冬弥の記憶喪失設定は、一応の原則に基づいて運用されています。記憶喪失であることが、設定全体の中で有効に機能しています。よくある「とりあえず話の種に記憶喪失でも入れときますか」みたいなちょい足し設定ではなく、意味を持った仕組みとして搭載されています。設定を効果的に活用して作品を組み立てており、記憶喪失という素材を十二分に調理しているといえるでしょう。
世にごまんとあふれる記憶喪失設定は大体が、自身の記憶に欠けがある事実を自ら匂わせつつ、時折断片が浮上するなりしてじわじわ蔵出しされていき、最後にどかんと一気に全容が明かされる形式がほとんどです。記憶喪失を自分で把握していて、時期に応じて必要な記憶を必要なだけ復元できて、はてには残らず全部出しきれるということです。それって本当は厳密には記憶喪失じゃなくて、あらかじめ無傷の全記憶が手持ちにあって、あえて意識にふたをして、進行に合わせて「自分で自在に」小出ししているだけではという疑いが出てきます。そういう形式を否定しているのではないですよ、そういう演出だよね、演出のための設定だよねってだけです。いわゆる偽の記憶喪失です。そこまでの詐病的作為はなく本当に本人に身に覚えがないとしても、記憶喪失なんて強い言葉を使うまでもなく、単なる「覚えていない」「思い出せない」の範囲内です。条件さえ合えば「出てくる」のですから。記憶の仕組みとして、経験したはずの過去の情報が好きに取り出せない場合というのは普通にあることで、そういう日常で起きる状態とさして差はありません。
これが「本物」だと冬弥のように、話の流れでの暴露がプレイヤー周知のために必要不可欠な場合でも自ら言及することができません。「本当に」彼の中で記憶が欠損しているからです。欠損含む一帯の記憶を正常に意識することができないので、どこが異常とも判らず、それが異常とも判らず、異常があるとも判らず、彼は自身が記憶喪失であることすら認識できません。WAの主軸題材であり冬弥設定筆頭である「記憶喪失」という問題は、その言葉として本人から情報提供されることは絶対にないということです。
筆者としては冬弥の記憶喪失の「本物さ」を追求することにこだわっているようですが、残念ながら大体の人は皆、偽物の記憶喪失の方が好きなんですよ。人って本物よりも偽物喜ぶんだぜ。いい場面、いいタイミング、いい盛り上がりで事実を明かされて「そうだったのかー!?」するのが皆好きなんです。そこに詐病の有無は問いません。さくっと主人公視点を追うだけでそのまま手軽に劇的な記憶回復臨場感を楽しめればそれでいいんです。そこにきて本物はというと、全然すかっとしないじゃないですか。冬弥の記憶喪失なんてまともに説明されない有様です。事実を知りようにも埒があきません。自身の記憶喪失を知らない冬弥の発言から拾い出せるわずかな手がかりをもとに、読者が自力で実態を把握するしかありません。真実に到達不可能な冬弥に代わって読者が彼の記憶を復元しなくてはならないという無茶振り仕様です。つまり設定を本物に徹底するとなると、書く側も明かせる条件を絞られて調整が面倒だし、読む側も絞られた条件から解かなくてはいけないしで、非常に面倒なんです。本物の方は、一かじりで記憶喪失設定を存分味わえるような説明いらずの判りやすさを持たない上、その筋道を自力で組み上げるにはあまりに労力がかかりすぎて、本物という「本物の価値」にもかかわらず、人に好まれません。
英二の偽物優位論を見る限り、それを語らせる筆者自身だって確実に、そんな一般傾向は十分に理解しているはずです。本物より偽物の方が絶対確実にウケる。それは判ってる。判ってるけど、本物追求を掲げてそのあり方を提唱したい!っていう、一種の表現欲なんでしょうか?空回りしてほとんどの読者にその熱心な創意工夫はまともに伝わっていないですけど、その試み自体は無価値ではないと思いたいです。何といっても本物は本物ですごく面白いんですよ。確かに偽物のようなエンタメ的な派手さはありませんが、仕込まれた記述から裏取りを一つ一つこなしていく地道なリサーチ的楽しみがあります。作品としてはすごくいいものです。だけど、必ずしもいいものが売れるって訳じゃなくて。商品としての話はまた別です。いいものが売れる「場合もある」だけで、現実は、いいものが売れるのではなく売れるものが売れるというのが正しい因果律です。それはその通りで、ですよねーと言うしかありません。
残念ながら、冬弥の記憶喪失構造に科学的?な説明を果たすことはできません。たとえば検査や診察の手が入れば何らかの具体的兆候が見つかるかもしれませんが、それは作品範囲には含まれておらず知るすべはありません。元からそういうジャンルで売りに出している作品でもありませんし。実際の脳障害は全然こんなものじゃない、現物認識が浅い、本物を知らなすぎると知見を振りかざす人もいるかもしれませんが、初めからそんな話はしていません。冬弥の病状は現実に存在する障害実例ではなく創作上の架空の障害、あくまでフィクションのお話です。フィクションの中での本物という扱いです。なお喪失とか損傷とか、考察上での形容にしっくりきそうな表現を適宜適当に当てていますが、実際冬弥の記憶障害の具合がどういったメカニズムなのかは、私自身解説していながら正確には把握しきれていません。具体的に、何がどうなってどう作用してエラーになっているのかさっぱりです。現実路線の方向性で作られている話ではないので実証的アプローチの道は初めから断たれています。多分、元からリアルに寄せることにはそこまで比重を置いていないのだと思います。ただ、現実(リアル)には忠実でなくても、真実味(リアリティ)は重視しているようです。科学的根拠が足りないからといって必ずしも非合理な作品設定ではなく、そのかわり哲学的というか思考的アプローチに特化して物事の関連が詰められています。「記憶がない」条件にあって、その場合の言動としてはどのようなものが妥当か?はたまた逆に起こりえないこととは?そのような振り分けが徹底されて冬弥の言動範囲は定められています。一単位ごとの「この条件ならば、言動はこう表面化するだろう」の積み重ねで、記憶喪失設定に厳密に沿って冬弥の言動は調整され、彼の記憶喪失の「確からしさ」の精度は高められています。
失われたはるか記憶の復元そのものは美咲編内容には含まれておらず、それは別個、他シナリオを通して個々に特定すべき課題です。美咲編読解においては損傷箇所個別の特定自体は特に必要でなく、冬弥が「記憶喪失条件下にある」、この事実そのものを踏まえることに何よりもの意義があります。美咲編は、というかWA全シナリオが、冬弥の記憶喪失(はるか喪失)設定を知って初めて、そこでようやく真シナリオとして起動する物語です。特に美咲編では、真相を把握する前と後とではまるっきり見える世界が違ってきます。前提といいますか、所有する「常識」が変わるだけで、寸分違わぬ同一テキストがそっくりそのまま、まったく筋の異なる別種の物語に変貌します。だまし絵的シナリオ構造です。
美咲編で綴られるテキストが美咲編のすべてではなく、それは美咲編を組み直すのに必要な素材の一部に過ぎません。ただ読むだけだと、そのテキストはそのままの形、表のシナリオの姿でしか見えませんが、真相を踏まえた上で読み返すと、一字一句まったく同じテキストなのに、全然違う世界が描かれていることに気付かされます。冬弥発信で挙げられる美咲編の「常識」は軒並み「フェイク」です。昨今、常識を疑えってよく言われるじゃないですか。常識とされていた前提が覆ることで、今まで見えなかった視界が開けます。いうなら目から鱗です。真相を知ったが最後、美咲編冬弥の言い分は証言として機能しないことがつくづく判ると思います。まず記憶喪失という秘密自体が、事実としても制限としても強力すぎるカードです。記憶喪失だけに、手持ち情報が不足している冬弥には十分な論理構築ができません。不足どころか肝心の必須事項が欠けているから初めから正しい結論を目指すことすらできません。美咲編で本題とされる冬弥の「恋愛論」に答えが出ないのは当たり前です。だってそこ初めから本題じゃないから。現状冬弥が迷っているのははるかが原因なのに、問題とは無関係な由綺と美咲を持ち出してきて、無理やりありがち二股案件に一般化して話をまとめようとするから収拾がつかなくなります。
記憶喪失事情を特定した時点で、冬弥設定は従来のものとはまったくの別物として覆ります。設定に所定の制限がつくので、その制限下での彼の発言というのはそれ相応に有効度が下がります。表層の美咲編要旨である冬弥の恋愛論が結論として通用するのは、冬弥設定には特別何もないとする認識にとどまっている間だけです。自分に異常があると知らないまま、その異常な冬弥が語っている結論と知れば、同じ発言でも必要となる受け止め方が違ってくるのは必然です。
真相把握後の再読あるいは回想は、冬弥証言の無意味さを思い知る過程です。誤りを確認していく作業です。「冬弥の認識する構図は間違っている」という結論が、正しい本題(の一部)です。真相という「正答」を取得済みの頭で冬弥発言をさらっていくと、そのほとんどが実態にかすりもしない「誤答」だったと判ります。そもそも彼の認識する現実自体が実は真実に基づいていないので、普通に話すだけで普通に焦点がずれています。冬弥本人は正答の存在を知らないのでいたって大真面目に誤答を自論として展開しますが、こっちは解を知っているだけに、何の故意もなく誤った認知をまき散らす冬弥の真顔ぶりに閉口します。誤りを自分の本音として確信する冬弥があまりにも本気すぎるので(実際、彼の中では本気も本気の主張なので)、せっかく解を得ていてもこっちがおかしいような気にもなります。冬弥には異常があるというのが事実上の解なのに、そうでなく冬弥を異常と見なすこっちの考えすぎが異常なだけかも、なんて。とはいえ作品全体通して冬弥の言動を整理するに、やっぱり彼の異常自体はほぼ確実で、その異常を踏まえれば多くの謎に説明がつくので、それ前提で話を進めます。冬弥の言うことはどうしたって異常者バイアスのかかった発言でしかないので、現状把握の指標としてはあまり本気で受け取らない方がいいと思います。冬弥が思いつめ気味に心境の自己分析を展開していたら、それは色んな意味で認知がひずんでいるので、こいつまた寝言言ってるな程度に流すくらいがちょうどいいです。
この通り、冬弥の話は「話にならない」縛りがあるので、実質、美咲編本文自体が読み物として、読んでも実入りのない話となっています。いや、話としては成立しているのですが、その語られる内容は実際の背景とはかけ離れた虚論で、本当の事実関係としては機能していません。間違った前提のもとで冬弥は、究明しても成果の出ない自問に明け暮れます。美咲編その筋書き自体にとって重要でない話が、その美咲編の中で重点的に展開されます。何とも不毛な話です。下手の考え休むに似たり、意味のない所に無駄に労力を費やしている状態で、読み手としては普通にミスリードというガセネタを掴まされることになります。
ここで、ガセをガセと判った上でそれを消化できるかどうかです。私はガセはガセとして、それはそれとしてとりあえず話だけは聞くというのが苦にならないのでいいのですが、ちょっとこれは人によって感性が違うし、説く価値のない話に付き合わされたとあっては腹立たしく思うこともあるかもしれません。間違った冬弥視点を間違っていると知りつつそうしたネタとして楽しむ、冬弥の空回りぶりにかき乱されるのが面白い、というのは悪趣味な人だけの嗜好ですので、最低限「冬弥の見解は、作品把握する上でまともな参考にならない」という要点さえ押さえれば、そのまま彼の世迷いごとな愚痴自体はばっさり切り捨て、読まなかったことにしていいと思います。そうした方が腹も立たなくて済みます。冬弥が、文字通り「迷走」するさまが美咲編スタイルであり、その迷走を見せられるまま追っても、迷走だけに答えなんか出やしないので、正当な結論を得るためには、まずは冬弥視点から脱却する必要があります。冬弥発言を楽しむにしろ切るにしろ、それを馬鹿正直に作品解釈に反映させないという点に関しては共通です。冬弥発言を根拠として扱わない、これが鉄則です。