何にせよ美咲編では、どれだけ冬弥が往生際悪くごまかそうと実情は実情のまま固定です。「美咲が好きだから」という建前で、「好きでもないのに手をつけた」という本当の罪悪は覆りません。どんなに「美咲が好き」発言を自分に徹底させても、彰ED選択肢の決定的な一言「美咲に何を本気になる?」で物語の主題は一変します。十の嘘も一つの自白で全部消し飛びます。シナリオ通して言い続けてきた言い訳「美咲が好きだから」は、まとめて全部無効になります。それをもって、美咲編でうたわれる愛の形はそもそも愛としてまるで意味を持たなくなり、全消しされます。そこに愛はなかったのです。美咲編自体が恋愛物語としての定義を失います。美咲編は、間違いであろうと熱心な感情に向き合う苦い恋愛の話ではなく、単純に「間違い」の話で、理由にできるようなせめてものロマンなど何もありません。愛ゆえに展開する話ではないのです。
例の、まごついたツンツン抵触行為で神経を逆撫でされる冬弥は、反射的に強い勢いで美咲に反撃します。本来的には振り払う意味合いの動きなのですが、美咲の手出しを封じようと押さえこむ形になるため、逆に食いついて詰め寄っていく態勢になります。そしてそれはその都度「既成事実」として確定し、浮気段階は繰り上がっていきます。
美咲の挑発を受けた冬弥は、そのたび反射で動きます。膝頭こづいたら足が上がる、みたいなやつです。自分の意思ではどうにもならないやつ。発動にのっかるまま頭の働きを停止させて、なるように任せているのです。美咲が挑発さえしなければ冬弥は行き過ぎた行動を起こすには至りません。「美咲によって」引き起こされている反射です。一度きりなら他意はないかも?と流せますが、その発動を受け、以降引き下がるどころか挑発を都度繰り返すことから、それは明らかに美咲の狙いによるものです。あるのは美咲側の意図のみです。
美咲編に関して、展開が急すぎて冬弥の心境経過とか行動の必然性が理解できないとよく批判されますが、はなから冬弥側には「気持ちがなかった」のだと判れば、あっけなく腑に落ちます。なまじ「冬弥は美咲を好いている」と思うから冬弥の行動に説明がつかず、理解に苦しむことになるのです。冬弥は美咲が好きなのに、どうしてああも思いやりなく行動できてしまうのか?いや、その「好き」が存在しないからですよ。冬弥は釣りに「あえて抗わない」形で、反射で応じているだけです。美咲にひとかどの想いがあっての行動ではなく、そこには気持ちなど何も存在しません。「冬弥は美咲が好き」だと思っているから意味が判らないのです。判らなくて当然です、元から意味なんてないのですから。冬弥心理に「十分な説明がない」のではなく「説明を必要とするほどの気持ち自体がない」のです。
美咲との既成事実は大半が反射で起きていて、気持ちがあって取るに至った行動ではありません。けれどもそれでは激動する美咲関係を前に、冬弥本人の心に収まりがつきません。理由がないというのは落ち着かないものです。そのため、彼は後付けで理由を足していくことになります。構成上、美咲への好意に悩んで悩んで「その高まり」で次のステップに移行しているように見えますが、本当は反射によるステップ移行の方が先行で、「その理由づけ」のために悩みに悩んで美咲への好意をでっち上げているのだと思います。つまり、冬弥の苦悩は以後の展開のための導入ではなく、以前の出来事を受けての処置で、後になって振り返って理由なき行動に理由をつけているという説です。一連の区切りとなる箇所が、普通に想定される場所からずれていると考えます。出来事は苦悩一連の「帰結」ではなく、その「発端」です。理由もないままただ始まった過程に無理やり理由をつけて一連を終える、そんなサイクルです。
美咲はいわゆる繋ぎ要員で、純然に浮気前提の相手です。何を今さらと思われるかもしれませんが、美咲編はストレートに浮気を主題に扱ったお話です。そこに本気はありません。「混じりけなしの浮気だけ」でできている内容です。浮気コンセプトを掲げてそこめがけて徹底的に追求した、それ以外の何物でもない真性の浮気物語です。浮気ゲーの本分に則った、ガチで刹那の浮気をするシナリオです。はっきり言って、もう恋愛ゲームとしてのていをなしていません。スタンダードに仮想恋愛したい主義の方には金返せにも等しいかもしれません。
でも、愛はないけど、人間関係はそこにあります。美咲は冬弥にとっての鬼門です。単純に恋愛としての心理描写どうこうを提示したいのではなく、冬弥と美咲に特異な、その固有の対人摩擦がたっての着想点で、その人間模様こそを描き上げたかったのだと思います。作者は多分、プレイヤー媚び優先でキャラ性を潰すより、キャラ性が生きる方向を優先したかったのではないでしょうか。美咲はいわゆる、願望という期待に沿うだけ担当のご都合対象ではないのです。彼女には彼女なりの意図があり、私情で動きます。美咲だって当たり前に個人感情のある、人格を持った一人の人間です。その実像が要望する記号通りでないからって手のひら返しするもんじゃありません。難点含めての美咲です。冬弥の対応に愛がないのは彼女の本質を知るからこそ、美咲そのものを美咲そのままで認定する逆説的誠意の結果です。冬弥が美咲に抱いている複雑すぎる個人感情(not恋愛感情)は、掘れば掘るほど面白さが増す要素です。対美咲の厄介ポイントは数ありますが、一度には書ききれないのでまたいずれ順次個々に紐解いていきます。WAはそもそも自己参入型の楽しみ方をするのには不向きです。恋愛ゲームなら恋愛ゲームテンプレの常識に従えといった決めつけを無理に当てはめるようなことはせず、独自の背景を持つ人物を主人公とした、その彼独自の生きざまを描いた一種の小説ととらえた方がいいと思います。世にある中、そういう読ませ方を狙いとした作品系統があってもいいのではないでしょうか。
といってももちろん、浮気という行為を「あり」とか「よし」とか助長する筋で展開する文脈ではないのですが、浮気がテーマというだけでそこしか見ず、それに至る事情にまでは目を向けないで全否定する層には根本から話が通じないようです。単に、元からして女性関係に節操のない人間が予定調和で案の定浮気をするのではなく、本来潔癖な人間が本人の性分に反し浮気という罪悪に進まざるを得ないジレンマというのが真の要旨です。心ならずも汚れた状況に追いこまれる、そういう「選べぬ不幸」を描いた話です。冬弥はくずなことを平気でする訳ではありません。くず行為なんてとてもできない純情青年が、強制条件下で不随意に生じる自分のくず行為に自分でも納得のいく説明をつけられず苦しむ話です。本人が一番強制発動を嫌がっているんです。俺はそんなことしたくないのに見えない力で無理やりそうさせられる的な。強制コマンドには逆らえません。いや事情を考慮してもやってることはくずはくずなんですがね…。ともあれ冬弥が宿命に命じられて浮気展開に至るのは純粋な「不幸」と見なすべきで、単なる「過ち」でくくるには、本人の心がけ次第で何とかなる範疇を明らかに超えていると思います。
本当であれば「こんな浮気するはずのない人間が何でまた柄にもなくそんな愚行に及ぶことになったのか?」という方向で疑問点を追求し、因果を解き明かすことがメイン内容となっていたはずなのに、慢性的な説明不足がたたって、ただ単に初めから「こいつは普通に浮気をするやつ、そういうやつなんだ」と認定されてしまっている現実があります。そうじゃない…そうじゃないのに…。本来読解する上できっかけとなるはずの「疑問」要素が、作品上の「常識」と受け取られてしまい、疑問が疑問として機能せず、論点にも思われません。
とりわけ初見で美咲編に進んでしまうと、本来は異常な特例モードとして限定されているはずの美咲編冬弥がその人の冬弥像の「基礎」になってしまいます。イレギュラーが以降のベースとして置かれることになるんですね。こうなってしまうと、普段本来の平和で善良な冬弥の方が「嘘」とされてしまいます。全部白々しく思われて、冬弥が何を言ってももう何も肯定的に受け取ってもらえません。彰とは根っから仲良しなのが本来の本当なのに「どうせこいつ裏切るんだよな」と普段の罪のない冬弥まで否定されてしまいます。美咲編が「異常事態」という認識がなければ、単にそういう「作品内事実」でしかなく、それが常時では「事実として存在しない」事実は考慮されません。
美咲編冬弥は、水面下にある曰くの背景群を割り出さない限り、暴走傾向の言動に何の理由もないただのくずでしかありません。ゆえに、真相を掴めるかが冬弥の動向を理解するための必須条件となるのですが、作品構成の仕掛け上、記憶喪失を主とする冬弥の過酷状態は基礎設定にもかかわらず明確な事実として表現されることはありません。その情報を冬弥本人は自覚しておらず、それゆえプレイヤーにも通達されません。何も知らない初期状態で冬弥の行動原理を把握することは不可能です。段階を追って、それこそしらみ潰しで検証して冬弥の裏事情を特定して初めて、彼への理解を深めることが可能となります。
どっこい現実として、誰もが検証に乗り出すほど作品に愛着を持つ訳でもないし、熱心に調べたとて何の成果になる訳でもないから、着手する人は今までほとんどいなかったと思います。ろくに人気も得られず忘れ去られたような作品の真相どうこうなんて今さら知る必要はないという方はそもそもここに来ないと思うのでそれはそれでいいとして、WAの世界観に何か底知れぬ裏を感じる、何か意図が示されているのは感じるけどそれがどうしても判らない、何かあるのならそれを知りたい、謎展開に納得がいくだけの論理を得たいという探求心の方もいらっしゃるかもしれないので、その数少ないニーズに向け、有志による解読例として、個人的な趣味によるそぞろな研究結果?をまとめています。あくまで任意の趣味枠です。可能性の一例、諸説です。
主人公である冬弥の言動を目で追うプレイヤーは、その言動は把握できてもすぐさま彼目線に基づく視点を共有できる訳ではありません。そしてまた冬弥の視点自体が真実に偏向のかかった主観的なものです。自身の事情に無自覚な冬弥はナチュラルに事実と違うことを言う上、意識可能範囲では一方で、自分に吹きこむための言い訳として嘘をつき、自分の認知を欺きます。美咲編で冬弥が展開する現状把握、その大部分が真実とは結びつかないガセ情報です。使い物にならない情報ばかり読まされるプレイヤーも災難です。美咲編は三角関係の二股恋愛話として知られるけれど、由綺が愛する彼女というのも、美咲を好きになったというのも、全部が全部前提としてでたらめじゃねーか!一般に美咲編の真髄とされている内容は本当は本題でも何でもないんです。シナリオ表層では本当の本題とは全然違うものを見せられているということです。
美咲編冬弥の混迷は、由綺がいなくて寂しいから発生している暴走ではありません。結局そこは本当の原因ではないから、症状が悪化するにつれ、自然と冬弥の意識からすっぽ抜けます。また美咲への想いが高じて起きている暴走でもありません。進退不能の行き止まり地点でやむなく開けるに至った禁断の扉、その先に待ち受ける「シナリオ」に沿って運命は動いていきます。その悪魔的シナリオを手掛けたのは誰か?美咲です。開けた扉の先、美咲領域内全土にわたって設置された矢印の罠を踏み抜いた冬弥は罠の矢印通りに自動で運ばれるしかありません。進行にまともな判断など伴うはずがなく、その制御不能が暴走に見えるだけです。
記憶喪失の設定都合上、冬弥は真の暴走原因である自らの記憶喪失設定にたどりつくことができないので、彼の状況説明には根底から致命的な不備があります。そうした認識外の記憶喪失のほか、日頃から不審な美咲に参っている経緯も冬弥申告で明かされることはありません。「俺、記憶喪失で辛い」とか「ストーカー受けてて辛い」だなんて、それら肝心の核心が直接まんまのテキストで開示されるような大バーゲン展開は絶対にない訳です。それらは不可欠な下地として張りめぐらされているにもかかわらず。何らかの直結した前提が「確かにある」のにそれを「一切言わない」状態で話が進むのは「あえての仕様」であって、説明不十分な不親切設計というのは単純な欠陥ではなく、わざとそういう手法を取っているのだと思います。多分普通に読ませるつもりで書かれた本ではないんだと思います。
美咲編突入の本当の理由は冬弥の認識可能範囲外にあって説明不可、あるいは彼にとってアンタッチャブルな保留案件で説明回避したい。それでも状況説明として何かしらの理由を出さなくてはなりません。一つの作品物である以上、理由として通用する答えが必要です。冬弥暴走は、多角的な要因がかさみ、絡み合って生じている集大成的なトラブルなのですが、当の彼には何一つ出せる手札がないので、自分を突き動かす原動力を、当座取ってつけで融通できる恋愛感情に限定して説明するしかありません。本当は由綺が好きだの美咲が好きだの、やれどっちへの好きが上かとかの、そういう俗な好き感情の問題ではないんです。そんな次元で起きている事態ではありません。話はまったく別の基準で動いており、美咲編の進行に彼女らへの感情は一切関連していません。それなのに冬弥はその線で説明するしか「手立てを持たされていない」のです。そこにきてプレイヤーが真相に到達できれば、そんな冬弥のハンデを踏まえた上で彼の言動を識別、整理できることになります。自分の発言確度を判っていない冬弥が的外れなことを至極真剣に語るのも、裏を把握した後で読む分には面白い趣向です。
自分を知らない/自分を偽る冬弥の尽きないガセに「ちっがうだろ馬鹿」とか「嘘ついてんなよもう」とかプレイヤーが冬弥につっこむことで初めて、そこで一連の内容としてオチる構成になっています。プレイヤーの横入り訂正こそが結論となります。そういう形での自己参入は成り立つ、っていうか、そういう自己参入を狙って、あえて答えを外した手落ちの文章にしている点がWAの独自性なのだと思います。WAは自己参入向きでないとたびたび述べてきましたが、いわゆる自己投影型の自己参入には向かないだけで、プレイヤーがプレイヤー自身の意識でもって外部から事態を見定めて指摘する用の余地は逐一確保されています。そういう面ではけっして自己完結型の排他的作品ではなく、プレイヤーに向けて開かれた、個々の参入ありきで完成する読者導入型と言えるでしょう。ただ、そうやって冬弥の内情を割り出して続々「待った」を繰り出しまくれるような参入段階に至るまでの難易度調整がちょっとね。そこまでこぎつけるのがまず大変です。難易度調整がいかれてるというのはもう、WAの標準様式として知れたことなので言っても仕方ありません。
読み物としての美咲編の、仕上がりの出来不出来はこの際さほど論点ではないんです。本文自体はあくまで公示向けにトリミングされたパンフ的な紹介情報に過ぎず、裏に秘められた真実を引っぱり出してくることで本当の作品価値が出てきます。謎の内容が特異なのもさることながら、それ以上に謎を秘めたその構造が特に特異であって、真実とは食い違う方向でものを語る冬弥に逐一「異議あり」を申し立てて構図を組み直していく過程こそが、美咲編の真のゲーム性と言えます。
中でも恋愛絡みの冬弥説明はまるまる失効します。それらは作中頻繁に展開されますが、本人が「本当の事実」を踏まえていない以上、正確な状況説明として機能していません。つまり恋愛面に特化してストーリー構築されている(と見られる)美咲編の大部分が偽情報として一掃される訳です。美咲編で冬弥が愚痴っている内容、そのほとんどが「ロス」と化します。
そういった冬弥説明は脚本的に、初めから「不備があること前提」で敷かれている釣り要素です。事実でない発言に「待った」をかけてきっちり訂正していく、そうすることで、シナリオ文脈を支配する冬弥の妄言とタッチ交代で、プレイヤー意識がシナリオ体系の上で効力を持ち始めます。そうやってつっこみを飛ばしまくるのが、美咲編において最終的に行き着く到達点です。手持ちの真実を冬弥に突きつける(しかし画面向こうの冬弥には届かない)、そういう楽しみ方です。
冬弥にガンガンつっこみを入れて、彼の認知のゆがみを正して話を押さえる方式は、私個人で独自に確立したやりすぎな美咲編の楽しみ方で、特にロールモデルとして大々的に推奨するようなものではありません。とはいえ方式として一定の適用先が見込めます。日常においても、美咲編のような真相直結型の重大な「異議あり」ではないにしろ、明らかにずれた論理を冬弥が大真面目に展開していて、外野からの「異議あり」を必要とするシーンをちらほら見かけます。特に深刻でないゆるい方面でですが、冬弥が独白内で一人でぼけ倒して、独白だけに誰にも聞きとがめられることもなく、無論つっこみが入ることもなく、勘違いが訂正されないそのままで話を終えるといった展開がいくつかあります。それが、冬弥個人のキャラ特性として設定されているのか、シナリオさん自体の芸風なのかははっきりしませんが、オチを最後まで書かない、オチずに終わるという形態になっています。ことによってはオチがつかない構成を駄文と真っ向叩く人もいますが、「本人は勘違いしたままでいる」というのが一種のおかしみで、あえてそういう手法が取られているのだと思います。あえてけりをつけないでおいて、外から読み手に「オチを言わせる」、読み手が「答えを言う」楽しさっていうんですか?冬弥の「ぼけ倒し」は構成上「つっこみ待ち」の意味を持ちます。そういう文章表現なのです。表現法として使われている技法に、文章構築ができていないとくさすのは、逆に文学的でないと思います。
要するに、冬弥の勘違い自体が、作風上のこだわりにより、意味があってわざと置かれている定番要素です。冬弥の的外れ発言(を訂正込みで受容すること)は、ある意味WAという作品の中で定型パターンとして確立している形です。いわばお約束で、訂正が必要な誤発信をあえて冬弥にさせることがWAの技法として根付いています。そんな中、特にその特色が凝縮された事例が美咲編です。実際に冬弥発言が誤りだらけと判るのは真相を掴んでからで、その境地に至るには随分と手間取ることにはなりますが、原文はとにかく冬弥の狭窄思考だけが先走っていてつっこみどころしかありません。ひたすらつっこみ通しのプレイ感です。冬弥が辺り構わず誤りを熱弁するのは一定の誤謬率?誤答率?によるものと諦めて、そういう作風でできていると心得て、離れた目線で見渡すのが読み解きの鍵だと思います。
それにしても、特に美咲編冬弥の誤った陳述には困ったものです。実質、作品理解に有効な話をしていないのだから、読んでいて次第に不毛さに腹が立ってくるのも当然です。とはいえ、フェイクまみれの冬弥説明の数々がまったくの無駄要素なのかというとそうでもなく、フェイクが情報として言語化されていない限り、その真偽を問うことはできません。結論上はフェイクだとしても、一度は情報として場に出さないと、その結論は出せません。フェイクである冬弥説明は話の上でろくに有効性を持ちませんが、冬弥説明がフェイクであると認識するのは非常に有意義なことです。フェイクをフェイクと認識した上で、それをどう全体像の把握に繋げられるかが肝要です。
クリスマス目前、美咲を誘うかどうかの分かれ目に先がけて、冬弥は今そこにある現状と、それに対する自らの心境を語ります。美咲編最大の節目です。冬弥の面前には「今年のクリスマスも由綺と一緒にいられない」現実があり、彼は寂しさをにじませます。そんな制限を余儀なくされる中、冬弥は今の自分は「美咲を愛しく思っている」と吐露します。初期設定の「常識」では、それだけの話です。軟弱な感情にゆれる、いかにもなどっちつかずの二股話です。けれども、実は冬弥は「由綺が側にいないことを寂しがっているのではない」し、「そこにいる美咲を愛しいと思っているのではない」。何言ってんだと思われるでしょうが、とりあえず読み進めて下さい。
「今年のクリスマスも一緒にいられない」条件に合致するのは何も由綺だけではありません。それはそっくりそのまま、冬弥から失われた記憶の中のはるかにも当てはまります。今年も、消えたはるかは冬弥の側に(中に)いません。喪失の日から今に至るまで、ずっとはるかはいないままです。本当なら喪失前と同じように、それこそ「あの頃のように」、二人でつまんないパネル調トークなんかしながら誰に誇るでもない二人だけの小さなクリスマスを幸せに過ごせるはずだったのに、そのはるかはいなくなったまま冬弥のもとに帰ってきません。冬弥は「はるかと」過ごせないことが辛いのです。
単なる都合不一致的な「私その日もお仕事入ってて」だのの由綺事情と比べてどうですか?「不在」の重さに差がありすぎるでしょう?話の次元が違います。やることの規模の話ではありません。ビッグイベントの誉れなんて、ほんと、どうっでもいいんですよ。それは由綺側の価値基準です。冬弥にとってはちっぽけで何でもないパーソナルな毎日を当たり前に積み重ねる方が大事です。冬弥が冬弥として日々を生きるのに欠かせない存在、それがはるかです。そんな「冬弥の当たり前」が「(一部)不在」となって久しい現状。その「当たり前」は存在自体が重い上、不在による不安も重くのしかかってきます。経過期間も相当にかさんで既に末期です。要するに「不在」のレベルが全然違うのです。「不在」に伴う冬弥の不調レベルも全然違います。由綺とはるか、いないことで冬弥に深刻なダメージをもたらすのはどちらですか?欠けたら一大事のキーパーツは?冬弥に必須な「当たり前」、それは由綺ではなくはるかです。冬弥を不在の寂しさで苦しめる存在があるとすれば、それははるかでしかないのです。
冬弥が、誰よりも上回る特別な愛情を感じるとしたら、その対象ははるかでしかありえません。彼のはるかへの「好き」はもう「命」とか「必須」と同義で、それ以外への、ただ何となくの交友的な「好き」とは定義レベルからして大差があります。現時点、その感情の向かう先は見失っていても感情自体はいまだ健在です。失われたことによりなお一層、はるかに対する愛しさはふくれあがっています。ところが、それだけ強度な愛しい感情を抱えていても、冬弥ははるかをその対象として認識することができません。冬弥が強い愛しさを感じるその折に、その対象であるはるかは彼の頭にはけっして浮かびません。失われていますから。冬弥ははるかを情動の根源として「結びつけられない」のです。つまり、対象者不明のまま、無記名の強い愛情だけが冬弥の手持ちとして存在することになります。
冬弥が失われたはるかに焦がれる時、そのはるかは「絶対に」冬弥の視界に存在することはできません。その状態で、面前に美咲がいるとなるとどうなりますか?冬弥は美咲自体には特に愛情を感じていなくても、そこに対象者不明の強い愛情が存在してしまうことで、その場で「冬弥が」強い愛情を感じている事実だけは本当になってしまいます。この時「誰に」は特定されていません。しかし「その場にいる」のは美咲でしかなく、「その場」に愛情が存在するのも事実でしかなく、「その場の冬弥」が愛情を感じているとすればその相手は「その場の美咲」でしかない、と誤った結論に至ってしまいます。美咲と愛しさはたまたまその場に並立するだけで相互の繋がりはないのに、冬弥が愛しがるその時、結局「目に映る」のは美咲しかいないから、彼は「美咲に愛しさを感じている」とそのまま無関係に結びつけてしまいます。
はるかがいないことで強く寂しさを感じるその時に、冬弥自身は「はるかがいない」その状況を認識できません。「はるかがいなくて辛い」のが真理でも、当の冬弥が「そこにいない」と認識できるのは由綺だけです。そして、はるかに強い愛しさを感じるその時に、冬弥の前に「はるかはいない」ので彼は対象を特定できません。「はるかが愛しい」のが真理でも、現実に「そこにいる」人物は美咲だけです。現状の冬弥にとって、寂しさを感じるその時に「今、そこにいないのは由綺」でしかなく、愛しさを感じるその時に「今、そこにいるのは美咲」でしかありません。冬弥は本当は、はるかがいないからこそ不安にかられ、はるかに焦がれるからこそ焦っているのに、そのはるかは記憶ごと失われているから、いない事実を認識できないし、消えた存在自体を冬弥は認識できません。
現時点の冬弥が強い寂しさと愛しさを感じているのは本当。そして冬弥が寂しさを感じる時に由綺がそこにいないのは本当、冬弥が愛しさを感じる時に美咲がそこにいるのは本当。でも冬弥は、そこに由綺がいないことに対し寂しさを感じているのではないし、また、そこにいる美咲に対し愛しさを感じているのでもない。「寂しさ」にしろ「愛しさ」にしろ、真設定上、冬弥を強い心情に駆り立てる要因は唯一はるかだけです。けれども冬弥が認識できることといえば「そこに由綺がいないこと」「そこに美咲がいること」だけです。冬弥の持つ常識では「そこにいないのは由綺」でしかなく「そこにいるのは美咲」でしかありません。彼の認識下に消えたはるかは存在しません。真の原因であるはるかは冬弥には認識できません。冬弥は由綺でもなく美咲でもなく、たった一人はるかだけを恋い慕っているのに、その恋しいはるかは彼には認識できません。大原則として「冬弥はロストはるかを認識することができない」のです。
記憶喪失というはるかロスト事情を、冬弥本人は知りません。冬弥は、自分を強い感情に駆り立てる真の原因であるロストはるかを、説明の場に持ちこむことができません。ここがWA独自の記憶喪失設定の面白い所で、はるかの存在は最重要最優先要項なのに、冬弥本人が挙げる懸念事項としてリストに並ぶことはありません。冬弥は記憶喪失ゆえに、その該当部である「はるかロスト」および「ロストはるか」という肝心の本題に「絶対に」言及できないのです。記憶喪失設定がダイレクトに響いて作品組成に反映されており、強力な制限として、設定単位での確かな根拠を持ちます。記憶喪失「だからこそ起きている状況」、もっと言えば記憶喪失「でなければ絶対に起きていない状況」と言えます。記憶喪失は外せない要素なのです。
記憶喪失により血迷って部外者を巻きこんでいるというのはある意味、単なる二股よりもひどい構造とも言えますが、それだけ患部であるはるかの存在が、他への扱いに気を回させないほど圧倒的だということです。はるか至上コンセプトはもうWAの基本原理というか、そういうスキームなので、その善悪を問うことはできません。悪いも何もWAはそういう話です。WAの物語自体がはるか至上に則って組まれており、それは初めから前提として置かれています。はるかなくして物語は成立しないのです。