外猫よろしく縄張りをパトロールしているはずなのに、弥生編での冬弥貞操の危機にはるかえもんが助けに来てくれる気配がないのを不思議に思っていたんですが、ひょっとしたら三人がエンカウントしないように、弥生が仕組んでいるのかもしれません。弥生が冬弥をいじめている所にはるかが乗りこんできたら台無しですからね。おそらく弥生は、水曜日の冬弥との密会前に、はるかと会う予定を入れています。冬弥が予定を入れる入れないにかかわらず、はるかとの接触は水曜日に必ず。安否確認のためです。街をうろつくはるかの習性を熟知している弥生は、別れの際にはるかに速やかな帰宅を促すことで、不慮のエンカウントを回避します。「あなたまで事故で失いたくないのです」と一言添えれば、はるかは当面は必ず言うことを聞きます。
車内での手ほどきの後、冬弥を送り届けた弥生は、彼の部屋にまったく灯りがついていないことに妙に注目します。冬弥が言うように、一人暮らしだから当たり前なのだけど、弥生はどうしてそんなことに気を取られるのでしょうか。これは、はるかとの現場接触の可能性を危惧するためです。いくら気兼ねない間柄といってもはるかは、さすがに居住者の留守中に勝手に部屋に上がりこんで堂々居座っているような、そんなデリカシーのないやつではないのですが、万一ということもあるので、弥生は、冬弥の留守中には部屋が完全な無人であることの確認を取ります。はるかが冬弥の部屋を普段の根城にしていないこと、常駐していないことの、大事な事実確認です。この懸念払拭をもって、正式に、弥生は水曜日の密会の誘いを申し出ることになります。
弥生は、はるかとは事故以降、疎遠になっていました。彼の死を自分のせいだと責めもし、また彼の面影を残すはるかと向き合うには心の傷が大きすぎました。そんな中、弥生は作中裏ではるかと再会することになります。どの時点で二人が再会したのかはさすがにテキスト外の話なので想像するしかないですが、冬弥がTV局に出入りするようになって、彼を由綺の恋人と弥生が認識した時点でしょうか。はるかの側にいるはずのかつての少年が、別の人物に寄り添っている訳ですからね、事故後疎遠になったはるかの現状を知りたいと思うのは当然でしょう。そして再会したはるかは、かつてと変わらない態度で弥生に接してくれた。弥生になつき、全幅の信頼を寄せるはるかは(弥生は兄を尻に敷いていた人ですからね)、自分と冬弥を取りまく事情を明かしたと思われます。弥生は一聞いて十判る人なので、はるかの大まかな説明を聞いただけで事態を完璧に把握するに至ります。
はるかの想い人である冬弥を寝取って心は痛まないのかですが、弥生にとって重要なのはそこではありません。冬弥が面影を追って、やれブラコンだと浮気し、やれおでこだ貧乳だと浮気し、さらには暴走して面影関係なしに無関係な人を傷つけるようなことがあっては、つまり冬弥が過ちを犯すことになれば、他ならぬはるかが悲しむ訳です。冬弥は「俺そんなことしませんよ!」と言うかもしれませんが、残念ながらルートごとの結末が証明しています。そうならないために、現状の欲求を満たして悲劇を食い止めようというのが弥生の思惑。もちろん密会のことを知ってもはるかは傷つくでしょうから、そこは極秘で。その辺は、由綺に対する取り決めと一緒です。はるかは弥生に裏切られたことではなく、弥生に無理をさせてしまったことを察して、その方に傷つくと思うので、はるかを悲しませないためにもなおさら秘密にしなければなりません。ちなみに弥生は密会で黒い下着をつけていますが、別に色っぽい下着で冬弥を悩殺しようという魂胆ではなく、単に普段からそのチョイスで、人知れず、純粋に喪に服す意味でつけているだけかもしれません。それが冬弥を威圧する効果もあるのならそれでよしとしているだけだと思います。
冬弥とはるかの連動を切り、はるかの心に積もる雪を止めるにははるか側の錠を壊してしまう方が手っ取り早い。弥生は個人的にもはるかを抱きたい、とも思います。自分も相手も、女でも男でも構いません。一つになりたい。亡き彼に最も似ているのは、実妹のはるかを置いて他にいませんからね。現状でのはるかの無私と自己犠牲の姿は、亡き彼と共通のものです。仮に弥生が求めたとして、はるかは理解してくれるでしょうし拒絶もしないと思います。でも弥生としては、はるかには清らかでいてほしい。そして冬弥に対しては汚れ役になれても、はるかに対してはかつてと変わらず綺麗なお姉さんでいたいのです。そのため、鍵である冬弥側からアプローチして、雪を順次除去することにしました。弥生としては二人とも彼の大事な人なので、できれば傷つけたくない。でもどちらかを傷つけなくてはならないとしたら、弥生は考えるまでもなく冬弥を選びます。何しろ肝心な時にはるかをほったらかして由綺にうつつを抜かしていましたからね。弥生の冬弥に対する当たりがきついのも当然です。冬弥が有事の際に役に立たないとする弥生の決めつけは、過去の事実に基づいているのです。けれどそれを言うなら、はるかと疎遠になった弥生も同罪。つまりは同族嫌悪です。さらに弥生は由綺を、はるかを投影する偶像として育てているのだから、冬弥よりもっと罪深い。作中、冬弥が由綺のことをどれだけ大切に想っているかを弥生に懸命に訴えた所で「由綺さんを?あなたが?」と取り合ってくれません。弥生は冬弥と同じ穴のムジナだから、その辺は痛いほどよく判っているのです。
弥生が「望むもの」を由綺は一つずつ確実に叶えてくれる、と弥生は語ります。それは、由綺を「望むもの」に寄せていくことで弥生は喜びを得ているということであり、夢を叶えてくれる由綺と、弥生の夢そのものとは別にあるということです。由綺はあくまで、弥生の夢を叶える「手段」であって、弥生の夢の「主要素」ではありません。そして由綺が夢を叶えること自体も、弥生の夢とはまったくの別枠にあります。由綺の成功自体は弥生の夢には含まれておらず、由綺の成功の暁にそれと並行して弥生の夢も同時に叶うという形です。由綺と出会うことで弥生の夢実現への勢いが加速したのは確かのようですが、弥生の口ぶりからして、彼女の夢が定まった節目は由綺と出会う「前」というのも確かなようです。別に弥生自身に脚光を浴びたかった過去がありその夢を他者に託している訳ではなく、彼女の望みは初めから純粋に「才能ある女性のサポート」です。つまり、由綺の前に、確固たる雛型が存在したという証です。というのも、弥生が明確な指標も目的意識もなく無軌道に他人のために尽力するとは思えませんから。弥生としては、テニスプレイヤーとして才能のあるはるかが挫折したことに責任を感じているようで(実際は、はるかはそんなにテニスにこだわっておらず、ただ冬弥との想い出を忘れたくないだけですが)、その贖罪のために由綺を身代わりとして別のスターダムに引き立てようとしています。無関係な由綺に対して悪いと思わないのかですが、弥生が由綺当人のサポートに熱意を持っているのは事実で、由綺はその恩恵にあやかれます。弥生は何事にも合理的なのです。冬弥もそうですが、弥生は由綺を代用品として利用はしているけれど、由綺に「はるからしさ」を強要することは一切なく、内密に由綺にはるかの面影を見いだして、勝手に尽くしているだけです。弥生や冬弥にとってはただの自己満足でしかなく、実利は由綺の方にしか発生しません。だから由綺に対して後ろめたく感じる必要はないと言えます。献身の裏側で、対象とは無関係な私情が挟まれていたとして、どうしてそれを責められましょうか。
弥生は冬弥に「由綺にとって『あまりに大切な存在』になってほしくない」「冬弥が『突然いなくなる』としたら、由綺は仕事どころではなくなる」「冬弥を頼りきるようになってしまっていては、由綺は『その時点でお終い』になる」と告げます。これは、由綺に起こりうる未発生の将来を漠然と危惧して語られた仮の話ではなく、はるかの身に起きてしまった過去の実例を根拠とする確信的ななぞらえ話です。河島兄が「あまりに大きすぎる存在」だったため、彼が「突然いなくなった」その時点で、はるかも冬弥も、そして弥生自身も「すべてが終了」し、皆が皆、今までの自分であり続けることはできなかった。その確定した事実がまず前提にあります。
由綺を頂点に押し上げること、すなわちそれは、彼女を「河島はるかのレプリカ」として通用するよう磨きあげ、オリジナルに限りなく近づけることです。弥生にとっての由綺は「スターの卵」というよりは「はるかの卵」の意味合いの方がずっと強い状態にあります。由綺が「はるかになりうる可能性」を持っているということは、才能を十二分に発揮し活躍するという単純なプラス面だけでなく、大切な誰かの喪失により歩みを止めかねない深刻なマイナス面もまた、避けては通れないということです。実際には由綺ははるかとは全然別物なので、必ずしもそうなるとは限りませんが、はるかを第一前提で由綺を見ている弥生には、どうしても頭からぬぐえない切迫した懸念です。
弥生は現在、まだらぼけならぬ、まだらに錯乱している状態です。通常は自我を保ち、しっかり判別がついた上で由綺にはるかの面影を見いだすという割りきった手法を用いていますが、はるかへの思い入れが強すぎるあまり、時として我を忘れ、由綺を完全にはるかと見なして熱弁してしまう場合もあります。時々弥生の発言が、由綺の性質を見誤っているとしか思えない的外れな決めつけを帯びることがありますが、弥生本人は自分の感覚をまったく疑いもせず確信した上で、いたって本気で由綺論を主張します。はるかのこととなると完全にむきになって、それ以外見えなくなってしまい、視点こそ由綺に向けられていても、由綺当人のことはちっとも目に映っていません。弥生は由綺を話題に取り上げつつ、高揚して言及している場合の対象は大部分、実ははるかでしかないのです。だから話の端々に食い違いが生じています。
冬弥と由綺が甘い憩いの時間を過ごしているのを横目で見た弥生が、そのたび、何だか言いたそうに言いかけることがありますが、別に嫉妬で口を挟みたいのではなく、それがあまりにも「はるかとの憩い」に似通っているから冬弥の無自覚をなじりたいのです。弥生に見られている場合に限らず、肩を寄せ合ったり、髪をくしゃってしたり、おでこをはたいたり、はるかへの態度をそっくり持ち越していること多数。知る人が見れば判ります。「あなたがこうしている間にもはるかさんは」との想いで、でもそれを指摘する訳にもいかないので、弥生はやり場のない怒りをこらえ、言葉をのみこんでいます。一方で、由綺の方が冬弥に甘えてしなだれかかる分には、弥生は存外無関心です。つまり、やはり弥生の不服の態度は由綺を取られたくないという嫉妬によるものではないんです。由綺の振る舞いははるかとはまったく異なるため、それはそれで別に構わず、ただ、冬弥の方が対はるか仕様そのままで、無自覚にはるか本人の存在を無きものにしているので、弥生は彼の言動がいちいち気に障るのです。そして、特にはるかとの混同が疑われない、対由綺固有の態度については、いかに甘々なものでも弥生は大概無関心です。由綺は別にどうでもよく、冬弥と由綺の交際も割とどうでもよく、はるかの個が侵害されている場合のみ、重大な問題として腹に据えかねているのです。ただ純粋にはるかが大事なのです。
大晦日、思いがけず由綺を連れてきた弥生に対し「自分に会わせて安心させた方が、由綺は良い仕事をするということか」と冬弥は皮肉っぽく訊ねます。それに答えて弥生は「それは確かな事実なので、そう思いたいのならそれで結構」と冷ややかです。続けて「そう思うことで、冬弥に会いたいと強く想う人がいるということから『目を背けられる』のなら、この上なく簡単」だと言います。そして、冬弥に会いたいと願う人、それは「由綺さん」だと。ん?話がおかしくないですか?その時まさに由綺は冬弥に直接「対面している」のに、弥生は一体、何から「目を背ける」と言っているのでしょう。それは、冬弥に「会いたい」誰かの願いを冬弥自身が「退け、くじく」状態を意味するはずで、弥生の話の流れなら由綺は「望んでもはじかれ、会えない」状況になくてはおかしいはずです。でも事実、由綺は冬弥に会えていますよね?他でもない弥生の手引きによって。つまり、大晦日その日に実際に、弥生が冬弥に会わせている「由綺さん」と、冬弥に会いたいと願い願っても叶わない「由綺さん’」とは「別に存在する」ということです。続けて弥生が語気強く「私には判るのです」と叫ぶ、その対象もまた、実の由綺ではない、もう片方の、別の「由綺さん’」ということです。でもって「由綺さん’」とはやはり、本当ははるかのことです。いやいや、はるかは普段から当たり前に冬弥周りにいて、日常的に彼と気ままに憩っていて、「会うに会えない」だなんて身を引き裂かれるような悲劇的なこと全然ないじゃないか、と思われるかもしれません。しかし冬弥ははるかに関する一部、しかも冬弥の中でかなり大切な範囲を失い、いわば心ここにあらずで彼女と向き合っているので、日々どんなにつるんでいても、実質的には「会っている」とは言えません。故意ではないとはいえ、存在を「無いもの」として軽んじているのですから。いつも会っているのに、心は遠く離れ、本当には会えていない状態です。「由綺さん(由綺)」の力になれていると実感することで、「由綺さん’(はるか)」の気持ちを踏みにじっているという見えない事実、その非知覚の負い目から目をそらそうというのなら、それは十分に効果的だろう、と弥生は言っています。「はるかさんの気も知らないで由綺さんに熱を上げていられるというなら、それはあなた次第で、私にはとやかく非難できないことです。私としては不本意で、あなた自身も非常に不本意でしょうけれど」と、真意は大体そんな感じと思います。
「私には判る」と弥生が興奮して切々と言及するその対象の「由綺さん’」こと実は「はるかさん」はといえば、それらしき素振りをついぞ見せることなく平気に「大丈夫だよ」と微笑み続けています。作中徹底してその状態で、画面に映らない所でも一貫してそうであることは普通に想定できることです。そんなはるかは、弥生にとって何よりも尊くて、何に代えても守り抜きたいやんごとなき存在です。沈黙のはるかの本音を、弥生だけが唯一特別に聞き届けることができるのなら、弥生が使命感と保護欲に駆り立てられるのも仕方ないと言えます。目下弥生しか知る者のいない、他の誰の理解も及ばないはるかの愛情深さや辛さを指して、「私には判る」と、役得による自負を少しばかり交えながら、かけがえない存在のはるかへの理解を声高らかに表明しています。それほどまでに熱い感情を弥生に生じさせるだけの中身が、はるかにはあるということです。
はるかが「冬弥」との想い出話を「兄さん」で置き換えて話すということは、はるかの項目で述べました。同様に、弥生は「はるかさん」と指し示すはずの所を「由綺さん」に置き換えて話します。弥生編は、はるか編の真相を解いていることが最低限の前提条件なので、「名前の言い換え」を当たり前の手法として考慮に入れた状態で読み解くことが求められます。そのため応用問題というか、適用に関して、少し難易度が高くなっています。はるかの場合は、完全に絶対に兄本人のことを示すと確定および断定できるもの以外、基本的に彼女が「兄さん」と言っている話は全部「冬弥」の話と考えて問題ありません。それ以前に、兄は既に他界しているので、今になってことさらに兄についてこまごま語りこむというのも状況としてそんなに起こらないことです。さらに、冬弥がひがみがちでいじけやすい性格なのを知っていながら、それでもあえて彼の前で亡き兄への思慕を当てつけるという嫌味な態度をはるかがするとは思えません。はるかは本当は、冬弥に「冬弥」の話を持ちかけているのです。さて置き換えのシステムについてですが、はるかはシンプルで済むことをわざわざ無駄にややこしくする手間は好まないので、一度パターンを決めたら複雑な条件分けはしません。「(冬弥が失くした記憶の中の)冬弥」を「兄さん」に、総入れ替えでまるまる全変換します。変換に一アクションしかかからず、そのため元の文の復元は比較的楽です。かたや理屈っぽい弥生は、細かい分類整理を特に面倒がらないので、本物の由綺を普通に「由綺さん」と言う場合と、本当ははるかを指して「由綺さん’」と言っている場合とがばらばらに混在します。弥生の中では「由綺さん」と「由綺さん’」は別の区分ですが、読み手にとってはどちらも同じ「由綺さん」表記でしかないので、見分けるのが困難です。そもそも弥生とはるかの関係自体が伏せられているので「由綺さん」の名称に由綺ではない別の人物の意味が含まれているなんて考えもしません。「由綺さん」情報の受け取りは非常に高難度です。そのまま単純に流し読むことはできず、読み手の方で、どちらを指すのかを逐一特定して整理しなければなりませんから。ですが、仕組みさえ判ってしまえばわりかし簡単なもので、弥生が感情をあらわにした場合の特別な「由綺さん」、これが言葉では区別できない型違いの「由綺さん’」で、それがそのまま「はるかさん」に該当するということです。判るっちゃ判るけどしちめんどくさい。さらにややこしいことには、弥生は由綺にはるかをダブらせた状態で由綺そのものについて熱く話すこともあり、その場合、確かに由綺本人の話をしているけれども、その時弥生が思い描いているのははるかの幻です。実体の由綺を指して、実際には「はるかさん」でしかない「由綺さん’」のことを話しますが、それでも言葉に出てくるのは結局ただの「由綺さん」でしかなく、見かけ上は何の波風もありません。弥生内部の、そうした二転三転を検知すること、それ自体がまず難しい状態となっています。
弥生は冬弥に「のちに『悪性の病気』を引き起こすことが予期されている盲腸をどうするか?」「摘出するのか、手術をおそれて『発病する』のを待つのか」と問いかけます。最近の医療では盲腸は切らずに温存するのが主流のようですが、要は、近いうち起こりうる病気に対し、対処するか放置するかという話です。弥生の話の筋は「由綺にとって『冬弥が』取り去るべき病変に相当する」というものではなく「冬弥本人にとって『冬弥の中に』発症待ちの病変がひそんでいる」というものです。そして事実、冬弥は潜伏的に脳障害を患っています。何の変哲もないように見える冬弥が実は、以後、症状がさらに悪化しかねない因子を抱えているという隠し情報を、弥生は確実に掴んでいるということです。まったく接点のない人物が、ただでさえ厳重に制限されている重要機密を知るなど不可能なことで、それはつまり、もう一人の当事者であるはるかと弥生が、かなり踏みこんだ関係にあるという証拠に他なりません。かつ、手持ちの比較対象として正常な冬弥の状態を見知ってでもいない限り、目視できない彼の異常とその進行に言及することはできないので、冬弥本人とも、その失われた過去の間にいくらかの接触があったことが推測されます。弥生ははるかから得た確かな情報と、直接見た冬弥の現状をベースにした思考の末、上記の問いを持ちかけています。ただしはるか自体は、脳障害を負った冬弥の状態が好転する可能性はほぼないと諦観しつつも、その一方で、急変・重篤化する方の可能性も同じく想定しておらず、特に問題視できていません。ただこのままゆるやかに、何も変わらないまま冬弥は自分の一部を取り戻せなくなるだけだと。そのため基本のんびりしており、実際に事態の悪化が顕著な美咲編では後手でしか動けていません。弥生はそんな、はるかが見通せていない深刻なトラブルの可能性を見越し、先回りして、冬弥が起こしかねない問題を未然に防ぐために自らの身の提供を申し出ているという訳です。
クリスマスに、弥生を「拒絶」するのは、フラグを折る方向のパターンではありますが、シナリオ展開に沿って彼女を「受容」する場合と同程度に、それとはまた別系統の重要な話が含まれています。どちらに転んでも、得られる情報は大きいということで、どうせ外れ展開だからと安易に読み飛ばさない方がいいということです。拒絶する冬弥に突き飛ばされた後しばらく、弥生はフリーズ状態となり、明らかに様子がおかしくなります。その弥生には、目の前にいる冬弥とは別の、そこには存在しないものが見えているんです。過去の事故の瞬間の記憶を強くゆさぶり起こす一動作により混乱をきわめた弥生の視界は、強制的に幻の世界へと引きずりこまれます。弥生の目には死んだはずの彼が見えているので、その非現実を量りかねて、彼女はとても不思議そうな顔をします。また冬弥の感受した印象が正しいなら、その時弥生は、何かを質問しているような目をしているとされています。弥生が幻に問いかけているとするならそれは「そこにいらしたのですか」と、見えないものを見いだした錯乱下での気付きであったり、あるいは「どうして私を置いて逝ってしまわれたのです?」との心からの詰問であったり。彼への想いは募るほどあります。そのまま彼との夢の中に身を投げ出したい。しかし悲しいかな、きわめてリアリストな弥生は、すぐさま幻を幻と理解し、正常な視界を取り戻します。思考を閉ざし夢に溺れきってしまえるなら、それだけでもう望むことは他にないのだけれど、弥生は自分が現実を放棄することを許しません。
「拒絶」展開裏の、見えざるアクシデントによる打撃で出鼻をくじかれた弥生は、それ以上の進行は取り止めます。そして帰り際に「騙されることよりも、騙されないことの方が、時として人を傷つけ、状況を悪化させる」として冬弥に留意を求めます。一見これは、弥生にだまされたつもりで無防備に彼女に身を委ねることよりも、弥生を気丈に突っぱねて由綺への誠意を意識的に貫くことの方が、最終的によくない結果を招くと言っているようにも見えます。ていうか表面上にあるのは冬弥と由綺の関係と、それに干渉する弥生という構図でしかないので、そうした解釈に落ち着くのも至極当たり前のようにも思えます。しかし何か論理が釈然としません。繋がりとして後半の主張が意味不明なんです。「惑わないこと」が、何がどう問題になるというのでしょう?一体何を指して「人を傷つけ、状況を悪化させる」と断言しているのでしょうか。そんなの、実際に経過を追わないことには、事態がどう転ぶかなんて何も判らないじゃないですか。結論からいうと、見た目の構図自体は大した含みを持っておらず、要旨はそこには存在しません。冬弥は幻に惑って愛する人を取り違えており、かたや弥生は愛しい幻に直面しながらも染まりきることができずに苦悶している、という真の構図があり、それを踏まえての発言とすれば意味はすんなり通り、話を持ち出す順序としても妥当です。「だまされる」冬弥と「だまされない」弥生との対比です。弥生が言う「人を傷つける」というのは「相手もしくは周りを」傷つけるという意味でなく、だまされるか否かの「当人が自分を」傷つける傷つけないの話です。往生際悪く正気をとどめている自分の方がよっぽど傷つく度合いは大きい、これから永劫自分の傷は深まるばかりで本当に心底辛いのだと、弥生は恨めしく訴えています。「いっそあなたのように狂ってしまえたなら、私はこの先どんなに幸せでしょうか」と、壊れた冬弥を羨み、またどうやっても壊れられない自分を悲嘆してもいるのです。
弥生の中には、幻に惑う冬弥に対する共感と慰め、幻として冬弥の身に宿る故人その人への固く誓った恋情が混在しているので、彼女の心理状態は時々大きくゆらぎます。それら二つは出所がまったく違い、系統も異なるので、その時々に弥生の頭で展開している方の理念に沿って、それぞれに違う方向性の言動として表れます。そのうち故人に対するゆるがぬ愛については場を改めてまとめて後述しますが、冬弥という別人を相手にしてもなお、幻視という強力な特殊効果によって弥生は高ぶり、幻を幻と自覚の上で、黙々と積極的にせまってきます。一方で、幻の依り代としてではない冬弥本人に限定しても、弥生は少なくない感情を寄せており、失ったものの大きい冬弥に強いシンパシーを感じています。本当であれば、言うなら正気であれば、はるかとは別の誰かでの代償行為など冬弥自身もけっして望みはしないだろうと理解した上で、現状由綺を代替とした日々を当たり前に過ごしている冬弥を痛ましく思い、自分と重ね合わせ、時にわだかまりを感じながら、弥生は冬弥を、彼女自身の独断と偏見で最も望ましいと思える方向へと誘導します。
冬弥と由綺の関係を保つこと、おそらくそれははるかの望みで、弥生には、その無垢なる意向を損ねることはできないのだと思います。それでも現状のままでは、避けられないひずみによって冬弥が安定を欠き、窮地に追いこまれる未来もそう遠くはありません。弥生としては、はるかに心痛を負わせることなく、彼女の知らない所ですべてを水面下で平板に収めたい。そういう理由で、弥生は身を呈して、冬弥の異常をどうにか非活性にとどめようと画策します。事実、冬弥と由綺の過剰な接触を望まない一方で弥生は、しかしながら冬弥が由綺を「裏切る」ことは望んでいません。由綺との関係が「深まらない」ように仕組むと同時に、暴走した冬弥が「他に行かない」ようにもしているということです。どれだけ深く関係しようが後腐れなく割りきれる存在として、弥生自身の体を壁に使って。弥生の体は亡き彼に捧げたもので、その所有者が亡くなっている以上、それはいまや誰のものでもありません。また彼の犠牲により取りとめた命である以上、それはもう弥生自身の所有でもなく、浮いた仮の命です。過去の事故時点で弥生も同時に命を落としたも同然で、それ以降はどうせおまけの人生なので、彼女は自分の体に何の愛着もなく、何にどう使おうが思い悩むことはありません。我が身可愛さゆえに体を出し惜しむなんて選択肢は、その時から存在しないのです。
迷いのない捨て身の姿勢が目立つ弥生ですが、別にそれは、彼女の希薄な人間性が先天的であるがゆえに、生物として欠かせない最低限度の感覚を持つことができないからではなく、色々複雑で感傷的な経緯を由来とする、実に人間らしい心理が確かなものとして脈々とあって、それが結果的に彼女の言動を拘束し、極端に不感的でこわばった形へと変容させているだけです。そりゃまあ何の事情もない弥生が何の理由もなく由綺にただ惹かれ、意味なく無条件に彼女に尽くしているという見方でも、「愛は理屈じゃない」ってことで、それならそれでもいいのですが、逸脱したレベルの献身を説明するに十分な背景と理由とはとても言えません。説得力が乏しく、物語としての掴みもなく、釈然としないままの幕切れになります。その点、過去に起きた不幸という仮説をはめこめば、謎のままに留め置かれている多くの解答欄が滞りなく埋まります。話の筋道も多方面から連結し、納得できる一まとまりの状態に整います。弥生の不可解な言動の数々も、実際、明快な理屈でもって説明しつくすことが可能となるので、弥生編の解釈の一つとして、それなりに議論に耐えうる話ではないでしょうか。弥生について「どうして自分を『物』みたいに扱えるんだ」と冬弥は不思議がりますが、それは由綺の成功のためなら手段を選ばず投資も惜しまないというビジネス的な断行ではなく、故人への貞節というのが基本条件として動かず根本にあって、それでもたった一つ、この世に残された大事なはるかの平穏のためにならば、彼の印が刻まれた体を粗末にするのも苦にはならないという理屈です。彼の名において決行していると言ってもいいでしょう。そして「どうして好きでもない男にこんなことができるんだ」と冬弥はぼやきますが、弥生は、好きな男でなければあんなことして尽くしたりしません。ただ、実体がないだけです。
音楽祭前日、由綺について弥生は冬弥に判りきったくどい申し渡しを重ね、しばし変なループに陥ります。弥生は由綺のことを話しているのに、何かこう、要領を得ないというか、焦点として由綺を見つめてはいないような、だからこう、話にまとまりがなく全然終わりが見えないような五里霧中な感じがします。冬弥が、自分は由綺が今どこで何をしているかすら知らないと自嘲してようやく、弥生は由綺周りの現況に目を向けます。そして「忘れていました」と上の空です。口では由綺を話題にしているのに、置かれた状況を始め、由綺そのものについて興味を注いでいなかったようで、このことからも弥生の最優先人物が由綺ではないことが判ります。弥生はクライマックス直前に、心の雪に苦しみ衰弱したはるかに会って、彼女を救う決意を固めています。つまり冬弥側から記憶の連動を切ること。冬弥は傷つくけれど、はるかの笑顔を守るためなら構わない。でも弥生としても、何が最善なのか判らない。さすがの弥生も迷います。由綺の偶像化計画を中断すれば、はるかも冬弥も多少は楽になるのに、弥生は融通がきかないのでやめるつもりはありません。それとこれとは話が別なのです。
はるかの窮地に手を差し伸べたいのは山々ですが、はるかが必要としている人物は冬弥です。はるかは弥生を信用し、頼ってはくれるけれど、その位置づけは明確で、義理の「姉」以上の関係は望めません。いかに似ているといえど、はるかはけっして彼ではなく、弥生と互いに特別な関係にはなれません。弥生の片割れはもうこの世にはいないのです。そんな中、本来はるかに寄り添うべき立場にある冬弥が何も知らずに彼女を放置し、自らも迷走していることに弥生は苛立ちを覚えます。また、それでもなおはるかに必要とされる冬弥に、弥生は嫉妬します。自分と立場を代わってほしい。自分ならはるかをそのままにはしておかず、救うことができるのに。思えば弥生と冬弥は、似た人物を失って、同じ人物を大切に想って、同じ人物を身代わりにしているという点で似た者同士です。二人が名前に同じ文字を持っているのも偶然ではないでしょう。けれど傷を自覚して自発的に行動している弥生と違って、冬弥は傷口そのものを忘れて失っています。冬弥は過去、はるかをけっして見放した訳ではなく、不幸な要因によってすれ違いになっただけで、記憶を失くした今もなお、変わらず彼女を想っています。弥生は冬弥と接するうちにそれを実感します。幸せな日々、冬弥が壊れる前というのは、すなわち弥生が壊れる前でもあります。愛する相手を失い宙ぶらりんになっている冬弥の現状に、弥生は自分の姿を映し見て迷います。故人への恩義ではるかを救いたいのか、義理が高じてはるかを愛してしまったのか、自身の新たな感情で冬弥と傷を分かち合いたいのか、貞節を破り、はるかを裏切ってまで行動に出るべきなのか、弥生はよく判らなくなります。責任感や、冬弥に対する共感と哀れみ、またためらいなど色々なものがごちゃ混ぜになって、弥生は感情をあらわにします。そしてことに及ぶのですが、まさに傷の舐めあいです(一方的)。
「愛していたのですよ」「嘘ですけどね」の真意について。妹のはるかを見ても判る通り、兄も基本的に感情表現が不得手で、伝えたとしても涼しい顔してとぼけるタイプだったと思います。それでも弥生への好意についてははぐらかさず真面目に伝えた所、いつもとのギャップなのか、弥生曰く「憧れ」だかいう大げさな形で受け取られたのかもしれません。はるかでいう所の「彰が子犬産んだからくれる」の翻訳よろしく、一つ一つ噛み砕いて気持ちを説明していったら、そりゃ結果的に熱烈な愛情表現になるでしょう。整然と喋るように弥生が躾けたのかもしれません。実際どうだったかは判りませんが、一応好意は伝わりました。けれど逆に弥生の方からは、きちんと明確な言葉で気持ちを伝えることはなかった。多分いつもの調子で「愛情とは結局、気の迷いに過ぎません」みたいな御託を並べてたんじゃないでしょうか。それに対して彼も「知ってる」とか、肯定しちゃだめな所に相槌打ったりしていたかもしれません。それはあんまりとしても「今まで人を愛したことがないので、あなたへの感情がそうなのか判りません」「そう」くらいは普通に言ってそうです。種類の違う口下手同士の会話なので収拾がつきません。まあ妙に会話のテンポが噛み合ってそうですし(兄もはるか仕様の会話テンポであればの話ですが)、愛と呼んでも別に差し支えないのではないでしょうか。焦ることはなく、返事は次の機会にとでも悠長に思っていた所、事故です。まさか死んでしまうとは思っていなかった。弥生には想いを伝えられなかった心残りがあります。言わなくても判っていたとは思いますが、伝えておかないと気が済みません。
河島兄妹は似ている(冬弥談)、冬弥とはるかは似ている(彰談)。間接的に、冬弥と兄も高確率で似ているはずです。弥生は、冬弥に映る故人の面影に向けて「愛していたのですよ」と積年の想いを伝えました。それでも事故から数年たって、弥生も自分の人生を歩まなければなりません。いつまでも過去の傷にとらわれていられない。過去と決別する意味をこめて「嘘ですけどね」と呟いたという訳です。冬弥はまあ、相手の感情にすぐ同調しちゃうんで流されてますけど、冬弥はあまり関係ありません。ひょっとしたら憑依でもしているのかもしれませんが、WAはオカルトものではないので判りません。ちょいちょい心霊現象っぽい描写もありますが、どうなんでしょう。弥生が常に身にまとう冷気は霊気なのかもしれません。熱の感じられない体温というのは、人形のというよりはいわば死人の持つ温度です。幽霊もどうせその辺にいるのなら「契約」とかいう弥生の暴挙を最初から止めてくれればいいんですけどね。「弥生さんが決めたことなら仕方ない」とでも思っているのでしょうか。兄妹揃ってやる気のないことで。
案外、冬弥の意識が途切れた間に、彼の体を介して弥生と幽霊とで仲良く交信しているのかもしれません。幽霊は常時近くにいるようですが、弥生と直接のパスが通っていない限り冬弥を意のままに動かすことはできず、また口伝えの会話はできないのだと思います。他人の体を勝手に使って、もはや完全に悪霊です。冬弥の意識が飛ぶということは、そのままその独白も断たれるということで、実際に憑依されているかどうか冬弥が語ることはできず、よって読み手にも窺い知ることはできませんが。仮にそういう裏があるとしたら、エピローグで弥生が名残惜しそうに冬弥を抱きしめて離さないのも納得です。冬弥と関係して本人に情が湧いたのではなく、故人と再会できたことで心が動き、その事象に執着しているのだと思います。その辺、弥生はシビアなので一緒くたにはしません。弥生が意識するのは故人のみです。冬弥は故人を乗り移らせるのにちょうどいい依り代ですから、手放したくはないでしょう。それでも弥生もこれでいい訳ないことは承知しているので、未練を振り払おうと努めます。「契約」の対価として、一度きりでも、彼と再び愛を交わし言葉を交わせたのなら、弥生もすこぶる満足なのではないでしょうか。これ以上を望むのは許されないことだとわきまえていると思います。幽霊は当分成仏しなさそうだし、弥生が感じようと思えばいつでも側に感じられるので、別に冬弥を巻きこむ必要はありませんしね。毎度のことながら、冬弥の関知していない所で色々話が展開しているみたいです。
エピローグについて。由綺が音楽祭で、ある程度の成功を収めたなら、むしろこれからが大変で、それこそ冬弥と由綺の接触を妨害しなくてはならないはずなのに、弥生は二人の交際を黙認します。弥生が由綺の輝かしい将来のために、冬弥に体を提供していたとするなら、ここで矛盾が生じます。そう、由綺ではなく、はるかが無事試練を乗り越えた時点で、弥生はその役目を終えたのです。「契約」とは、はるかを守るための苦肉の策であり、本来弥生は一連の行為を望んではいません。亡き彼との二人だけの絆は失くしたくないはずですから。作中での冬弥との関係は、はるかを守る上での特例です。はるか防衛ミッションをクリアできた時点で、以降冬弥との密会は何の効果も持ちません。弥生は以降、無駄に体をおとしめる必要はありませんし、するつもりもありません。そういう訳で、「契約」はもう完全に終了したのです。後は冬弥と由綺が何しようが構わない、ご自由にということです。由綺を中心に考えると矛盾が多く意味の通らない弥生編ですが、はるかを主軸に据えることにより、弥生の動機も意図も、行動の効果も、筋の通った明確なものになります。行動の出方は極端ですが、すべては忘れ形見への愛と保護ゆえです。亡き彼の自己犠牲の元に生き長らえた命ですから、その最愛の妹のための自己犠牲に、少しのためらいもないのです。
弥生の掲げる「契約」に、由綺はまるっきり関係ありません。由綺の存在を中心にしているなら、契約の前提やら内容、目標に説明がつかないのです。皆さんは弥生の論理で納得できますか?これから由綺は忙しくなり耳目を集める一方。冬弥がそんな彼女と会えない数か月間、弥生が代理になる。そして区切りがついたら元に戻っても構わない。意味判んないです。冬弥の心がぐらつくと頭から決めつけているのも癪だし、まずどう考えても、由綺という一人の恋する女性の信頼を踏みにじり完全に蔑ろにした侮辱の提案です。知られなければいいってもんじゃありません、裏切りは裏切りです。その後、元の状態に戻るとして、どんな顔で由綺に向き合えって言うんですか。とても正気の沙汰とは思えず、間違っても由綺のためにだなんて承服できません。由綺にとって有益な条件なんか一つもありません。要するに、本当は由綺への計らいなどこれっぽっちもなく、まったく別の観点からなされた提案だということです。折しも冬弥は裏設定で、失ったはるかの面影を探して迷走する因子を抱えており、また、その迷走期間も一時期に限定されています。はるかしか知らないはずのその事実を弥生は知っていて、まさしくそれに応じたベストマッチな提案をしているということです。つまりは、美咲編で冬弥が美咲に強いているガス抜き要員の扱いを、弥生は自ら先導して前もって請け負っており、やっていることは本質的に一緒です。今現在、はるかの抜けた穴に由綺という身代わりを置いている冬弥が、結局はその穴を由綺では埋められない、いや、誰であってもその代わりにはならないというのは、同じく恋人を亡くしてからというものやさぐれて、手当たり次第に穴埋めを試みたけど全然だめで、彼の存在の重さを再認識するに至った実体験を持つ弥生には身にしみて判ることです。行き場のない喪失感を自分の中で抱えきれないのに、自分だけではそれを散らす方法を持ち合わせていないということも。
さてまた、契約終了後に冬弥が晴れて放免になるというのもおかしな条件です。一応は「現在の、由綺の著しい成長期に際し、彼女を仕事に専念させるため」という名目を打ち立ててはいるけれど、ならば、その先にも見込まれるであろう由綺のさらなる成長過程においてはどういう扱いとなるのか、引き続いての冬弥の処遇はどのようなものになるのかがまったくのがら空きになっており、それ以前に引き離し期間を「限定」すること自体、目的が徹底されていません。由綺の成長はそれだけの期間中にしか成立しないと限定しているようなもので、それ以降の由綺の成長は想定していないということになりますから。弥生の提案は一見、由綺第一のドライで合理的な取引のようでまったく筋が通っておらず、論理が飛躍しまくっています。あの長ったらしい言い回しに辟易して、内容を熟読しないまま目を滑らせてしまいがちですが、読めば読むほど提案条件と将来の展望の接続がおかしく、とても納得のいく代物ではありません。弥生自身も提案のでたらめさを承知しているのか、冬弥の反論を威圧で強引に打ち捨て、畳みかけるように理不尽な主張を押し通します。冬弥に、十分な理解の上での受け入れを求めてはおらず、まともに説明しようとはしません。実際、細かくつっこまれるのは形勢不利で、冬弥に深く考えられては都合が悪いため、強制的に言いくるめて、根本的な疑問を完封しているのだと思います。冬弥はあれで結構洞察力に優れている面があるので、その指摘はちょいちょいいい線いって、真実を突きますが、そのままいかれると都合の悪い弥生に問答無用で疑問の芽を潰されます。「契約」の本当の理由は、関連情報が欠損した冬弥には関知するべくもないのだけど、本当の理由が存在すること、それ自体を彼に気取られてはならず、弥生はひたすら由綺を前面に押し出し、他の可能性に思考が及ぶのを防ぎます。