弥生3


シナリオさんは弥生編には特に力を入れたそうで、それなのに、その現物がただ単に怖いお姉さんに無慈悲に蹂躙され、怯え、嫌々ながら従うだけの、心なく薄寒い物語に留め置かれているとはとても思えません。当人の、年上女性にいじめ半分で教育されたい願望の表れなのかもしれませんが、それはそれとして、他の何を差し置いても是非強く表現したい何かがあるはずで、そうでなくては弥生編をイチオシする根拠がありません。という訳で、時たまテキスト上に見え隠れする心霊現象の裏にある、悲恋事情に関連した膨大な経緯および展開が、本当に描きたかった真の本題なのだと思います。弥生と過ごすことで時々生じる縛りつけるような空気、部分的に痺れる感覚、これらは霊障のせいで冬弥の体が動かないことを示す有意な金縛り描写です。シートベルトの金具が外れない緊縛状態もその一種で、弥生が取りなすまで一向に外れてはくれません。現場にいつでも弥生最愛の彼がいて、冬弥に何やかや干渉しておいたしているんです。冬弥が弥生に虐げられ、自分の存在価値に自信を失いさめざめ泣いている裏で、弥生サイドでは全然別の、生死を飛び越えた執念の愛の物語が展開していたということです。ちなみにそういった緊張の場面だけでなく、のどかな場面でも兄の気配を確認することができます。林道を散策し、木々の発する空気を浴びた後の帰り道、弥生の肌から「緑の香りがする」と記されていますが、多分これは、幽霊がその時その辺の空気にとけこんで、それでもって弥生に取り憑いて包みこんでいた描写だと思います。並木は葉がすっかり落ちて、現地は緑に乏しかったはずなのに、残り香として「緑の香り」が感じられるのも不思議な現象で、矛盾を意図的に狙った表現でしょう。何らかの意味があり、そこに特筆すべき何かがあるということです。目にはけっして見えないものが。もっとも、そういう森林浴的キャラなのは元から、実体のあった生前からかもしれません。妹はるかも根っからそんな清涼な空気感の人です。


密会にあたって、弥生は何の感情もなく無関心そうにしていますが、心の内では意外とそうでもないのかもしれません。冬弥を介し、趣味と実益を兼ねて、実際には別の人に接する気持ちで臨んでいるので。弥生が故人と、そういう意味で深く触れあったのは、初回の一度きりです。そのため、体と体をじっくり堪能しあった訳ではないから弥生には色々心残りがある訳です。ということで、生前、彼にしてさしあげられなかったあれやこれやを、冬弥の体で試してみたいんだと思います。わざと焦点をぼかして幻を見ようと試み、霞がかった弥生の目には、冬弥が彼に見えて仕方ありません。たどたどしく反応されるとつい夢中になってしまいます。冬弥の目の奥に、冬弥のものではない期待の色が浮かぶのを、弥生はしっかり見抜いてしまうので、一層気合いが入ります。依然無表情なのでつまらなそうな機械的処理にしか見えませんが、そうと見せかけて、よく見ると目を輝かせて間接ご奉仕しているかもしれません。指導中、冬弥の様子を窺う弥生が、時たま薄く微笑むことがあります。冬弥にとっては怯える自分を見下した凄みのある威圧的嘲笑でしかありませんが、多分弥生本人としては精いっぱい頑張って媚態の限りを尽くしている、あるいは素で嬉々として愛情いっぱいに微笑んでいるのだと思います。弥生基準でのとっておきの決め笑顔とは裏腹に冬弥は心底怖がっていますが、別に冬弥には通じなくても幽霊に伝わればそれでいいので、オッケーです。反面、相手の反応がいまいちはかばかしくないと何だかしょんぼりする弥生、一生懸命はりきっているのに誠意が届かず空回ってしまうのがもどかしいようです。


兄も、霊体の身とあってはもう弥生とじかに触れあえなくてご無沙汰だから、冬弥に憑依して、便乗して感じたりするけど、冬弥の意識が強く出ているうちはその喜びを弥生に直接伝えられはしないから、やっぱりもどかしいようです。冬弥の体を自由にできないからやられっぱなしなのか、完全に調教済みで元々弥生のなすがままに脱力した人なのか、わざと弥生の出方を見て悪戯っぽく試そうとしているのか、その辺はよく判りませんが、おそらくその全部が正解でしょう。兄が自分から積極的に動ける?のは、最終的に条件が満たされた時点のみです。ほんと何やってんでしょうね、プレイヤーの目を盗んで、しかも無関係な人を通してちゃっかりやらしい交渉するなんて。言っておきますがそれ冬弥の体ですからね。二人ともめちゃくちゃだ、ひどすぎる、あんまりだ。類似ジャンルの中でもあまり類を見ない、きわめて独特なタッチで描かれる弥生との交渉ですが、真相ではさらにそのマニアックさに磨きがかかります。けど中身は意外と、気恥ずかしいくらいに古風でストレートな典型的正統派純愛劇だったりします。ひたすら寒く凍えるかに見えた弥生の容赦ない所作が、うまく表せられなくてじれったい、健気で熱心なアプローチに置き換わるので、認識前後でのテキストの温感の違いを楽しむというのも弥生編の見所だと思います。でもまあ、誰も弥生に純でほんのりした愛らしいぬくもりなんか求めちゃいないし、実質ネクロフィリア的な側面が強く、どのみちアブノーマルでニッチな趣味のシナリオには違いないです。彼女が頭おかしいことには変わりないです。


弥生は高ぶる感情を外部に悟られたくないあまり、それを噛み殺そうとして渋い顔になる傾向があります。反応する冬弥の体を前にして、何度か「顔が曇る」とありますが、別に嫌悪しているのではなく、むしろその逆で、「まあ」っていう恥じらいの感嘆を抑えこんでいる様子だと思います。そして無表情で作業を続行しますが、コツを掴んで波に乗ったかのように全力投入です。意欲満々です。冬弥の認識通り、確かに冬弥本人に対しては大して気乗りではありませんが、その向こう側にある故人の面影には熱烈で、彼に気持ちよくなって喜んでもらいたい一心で色々ハッスルして頑張ります。そうと知った上でテキストを読むと、結構感情いっぱいにみなぎって、見て判るくらいの生々しさでお慕いモード全開、付き合いたての恋人のような甘い温度と湿度でもって寄り添ってきていると判ります。あれでも必死なんですよ、彼女。なお初回のクリスマスに冬弥をいびる合間に、弥生は何か呟きますが、冬弥はそれを聞き取れず、何と言ったかは明らかになりません。流れ的に、愛しい故人の名前を呼んだ可能性が非常に高いのですが、彼の名前自体の方も作中で明らかになっておらず、仮にそうだったとしても、どのみち最初から読み手には手の届かない非開示情報として固定されています。


弥生は情に乏しそうな見た目に反して、その実、脇目も振らず熱中、没入するタイプです。そして理知的に見えるけれど愚直で、冷静に考えたらそうはならんだろという馬鹿げた方向に限って一直線に爆走する傾向もあります。それは、彼女が行う投影への自己反応においても顕著です。理性では冬弥は彼ではないとはっきり判っているけれど、面影重ねの歯止めがきかず、ついのめりこんでしまいます。それは、けっしてはるかにはなり得ないと判りきっているのに、代理の由綺にどっぷりのめりこんでしまって抜け出せない現状と共通です。英二も常々そんな弥生に心配を寄せているみたいですが、本人はそれなりに制御できているつもりで、型さえ合えばひとまずそれで可なだけと割りきっているようです。理想であるはるかにはけっしてならないことが、幻想の維持のため、逆に都合が良いのです。実を結ばない自己満足と判っていて自分の打ち立てた幻想にまっしぐらです。あえてはまることで、正気に戻ることを回避し、余計な迷いを断ち切っています。自分をだますことで、それが嘘だと自覚しながらも、自分を大いに満足させているのです。冬弥との関係も、密会を続けていくことで、幻想に溺れて故人の姿をより色濃く見いだしてゆき、弥生はこれまで以上におかしくなりかけているのだと思います。時として弥生は、冬弥の顔を見ようともせずに作業に没頭することもありますが、これは、正面きってまじまじ顔を見つめてしまうと、どうしても冬弥が故人と別人だということを思い知らされ、覚めてしまうからだと思います。目を向けないことで、正気に戻るタイミングを自ら意識的に潰しているのです。


幽霊側の密会スタンス。日がな愛する人のすぐ側で、触れることも叶わず、彼女のあられもない一部始終を長らく見続けていたら、いかに性感の薄い人といえども(無い、鈍いとは言っていない、乏しくても敏感)、どうしてもむらむらして性欲がたまってしまう訳です、精神的に。見ることしかできないのに目の毒です。よるべない幽霊の身、お触り不可なのが苦痛になります。なまじ一度して、その味を知ってしまっているだけに、柄でもないのに、なまのリアルな煩悩を断てません。何とかして弥生の肌を確かめたい。そこで憑依という手段があるのですが、女性同士の絡みもそれはそれで見て楽しめるけど、対象とは性別が違うので、いまいち感覚として共鳴できず、同化することはできません。そこにきて、冬弥ならば性別も共通する上、元々の心身の親和性が高いため、最大限に感覚を共有することができます。ただ、冬弥は一見、自分がなさそうに見えて、その実メンタルが堅固に確立しており、容易に自分らしさを失うことはありません。そんな冬弥の思考を押しのけて彼の心身を好きにすることはできず、兄は勝手がききません。当初は冬弥の心身の一部を間借りして、おこぼれにあずかるだけです。


さて、密会イベントは基本的に、既読テキストが繰り返される使い回し形式です。ですが、シナリオさんが公言するその思い入れのほどから、ありったけのシチュエーションをふんだんに盛りこみたいはずの弥生編、そんな適当な作りになっているのが不思議でなりません。一つの取りこぼしでアウトになるといった即死状態にならないよう、ゲーム的に難易度を和らげるために余裕を持たせてあるのかもしれませんが、それはそれとして、使い回しテキストが「手抜き」ではなく「手法」なのだと好意的に受け止めるなら、その理由は以下のように考えられます。幾度もの密会を経ることで、裏側での自らの霊媒事情を何も知らないまま、冬弥は兄と同化していきますが、その際に、冬弥の思考が消耗していく過程が必要となります。冬弥が自我を保っている限り、兄は冬弥の体に入りこめません。そのため、冬弥の思考を排除しなくてはなりません。それには冬弥がいちいち考えなくても済む状況というのが必要で、それがまさに、寸分違わぬ同じ展開の反復、という訳です。少しでも何らかの変化があれば、それに注意が向き、冬弥の神経は鋭敏化して目が覚めますからね。催眠作用として同じ情景が繰り返されているのです。冬弥はまどろみの中、兄に侵食され、弥生を前に、冬弥が感じているのか兄が感じているのか判らない状態に持っていかれます。同一内容の繰り返しにより話の進行は停滞していながら、それを経る冬弥はけっして同じ状態に停滞している訳ではなく、順次、兄の依り代として、その役割に適した心身へと変化していきます。何一つ変わらない平坦な営みのようで、水面下では、そのたびに何もかもが憑依向けに切り替わり、激変しているのです。そして侵食する側の兄は、おそらく恐ろしくのみこみが良いと考えられるので、弥生のお稽古を通して、冬弥の体の主導権は持ちえないまま鍛えられ、潜伏的に、冬弥の体で感じ、そして動かす要領を心得ていきます。


肉体があるなら「別に」と感情をセーブして平静な顔面を保つことも可能ですが、兄は今や霊体の身、もはや感情しかないので、ストレートな弥生への愛であふれています。見た目こそ平然としていても、中身はすごく情緒豊かで愛情深いんです。そんな、兄の愛し愛される実感というのが押し寄せてきて、冬弥は思考をかき乱されます。「自分は弥生を愛していない」「弥生も自分を愛していない」、それは確かなはずなのに、なぜかそれとは正反対の確かな実感がひしひし胸を占めて、冬弥は自分の感覚に自信が持てなくなります。そのため、雑念、というか侵食を振り払うべく、冬弥は先の文言を繰り返して自分自身の意識を保とうとします。必死に抗う冬弥ですが、経過を追うごとに強まる兄の意識に染まり、屈していきます。何が何だか判らなくなり、流されるままに自分を放棄していきます。初めから何もなかったはずの弥生との関係なのに、冬弥が何かを着実に失っていくような気持ちに重く沈んでしまうのは「疲れてるから」じゃなく「憑かれてるから」です。冬弥が冬弥でいられるスペースが徐々に狭まっていっているのです。


死に別れた弥生を前に、伝えたいことでいっぱいであろう幽霊の兄ですが、自らの意思表示とか存在証明として、特に何か意味のあるメッセージを語ってくる訳でもなく、都度「やよいさん」とただ一言、絞り出すように名を呼びかけるのがせいぜいです。喋るのに適した条件には至っていないんだろうし、それに元々そんなぺちゃくちゃ多弁に自分語りする人でもないんじゃないかな。弥生への呼称があえて普段と違う表記になっており、同じ形式で何度か繰り返されるのは、そこに何らかの一貫した特別な意味があるからに違いなく、その発信源が通常の冬弥ではないことを示しているのだと思います。「やよいさん」と発する時、冬弥本人の意識自体は一応普通に健在ではあるけれども、そのフレーズというのが意図せず無意識に口をついて出てくるかのような説明もあることから、やっぱり冬弥内部にひそむ兄が、冬弥の口を使って勝手に喋っているものと思われます。


華奢で細身なのが好みのはずの冬弥が、メリハリのきいた弥生の肉体を魅力と語るのは彼らしくなく、特例的で、何だかおかしな兆候ですが、ひょっとしたら瞬間的に兄の思考が横切っているのかもしれません。冬弥の場合、はるかがなだらかだから控えめ好き、兄の場合も弥生だから、出るとこ抜群なのを誇張せずがっちりホールドで窮屈に拘束しているのが、らしくて好きなんだと思います。ゆるめ甲斐があって大変よろしい。「弥生さんさ、こんなに締めつけて苦しくないの?」ってかまかけちゃおう。それぞれ、はるかのが良くて、弥生のが良いんです。好きになった相手がそのまま好みのタイプとして指定されます。性格というか話し方の癖もそれぞれ体型と同じ起伏だし、そういう特性を持った個として好きなのでしょう。冬弥と兄の、その辺の明確な好みの差がずれを起こし、冬弥発信の語りとしての違和感を生じさせているのだと思います。


密会における冬弥本人の意識について。弥生との夜では、心ならずも欲望に屈して溺れるみたいな流れになっていますが、実際、弥生の体つきは冬弥のタイプから外れているので、そこまで彼の性欲をみだりに刺激する吸引力はありません。それなのに、冬弥はなぜ、あんなにも弥生に反応するのでしょうか。弥生が冬弥に指摘する「寂しいのでしょう?」の台詞は、「由綺に会えなくて何だか物足りない」程度のものではなく、「心のどこを探してもはるかが見つからず、狂おしいまでに不安で心細い」を指定します。となれば、喉から手が出るほど冬弥が欲しがっている、彼が喪失した切望のはるか情報をきわどくチラ見せして彼をおびき寄せているようなもので、それはもう、彼のうがたれた傷痕部分を直撃します。弥生は、冬弥の欲しがっている解答の最も近くにいる人物です。弥生がここぞと匂わしてくる話というのが由綺のことではなく、本当ははるかのことを指す以上、直接には正式な言葉として挙がらなくても、冬弥は言葉にならない感覚として、言葉にできないほど強烈に感受します。目に見えないはるかへの欲求が刺激され、緩衝しようのない大打撃です。冬弥は自分の誠意を疑い、自信を持てなくなっていますが、見た目の状況とは裏腹に、彼の一途な心は何も損なわれず徹底されています。ただ、その相手が由綺でないだけです。はるかに誠実という点では、冬弥は臆せず堂々胸を張って、自分を誇っても良いくらいだと思います。そんな恋しいはるかを餌に使われちゃ、ガード無効で引きずりこまれても仕方ありません。弥生もまた冬弥と同質の痛みを持っていることから、その追いうち効果がいかに被害甚大か理解の上で、急所狙いうちで冬弥を限界に追いこみます。加えて、弥生を欲しがる兄が部分的に憑依しているのも、冬弥にとって逃れられない不可抗力です。もっとも兄が私欲で弥生の受け入れを冬弥に強要しているとは思えませんが、俯瞰で見れば、下手にあれこれ考えず弥生に任せるのが、情報の欠けた冬弥にとって最も負担の少ない選択肢と判ります。そういう訳で「弥生さんの言う通りにした方がいいよ」と、兄は横から余計な思念をふわっと送ってきます。そして冬弥は、長年のお決まりパターンで兄には絶対逆らえません。無意識下で提案丸飲みです。あらゆる対冬弥オプションがつきまくった弥生の誘いに、冬弥が不完全な心だけを頼りにその身一つで逆らうこと、そんなの事実上不可能です。冬弥は、弥生を前になすすべのない自分の情けなさをすっかり恥じて、まともに顔を上げることもできませんが、どうあってもどうにもできない全方位完全敗北の究極の局面です。残念ながら、どこにも突破口はありません。


とはいっても、いくら冬弥が若く精力盛んな年頃とはいえ、現物さえ十分でなければいかに弥生の誘惑が強力といえども恐るるに足らないはずです。が、そこんとこ特に弱点で、冬弥は大量に放出します。長年積もり積もった心の雪の比喩表現で、あえて現実離れした量として描写されているのも一つの理由としてあるかもしれませんが、回数が相当多すぎます。冬弥は下ネタを嫌って全然話そうとしないので、彼の普段の処理事情に見当をつけることはできませんが、どうも、ろくに抜くことをしないでしこたまためこんでいるような気がしないでもないです。そんなだから、きりなく何度も反応することになるんですよまったく。冬弥は不実に対する罪悪感以前に、どうも性的なことそれ自体に対しても元からいけないこと意識にかられる性分のようで、なるべく自分の恥部に目を向けないようにしているのが言動の端々に見られます。禁欲的なのは別に構わないんですけど、結局最終的に制御がきかず止まらないってことになるのなら、普段から定期的に発散したらどうですか。自分をほったらかすのもほどほどにした方がいいと思います。あと、弥生にいいように支配されて、男としての気骨をへし折られたからって、不用意にも軽々しく「死にたい」だなんて愚痴は、生体に入りこむ絶好の間合いを幽霊にむざむざ与えているようなものです。「そう?それなら交代しようか」と平気でひょいっと乗りこんできます。待って待って、俺そんなつもりで言ったんじゃない!油断も隙もあったもんじゃありません。


弥生編のクリスマスは、死霊が周囲を浮遊しているのを匂わすためか、何かと死を指し示すモチーフがそこここに見られます。一つには「死に憧れた男」を描いたという外国映画が流れます。残念ながら私にはその映画のタイトルが特定できなかったので、参考資料込みでの含蓄ある考察はできませんが、その場に言いようのない死の気配が漂っていることは確かなようです。TV画面でそんな映画が流れるのと並行して、弥生がシャワーを浴びる音が聞こえていますが、それに対しても冬弥は塞ぎこみます。冬弥は水音を耳にする心境として「全てに打ちのめされた時の、自分の無力をたたき込まれた時の、あの不安」と語ります。重苦しいシャワー音は、兄の死を象徴する雨音と完全にオーバーラップします。兄の死に際し、自分自身も深く傷ついたと同時に、同じく傷ついたはるかに対して何の力にもなれなかったこと、これが、冬弥が今まで生きてきた中で最大のトラウマになっているのですが、作品の仕掛けとして、この最重要エピソード自体が空白化しています。作中確かに、兄の葬儀の様子は一応は語られますが、あれはわずかに残った切れ端に過ぎません。冬弥は、その時はるかや河島夫妻が悲しみに暮れ、何も手につかなかった様子を語りますが、「じゃあ、その時『冬弥は』何してたの?」って話です。そこに冬弥の存在は見当たらないのです。当然、冬弥の行動も見当たりません。唯一、はるかの手を握る冬弥の手だけがわずかに読み取れるだけです。肝心な時に何をするでもなくただ経過を無感情に眺めている、何とも友達甲斐のないやつみたいに思える冷酷さですが、そうじゃないんです、そここそが「欠けている」んです。はるかへの支えを自分の責務として誓い、今こそ自分の役目を果たす時だと気負ったその折に、運悪く冬弥は病に倒れ、はるかへの働きかけは寸断されました。冬弥としては自分が何とかしなくてはならない焦りでいっぱいなのに、その対象が消失してしまったため、無力感だけを抱えたまま行き場のない煩悶を持て余しています。今なお継続して自身を苛むトラウマを潜在意識としてしか感じられない冬弥は、残された欠片からのみの情報としても、はるかが支えを欠いた状態という認識だけはかろうじてあるものの、そんな適切な対処を必要とする彼女を、当の空白患部だからこそ我がことに感じられず、結果みすみす放置しています。それでも、シャワーの水音という何てことない要素によっても相当な沈痛が見られることから、雨の日の出来事というのが冬弥を深くえぐった傷口として彼自身の内側に残存し、また関連する痛覚は変わらずあって、その根源であるはるかの苦境を何とかしなければと常態的に急いているのは間違いないと思います。


かつての夜は、兄が弥生に愛情を示すという「順番」で、兄の方から弥生に向けての懇切のもてなししかありませんでした。こっちで何でもしてあげるから弥生さんはゆったりしてていいよ、みたいな。誕生日?だし、特別待遇のお姫様サービスデーです。惰性で日々を過ごしているようでも割と節目は大事にする方で、そのくらいの大盤振る舞い、心尽くしはします。一応プレゼントなので、その日の賓客の弥生の方からも気を遣ってもらうというのは、それはちょっと違う訳です。それは別の日の楽しみに取っておきます。で、順番制なんですが、二人のコミュニケーションの取り方というのが普段からそんな感じで、ひとまとめの主張を一気に最後まで通しで聞いて受け止めてから、それに対する反応として、改まってまとめて一気に返事をして話を継ぎ、そして順番がめぐるという形式なのだと思います。その変な対話ルールが災いして、結局、弥生の「順番」は来ないままお別れになってしまいました。てことで、前は兄の番で、時を経て、次は弥生の番という訳です。今は弥生の方が「どうぞ私に全部任せ、身を委ねて下さい」といった所です。過去に兄が思いの丈を存分に体で弥生に示したという前提ありきで、今度は弥生の方が体を存分に使って、寸断されていたお返しを連打で果たしているという流れです。


ここで重要となるのは、兄としての反応を見せられないまま、ただ弥生の行動を俗に言うマグロで受け入れるままで、兄はそれでいいのかということです。弥生の前にいるのは結局は冬弥でしかなく、彼女の行動はむなしい一方通行になります。何かしら兄としてのアクションがないことには、弥生の心には収まりがつきません。兄としても、互いに気持ちが通じ合えたという表明はしたいはずです。作中で積み重ねられていく弥生の愛情にまとめて応えると同時に、両者ともに自らの表明を果たした次の段階、互いの確認のもと愛情の受け渡しを同時に行い、それを共有、実感するための表現の場が必要です。初めから両方で伝え合えば良かったのに、どうも掛け合いにこだわりがあるのか、手順を大事にして厳守するあまり、流れ半ばで寸断され、一巡の交歓として完結しないままになっているので、総仕上げとしての共同作業、愛の相互授受が必要なんです。ということで、兄が晴れて降臨したクライマックス後の行間の部分では、死に別れた恋人たちの熱々のやりとりが、じっくりしっぽり思いの限り、粛々と繰り広げられていると思われます。冬弥が消耗し、泣き疲れて寝てしまった間に。


人知を超えた奇跡の再会にあたって、かつての、恩深くも全然喜ばしくない自己犠牲を論理立ててなじり、「あなたの価値と私の価値を比較した場合、私の命を優先したあなたの行動は愚かです」みたいなことを言ってはばからない弥生に、兄は何でもない態度で他人事のように「死ぬと思わなかったし」と目をそらして微笑んで、確実に説教コース直行だと思います。わざと怒らせて喜ぶような、いい性格しています。弥生の苦言は「大体あなたという方は」から始まって延々と。言い含めることは山ほどあります。濃厚な抱擁の後ならもっと甘い言葉なり交わしていればいいのに、何だか結局そんな感じになって、艶っぽさの欠片もない長すぎる攻勢をにこにこ楽しそうに受け流す展開に転じていそうです。全然そんな感じになっちゃいないですが、「もうっ、ばかばか!寂しかったんだから」「あはは」的なあれです。で、唐突に「もう行かないと」と打ち切って、愛しそうな目で見つめてからそのまま兄は消えてそう。来るのも去るのもタイミングが読めません。不意をつかれ、弥生はまた「愛している」と伝えそびれます。余計な説教なんかに時間を割くからタイムオーバーです。秘密の逢瀬は、冬弥が目覚めてしまえばそれで即終了ですからね。儚い幻です。


事後、弥生が電池切れになってから冬弥が後処理をするまでの場面の切り替わりは一瞬で、少しの時間も経っていない感じがしますが、画面が切り替わるまさにその隙間に、相当な時間経過が挟まれていると考えます。現に一気に明け方に飛びますからね。テキスト上は「弥生が眠っている間に冬弥が片付けをして、そして弥生が起きた」というごく手短な流れですが、その間おそらく冬弥はずっと起きていた訳ではなく、また弥生の方もずっと寝ていた訳ではないと思います。いや、だったらいいなってだけです。願望に説明を添えたいがための妄想で、根拠は何一つありません。弥生に続いて冬弥が眠りに落ちた後、弥生はいったん目を覚まし、そこで一連の夢うつつのやりとりによって充電された後、故人との別れを経てから、冬弥の目覚めに先がけて弥生はもう一度目を閉じ、噓寝かどうかは判りませんがまどろみ状態へと移行したと推測します。弥生側でそんな刻々推移する経緯があったのだとしても、目覚めた冬弥にとっては弥生は依然ずっと閉眼状態で、冬弥睡眠時に覚醒していた弥生の身に起きた不思議など知りようがありません。深い関係に発展したからといって弥生は、手持ちの情報を手放しでさらけ出してくれる訳ではなく、彼女のすべてを知った気になってはいけません。別件でさかのぼりますが、最中、弥生からの性戯として眼球を舐める行為というのがあります。あまりにも異様すぎて、何を表しているのかよく判らないのですが、あえて深掘りするなら、「チェリーを転がすように」の語句そのまんま、弥生が童貞を転がした戦績(っても二人だけだけど)を意味しているのかもしれません。あくまで弥生優位で転がされており、状況進行の具合がどうなるかの調節はもっぱら彼女次第です。


冬弥と本番を迎えた後、弥生の様子には妙な達成感が見てとれます。一連の「契約」における行為の意義としては、はるかの記憶と心が損なわれるのを回避するというのが本来は一番の主目的であり、完遂後の弥生の微笑みは「これではるかさんは救われた」という安堵によるものなのかもしれませんが、事後、はるかに実際に会わないことには彼女の無事の確認は取れず、実質弥生にそんなことをしている暇は見当たらないため、それとは違う、何か別の理由で満足していると思われます。「契約」の遂行には、はるかへの決死の救済のほか、弥生自身にも個人的なうまみがあって、無私的な気持ちと利己的な気持ちの両方で臨んでいるとするなら、やはり予行を通し、故人の幻想に対して慰撫していることが鍵となります。この点からも、最終的に故人との直通のコンタクトが叶ったのではないかと推察され、それゆえ弥生はあんなにも心身満たされたようないい笑顔を浮かべるのだと力説したいと思います。それ以外に弥生を芯から満足させるに足る理由が見つかりません。今回はお互い心ゆくまで納得できる交わりだったんじゃないですか。週一レッスンの甲斐があります。


なお由綺の成功なんてのは業務上の成果で、私的には本当は取るに足らない些事なので、それは理由としてまったく当てはまりません。表層上の仮釈明のために打ち立てられた偽の動機であり、偽の大願成就です。音楽祭で、由綺の結果が二位に終わったことに、弥生が歯噛みして悔しがっただろうと冬弥が語ることがありますが、実際には「あの頃のはるか」の再現こそが弥生の悲願であり、由綺の順位や評価などはおまけでしかありません。兄の死により実現しなかったはるかの晴れ舞台を代行すること、あるいは兄を亡くしてもなお舞台から降りなかった夢のはるか像を構築することが重要であって、由綺本人がどう完成するかなんてのは、正直どうでもいいことなのです。自分の大切なものに対して以外にはきわめて非情で無関心という弥生の徹底した思考や価値観は表層と真相でまったくぶれずに何も変わらず、ただ、思い入れの対象だけが入れ替わり、由綺に寄せる熱意というものに大幅な訂正がなされます。そりゃまあ多少は情が湧いてそれなりに愛着へと育っている部分もあるかもしれませんが、本物との差は絶対に埋められません。


冬弥は「由綺にだけ向けられる弥生の笑顔が自分にも向けられた」みたいなことを言いますが、冬弥への笑顔は故人への笑顔、由綺への笑顔ははるかへの笑顔をそのままスライドさせたものです。そのため、由綺への笑顔は単に「本物」の外殻を持ち越したものに過ぎず、「本流」としての実質はありません。由綺もまたただの「写し」でしかないのです。河島兄妹それぞれへの笑顔は若干ニュアンスに違いがあるものの、両方が、心を開いた弥生の本心からの笑顔ということで共通します。それらが冬弥と由綺にそれぞれ繰り越されます。それぞれの原本同士が元々似通っているので、複写先においても似通った表情になるのは必然という訳です。けど、結果的に似たような形に至っても、原本自体は同一ではありません。つまり、厳密には源流が異なり、冬弥への笑顔というのは由綺への笑顔とは似て非なるものです。正確には、冬弥が見せ場でここぞと繰り出す渾身の見解は、そのもっともらしさに反し、まったくの不正解ということです。毎度のことながら。


少し時間軸を戻します。同性愛を打ち明ける弥生の言葉を受けた冬弥は、彼女の一部女性専攻型のあれこれを思い返し、「自分は、彼女が過去通り過ぎていった縁薄い遊びの女性たちの延長でしかなかったのかな」風なことを言います。「自分に与えられていた快感は女性向けのものだったのか」とも。けれども、軟弱な言動からどうもひょろついた貧相イメージのぬぐえない冬弥ですが、あれで割としっかりした男の体つきをしています。これを女体の延長でとらえるのはちょっと無理があるんじゃないかと思います。また展開の大部分では、弥生はもっぱら男性専有の器官を満たす男性向けの行為にいそしんでおり、その点からも、自分が彼女に女性の延長的存在として見なされていたとする冬弥の自説はまったくの的外れです。弥生は明らかに、男性を相手にした心づもりで行為に及んでいます。結論として、冬弥を見つめる弥生の視線の先に誰かいる、弥生の過去に存在したその誰かの延長が冬弥であるという一点でのみ、冬弥の見解は合っていたということです。


ただ弥生の実経験としては女性との方が圧倒的に場数が多いので、彼女が取得した知識やテクニックはその経験に基づき、女性の反応を参考にしたものとなっており、冬弥の敏感さを女性のようだと語ります。おそらく初回当日の弥生は、のっけから積極的に絡むのははしたないとする体面から、お高くとまっ…勿体つけてお行儀よくしていたんだと思います。だからその一度きりの男性経験から得たものは限りなく乏しく、彼女は男性の快楽に即した見識を持ちません。弥生が女性経験豊富なのは本当、男性経験が乏しいのも本当、そんな中、冬弥を通して男性経験こそを追体験しようとしているというのが本当。そして弥生の発言はいたって正直。ただ、言わないままのことがあるだけ。真実と真実が錯綜して、ある種の虚偽が発生し、相対する冬弥には間違った構造で弥生の実情は受け取られています。


ありし日に弥生の方で能動的に働きかける状況を仮に持てたとして、彼に女性向け寄りの一手で打って出たとしても、それはそれで彼もまた著しく反応したと思います。男とか女とかでなく、敏感なものは敏感なんです。はるかはといえば、ちょっといじられただけですぐ腰抜かすし、兄もお察しです。おそらくは、大部分はどこ触られてもだらーんと脱力でリラックスしてのびきっているのでしょうが、普通は触らせない所だけ局所的に、文字通り局所的にめちゃくちゃ刺激に弱いのだと思います。別の意味でのびちゃいます。降参です。「演技」って?いやそんなはずないでしょう、どう見ても。平常心を是とするはるかが、わざわざ無様を晒す演技など、する理由がありません。あの反応は真性の天然ものです。


意外に締まった冬弥の体格ですが、彼は普段からはるかに引きずり回され、基礎能力レベルで地味に鍛えられています。でも、巻きこまれ程度でそこまでがむしゃらでなく、意識的には特別頑張りはしません。自分に優しくできない人なので、ほっとくと無理を続けて倒れるんですけど、とはいえ身体的には虚弱ではなく、かといっていきがった肉体自慢でもなく、ちょうどいい、ほんとちょうどいい実用的な筋肉がついています。はるかもスポーツ少女の割にはギンギンに鍛えている訳ではなく、適度に自分を甘やかすので、すらっとしてもちもちぷにぷにな魅惑の健康的猫ボディを実現しています。必要最低限に十分な、無駄のない丸みです。もっとも無駄がなさすぎて物足りないきらいもありますが。でもまあ、冬弥当人が基本「俺そんなにはいらない」って人で、主張のうるさくない程度が好きなので、あのなめらか体型が至高のようです。好みは人それぞれであっていいと思います。え…冬弥って小児性愛の人?という変態疑惑が生じますが、はるかはあれで成体ですからね。背丈もあるし骨格もしっかりしているし、ちゃんと大人の身体です。ただちょっと、凹凸があるのかないのかなだけです。ねこちちかわいい。


冬弥の特徴である「普通」とは実はかなりすごいことで、必要なものは全部揃っている、欠点という欠点は見当たらないということです。それは体つきに限らず、あらゆる方面において。標準グレードってどこがすごいって訳じゃないけど、厳選された必要最低限を全部クリアしているという高品質の証でもあります。向き合って圧倒されないくらいの、ほどよい手頃なちょうどいいお値打ち品です。プレイヤーが想定するよりずっとハイスペックなのではと思います。ただ冬弥の場合、身近にあった手本がそもそも振りきれた代物なんです。最高グレードを満たす怪物級の横に置かれたらそりゃ見劣りしても仕方ないでしょう。冬弥がコンプレックスの塊になってしまうのも当然です。比べようとなんてしないことです。


弥生が彼氏(仮)について話す態度はとことん無情で、彼女に愛情を寄せる以外に取り立てて特筆すべきことはない、みたいな言い方になっており、プレイヤー感覚ではくだらない男だったかのような印象でとらえがちです。でも実際は全然そんなレベルじゃなかったんですよ。はるか時点でゆうにすごいので、はるかの親玉ともなるともっとすごいと思います。弥生さん何しらじら言ってんの、彼がどれだけの人物かちゃんと判ってる?ってほどだと推定されます。ところが彼の異常な最上級スペックを前にしても、弥生自体もまた同様のスペックを全域で備えているため、彼女に限りそれが特に特別なものにはなりません。弥生にとっては「普通」になってしまうのです。ろくにありがたみを感じず「それが何か?」だと思います。絶対言います。自分に釣り合う格をと高慢に構えているのでもなく、弥生たちの場合、どう考えても人格の欠陥同士がうまい具合に噛み合って意気投合したとしか思えません。心が通いさえすれば、その、互いに一番難しい条件をクリアするなら、世間的な格付けなんてどうでもいいのです。


エピローグにおいては、冬弥は兄をその身に降ろした影響でか、兄の視覚と意識をトレースしてしまって、弥生のかすかすぎる感情起伏を見分けられるようになります。弥生の気持ちを解する境地というのは「由綺のように」では全然ありません、「兄のように」で確定です。由綺は別にそんな、相手をまるごと受容するほどに弥生に入れこんではいないし、またそんな許容量自体がありません。そんな無理すぎる条件を満たすのは兄くらいです。そして兄の残留思念により、弥生好きが伝染して、冬弥まで弥生が何だか妙に可愛く優しく思えてきます。もっとも、内面いっぱいに少女性と母性を隠し持った弥生が、その女性としての総合力にもかかわらず仏頂面で全部ふいにしているのは本当のことなので、気の迷いとかではなく、れっきとした真実が見えているということです。だとしても兄による加算が何気に人の思考にさりげなく浸透してきて、すっごく迷惑。これも一種の後遺症だと思います。目と脳に兄所有のビジョンが焼きついて消せなくなってしまっています。他にも、冬弥に兄が伝染った兆候はちらほらあります。「とぼけた風に話しかけて隣に座る」なんて、パターン行動そのまんまで、弥生にとって相当クリティカルなチャーム効果があります。素知らぬ顔ですましている弥生ですが、内心その態度が気になってそわそわしていると思います。


冬弥そのものが、元々顔色を読むのに長け、そして元々何かと話しかけに寄ってくるタイプではありますが、その特質がより一層、兄寄りの色味をもって増幅されます。判別しにくい弥生の感情すらも読み取り、弥生だからこそ的を絞って近寄ってくるという風に。また冬弥自体が元々、まったくの無関係な人よりかは、幼少期から兄に影響されて育ったこともあり、何かと兄をなぞった部分が多いのでしょう。どことなく兄と似た雰囲気を持つ冬弥が、兄と似た仕草で、兄のように何とも言えない態度で気恥ずかしそうに話しかけてくれるから、弥生も抑えきれない想いを持て余してどうしようもありません。失くしたものの後継になりうるものが、すぐ目の前にいるのです。けれど、真実を打ち明け、心の内をあらわにするなど、絶対にしてはならないことです。何よりはるかに申し開きできないし、またそれは素性を明かすことにも繋がり、であるなら、はるかと冬弥のため、身内(になる予定だった存在)を救う気持ちで行ってきたこれまでの根回しが意味をなさなくなってしまいます。見えない所で実行してこその根回しですから。また身内のつもりでいたのならなおのことはばかられるはずの趣向であり、間違っても本当の立ち位置を暴露してはなりません。そのため弥生はただ沈黙するしかできません。


冬弥が認識している秘密と、弥生が実際に抱えている秘密というのは全然別物で、それはそのままシナリオで描かれる表層と真相に相当します。弥生は、生者同士として、交流するのに何の支障もない冬弥と由綺を羨みます。弥生の愛しい恋人は、もはや形を持たず、彼女の傍らに姿を現してはくれません。あの夏以来ずっと寂しい独り身です。ただ、今回の一件で冬弥を通し、弥生は倒錯的にも再び亡き彼と触れあっているかのような夢の時間を過ごす機会を得ました。それは、対面する冬弥を見つめる上での間接的な面影重ねであったり、また冬弥を足掛かりとした故人との直接の心霊交渉であったり。徐々に亡き彼に近づき似てきてしまった冬弥を前に、弥生はどうにも離れがたい感傷にかられます。生涯癒えることのない傷を一時的に、わずかでも埋めてくれた冬弥に幾ばくかの愛着を抱きつつ、弥生はただ黙って彼を抱きしめます。そして語るべき多くの大事なことを何一つ語らないまま、何事もない静かで無常な幕引きに臨むのです。


弥生は何かとエロ要員のような扱いで見られがちですが、彼女の本分は、恥を知らない痴女としての無秩序で無軌道な中身のないエロさではなく、あくまでお堅く自制的で、それでも身を持て余し熱を求めてやまない二律背反な未亡人属性のエロさです。正確には未亡人じゃないですけど。未婚の身で既に良人に先立たれ、義理の義理の弟に手を出してしまういけない義姉です。「だめです、やめて下さい義姉さん!」なシチュエーションと思うと、たぎりますなあ。書いた人、マニア向けに傾きすぎでしょ。頭わいてるんじゃないの?ありったけの敬意をこめて賞賛します。一足飛び、変則的な形で結果的に兄と冬弥は名実ともに兄弟ということで収束し、間柄を取り持ってくれた弥生にはもう言葉もありません。兄弟ってそういう?何はともあれ複合的な意味を含んでカテゴライズされます。はるかに言いつけてやりたい。無言で怪訝な顔をして、そのまま回れ右して立ち去りそうです。