補足15


以下、より深く派生話に食いこんでいくので興味ない方は読み飛ばし推奨。しかも非言及の領域に妄想をかけついだ空論なので、不毛なトピックに視神経を使いたくない方は特に切り捨て推奨。


原型兄は大前提として、すっかり頭いかれているのを一番の売りとして作られているキャラで、そんなヤバいやつを参考にして作られている?時点で冬弥がまっとうに自分を保ち続けるなんて無理な話です。シスコンすぎて思いつめた末に「壊れた」人の形質を受け継いでいるので、半身を好きすぎる冬弥がその彼女を欠いて「壊れる」のも仕方ありません。美咲編は、最終的に派生元のメンタル状態が再現されるという着地点を目指してシナリオが進むので、冬弥の異常性ありきであり、ストレス末期前提の物語です。つまり、シナリオ終着駅をあの人の境地に無理やりにでも持っていかないといけないということです。ただ、WAの作品上の区切りではそれが直接描かれるまでには至りません。冬弥は最終形態をまだ残している状態で、その可能性を匂わせたまま話を尻切れにしています。


美咲編冬弥は散々くずだとよく言われますが、あれでも冬弥比ではまだ堕ちきっていません。意識表面でぐちぐち語りこむ冬弥とはまた別に、喋らない冬弥が裏に控えています。この喋らない本体こそが危険度高い弾薬庫で、常に暴発の緊張をはらんでいます。「表に出てこない」「喋らない」、つまり「明文化されない」からこそ彼の真の心境として情報キャッチされることはありませんが、その潜在意識は暴論全開だと思います。それが言葉の形で直接に浮上することはないけれども、道を外れた行動として如実に表面化しています。それは、負の感情をいっぱいにためこんでいるうちの収まりきらない余剰分が噴出している表れで、作中で目視できる冬弥の言動というのはまだまだ抑えが効いているレベルです。良識で制御されている状態なんです、あれでも。フェーズとしてはまだ底を打っていないのです。


冬弥は何とか良識を押しとどめて持ちこたえているので、明らかにアウトな暴言・暴挙をぶっぱなすことはありません。けれども、明らかにおかしいってほどではないにしろどこかしら違和感があります。言動の端々にうっすらサイコパスめいた雰囲気を漂わせています。厳密にはその言葉で定義される性質とは異なる気もしますが、「サイコパス」を精神的にまともじゃない人とざっくり位置づけるならば、美咲編冬弥は確実にその枠内に該当すると思います。


冬弥は元々闇の深い人物で、日頃からマイナス感情を表に出すことなくひたすら内面に蓄積させています。その冬弥元来の、諸々の感情を抑えて何でもなく普通に振る舞う働きが悪い方向にも作用し、特に美咲編では自らの行いに反省がないかのような態度として表れます。辛い思いをしていてもおくびにも出さないいつもの善性の裏表と同様に、間違ったことをしているのにまったく気に病まないといった悪性の形でも表面処理されます。他人の立場や気持ちを解さない、人として備わっているべき罪の意識を持たない、そんなサイコパス風の人物像が組み上がってしまいます。美咲と深みにはまりつつある事実があるのに彰といつも通り普通に話したり相変わらずのぼせた由綺語りをしたり、ちょっと頭おかしいんじゃないかと思われそうですが、冬弥は素でそういう人で、特殊な状況に立たされても「表に出す自分」を変えず「普通を維持」してしまうんです。それは、普段から無理をして「表に出す自分」を演じ「普通を維持」しているからこそです。深刻な場面にそぐわない平然とした言動が「普通にできてしまう」のです。


よからぬ状況下でも平常を貫くことで結果サイコパスっぽくなっている美咲編冬弥ですが、それだけでなく、実際中身としてもサイコパス寄りに傾いてきていると思います。つまりサイコパス要素は二本立ての二重掛けなのです。内面が悪化していくのに表面では平常に引き上がるということで、その正味の状況は見かけに輪をかけてもっとひどいはずです。作中ではまだ、サイコパス要素にしても抑えられた段階の冬弥でしかありません。しかし彰EDラストの冬弥にはどうも境界を踏み越えてしまった様子が見られます。おそらくは「ここから」が始まりなのです。美咲編の流れは派生元と同等のメンタルが到達点になるようタイムテーブルが組まれていると思われ、彰EDという結末がそのまま、原典をなぞらえた物語の開始点となります。実際にはそんな後日談などゲーム自体に実装されていないので、あくまで想像の中で思い描くだけの二次創作的な図案にはなりますが、少し思考に没頭して、見本を参考に自分なりの話の続きを組み立ててみるのも一つの面白味ではないでしょうか。


もっとも、以降展開されうるなぞらえ物語にしても、さすがにそのまま原典通りに顔をしかめたくなるようなみだらな宴をやらかす訳ではないと思いますよ、実行力に乏しい冬弥だけに。ああいうのは原典にしてもあくまで読者の視線を引きつけるための撒き餌要素であり、実際の主題は少しずれた所にあるので、あんまり目に飛びこむイメージだけを結びつけない方がいいと思います。想定される未来図をWAらしくもっと小規模に、もっと端的に的を絞って考えるなら、おそらくは冬弥の何らかのアクションをきっかけに「美咲が自傷沙汰を起こす」という一点に集約して原典が引用される形になりそうです。


ところが冬弥は原型兄と違って、他人の精神を強制的に破壊する規模の謎の能力は多分持っていません。読み手の思考を攪乱するミスリード力を鑑みて、一応彼にもちゃんと、他人の意識に介入し影響を及ぼす謎力は無自覚ながらあるにはあるのかもしれませんが、非常に微弱なものでそう強力ではなさそうです。少なくとも、能力頼みで直接美咲を破壊するといったアクションは取りようがありません。そこで超能力という濃い演出抜きに、もっとシンプルな形に落としこんで物事を整理する必要があります。派生元を簡略化すると原型兄の動向として、寄りつく相手をむげに突き放したという事実が残ります。超常要素はあくまで追加の味つけで、直接の引き金はこれだと思うんです。それを踏まえて冬弥の動向を推測するに「また来たの?俺、別に美咲さんのこと特別に思ってないんだけど」といった今さら無体な暴言を本人に直接言い放ってしまうんだと思います。特殊スキルでもないつまらない一言でも人は潰せます。美咲も扱いは承知の上とはいえ、それを直接本人の口から聞かされるとしたらさすがに心ずたずたに引き裂かれるでしょう。元々打たれ弱い美咲だけに絶望のあまり自傷に向かってしまうのは当たり前に想像がつきます。それが騒動として彰の耳に届けば、彼は即刻冬弥を原因と見なし問いつめにやってきます。経路は最短にショートカットです。そこで繰り広げられる応酬を通して冬弥の知られざる内面が明るみになることでしょう。


「作品内」の区切りでは冬弥としてもまだ配慮が残っているので実際の彼本人はそんなダイレクトにひどいことは言いません。逆に一貫して「美咲さんが好き」と持ち上げ続けています。けれどもそれが真っ赤な嘘で本当はそうでないことは、彼の動向を客観的に究明すれば自然と察せます。冬弥の本音は表面とは別の所、心の奥深くにあります。物言わぬ本体がのみこんだ真意をいっぱいに張りつめさせて裏にひそんでいるのです。それが裏返ります。配慮というのは良識的な仮面の部分が担っている分野であり、限界を切る彰EDにてその維持が途切れる時点で、とうとう本体が浮上して好きに喋り始めると考えられます。抑えがなくなるので吐露全開です。彰ED通過、この条件に至って初めて、今まで伏せられてきた冬弥の本心が続々開示される現場が仕上がります。つまり話が終わってからが本当の本番、発散トーク満載の冬弥劇場が始まるのは文章になっていない「作品後」なんです。


原典はといえば、実際プレイすれば当たり前に目に毒受けることになると思いますが、道に外れた主義主張をはばかりなく語らいまくるサイコ兄劇場がメイン催事です。黙ってれば見た目はそのまま普通にかっこいいのに喋った途端うわあ…って引くくらいアレレな中身。もういいストップそれ以上話すな。あの人のそういう、受け答えはできているのに話が通じない感、やたらハイになって本音大拡散の恥ずかしぶり、それらをばっちりトレースした癖の強い論理展開を、彰ED冬弥ならばしてくる可能性が高いということです。


作品内冬弥はまだ自制する良心が残っているから、そのふるいを経た結果上、乱れきったどろどろの思考が表に出てこないというだけで、内在する意識は相当なものだと思います。冬弥は基本、胸中でぐずぐず愚痴っていても表面上では日和ってはっきりしない穏便な態度しか示しません。その上、周りの他人に聞かれることのない独白内ですら本音を押し殺す様子がしばしば見受けられます。彰EDではその拘束を二重で突破します。それまで内部に圧縮してきた反動で、歯止めなく矢継ぎ早に本音全開で喋る冬弥が、カチコミにきた彰の前に出現する訳です。とりわけ美咲に対する意識というのは派生元のスタンスが後を引いている面が強く、変貌冬弥を直接想像するよりは、原型兄が喋っている姿をまず想像した方がイメージを掴みやすいと思います。冬弥は「俺」ですけど。いったん「僕」で立ち上げた台詞をまるごと「俺」に変換し、口調を冬弥式に微調整すると大体それっぽく仕上がると思います。


あの人からは、人として持つべきたしなみというか何というか、大切な留め具が吹っ飛んでいます。妹だけがひたすら懸念材料で、それ以外の存在はどうなろうがもうどうでもいい、よそ者な他人の心情など知ったことじゃない、くらいの極端なあり方が原型兄メンタルです。読むに堪えない部分までしっかり言語化して喋りやがるので、正面からまともに受けると毒にやられます。その引き継ぎが色濃く反映された冬弥の最終形態を想像する際も同様です。申し遅れましたが、仮想発言をシミュレートするだけで結構精神汚染食らうのでお気をつけ下さい。高純度の禍々しい思考にあてられて気分悪くなるのでね。感受性がデリケートな方は、以降の記述は無いものとして飛ばして下さいませ。


美咲さんには正直「迷惑してた」んだよ。俺には「そんな気ない」のにしつこくてさ。きりがなくて「仕方ないから相手してあげた」けど、なんかだんだん勘違いしちゃって。だから「そうじゃない」ってはっきりさせたんだ。そしたら向こうで「勝手に傷ついた」みたい。それを俺のせいにされたって「そんなの知らない」よ。ここにきて、美咲が冬弥に強いてきたつきまといの現実、それには迷惑しきりで彼女に情など毛頭ない冬弥の心境、にもかかわらず体の関係に移行する不埒、そうしてその気にさせといて突如手のひら返しする無体、美咲の傷つきにも他人事で責任を感じもしない冷酷ぶりが明かされます。色々とうわあ…。汚れを知らない彰にとってはすべてが大ショックです。見損なったよ冬弥、まさかそんな人間だったなんて思ってもみなかった!何言ってるんだよ、俺は元からこんなだって。そうだけどー…。まず原型からして相当なヤバ系ですからね。彰も、魂に刻まれた潜在意識的には了承済みなはずのことです。


一度隅々までざっと僕に喋らせてみてから、それを順次俺語に訳し直すという手順を取ると大体そんな感じになりそうです。実際の定型行動として僕と俺とでは、口に出して台詞でべらべらやるのと黙って独白でぐだぐだやるのの違いはありますが、元々思考構築の癖傾向は基本的に一緒なので、割とすんなり融合すると思います。あと若干タイプは違いますが、なんか人をイラッとさせる、なめたような独特な口調も共通。ただでさえ思っていることを口に出さない冬弥が、胸中で思うだけすらも抑えている内容を直接の言葉でぶちまけることになります。独白書式そのままに読み上げたような、御託羅列モードで。とはいえあの人にしても常時どぎついサイコ節を炸裂させている訳ではありません。彼は底意地悪くて心が狭いけど愛想だけはいいみたいで、普段は要領よく無難な人当たりで振る舞っているようです。まあ、冬弥とほぼ一緒ですよ。語り場という舞台に身を置くことですっかり高揚して、二人ともついつい自己主張に力が入っていつもの自分を追いやってしまうのかもしれません。


という訳で、サイコパスを筆頭特性として持つ人物の魂?を引き継ぎ解き放つ予定調和上、美咲編冬弥がサイコパスじみているのは意図的な描写だと思います。ただしそれを冬弥の標準として彼の人柄全部ひっくるめて断罪してしまうのは、あまりに重すぎる判定です。あれは本当に特別異例の状態ですから。美咲編は先祖返り条件限定の、究極のレアケースです。派生としては起こるべくして起きた展開ですが、しかしながら冬弥単体としてはイレギュラー中のイレギュラーです。通常の冬弥であればああまでにはなりません。というのも、冬弥は派生キャラでありながら、明確に「派生元とは違う」個体として作られているからです。


人物の名前と外見という表向きのパッケージだけ変えて、実際の中身ほぼ丸パクリで見本の物語をただなぞるだけでは、WAが新たな別作品として生み出された意義がありません。適当に作ってあわよくばドジョウ狙おう的な手抜きではなく、すごく真剣に自社パロディに臨まれたのだと思います。派生元の基本をしっかり押さえつつ、少しの設定のずれによりその差異でもって運命が大きく変容する、というのがやりたかったんじゃないでしょうか。


虐待を受けて育ったとはいえあの人本質的にボンボンで、考えが甘っちょろくて打たれ弱いです。彼は早くに両親を亡くしているため、成長過程で都度必要とされる親の導きを得ることができず、その精神は幼子のままで止まっているんです。というか自分でとどまっているのか。その点冬弥は、まあ彼も甘いっちゃ甘いんですけど、割と雑草的です。見ての通り冬弥には旧時代の肝っ玉親父がいるんですね。この父さん、多少根性論を押しつける所はありますが基本善良で教育的で楽天家です。庶民的ながらどっしり構えた安心感があります。それを受けてか、普段の冬弥はとても安定したバランス感覚を持っています。この父に育てられたらそうなるわなってくらい素直な常識人です。父子関係の面においては、冬弥は割と理想に近い父性愛に満たされており、すくすく地道に成長してきたと言えるでしょう。翻って派生元では特にそこが著しく欠落しており、その養父(叔父)は父親像としてかなりの欠陥があります。父親としての愛情を期待できないどころか、その素行は心身に苦痛を強いるものです。手持ちの父親像が大幅に異なること、これが派生前後の人生を分けているのです。


冬弥は他者に対し、荒れた攻撃性や張りつめた緊張感を持ちません。彼は派生体でありながら派生元と違って受け皿がちゃんとしていて、自分が大事にされることで人を大事にする感覚を体得しているため、その行動は基本的に人を害する方向に進むことはありません。そんな冬弥の標準思考は「安定」「平穏」が鉄則で、たとえ意に染まないことがあったとしてもそこでねじくれず、柔軟に向き合います。言動はすごく子供っぽく見える冬弥ですが、実は対応的にはすこぶる大人で、ちゃんと「育てられている」人なんです。そのため冬弥という人の大部分では、問題が問題として激化しないよう無難に調整されます。その盤石な裏打ちすらも足しにならない美咲編は本当に例外中の例外です。


冬弥は安定の父のもとで人間性を育まれ、その半分はすこぶる健全です。半分は。その対人姿勢にしても基本的に温厚で距離感も適度、社会生活を送る上で特に支障はありません。基本的には。父のおかげで精神的に健やかで充足した状態が担保されてきた冬弥ですが、それは「片面」に過ぎません。苦労知らずそうな性格から特段の身の上を持たないように見え、ごくありふれた家庭で何の憂いもなく漫然と当たり前に育ってきた様子を、何となく「大方そうなんだろう」といった見くびりで決めつけてしまいがちですが、その冬弥が母の話をすることは一度たりともありません。バックボーンに見込まれる暗黙の存在としてすら、その存在感はまったくの無です。冬弥の性格形成に父の性格が直接的かつ多大に影響しているのは先に指摘した通りですが、これだけ父の影響をもろに受けた冬弥に他からの影響は見受けられません。父からの影響一本立てで母の存在は見えてこないのです。かといって、父が亭主関白すぎるあまり母が家庭内で発言力を持たされないほどに蔑まれているかといえばそうではなく、冬弥は女性に対してもナチュラルに丁寧で、そういった価値観は定着していません。父を反面教師に、反動で優しくなったかといえばそうでもなく、そもそも冬弥は父の性格をまんま引き継いでいるのが基本です。藤井家は母を疎外する環境にはないのです。しかし藤井家に母の存在は感じられません。母の所在が空白なのは「存在感」の問題ではなく、ただ単純に形態として、藤井家には母が「不在」なのではと導き出されます。


冬弥も派生元も「男親しかいない」という成育条件で揃っており、そこから「良き父」「悪しき父」の差異により、人格は大きく枝分かれします。あの人はそれこそ養父を反面教師に、こと清廉であるべく自分を律しているのが常のようですが、悲しいかな、他に参照例となる大人が身近にいないため、問題あるその養父から直撃の悪影響を被り、それをなぞった価値観に染められています。必死に抗っても染みついた日常の害はすすぎようがないのです。一般的に男親の役割傾向として、子の規定意識を方向づけるといったものが挙げられます。冬弥も派生元もやたら「しなければならない」意識が強く、自分にほどほどを許しません。女親の役割傾向で比較的よく見受けられる「行き過ぎへの緩和」が入らないので、思いつめて見据えたそのままで自分を突っ走らせてしまいます。「十分にやれているよ」「それでいいよ」という現状への肯定を担う大人がいないのです。「まだ足りない」とばかりに加重されます。「母親がいない」という単純な事実により、父性と母性の供給量のバランスが根本的に悪く、二人とも父性過多な環境に置かれています。冬弥の父がいかに高バイタリティなハイパー父さんでもけっして万能ではなく、行き届かない面が出てくるのは当然で、親の役割を一人でこなすには限界があります。一人で何でもはできないのです。


父からほどよい愛情を受ける冬弥では、虐待されてきた派生元と背景の規模が等価となりません。そのままだと、君がこの僕の派生だなんて笑わせる、大した気苦労もないじゃないかってなります。実際冬弥は基本的にお人好しで、他人に悪意を向けることのない余裕に満ちています。そんな、安穏ベースなはずの冬弥が一気にガクンとおかしくなる瞬間がたびたびあります。父補正によって対外的に開けた状態に引き上がっているだけで、彼は本質的には心を固く閉ざしています。安定している方の片面は素で安定しており、こっちは多少の難事が起きてもびくともしませんが、もう片面は、安定側の補正をもってしてもカバーしきれないくらい病んでいて精神的におぼつかないのです。「母がいない」という負荷にその原因を求めることができますが、単にそれだけだと母性の欠乏に関しては派生元とはそれだけで等価です。冬弥が受ける父性のプラスが相殺されて、派生元の悪条件と等価となるにはもうあと一点何かが足りません。そこにはめこんで収まりのつく要素があるとしたら、どういったものが妥当でしょう?一案として冬弥に「母を死なせた」という罪を仮定することで、諸々結びつくそれらしい説明が可能となります。


父に大切にされればされるほど、それが適正で良好な愛情であるほど、冬弥は辛くなります。そんな父が大好きで、冬弥からも大切に思えば思うだけ辛くなります。なぜって、その大切な父から大切な人を奪ったのは自分だからです。父からの愛情は確かなのにそれを受けることが心苦しく、冬弥の方で受け入れ態勢が整いません。大切にされることが辛いだなんてとんちき抜かすなと思いたくなる贅沢な悩みですが、冬弥はいたって真剣です。自分の存在を責めてしまいます。父は別に妻を亡くしたからって冬弥を疎んでなどいませんが、父があっけらかんとしている分、かえって冬弥は気に病みます。彼は過分な幸せを自分に許しません。父が父として当たり前に接すれば接するだけ、冬弥は自分で自分の心を縛り虐待します。父に大切にされるとダメージを負う仕組みが無意識の中でできあがってしまっているのです。そのダメージ量を換算すると、それが結果的に派生元と等量になっていると思われます。


冬弥が自分を虐げる原理とその要因というのはあくまで無意識で、本人は特に支障なく平凡に育ってきたと思っています。何かっていうと、自分の身に特別なことは何もないと恥じ入ります。ですが、冬弥の言質のほころびをつついていくとやっぱりどこか根っこからおかしくて、何らかの問題があることが匂わされます。かといって、周りが同情せずにいられないほどの悲惨な苦境がそこにある訳でもありません。幸せかといえば確かに幸せで間違いなく、不幸では全然ないんです。いわゆる不幸な境遇の結果として、大事にされたことがないから自分を大事にする感覚が判らない、まず大事にする定義自体が判らない、だから他人に対してもどう大事にしていいか判らないというのは結構ありがちですが、冬弥の場合、他人には基本普通に適度に尊重できているのに、自分に対してだけ極端に扱いがおかしいんですよ。アンバランスなんです、すごく。大事にされるありがたみは知っている、人を大事にする上でのバランス感覚も育っている、でも自分にだけ大事にするという意識が完全にすっぽ抜けています。むしろ自分を痛めつけなきゃいけない、くらいの戒めの中で生きています。自分に与えられる物事には満たされているのに、だからこそそんな自分に納得できず、自分で自分を許せないのです。何とも生きづらい生き方ですが、何しろ無意識でやっていることなので、冬弥本人としては、自分に強いる苦痛が表向きに苦痛として実感されることはそこまでありません。家庭環境がために生活に差し支えがあったのではない。誰も悪くない。特別なことが何かあった訳でもない。なんてことない日々を送ってきた。だからこそ無意識の苦悩は可視化せず、無いものとして置き去りにされてきました。冬弥は知らないうちに自分を傷つけ、また傷ついた自分を知る見地すら持とうとしません。


派生元の人となりをズバリ説明するなら、作品全体を回す主軸設定からも明らかなように、彼は頭おかしいレベルのシスコンです。妹が好きすぎて自分のすべてを彼女にオールインしています。あの人には、妹一人に専心するだけの相応の理由があります。逆境に身を置く中、妹との絆を支えとすることで何とか自己のバランスを取っています。かたや冬弥もまた、そのはるかコンは頭おかしいレベルです。裏設定でのガチガチのはるか主軸構成を鑑みても相当に頭おかしいのは明らかです。冬弥のはるかへの集中ぶりは、単に「幼なじみだから」それだけでは説明しきれない純度です。ただの無設定主人公では、こんなにもはるか一人に固執するだけの理由がありません。「単なる幼なじみ」というだけでは、冬弥がああまで厳密にはるかオンリーになる動機づけにならないのです。頭おかしいほどの重篤なはるかコンを成り立たせるのに必要な要素、それはすなわち、冬弥には環境的に何か曰くがあるということです。派生元と照らし合わせても、それがないなら逆におかしいと言えます。冬弥の偏執性を形作る要因として、はるかを支えにすることでしか辛苦を紛らわせなかった境遇があるのだとしか考えられません。


ここで、はるかが所在する立ち位置に着目してみましょう。彼女との出会いは人生序盤、幼稚園時代です。この時「生まれて初めて密接に関わる女性」ということで、冬弥はそのはるかを無意識に「母」として認定したと考えられます。いわゆる「刷りこみ」が発生しているのです。そんなこんなで冬弥は特殊な形でどうにか母を得て、欠落を埋め合わせることになります。はるかは齢4歳?で同い年の子供の母となりました。月日はめぐり、その後どうなったかというと、「親は子に育てられる」とはよく言ったもので、冬弥の側近くで彼の成長過程に向き合い絶え間なくサポートしてきたはるかは、20歳そこそこで既に母としてほぼ完成された境地に至っています。


そうそう、冬弥が通ったのは「幼稚園」です。幼稚園通いなら環境にゆとりがないはずはない、片親なのに幼稚園通いはおかしい、冬弥が片親育ちな訳がない。そう決めつけるのは視野狭窄で、世の中で「何々だったらこれこれ」と定型化しているスタイルが必ずしも絶対とは限りません。父さんは型にはまらないはちゃめちゃな人らしいので、一般とは全然違う形態で子育てしていた可能性が高いです。備考としては冬弥、割と当たり前に「ハウスキーパー」という発想が出てくるんですよね。そこの辺、彼の保育状況に密接に関わっているのかもしれません。どうしても回らない部分だけ最低限ハウスキーパーの手を借りつつ「男の子はたくましくあれ」とかの昔理論で大雑把に、でも尽力的にバリバリ子育てしていたんだと思います父は。これは坊さんだって舌を巻いて感心するわ。ふつつかな部分もそれなりに出てきてそうですけど、そこも含めての子育てです。父が雑だから冬弥は自然とまめになって、そして本質的には父譲りで雑なんです。


はるかが「冬弥の母でいる」状況は彼女が自然と自発的にそうしていることで、本人自体には「母代わり」という意識もなく、別に無理とか強制がある訳ではありません。たまたまはるかには素で母の要素を担うに十分な器があり、特に重い負担になってはいないのです。はるかさん、「フィジカル」「メンタル」「パーソナリティ」、オール最強だもんで。なんなんこの配合、つめこみすぎ意味判んないです。そして彼女は多分に、成育環境にも恵まれ十分な余裕があるので、持てるリソースからいくらか冬弥分として割いた上でもまだ他に気を回せるくらい満ち足りています。一般的には実現が容易でない無茶すぎる幼な母ポジションでも、はるかには無理なく続行可能なのです。


はるかには女の子らしい遊びに付き合わされたことはないとは言いながら、日常生活自体が常に「はるか=母親役」のままごと状態で、冬弥の方がはるかを自分の事情に巻きこんでいる訳です。ですが、冬弥にとって母親とは知らずの領域で、彼は母親像に現実上のモデルを持っていません。母のなんたるかを判っていない冬弥にとってはるかはあくまでタメのはるかであって、彼女を母として位置づけている自己認識はありません。自覚はないにしろ実質母ポジの人物を一人の異性としても兼ねて愛するというのはちょっと不健全な感じにも思えますが、男性はえてして相手として選ぶ女性に母親を求める傾向があるとも言うし、冬弥の場合、相関とか順序とか段階とかがめちゃくちゃに入り乱れているだけで、心理としては割と普遍的なのではないかと思います。


冬弥には、無意識に刻まれるはずの母の乳房へのノスタルジーがありません。冬弥にとって「ママのおっぱい」とは、授乳する乳房ではなく、刷りこみ上の母であるはるかのぺたんこ胸です。それを物足りないと不服に思っているならともかく、冬弥ははるかの母性に大大大満足しているので、はるか胸が何よりもの安心の象徴です。「母性=はるか」が定着している冬弥の中では、母性と豊かな乳房とがイメージとして連結していません。はるか胸こそが確かな母性の源だと認識されているため、ふくよか胸にさほどの必要性を感じることはありません。市場需要的にいかにもな胸推しキャラである美咲に冬弥がいまいちテンション低め(現にいい感じの時の曲がかからずちっとも高鳴っていない)なのはそのためです。下手すると出会った当時のはるかの姿で願望を固定してしまって、まずい性癖に移行しないとも限らない危うさですが、幸い冬弥の認識は初見のはるか胸のままで止まってはおらず、はるか情報は成長過程で順次アップデートされているので、一応問題のない範囲に収まっています。それに、好みの枠が線引きとしてどうこうの話ではなく、単純にはるか個人が好きなだけですからね冬弥は。別にその手の若年趣味がある訳じゃない。と思う。マナへの態度にうっすら疑いを持たなくもないけど、多分気のせい。と思う。


美咲が絶対に好みに入ってこない、冬弥の頑固な除外意識について追加補足。ただ何となく甘やかで優しくて、お菓子とか上手に作れて、みたいな美咲の家庭的要素は母性として大した意味がなく、何の効力も耐久力も持たないことを冬弥はよく判っています。はるかの持つ真の母性に浴している彼は、そういう、いわば偽の母性にはだまされません。冬弥は日頃から美咲を優しい優しいと褒めそやすものの、内心では母性的な存在としては全然見なしていません。実際美咲は、自分の手に負えないと見るや向き合うべき現実を放り捨てて逃げ、自分だけ助かろうとします。美咲が母性然とした存在でいられるのは何事もない平穏な間だけで、ピンチの中でのここぞという踏ん張り時には、あっさり見捨てられます。冬弥はそんな美咲の性質を薄々察しているので、言葉でどう褒めようが、心の奥底では彼女を断固信用しません。冬弥の方で片意地になっている部分もあるとは思いますが、美咲とは根本的に反りが合わず、ことごとく相性が悪いようです。この二人はどうあっても根っからなじまず、互いが疲れる関係です。どちらが悪いのでもなく、両者どう気を遣おうが合わないものは合いません。何も美咲が女性として劣るというのではなく、はるかが規格となっている冬弥にとってははるか以外の誰であっても受けつける心境にはならないのです。それに主人公ビューを美咲視点に合わせ直して考えた場合、彰とのカップリングが彼女唯一の大正解なので、冬弥とは円満EDにならなくても別に困らないんです。彼女にとって冬弥は全然正規の相手じゃなく、何もわざわざこだわって一点買いで考える必要はないですから。


冬弥は母がいないからといって母性に飢えている訳ではなく、はるかを介することでちゃんとしっかり補えています。むしろかえって、ある意味標準以上に母性に満たされていると言えます。加勢で母性を注いでくれるはるかの存在あればこそ、冬弥の欠落サイドの安定は成り立っています。ではその支柱が欠ければどうなるでしょうか?答えは明白です。はるか消失の危機によって、それまで恒常的に沈静化されてきた母欠乏の苦痛が一気に呼び覚まされることになります。はるかという、冬弥個体そのものをまともな状態に保つ拠り所からして所在が不安定になってしまっては、彼本質からの暴走は止まりようがないのです。そして美咲編現行、美咲にははるかに相当するほどの冬弥支援能力は残念ながらありません。冬弥が自分を壊し尽くし、自分の終わりを終わりと納得するまで彼の破滅行動は終わらず、美咲はただそれに翻弄されるのみです。


冬弥がいつもの彼らしさを失い、異常な行動原理で動くのはあくまで美咲編での特別仕様で、通常冬弥は曰くの背景を持ちながらも同時にその背景による裏打ちで安定しています。各シナリオという作品全体での問題行動の多さからするととても信じられないかもしれませんが、本来の冬弥は「問題を起こさない」状態が基本です。彼を取りまく訳ありの諸要素は枷でありながら安全弁の役割も果たし、行動は都度まっとうに制御されます。そのありようは、どの方面から突きつめても最終的に破滅に行き着くしかなかった派生元との対比、そしてその挽回として描かれています。


派生元の苦境は、その因子が単一ならともかく諸々累積しすぎていて、これでは問題を起こすなという方が無茶な話です。冬弥ははるかとは基本対等で無理してなく、時には彼女を母と見なして甘えることもできますが、原型兄はそのまんま兄なので、妹に対しては常に兄でいなくてはなりません。しかも両親はいない、養父には希望を持てない、そんな中で妹を守るには自分がしっかりするしかない、そうする他に取れる選択肢がない、という過重状況が敷かれています。誰にも頼れない境遇で、自分だけを頼みにやっていくしかないと思っているんです多分。妹はまさに妹という守るべき対象なので、彼女の前ではことさらに「完璧な兄」として、絶対に弱みは見せられません。そして妹を守りたい一心で過剰に気負いすぎた挙句、ほどほどさを欠いて息をつく余裕もなくし、愛が変な方向に変質してあの結果な訳です。冬弥と比べて環境自体がよりしんどいというのもありますが、それ以上に抱えこみすぎです。状況的にも本人の性格的にもそうするしかなかったのかもしれませんが、もうちょっと自分に対する合格基準をゆるめてもいいんじゃないかなあ?完璧を求めて自分を壊してしまったのでは元も子もないと思います。


原型兄のそうした完璧主義は、兄妹間に亀裂をもたらした例の事件にもあながち無関係でなさそうです。あれって、妹のパンツでいい気分してたのを妹本人に目撃されたというのがそもそもの発端ですよね。たかだかそれくらいのことですが本人としては一大事の大失態です。妹の視線が刺さるように痛い。パンツで遊ぶくらい大目に見たれよとも思いますが、妹からしても兄の醜態は想定外で、呆然と立ち尽くすしかなかったのだと思います。ばかばか変態もう信っじらんない最低最悪どっか行っちゃえ!くらいにドタバタノリで騒ぎ倒せば済んだ話ですが、妹さん基本的に反応乏しい上、強く優しく清く正しい私の兄さんはそんなことしない的な信仰もありそうなので、信じたくないといった表情でフリーズしてしまったのでしょう。それまでずっと、あまりにも兄が完璧でありすぎて、目の前の現実が現実として結びつかず、しばし思考が止まったんじゃないかと。そんな感じで妹が言葉もなく固まっているので、その沈黙にのまれて兄は一層おしまいだ感を強めたのかもしれません。妹の中の自分が完璧でなくなったことを受け入れられなくて、その失墜したイメージを妹の認識ごと全消ししたいと取り乱したんだと思います。完璧でないなら何もかもがだめ、もう全部壊すしかない思考です。結果、軽度のやらかしだけで済んでいたはずが重度のやらかしを追加で重ねてしまってどうしようもありません。元々はそんな、もう生きていけないってほどの恥でもなかっただろうに。一呼吸置いて少し頭冷やせよって思います。夏の暑さでやられちゃってどうかしてたのかもしれませんが。本人はっきりしない意識での凶行なのだとしたら最低の重ねがけです。


元々からして狭い世界に生きている原型兄ですが、あらゆる岐路において彼は、解決に向けた外向きの可能性を狭めていそうです。多少なり誰かに助けを求めていれば少しは負荷も和らいだかもしれないのに。外との対峙を払いのけてひたすら自分の中だけで決着しようとするので、ただでさえ狭い世界を自分で狭めているのです。大体があの人、他人と話し合いを持とうとしません。自分だけで勝手に状況をどんどん進めてしまいます。そしてきまって一番だめな選択肢に引きずられて、分岐のたび、自分が楽になれそうな道を自分で着々潰していきます。元々不幸なのは仕方ないとして、そこからさらに改善の方向性を自ら除外することで、不幸を濃縮していっているというのはどうしたものかと思います。


一方、派生を経て設定変更された冬弥においてはある程度負荷が軽減されています。冬弥自体、何かと内にこもるたちという点では原型とまったく同じですが、彼の場合は外部に目を向けた時、それが力になってくれるだけの受け皿がほどよくあります。多角的に内圧を逃がすことが可能なので、極まった窮状は回避されます。窮状行きの選択肢が出たとしても、その時それ以外にも選べる候補があるのです。また本人としても根っから閉鎖的な性格であることを自覚してか、努めて外と関わろうと自分に仕向ける意識が見られます。今ある冬弥の平穏は、元は原型と同型であった彼が彼独自に自ら選んできた善処の結実とも言えます。美咲編では暗黒面に堕ちて原型さながらの最悪手採択で己を動かす冬弥ですが、本当なら違う道を行くのが冬弥としての存在意義で、数ある問題発生フラグを知らぬ間に折って普通にしていてこそ、それが彼の「通常」と言えるのです。


原型兄は全方面に優秀なので、多少無理なことでも問題なく完璧にこなせてしまいます。彼の場合、能力が高すぎて、自分一人で何とか回せるぎりぎりの状態そのままで引っぱり続けることもかろうじて可能だったのが一つの不幸かもしれません。一人で何でもさばききれてきたその分、プライドも相当高いので、いよいよ周りに弱みを見せられなくなります。その点、冬弥は何でもはできません。彼もまあ、ああ見えて割と何でも無難にこなせる方ですが、できることの上限が軒並み高いって訳でもないので、必然的に周りの助力を得なくては回らない状況も出てきます。そしてそれはけっして劣ること、恥ずかしいことなどではなく、むしろとても強みとなる要素です。原型兄は自分を維持しきれなくなる限界時点でもう、彼に関する全部がだめになりますが、冬弥は初めから自分にさほどの強さがあるとは思っていないので、そういう面では柔軟に自力の補強を他からの裏打ちでまかないます。つまり彼個人で窮しても他との繋がりは生きているため、その補給路は断たれません。冬弥個体が完璧でないことが逆に、彼の対応全体としての強化に繋がります。結果的に、外付けの補強分だけ冬弥の実質には幅と厚みができるのです。


WAによる派生変更点は基本的に、はたしてどう運命改変すれば派生元の救われない悲劇的状況があれほどまでに累積しないで済んだのか、という優しい模索でもって描かれます。八方塞がりの派生元から転じ、条件変更による別の道が示されることで、苦難の中でもどうにか掴めたかもしれない一つの可能性として、派生元を含めたまるごとの救済が成り立っています。荷を自分一人に集中させずに重みを分散するというほんのちょっとの発想の転換で、たとえ状況は変わらなくとも全然違った展開もありえたと思い至るだけでも、地獄を抜け出すには十分な一歩です。