補足11


冬弥は「由綺は他の人の前では引っこみがちで大人しいのに、俺の前でだけ気を許して明るくはしゃぐ」みたいなことをよく言いますが、実際に描かれている由綺の言動様式は全然違います。立ち絵での人数制限により、基本的に一対一の会話形式というのがWAの定型だけに、冬弥以外の「キャラ同士の関係性」がいまいちよく判りにくい仕様になっていますが、作品内にもごくまれに、複数人が寄り合って話をするパターンがあります。パネル内での立ち替わり台詞や、シナリオ展開に応じて発生する掛け合いが、それに当たります。そこで由綺が他キャラと接しているのを直接見ることができますが、彼女はテンポこそゆったりであるものの普通にはつらつはしゃいでいます。好きに自分の話を続けて相手を巻きこみ、場合によっては呆れさせることもあるくらいです。冬弥以外に対しても、由綺はいたってストレートで、何の気兼ねもありません。深読みするまでもなくどう見たって、誰に対しても距離近すぎなんです。由綺は誰の前でも普通にあのままで、別に、冬弥の前でだけ特別態度が親密という訳ではありません。そして由綺は普段、冬弥を見つけると一目散に駆け寄ってきて、人前だろうが何だろうが少しの羞恥もなく腕に絡みつき、しがみつきます。また、たゆまぬ発声練習の成果で元々地声が大きいのか、何かと感激しては大声で喋ります。内緒話をする時はさすがに声をひそめますが、基本音量からして標準より大きめらしく、周囲に丸聞こえです。仮にもたしなみがあり内気とされている人間が、そんな大それた言動を日常動作レベルで堂々やってのけると思いますか?単純な話、冬弥の持つ由綺像の方が間違っていると考えるのが自然です。


第一、フレンドリーではあるものの他の人にはちっともなつかないのに、人けのなさを見計らって冬弥だけに対象を絞ってゴロゴロべったりで甘えまくる(ただし淡白)ってのは、それはるかのことですからね。由綺は冬弥に限らず、誰彼構わず愛嬌を振りまいて、自分を主張して満足したい人です。由綺が主眼に置いているのはひたすら自分です。相手によって自分を変えることはありません。主人だけを見つめて浮つかない昔気質の忠犬を求めるなら、弥生さんを飼うことをおすすめします。でかくて気位が高くて、それなりの素養もなしにはとても気軽に選べないお犬様ですけど。おそれながら誰にでも尾を振るお安い犬ではありませんわ。ですが缶紅茶でしたらいただきます(餌付け)。取っつきにくそうで思いのほか超ちょろい。いうても犬だし、お嬢だし。餌付けっても当然ながら、食うに困ってお腹すかしてる訳じゃないですよ。チョコやら飲み物やら甘いもの片手に「一緒に食べよ(飲も)」となつっこく誘ってくるような、のほほん図々しい人(弥生相手限定←これ大事。向こうも誰にでもなつく猫って訳じゃない)のそのつめ方にノックアウトです。弥生は踏みこんだふれあいに飢えている、でもプライドが邪魔してそれを言えないでいる、心の栄養面での腹ペコ犬です。その飢餓を満たす感じで抱きこまれた貴重な縁だから、もう他には一切目もくれません。先立たれでもしたら生涯引きずって、以後想い出の場所に通いつめること確定です。


由綺がはしゃいで落ち着かないのは地の性格です。別に、本来は暗いのにそれをおして無理して明るく振る舞っているという屈曲ではなく、元々うきうき、いつでも楽しくキャッキャしてる人です。オーバーアクションで、何かと感嘆気味、仕草もやたら思わせぶりで、人の気を引きたがります。箸が転がってもおかしがるタイプで、とことん陽性の性格です。つまり、由綺の性格についての冬弥いつもの見解は、根本的に間違っています。ただ「冬弥本人の方に」本当はすごく暗いのに普段無理して周りとそれなりに仲良くしているという下地があるため、まったくそんな傾向のない由綺に、ワンクッションを経た複雑な感情表現を不必要に当たり前に当てはめて、冬弥特注の由綺像を信じこんでいます。


という訳で、冬弥がよく語る「無理する姿が痛々しい」「だから、それを踏まえた気遣いが必要」というのは、本当は由綺の持つ要素ではなく、めぐりめぐって冬弥自身の本質を指しています。本当は冬弥の方が、誰かが気を配っておかなくてはいつか壊れてしまいかねない、痛ましい人なんです。かといって、そう間接的に語ることで、本人が遠回しに自分への配慮を期待しているのではありません。冬弥は自分のことには少しも意識が働かないので、自分の危うい状態を問題視することはありません。あるいは、気付いていながらあえて自分に余裕をあてず苦行を強いているのか。ともあれ、自分を圧し、捨て置くのが冬弥の流儀です。そんな中、由綺を自分に寄せてとらえることで、ささやかな共感という形で、わずかに安息を得ています。生きづらいのは俺だけじゃないんだ、由綺は俺と同じなんだ、と。そして「辛そう」で、それでも「平気そう」に振る舞う由綺を支える実行動により、あたかも、自分もまた支えられている幻の実感を得られます。辛い誰かを支える自分を通して、辛い自分に対しても誰かが手を差しのべてくれているかのように。冬弥はそんな、直接には実入りのない不毛なやり方でしか自分自身を安らげることができないのです。


由綺は、普段の朗らかな態度とは一変して、見るからにしょぼんとすることがあるので、そっちのうなだれた姿こそが由綺本来の気質だみたいに思われがちですが、彼女は自分の感情に正直なだけで、内面の常態がネガティブ一方に偏っているという訳ではありません。冬弥じゃあるまいし。由綺は生きたいように生きているので、落ちこむ時は気の向くまま大いに落ちこみます。別に、無理を隠しきれなくなってついにあふれてしまった本音という訳ではありません。本音はいつでも表に出っぱなしです。嬉しい時には「感情のままに」思いきりはしゃぐし、困った時もまた「感情のままに」思いきりしょげます。ポジティブごとでもネガティブごとでも何でも、ありのままの自分を周りに訴えかけずにはいられないのです。


パネル経由の由綺とのデートイベントで、美術館に行く予定のはずが、閉館日につき急遽公園散歩に変更する、というものがあります。急な変更にも嫌な顔一つせず、由綺は散歩デートを了承します。そして、公園で静かな様子で過ごす由綺を、冬弥はとても好ましく思います。何てことない平和そのものな情景です。けれども、冬弥を介し、我々はものすごく大きな考え違いをさせられているのかもしれません。


由綺というのは、たとえ学園祭クラスのステージ鑑賞であっても、ただ無駄に楽しむのではなく、自らの今後に取り入れるべく熱心に見入るような勤勉な人間です。何か自分のためになることをしていなければ気が済みません。またとある難パネルでは、控え室待機を指示された由綺が、することがなくて暇を持て余し、人との繋がりを求めて勝手に表に出てくる様子が描かれます。一人で大人しくじっとしていることができないんです。常に外部刺激を受けていないと自分のうずうずを抑えられない、あるいは自分が一身に注目を浴びていないと満たされない、つまり由綺は「何もせず、何も得られず、ただ退屈でいることが好きでない」人なんです。


そこにきて、何の役にも立たないのどかな公園散歩ですよ。徹底して退屈を避ける由綺がそんなの好むはずがないんです。由綺はぼーっとした性格ゆえに、思考が飛んで結果的にぼーっとなることはあっても、自ら選択的にぼーっとして何もしない行動を取ることはありません。由綺にとって「意味のない時間」にあてる自分時間などありません。「自分のために」価値ある時間しか、彼女には必要ないのです。睡眠?睡眠は何もしないけど何の効果もない訳じゃないでしょ?自分に欠かせない重要な回復時間です。全力で爆睡に臨みます。由綺は、何かを意欲的にしていないではいられない気質なので、公園でただ何となくぼーっとなんてしたくないはずなんです。


それなのに冬弥は公園で過ごす由綺の様子を良好だととらえます。あまつさえ冬弥は、由綺が喜ぶと思ってなのか日頃から積極的に彼女を公園に連れていくようですが、公園でのんびりするのが好き、って、それ由綺以前に完全にあいつのことですよね?取り立てて何もしなくても、無為の憩いを大事にし、ただ冬弥と過ごすことそのものでも楽しんでくれるってのは、それはるかですからね。公園ぶらぶらは、正真正銘はるかの好む「はるかの趣味」なのであって、由綺もそうとは限りません。「由綺の嗜好」はそれとは根底から異なります。


散歩デートにおいて由綺は「嬉しそうにしている」とされていますが、元気いっぱいに全力ではしゃいでいるのではなく、冬弥の言葉を借りるならあくまで「落ち着いた」状態とのこと。つまり、満面でのきらっきらな笑顔でないのは確実で、それは微笑ともつかない微妙な表情だとも取れる訳です。本当は由綺は、全然乗り気でない?もやもやして、形だけの曖昧な笑顔を浮かべている?実際問題、することがなくて退屈で、面白くも何ともなくて飽き飽きするので、仕方なく笑顔を作って気を紛らわしているだけという可能性が高いのです。つまらなくても笑っていれば自然と「自分が」楽しくなる、そんな由綺流ポジティブメソッドです。


由綺は、自分の欲求は押しつけ気味に通す一方で、人の提案には特に逆らわず丸飲みする性質も持っています。由綺はわがままで身勝手ですが、反面、確たる主義主張はありません。特に特別な理由などなく、その時の気分次第でいつでも感情のままにやりたいことを押し通しますが、それだけに、何が何でも私はこうしたいという凝り固まった指針がある訳ではないのです。だから、楽しみにしていた予定のデートコースを変更して「散歩にしよう」と言われても、すんなりそれをのみます。本人、特に散歩は好みでなくても、指定的に提示されたなら、拒否せずそれを受け入れます。一般的にわがままキャラというのは「わがままかつ意固地でワンセット」になっているのが定番ですが、由綺はわがままだけど意固地ではないんです。とても素直。「そんなの嫌」とか面倒にごねません。相手が手前で差配することに、機嫌を損ねてブチキレることもありません。自分にも素直だからわがまま、他人にも素直だから従順なのです。この絶妙な特性配分により、由綺の本質にはいい感じに擬態がかかり、露呈しにくくなっています。


不平を言わず穏便に提案を受け入れたとはいえ、それでも由綺は公園散歩を積極的に楽しみたい訳ではないから、そこまで明瞭な歓喜の感情表明はしません。拒否する理由はないけど大歓迎する理由もなく、その気がないのは事実なので、はっきりとした態度にはなりません。由綺は正直なので、忖度して過剰に楽しんでいる風を装ったりはしません。結果、いたって平坦な態度に終始します。由綺が見た感じ「落ち着いている」のは、心からしみじみ楽しんでいる表れではけっしてなく、ただ単に、満足に楽しめていないだけなのです。


本当なら、美術館で有意義に感性を高める自分時間を味わうはずの所、無意味な散歩に変更になって、由綺は拍子抜けしています。由綺がはしゃがず大人しくしているのは、本当は興をそがれた落胆の態度かもしれないのに、冬弥は穏やかで落ち着いた良い雰囲気のように語ります。由綺は俄然白けているのに、冬弥はすこぶる好ましくとらえています。良かれと思って連れていく鉄板コースが実際には全然ウケていないという、恋人あるある。


別に由綺は落ち着いているのではなくただつまらないだけなのに、浮かれて元気にはじけている方がそれこそまさに「由綺の方の」性分なのに、「元気な由綺も好きだけど、正直俺は、ゆったり落ち着いた由綺が好き」と語る冬弥。もうだめだこいつ。目の前の恋人を褒めながら完全に別の女の話してやがる。続けて曰く「無理して元気にしてる由綺は見ててつらい、俺は俺の好きな由綺を見ていたい」だと。無理も何も、その時の気分で根っから元気でいるのが由綺そのものなのに、沈静の様子が由綺本来の姿だみたいに言って、そっちの方が好きだと冬弥は主張します。あ~あ…って思います。その「俺の好きな由綺」こそが、冬弥がよく言う「俺だけの由綺」に相当しますが、正味は「はるかのダミー」としての役割がすべてです。そこには由綺自身の性質はまったく反映されていません。「俺が好きなのは、由綺よりも断然はるかの方」ってはっきり言い切っちゃってるんです。あ~あ…。え、これ、そもそも恋人同士のデートイベントなんですよ?心置きなく純粋に甘ラブであって然るべきなんですよ?それなのに、冬弥への愛情が乏しすぎる由綺と、はるかへの愛情が熱烈すぎる冬弥、お互いそれまくった本音が明らかになるって。なんてこった。愛の通わない現実が悲しすぎます。何かもう彼らの恋人関係って、真のストーリー的に、本当に名目上だけなんだなと思います。


他にも由綺には恋人ならではの様々なデートイベントが用意されていますが、そのどれもが見た目のほのぼのさとは裏腹に、深読みモードに入ると基本的に、由綺のトンデモ我が道ぶりが明らかになるか、冬弥の重度はるかコンが立証されるかどっちか、あるいはその両方で、「これで恋人って…」と、公認の無意味さにやるせなく目を覆いたくなります。冬弥がまやかしとしての由綺を好んでいる例は事欠かず、楽しいはずのデートイベントを読み解くたび、逆に突き落とされて心が痛みます。プレイヤーに味わわせるゲームプレイ感、キャラ攻略感が苦々しすぎる酷薄仕様です。人間不信に陥るわこんなん。


屋上イベントは表面上、由綺の優しい思いやりが仇となった、何をも責めようのないやむなきトラブルのように描かれます。ですがイベント全体にわたって、由綺の言動のあれやこれやに引っかかりを否めません。どこもかしこも何かが噛み合わず、一貫してベースがおかしいのです。由綺の話を聞いた冬弥のまとめによると、撮影現場到着までの順序を弥生の手はずで調整していた行程に、英二の指示だと嘘をついてまで由綺が勝手に手を加えていじった結果、彼女は現場の現地を勘違いしていたため、一人その場で立ち尽くすはめになったそうです。気遣いゆえの罪のない嘘というのは不器用で慣れない人間がするもんじゃないというのが冬弥の感想なのですが、由綺はすっかりテンパって何度も「ごめんなさい」と平謝りしているものの、自分が周りを困らせることをしたとは全然思っていません。由綺が、弥生に良かれと思ってスケジュールをいじったのは確かに事実なんでしょう。冬弥の言う通り、悪意のない嘘が不運にも裏目に出た結果ではあるのでしょう。由綺に問題を起こすつもりなどなかったのは確かです。でも問題が起きたのは事実です。それなのに由綺は業務的にまずいことをしたという自覚はなく、現時点トラブルの真っ最中でもなお、むしろ自分はいたって良いことをしたという認識でいるようです。「弥生の往復の二度手間を避けるためだった」との善意、そこを本人が第一に主張したからこその、それを受けた冬弥の要点把握ですからね。良いことをしたのに結果が思いもよらぬ方向に展開したので、由綺はひどく困惑しています。


由綺の先走りは人を困らせようとして出た行動ではなく、人に褒められたいと思ってしでかした行動です。だから方向性としては間違いなく善行寄りなんです。確かに悪意はないんです、下心はありますが。そして由綺はその目的意識を恥じません。現場の取り違えは、思わぬ条件の重なった仕方ない不測の事態だと思われていますが、自分基準で「人に褒められることをしている」とでも思って得意になって、いつも通りに由綺が好き勝手やらかした末の当然の帰結です。由綺は自分の観点でしかものを考えないので、弥生には弥生の考える経路があることをまったく考えておらず、自然、時には見当違いな脱線にもなるというのは道理です。


類似ケースとして、はるかにもまた、相手の要望を聞かずに勝手に飲み物を買ってよこしてくるような独善的な一面があり、見ようによっては由綺の性質と部分的にかぶっています。ただ、はるかはちゃんと相手の様子を見た上での判断で、彼女がはじき出す最適な選択を取っているのですが、由綺は単に自分の気持ちただ一つ、思いつくままなだけで相手は全然考慮に入れません。またはるかが善意を押し売りする相手はおそらく冬弥だけに限定されており、彼の好みや傾向を熟知した上で色々よこしていると思われますが、由綺は冬弥に限らず誰にでも、誰が誰であっても関係なく、自分の価値観を自分が望むように押しつけます。相手なんか何も見ていません。二人の行動は、意識からして根本的にまったく違っているのです。


由綺は泣いて謝りっぱなしだし、すごく塞いでしまっているから、失敗が心にこたえて反省しているように見えます。でも、それにしては何かがおかしい。動転しているにしても、仮にも自分の過失を責めている人が、無配慮にも「屋上に行こう」と言って追加で勝手な不規則行動を重ねたり、無神経に「ちょっと行き違っただけで人はいなくなるんだね」などと、さも現状トラブルが自然発生的に起きた事態のように他人事で言ったりしますか?要するに由綺は、自分の行動の何が良くなかったのか判っていません。というか良くなかったとも思っていません。別に自分のポカを気に病んで落ちこんでいるのではないのです。いつも周りにいる人たちが今はいないというので「寂しかった」と由綺は言いますが、そんなこと言ってる場合じゃないのにそれ本気で言ってんの?由綺は「自分の周りにいつもの面々がいない」つまり「自分を鋭意盛り立ててくれる人たちがいない」のが心細いと言っているだけで、現時点、当の関係者全体に迷惑をかけている過失については、まったくの無関心です。その遠目な感覚に薄ら寒さを覚えるくらいです。


萎縮している人にさらに追いうちをかけるような無体はすべきでないし、冬弥自体が自分の持ち場を、いかな不利な状況でも由綺の立場を全肯定し彼女の味方でいることにこそあると思っているので、ひたすら優しくなだめるのに徹するのも別にいいんですけど、それは「由綺が反省しているなら」の話です。冬弥がすべきことは、反省のない由綺をそのまま野放しで肯定することじゃないはずです。ガツンと正面から知らしめなきゃ由綺には大事が判りません。でも困ったことに、冬弥もまた別件で、由綺を正視できずまともに状況を掴むことができません。冬弥は由綺を側にして懐古心を呼び覚まされ、はるかとの消えた想い出への恋しさに浸りきってしまうので、正常な思考が働かなくなります。目も当てられないほどのトリップに陥って、意味判らない、でもはるか前提とするとすっきり腑に落ちる長作ポエムを繰り出します。由綺が少しも悪びれていないことは彼女を直視すれば容易に判るはずなのに、はるかトリップした冬弥には、じかに近接している由綺の態度の異様さなんか見えていないのです。


由綺に後ろから抱きつかれる当イベントにおいて冬弥は、由綺と過ごしてきたこれまでの日常の中に、とりとめのないあらゆる行動様式の「何か」があったこと前提で語るので、バックボーンレベルでは、本文で語られない多くの積み重ねが確かな設定として二人の間に存在しているのだろうと思わせます。直接挙げられなくてもそれを「あるものと見なして」考えるようにとの、読者の想像を込みで表現に組みこんだ手法のように見えます。何せ冬弥の言い方が曖昧すぎるものだから、そういう仕様でのことなんだろうと、そのまま何となく受け入れてしまいます。ですが実は、この詳細の欠如に関しては多重の制限がかかっています。


冬弥はその追憶の気持ちについて、本人がただ思い返す以上に強く懐かしさを感じているんですよね。思ったよりずっと心をゆさぶられているというか。自分たちにしてみたら何でもなさすぎて「想い出にさえ残りそうにない」程度のふれあいのはずなのに、ひどく懐かしいと冬弥は語ります。また冬弥は、TV局に屋上があることすら忘れていた割には「屋上に行ってみたかった」と、かねてから?興味を引かれていた心の内を示します。これは、屋上という同じ舞台で、由綺と同じ仕草をした人物が、冬弥の知らない「消えた過去」の中に「実際に存在した」という話です。冬弥は失われたはるかを思い返し、だからあんなにも焦がれているのです。「大切に蓄積したはずの想い出の『原本』が冬弥の手元に残っていない」からこそ、冬弥はひどくひどく懐かしさを覚え、届かないもどかしさに胸を締めつけられるのです。


冬弥の記憶障害ははるか関連の過去の一部に限定されており、それ以外にはまったく問題はありません。後遺症の一端として疾患以降の記憶の保存機能に不具合が生じ、短期の出来事を覚えることができなくなっているかというとそうでもなく、多少の健忘症の気はあるものの冬弥が日常生活に困るほどの症状を抱えている様子はありません。つまり由綺と出会って以降の冬弥にあっては、記憶の蓄積や再生に異常をきたす条件を持たないので、由綺に関しては印象的な出来事を脳内からそのまま取り出すことに何も支障はないはずなんです。それなのに作中、具体的な話はほとんど浮かんでこず、特筆される過去は「何か」というあやふやな不明瞭表現だけです。実例があるとすれば特例としてわずかに、高校の美術の授業で互いの姿をスケッチしあった話くらいです。それ以外に目ぼしい情報は見当たりません。由綺とはまともに想い出を作った実績がないという表れです。おそらくは日常的に由綺の頼みごとを聞くだけの受動対応ばかりで、そこに冬弥自身の意識は反映されていないため、ほぼ無で流れっぱなしの日々だけが通り過ぎたのだと思います。由綺とは「使われる」以外での交渉はないということです。冬弥が具体的なことを言わないのはつまり、数ある手持ちの想い出への詳しい言及を割愛しているのではなく、想い出構築時点で大幅に思考回路からはじかれていてほとんど手持ちがないのです。


このように、語られる追憶が漠然としすぎている原因には、過去患った病気により想い出が脳内から消失しているはるか事情と、想い出として蓄積不要と認定され意識を通過する由綺事情とがあります。とはいってもはるかとの関係も、その消えた過去を含め、劇的で鮮烈な想い出が豊富に積み上げられているかというとそうでもありません。いつものようになんかだべって、なんかだらだらして、噛み合わない会話に脱力するといったものが大半だと思います。これといって何もしておらず、取り立てて価値ある行動はしていないでしょう。それこそ特別な出来事としては「想い出に残らない」程度のものです。ですが冬弥の素地として、そんなささやかすぎる当たり前の、いわば家族的な日常すら共に過ごすことが叶わなかった存在があるのだとしたら、無駄話さえも特別な色味を帯びてきます。つまり、くだらない日々がどれだけありがたいものなのか、訳ありの冬弥は身にしみて知っている訳です。冬弥の生活がありふれたものでありえるのは、はるかの存在あってこそです。欠けた存在に代わる形で冬弥の日常を満たしてくれるはるかとの間には、文字ではけっして語られることのない不動の蓄積があります。それは一朝一夕に出来上がるような関係ではありません。自分に癒しや気晴らしが必要な時にのみ一時的にちょろっと冬弥に手厚い対応を求めてくるだけの由綺では、特別な思い入れを抱こうにも、絶対的な時間数からして足りていないのです。心情的にも、そんなじゃあまりにも薄っぺらすぎますよね。


「後ろから腕を回して抱きしめる」行動に厳密に限定すると、数あるはるかスキンシップの中、それ自体は作中に見当たりません。ファインダー外ではるかもそうしているか否かは置いておくとして、その仕草が間違いなく由綺所有の特徴的な癖として存在していることは確かなのでしょう。作中でほとんど語られることのない冬弥と由綺の高校時代を思い起こさせる希少な一節です。ですが、細かい位置取りで区分せず「不意に静かに身を寄せてくる」という大きなくくりで見れば、それははるかとのありふれた日常です。大体いつもそんなことやってます。「いつも二人だった」「いつまでも二人だった」というフレーズはどう考えても、冬弥の伴走者であるはるかを指した話です。なお「後ろから不意に抱きしめるのは『寂しい時の』由綺の癖だ」と冬弥は語りますが、一方で「高校時代からいつも由綺は俺の背中を抱いて、特別な意味もなく『ふざけてた』」とも語ります。一体どっちが本当なんだよ?二つの話は真っ向から食い違っています。どっちが本物の由綺なのかという話です。正確には、片方は「由綺ではない『本物』」で、もう片方は「『本物』でない方の由綺本人」ということです。寂しい時にそっとくっついてくるのははるかであって、意味なくふざけて抱きついてくる方が由綺なのです。冬弥は、デビューする前の「あの頃」みたいに、由綺が自分を抱きしめるやりとりがむしろ「普通」で「正常」に感じられるといった感じのことを語りますが、冬弥の「普通」というのはそのまんま、はるかと共に過ごす日常です。由綺と親しくなる前の「あの頃」から変わらず、「はるかが」自分を抱きしめる日々が冬弥の「普通」で、本当ならそっちが「正常」のはずなのに、今はそうではなくなって、すべてがおかしくなっています。


屋上でしばらく過ごしていると、迷子の由綺を探しにきた英二が駆けつけ、追って弥生も駆けつけます。そして、自分の落ち度だと詫びる弥生に向けて、由綺は開口一番こう言います。「ううん、弥生さんが悪いんじゃないよ」と。うん、何一つ間違ったことは言っていません。由綺の発言は状況的に正しいです。そして考えられる限りこれ以上にない、いい子フルな模範解答です。でも、なんっかおかしい。ニュアンスがおかしい。何でそんな「確かに弥生さんが悪いんだけどフォローしてあげるよ、気にしないで」風に言うのか。まず先に自分の勝手を謝れや。由綺が弥生を励ます立ち位置で話を展開してくるのがまずおかしいんです。一応は謝罪として「私が勝手なことしたんだもの」と自分の行動にも追加で言及しますが、そっちが追加の付け足しでしかない感覚がそもそもおかしくて、順番一つでこんなにも真意が明白に露呈するというのもなかなかお目にかかれない事例です。また先ほども述べたように、直近の由綺の言動はどれを取っても、どこをどう見たってまったく反省の色がありません。その確定的な前段階があるのに自分の勝手を猛省する言葉を発したって、本当はまったく自分に非を感じていないのは明らかです。由綺は自ら申し出て、弥生の責任を「かぶってあげている」気持ちでいるのです。それは弥生の心の負担を減らそうとする善意です。そう、善意です。「んーそうだな、弥生さんのミスじゃないよなこの場合」と、由綺の言葉をそのまま拾う形で、状況にそぐわない彼女の何様な言いようにさらっと、でもしっかりと釘を刺す英二さんグッジョブ。由綺に何も言えないヘタレな冬弥とは大違いです。


同様のパターン展開として、とあるパネルで由綺が切り出したデートの約束を冬弥側の都合で取りつけられない場合、しばらく不服そうにしてから由綺は「元気出して」と励ましてくれます。元気づけてくれるのはありがたいんだけど、何だかなあ。自身の間の悪さで由綺に会えない冬弥の不運を気の毒がり「私に会えなくて残念だろうけど元気出して」、あるいはそれこそ「確かに約束することもできない冬弥君はだめなんだけど、そんな自分を責めないで元気出して」という意味だと思います。事実冬弥はそういう心境なので的確な励ましではあるのですが。そして「いつも会えるわけじゃないって初めから覚悟してたじゃない?」と由綺は念を押します。由綺に会えるのを当たり前と思わず、今回のようなことがないよう心して付き合わなくてはならないということです。初めからそのつもりだったでしょ?と冬弥側たっての意向の上で締結した交際スタイルであることを確認します。由綺ヤバ事例に何度も遭遇していくうちに、彼女に圧を強いられるのが癖になってきます。これドMの人にはたまらんのでしょうねー。はてさて次はどんな思い上がり発言が飛び出すかと変に楽しみになります。由綺面白。


イベント転換点で、英二は血相を変えて屋上に飛びこんできます。普段のすかした態度から考えると、同じ人物として結びつけられないくらい尋常じゃなく慌てています。ですがその後の流れだと、あれだけ一生懸命に由綺を探していた人とは思えないほど冷淡に、由綺から離れた立ち位置で彼女と接します。実は英二は由綺ではなく「弥生を」とても心配して、あんなにも必死になっているんです。


その弥生はというと相変わらずの無表情で、見た目には特に異変は見られません。弥生編以外の冬弥は「兄の目」を持っていない状態なので、弥生の感情を読む能力に加算がかかっていませんが、それでも弥生が自分の落ち度を「悔しい」と感じているようにとらえています。冬弥の見立ては当てにならないながらも、その感度自体は確かなら、つまり弥生に何らかの感情の波が感じられるということです。感度の高い冬弥だからこそ感じ取れる部分というのもありますが、外部から目に見えるくらい、弥生はひどく動揺しているのです。悔しい…、うんまあ悔しいのも確かに心情としてあると思いますが、それ以上に自分の不始末がいたたまれず、ものすごく気に病んでいます。弥生が顔色一つ変えないまま静かに取り乱す様子は、弥生編でのはるかとの約束ど忘れでも克明に描かれていることで、全然平気なように見えても内面では相当こたえているようです。


弥生は普段ほとんど失敗しないため、いざ失敗したとなると、いつものことと気楽に流せてしまえないだけに、その失敗を人一倍重く受け止めてしまいます。有能すぎるがゆえの弱点です。そして剛直な見た目とは裏腹に、条件によっては局所的に繊細で傷つきやすい人です。そんな真面目すぎる弥生が、由綺にもし大事があったらと気をもみ、また由綺のやらかしに責任を感じて苦しむ様子を見たか聞いたかした英二は、彼女の心痛を取り除くべく、まずは由綺の身柄の確保を図り、自らあちこち駆け回ったという訳です。事務所の最高責任者としての役目もあると思いますが、それ以上に英二は弥生のショックが尾を引くことを心配して対応しています。弥生はあれでも経験浅い新人なので、根底から抜かりなくケアしておかないと潰れてしまいます。基本強靭な弥生ですが、まっすぐすぎて、場合によってはあっけないくらいぽっきりいってしまいます。まるごと包んでよしよしして慰めてあげないと立ち直れない人なんです。本人は眉間にしわ寄せて「そのような事実はありません」と反論するでしょうが、絶対そうだよ。英二は弥生のそんなかよわい人間性を十分に理解しているので、最大限に気を配って大切にします。そんでもってトラブル起こした張本人の由綺はあの通り全然懲りていないでしょう?そこはきっちり皮肉ぶっ刺して、弥生に転嫁するなと言い渡しておきます。英二さん、弥生さんのこと大好きすぎるのどんだけなんだよ。


由綺編クライマックスで、英二のことが好きなのかを冬弥に問われ、それに答える由綺の言葉というのは一番の見所と言えます。話をまとめると、英二が好きかは確証を持てない、でも冬弥だったらそうではない、自分に正直に確信を持って好きと言える、そう言っているように見えます。けれども、「冬弥君だったら(話は違う)」と冬弥の固有性を語る直前に、「緒方さんを好きな人はいっぱいいる」「その人たちから彼を取り上げるなんてできない」云々とわざわざご丁寧に、対抗の英二に関する余計な注釈をねちゃねちゃ粘っこくぶっこむことで、「冬弥君はそうじゃない」がそっちの方に強烈にかかってしまっているんですよね。これ実は余計なことじゃなくて、筋道的にはそこが要点だから強調されているのです。ただし由綺本人はその発言の意味する所、すなわち自分の本心にまったくの無自覚ですが。冬弥君への気持ちは「どんな障害があっても誰にも負けない」のではなく、冬弥君だと「大した価値がないから誰とも競争にならない」と言っているのです。ひどい話です。英二には本人をめぐって競争が起きるだけの価値があるから獲得するには気後れする。でも冬弥はそうじゃない。だから誰に遠慮する必要もないので、由綺側の都合一つで主張をそのまま押しつけられるし、心置きなく由綺の好きにできる。冬弥をどうにかするのは由綺の胸三寸で決まることで、まさにそういう存在が冬弥なんだと言っているんですね。馬鹿にしています。一応は「冬弥君が誰かに好きになられたって」との仮定を立ち上げますが、まずもって先行する英二への評価との対比により、言うほどの危機感は由綺には本当は存在せず、冬弥が本人の人的価値でもって誰かに求められる可能性など考え及びもしていないことになります。いわば由綺に愛されることだけが冬弥に価値をもたらす必須条件といった認識です。そうでなければ冬弥に価値はないのだから、そんな彼に価値を与えられる自分には目いっぱいの自信を持って「冬弥君が好き」と言えるのでしょうね、由綺は。


クライマックスの癇癪の中で由綺は明確に、今にも英二に心を傾けないではいられない浮ついたなびきを示します。英二を取ること、それも自分にとってうまみのある、悪くない選択だと射程に入れつつあります。また英二が好きなのかと問われ「判らない」と返しつつ、動作ではしっかり頷いていたりと、由綺の両天秤を指摘しだしたらきりがない有様です。由綺は自分によりよい条件を欲し、混乱する頭をフルに働かして取捨選択にゆれているのです。ただ英二の申し出はあまりに突然で、可能性の範囲ですら少しも考えたことがないため情報処理が追いつかず、またこれまで由綺が歩んできた人生に反することなので、彼女は戸惑いました。過去既に冬弥を選んだという「自分の」経緯を肯定するために、これまでの自分の持続を図り、結果的に冬弥を指定して対応を求めたという次第です。由綺は、冬弥との関係が大事なのではなく、厳密に「自分が」大事なので、自分に都合の良い選択肢であれば迷わずそれを選びます。ただ由綺にとって「どちらがより良いか」が瞬時にさばききれなかったので、迷ったというだけです。現時点では状況展開が急すぎたので、安定のために即決で現状維持の選択をすることになりましたが、余裕をもって損得を吟味できるくらいに状況が落ち着き、十分な時間が与えられれば、由綺の心境も変わってくるかもしれません。由綺が得るメリットの中、何が優先で選ばれるか、それは彼女のエゴの向かう先次第です。惰性の持続を願うも新たな進展を願うも由綺次第です。


英二へのなびきを自覚し、その迷いを気に病んで正直に洗いざらい懺悔するのは実に正々堂々真摯でいいんですけど、しいてそこまで冬弥の前で詳らかに言わんでも、というような爆弾な本心まで由綺は平気で連ねます。英二を上げる、冬弥を下げる、英二に傾く自分の気持ちを隠さない、と由綺はコンボで失言します。その時点の冬弥にとって一番センシティブな痛点とはまさにそこ、「英二ほどの才覚を何一つ持たない自分の不甲斐なさ」にあるのに、由綺は波状で切れ間なく傷口に塩を塗りたくる真似をします。そこで「冬弥君が何者でもなくたってそのままを好きでいられるよ」との受け止めがあるかというと別にそういうのでもありません。由綺が言っているのは「冬弥君を好きでいることに『私は』わがままにも乱暴にもなれる」、この主旨固定です。事実、由綺が冬弥を「好き」なのは疑うまでもなく真実なのでしょう。でも由綺は冬弥を「大切」とは思っていません。由綺にとって重要なのは「自分は~が好き」ということだけで、相手の気持ちは気にしません。自分の発言が相手にどう受け取られるか、言われた相手がどういう気持ちになるかなどには目を向けません。相手への思いやりがあれば普通は控えるであろう、心に傷を負わせるような内容でも平気で口に出せてしまいます。冬弥への配慮は少しもありません。つまり由綺の「好き」は、冬弥を大切に想うことで生じている感情ではなく、ただ自分の個人感情を高ぶらせただけのものです。由綺本人が宣言する通り、その「好き」はまさしく「わがままで乱暴な」エゴ一色で構成されているのです。


自身のエゴを相手にぶつけること自体は、相互理解に至るまでの大事なプロセスで、けっして悪くはない重要不可欠なものです。互いの要望のすり合わせを経て初めて、最適な妥協点で折り合いをつけることが可能となります。ただしそれは、互いのエゴを互いにキャッチし、個人の主張としてそれぞれ認識に取り入れて、その上で成り立つことです。でも由綺は自分のエゴは存分に発していても、冬弥の方の意向は聞く気配すらないですよね?由綺は、冬弥にも彼なりのエゴがある、個の心を持った一人の人間であるという当たり前のことを、前提から完全に取り払った形で扱います。冬弥側のエゴは発するに至るまでもなく、初動でぶった切られます。そんなの由綺には無用なんです。冬弥を理解するために歩み寄ろうだなんて毛の先ほども思いません。だからこそ彼の自尊心を踏みにじる発言をしても平気、っていうか自分の言葉がいかに相手を愚弄しているか気付かないのです。冬弥に心を認識していないから、彼が傷つくということ自体が由綺の視野から外れています。自分の気持ちはとにかく出しきって押し通す、でも相手の気持ちにはまるで見向きもしない。こんな尊重度出力の偏ったスタンスで「誰にも負けない」と冬弥への本気をうたったって、真実の愛も何もありません。


由綺に徹底軽視される当の冬弥はというと、英二の格に気後れする由綺に、由綺の格に気後れする自分を重ね合わせ、同じ感覚を共有できたことで由綺に愛しさを感じます。一体どうやったらそんな前向きな結論に至れるのやら。冬弥と由綺が互いの価値に気後れして互いの領域に踏みこめないんじゃないですよ、冬弥は由綺に気後れして、由綺は英二に気後れして、その場には冬弥に向けた重視などどこにも存在しません。それなのに冬弥はしみじみ喜んでいます。彼は自己認識や思考回路が禁欲的というか自縛に偏っていて根本的におかしいのでね。自分の立場を低く抑えつけるのが固定です。自分が日々感じているような劣等感を由綺も同じように感じたのだと思えば、苦悩を持ち寄り負担しあえた気になれて嬉しいのでしょう。由綺にはそんな、他人を受け止める懐なんてありはしないのに。冬弥本人が下にいる状態、そして自動的に下に見られる状態が基本になっていて、完全に馴致されています。本人が粗末な扱いに満足し恭順しているのなら、それで世話ないです。


由綺編の大まかな筋書きは大体どのシナリオでも共通で得られる情報ばかりで、そんな中、引っぱりに引っぱって由綺ED限定で特別に得られる厳選の極秘情報というのはたった一つ「アルバム収録ピアノ曲を由綺自身が弾いている」だけです。ズコーってなります。それだけ?ほんとにそれだけなの?他にないの?もっとこう意表を突くようなびっくり要素は?ちょっと趣味でピアノを弾いてみました程度ではなく、商用の作品として通用するものを目指して努力を重ねたのは、それは確かにすごいと思いますが、それでも本業ピアニストレベルの本格さを求められている訳ではないでしょうし、売りこみとしてあまりにも弱すぎます。由綺自身の提案で収録にねじこんだ演奏とはいえ、周りがセッティングした仕事をただ無事にこなしただけじゃないですか。「お手本通りに失敗なくちゃんと弾けたよ、そのためにずっと頑張ってたんだから」というのが由綺にとって「最大のとっておき情報」なのだとしたら、それ以上のこと、たとえば知性と感性を絞り自分の思考をブラッシュアップして文字に反映させる作詞作業なんて、とてもじゃないけどありえないという確かな証明になります。創作する生みの苦労は、ただ道なりに実演するのとは比較にならないはずです。


要するに「ピアノを弾いた」以外に何一つ特別裏話は由綺にはなく、たったその程度で自分を全力で誇れてしまう、彼女の器の小ささが明らかになります。由綺が自己申告する上で「それ以上の決め手は何もない」ことを示す、設定上における重要なカードです。由綺の「小ささ」という、真相として外せない決定的事実を指し示す上で、逆説的に、その不足感や不十分さ自体がとても「大きな」要素となって、物語の基盤を裏付けています。由綺が「卑小な人物」というのは、順当に物語を読み進めている人にしてみたら容易には悟れない、非常に「重大な秘密」です。