わない。マナははるかにはない要素が冬弥を引きこむ決定打となっているから、その点で固有に盤石。理奈は冬弥自体にさして愛着がなく由綺を痛めつけるための一手段としか思っていないので、彼の本気なんてはなから眼中にないも同然。由綺はマイライフを自分本位に貫徹できさえすればそれで満足、あくまで冬弥は自分を彩る添え物で重みはまったくない。ということで、当該メンバーに限っては、冬弥が不義理を働いてもそこまで根詰めて自責に苛まれなくてもいい条件が成立しています。もっとも、だとしても冬弥はやっぱり自分を責めまくるので、自己否定の愚痴路線は確定しています。


表層では「由綺が恋人である」としか認識できないので、冬弥は浮気することにちゃんと当然の罪悪感を覚えます。けれど彼の心の深部では、ただ一人と誓った相手もはるか、不安定な中で別個に自分を引き寄せる因子もはるか要素で、「はるかに対する愛情」というのは何一つゆらいでいません。冬弥ははるか以外にはなびきません。繰り返します、誰にもなびきません。彼はどこまでもはるかに一途で、浮気なんか絶対にできない人なんです。本人としては「断固浮気拒否」ゆえに、手がかりがないのをおしてでもただ一心にはるか一人を探しているんです。彼の行動理由はすべて「はるかへの誠意」に直結しています。それゆえ直面する状況に対し間違った選択などするはずがなく、自分の心にはやましい所などどこにもない、…はずなのに、なぜか過ちを犯すことになります。それは彼の認識する現実がおかしいから。加えて過ちの理由と経緯をまっとうに説明することは、己の状態に無自覚な彼には不可能です。問題の中核となるはるかに関する肝心要が欠落していることにより、冬弥はどうあがいても平穏無事な道筋を選ぶことなどできません。


深刻な状態異常を抱えている冬弥ですが、とはいえ普段の彼はいたって常識的で、人の道に反するような不道徳な真似は基本的にしません。ていうか世間での認知とは相反し、むしろ極度に潔癖で、自他の領域をないまぜにすることを好みません。ノリが悪いというか、はめを外す興がないまでに真面目すぎるほど真面目です。そんな身持ちの固い…尻が重い?腰が重い?…彼が手当たり次第に女を食い散らかすなど、絶対に考えられない事態です。「女にだらしない」という悪評は、本来の冬弥にはまったく当てはまりません。


冬弥は基本、並外れて心身清らか、というか自分であれ他人であれ指定の別なくテリトリーが荒れることに臆病で、土足立ち入りを大層嫌がり、回避します。守りの姿勢を徹底して崩しません。そして頑ななくらい世間一般の規範を第一として守る実直な人間なのですが、たった一つ、はるかとの接続が危ぶまれるという条件で、彼は途方もなくおかしくなって見境がなくなります。はるかが正常に存在している限りは冬弥の安定は確保され、何の問題も起こりませんが、はるかがいなくなるという限られた切迫事態においてのみ、彼はとことん脆くなります。そもそもはるかに一極集中しすぎなんですよ冬弥は。もう少し視野を広く持った方がいいんじゃないでしょうか。とはいっても容易に生き方を変えられるはずもなく、はるかは冬弥のすべてで、彼女だけはどうしても失う訳にいかない。はるか存続のためなら何を代償にするのも厭わない。それこそ平穏ないつもの自分を打ち捨ててでもはるかを取る。自分がどれだけ汚れようが気にしない。はるか存亡の危機で後がないのに四の五の配慮やら体裁やら考えていられません。冬弥は、はるかとの絆を貫くためならどこまで堕ちても構わないといった極端な危うさを潜在的に有しています。


ただ作中ご覧の通り、はるか現物はしっかり健在で、常に冬弥周りを巡回し、彼の日常基盤となっています。Hシーン入りしない、いわばノーマル状態の冬弥が何の害悪もなさない平穏な人柄を確保できているのは、ひとえにナマはるかによるはるか成分安定供給があるからです。重度の状態異常があるとはいえはるかさえそこにいれば、冬弥から欠けた当人だけに欠落は大幅にカバーされ、彼は満ち足ります。そのため特別な進行がない限りは、冬弥はそうそう道に外れた行いをすることはありません。そんな、基本安定の冬弥をして、どうしても耐えきれない条件だけが集まっているのが作中の各シナリオです。ナマはるか常駐により、通常ではめったに意識されないでいる「はるかいない条件」が、それなのに作中においてはひとまとめに結集し、様々な形で展開しています。


マナ編では「もし自分の育ちにはるかという救いが存在しなかったなら」との仮定条件に冬弥は強く刺激されます。マナはいわば「はるかを持たない冬弥」で、冬弥は、運命の悪戯によっては自身にも課せられていておかしくなかった閉塞の可能性を救済する意味でも、マナへの力添えに踏み切ります。弥生編では弥生が冬弥の真事情をしっかり把握しきっているということもあり、彼女は的確に狙いを絞って「はるかいない条件」という彼の急所を突いてきます。表向き由綺の話をしていても、本人は実質はるかを特定示唆しており、その動かぬ真意は受容感覚を通して冬弥にも直接伝わります。


理奈編では、一貫して弱腰の低姿勢で理奈の言うまま付き従っているだけの主体性のない冬弥が、それまで特別熱烈な気力など皆無に等しかったのに、突如さかって急展開しますよね。えっ冬弥いきなりどうした?ってなります。冬弥らしくもない。いつもなら「えっ?」とか言って状況のみこめなくてうろたえたまま、流れに乗れなくて呆然と立ち尽くしているはずの現場です。はたしてその異例の裏にひそむトリガーとは?基本的にはるかとの共通点をさほど持たない理奈ですが、彼女に「兄さんいない条件」が展開することで、たったその一点のみで、はるかとの近似度は集中的かつ瞬間風速的に由綺を大幅に上回ります。爆風で一気に最大値です。それを受けて、長らく続いた冬弥の内なる「はるかいない条件」に光がさします。今まで見失っていた大切な何かが、その場で「やっと見つかった」状態になるのです。そしてその輝きは一瞬ですぐに消えるものです。冬弥は当然、ダミーの由綺をかなぐり捨てて長年の本命に傾き、何が何でも最愛の彼女を得ようと必死に追い求めます。目の前にいるのはけっしてはるか本人ではなく、理奈もまた、ただの別種ダミーに過ぎないのに。由綺EDも理奈EDも、表面的な正当不当の違いはあれど、真相結果的にはどちらも過ちです。由綺を選ぼうが理奈を選ぼうが、どっちも不正解。まがい物を引き当てた敗北EDです。


冬弥によりダミーがはるか認定されると、奥ゆかしい貞操観念を持つ彼ではあっても、その内部で進展の許可が下りてしまいます。冬弥が唯一と定めている相手ははるかですからね。安易な濃厚進展を好まない冬弥も「でも、はるかとなら俺…」となります。目の前の相手を「はるか」として確定してしまうと、その真偽を問わず、冬弥は最愛の彼女、ただし本物ではない、に向かって一直線に突き進みます。そして間違ったレールに沿ってそのままノンストップで爆走してしまいます。冬弥持ち前の貞操の固さが逆に裏返ってしまうんです。禁欲を真摯に守り抜いている身での、晴れての解禁だけに、いったん許可が下りてしまうとわーってなります、わーって。頭が沸騰して自分ではもう止められません。理奈との場合、彼女と過ちを犯す以前に、前段階として由綺に恋していること自体が冬弥にとってはそもそも間違いなので、既存の関係は暴走に対する抑止力を持ちません。はるか(本人じゃなくても)への熱い真剣な愛情の前には、由綺との形式的な恋人関係など、何の結束力も持たないのです。


冬弥は時として、由綺の存在をすっかり思考範囲から外しては問題行動を起こし、そのくせ誠意を放り投げた身でありながら、由綺への未練で決めきれない先行きにうだうだ悩みます。読み手としては当然、何なんだってなります。これは、内部パラメータでは一心にはるかはるかってもうそれだけになっているのに、いざ自分のキャラ設定画面を見直してみると「由綺が恋人」としか記載されていないので、あっ、俺そうだったっけってなって、それまで頭に浮かびもしなかったのに思い出したように由綺への執着を語る、といったイメージ図を想像すると判りやすいと思います。「由綺が恋人」という設定は実質手違いでしかなく心からの真実ではないので、自然、冬弥自身の自覚もまともに機能するはずがないというものです。


各シナリオの筋となる展開において、由綺との関係は何も重要でなく、影響力を持っているのは唯一はるかのみです。それこそアイドルとしての「偶像・森川由綺」の要素なんてどうでもいい些事なんです、冬弥の真剣な悩みを全否定するようでなんですが。ただ、わずかにそれに関しては一点だけ注釈があります。はるか編ラスト近くで冬弥は、「(由綺に対して)俺はお行儀の良いファンの一人でしかなかったのかな」のように振り返ります。自分のことよく判ってるじゃないですか。真実を取り戻しているだけに。記憶が戻ったのはだてじゃないようです。冬弥が由綺に対してなしてきたことは、いわば実情の知れない虚構上のアイドルに、手前で勝手に理想像を当てはめて、ひたすら思いこみだけで崇拝しているようなものです。冬弥はそれを割り切ったファン活動の一環でなく、由綺の一般人時代から、日常生活に根差した親交レベルでやってしまっていただけです。冬弥と由綺は、私生活においても徹底して「ただのファン」と「世俗のアイドル」でしかなかったのです。思い返せば冬弥の扱いっていつも大体そんな感じで、由綺からは養分とかカモとか、かしずく取り巻きとしか思われていません。そんな冬弥と過ごせて嬉しい(ただし嬉しいのは自分の優遇)由綺自身には自覚はないにしろ。冬弥は恋人という名目でおだてられつつ、それにかこつけた当然の誠意要求のもと収奪されます。冬弥が由綺の人柄をありがたがって尽くす所以なんかどこにもないんです。皮肉にも由綺の「偶像要素」こそが、冬弥所有の由綺像を構成するほとんどで、そしてそれはまったくの幻でしかなく、由綺自体には冬弥を左右するだけの実質はなかったということです。


言い方を変えてたとえるなら、愛する人を失くし、傷心のあまりその人に何となくかぶる浮世の業界人に面影を求め、ロックオンしてどっぷりはまって精魂つぎこむ、みたいなものです。弥生さん、あなたのことです。彼女の場合、一介のファンとして遠く応援するにとどまらずリアルに押しかけ女房して?それを堂々仕事に繰り上げちゃってるから余計たち悪い。いたって正気で自発的に自己催眠かけているのがまた。それを許容して、逆に弱みにつけこんでちょっかいのカードにしているらしき英二さんも相当な悪よのう。彼らはもう、そういう共通認識の上で割り切ってやっているようで、大人同士のプレイってことで別にそれでいいと思います。


ダミー構造を通して冬弥は、由綺と理奈にはものすごい無礼を働いていることになります。いくら故意ではないとはいえ許されるものではありません。何せはるかの幻影だけがキーポイントで、彼女たちに彼女たち自身の要素は求めていないことになりますからね。はるかへの愛を突きつめすぎるあまり、極論、はるか以外は全部ただの石ころになってしまっています。しかるに由綺や理奈の尊厳には意識が回らず、道端に捨て置かれます。由綺と理奈、彼女たち本人の価値なんて、はるかを求める冬弥にとっては不要な異物も同じなのです。


ただしここできちんと押さえておきたいのは、冬弥側だけが薄情で人格否定なスタンスを掲げるままに遂行している訳ではないということです。由綺理奈からは根本的に、冬弥へ向けてまっとうな関心など注がれてはおらず、あるとすればうわべの興味だけで、その扱いは冬弥個人を徹底軽視したひどいものです。彼女たちにとって大事なのは自身の沽券だけで、別に冬弥自体についてなんて真剣に考えてはいません。第一、彼女たちにとっての冬弥は「任意の青年A」でも十分に置き換え可能で、何も「あの冬弥」に限定する必要性はないのです。実際冬弥というのは無個性主人公のふりをしているだけで、実質めちゃくちゃキャラ濃いです。だからこれだけ長々解説しても全然筆が追いつかないんですが。しかしながら自らを顕示しない彼が「青年A」にとどまることは十分に可能で、「それだけ」でも冬弥として成り立ってしまいます。そんなでは由綺理奈が冬弥に固有の人間性を認識するはずもなく、したがって彼女たちの目に映る彼は彼相応の価値を持ちません。そこには取り合うのも納得なだけの価値はなく、取り合うのは冬弥でなくても誰でもいいんです。そんな裏の実情を踏まえて初めて、互いの心ないスタンスがどっこいになる構造になっています。


はるかを頂に奉って展開する冬弥の敬虔な心理は、由綺理奈に知られたら相当な懲罰ものです。激しい報復も覚悟しなくてはなりません。脚本上におけるはるか最優遇の構図を明らかにするのは、自分こそが作品の顔だと信じているアイドルたちのその顔に、そのまま泥を塗る行為になります。したらば沈黙一択です。由綺理奈より冬弥はるかの方がずっと人間が出来ており、事実上不当に過ぎる世の冷遇をも十分に乗りきれる忍耐力を備えています。できる人の方で一歩下がって譲ればよく、小物には花を持たせとけばいいんです。冬弥とはるかの、粉雪のように汚れなく奇麗な純愛物語(ただし余波によっては大迷惑)は、公に知られなくても本人たちとしては別にいいんだと思います。ていうか冬弥は相当羞恥を感じそうなので、面映ゆい赤面の真実を知られない方がむしろ望ましいのではないでしょうか。それも含めて面白くてたまらない私は、構わず平気でバラしちゃいますけどね。


基本、はるかがただそこにいるだけである程度安定する冬弥ですが、そのはるかに関してはこと貪欲で、はるかのことは全部自分の手中に収めておきたいというのが、得られるものならできる限り得ておきたい最大限理想の願望です。であるのに、冬弥からは現実問題、はるかの記憶が欠けています。限定された期間のみの喪失であっても、少しでもはるかがいなくなったことに直後の冬弥は耐えられませんでした。はるかが自分から欠けることには、たとえそれが限られた記憶の一部に過ぎなくても、冬弥は少しも耐えられません。自分の所有するはるかの欠片が足りないことで深刻な不調をきたします。禁断症状です。そのため、即時身代わりを立てないことには、強まる切迫をどうすることもできませんでした。そうして、失われたはるかの跡地に据えられたのが、由綺でした。


はるかの記憶を失くした冬弥が、その傷痕をそのままはるか本人で塞いでいたなら、特に問題は起こらなかったはずでした。ところが冬弥は、その一番大事な区域に、誤って別人をあてがってしまいます。愛が確かならば愛する相手その人を他の誰かで取り違えることなどあるはずがない、と断じるのもごもっともではありますが、現実はそんな型通りにできている訳ではないのです。冬弥がはるかの記憶を失っても、はるか自体がそのまま冬弥の側にいる現実は、それまでと何も変わりません。見かけ上では、冬弥ははるかを失ったことになっていないのです、何一つ。はるか現物は現にそこにいるし、失ったはるかの記憶についてはそれを失ったこと自体を冬弥は知覚できません。失ったものがはるかだと、あるいは自分は何を失ったのかと、冬弥が事象を特定して認識することはできないのです。


はるか喪失に対し、それを明確に実感することはできないとはいえ、実際失われた事実は確かなのだから、冬弥は原因不明の強い喪失感に苛まれます。けれどもはるかと相対する場合のみ、はるか接触効果によりその不安は限りなく緩和されます。はるかと共にいる状況下では、さしあたって冬弥に不安はない。はるかとの時間に限っては、失われたはるかの欠片がどうしても必要でそれがないと生きるのに支障が出る、なんて極限状態にはそこまでならない訳です。実際はるかと面していても何ら喪失感を覚えないのだし、そのはるかが大事な「失った何か」当人だとは、そうそう気付けることではありません。気にかける上で完全に盲点となります。つまり、はるかの前だと冬弥ははるかをあえて必要とはしないのです。焦らずともそこにいますので。逆を言えば、冬弥ははるか(現物)がいない条件でこそはるか(一部の記憶)がいない現実に苦しめられるということです。だからこそ冬弥は「はるか以外」の範囲から「かつてのはるかの代理」を見つけてくる必要がありました。「はるかとは別」の存在を「失われたはるか」のスペースに置くことで、欠けた空白は「別の現物」で埋まります。そのため冬弥は「そこ」に「いるべき人」が「存在しない」苦しみからは解放されます。「スペース主が消えた空き地」ではなく「由綺のスペース」として再登録されますから。はるかとは別個に由綺がいることで、はるか現物による通常の安定のほか、慢性的なはるか欠落状況でも安定して、由綺による偽の安定をかりそめに得ることができるのです。


でも結局、その偽物の安定は偽物でしかなく、冬弥はやっぱり由綺じゃ全然だめなんですね。というかはるかでないと絶対だめなんです。普段あらゆることに無欲で多くを望まない冬弥ですが、たった一つはるかにだけは貪欲で、その欲を突きつめたら、少しのもれもなく彼女のすべてが欲しいというのが彼の切実な望みです。それを基礎前提に、作中の最終段階として冬弥は、かつて失ったはるかの記憶を「取り戻せなくなる」状態になります。それまでは猶予というか、回路の断絶あるいは情景の埋没により情報として読み取れなくなっているだけで、記憶が「有効になる可能性」は残っています。失くしたものでありながら「空白として所有はしている」状態なのです。それが終局に至っては、その完全終了までのワンクッションすら失われます。要するに正真正銘の完全終了です。となれば当然、冬弥は事態の進行に抗います。くどく述べてきた通り、冬弥ははるかのすべてが欲しいので、その一部が完全に失われる前に、それが一体何であるかを必死に思いつめることになります。そして、ほとんどの場合でその答えは出ないままに終わります。


かつてのはるかとの記憶は、冬弥にとって何としても取り戻したい輝く欠片であると同時に、重く鈍い心の痛みでもあります。その所定期間は、兄の死という悲劇で締めくくられていますからね。その時はるかの支えになれなかったという心残り、そして現況はるかのための働きかけが半端に中断されている焦りがあります。それは通常の意識としてはほとんど浮上してこないけれども、冬弥が慢性的に無力感を抱える最たる要因となっています。


由綺編最終日の、ED行き選択肢を折った場合の展開で、その古傷を暗示する心境吐露が見られます。現行のやるかたない日々について、冬弥は「明日で終わる」と言い切りますが、それは明日、由綺が音楽祭を迎えて様々なことに片がつき、関連する縛りも解消されて、はい一件落着って話ではないんです。はっきり言って、音楽祭なんか真相的に何の深みもないただのすっ飛ばしイベントで、その開催は「その日」の重大さとは関係ありません。たまたま同日になるだけです。大事なのは、まさに「明日」、失われたはるかとの日々が完全消去の区切りを迎えるということだけです。冬弥が「空白記憶を持っていられる」リミットが「その日」なんです。


当記憶は、冬弥が求めてやまない宝物であると同時に彼を突き刺す切っ先でもあります。それが失われるというのは、冬弥を苛む無力感の一番の根拠もまた失われるということです。「はるかに」何もしてあげられなかった深い悔恨は、当記憶の完全抹消とともに同じく消滅します。冬弥は出所の特定できない苦しみから解放されます。全部が帳消しになるんです。だからこそ彼は「全て、明日で終わる」と語ります。ところが、そうしてすべてが決着するはずなのに、冬弥はそれでも納得いかない様子でしばらくぼやき続けます。結局、いかにそれが自分に重くのしかかる負の要素であっても、その苦痛も含めてはるかとの大事な記憶に違いなく、冬弥は部分まるごと全部、少しも失いたくはないのです。痛みが消えたってはるかが減るんじゃ意味がありません。この先はるかを失くした自分が自分として過ごす日々を思うと、生きる上での根源からごっそり命が削られるだけに、それこそやるかたない気持ちに沈むのも当然と言えましょう。