由綺3


冬弥曰く、彼の部屋には通常、由綺との写真が飾ってあるらしいです。ところがマナ編にて、冬弥の留守中にマナがガサ入れしている痕跡がありますが、マナは由綺との写真に一切言及しません。冬弥が写真を隠した所で、マナは冬弥の弱みを握って騒ぎたいのだから徹底的に探しまくると思います。現に部屋中ひっくり返したのか、掃除機をかけています。写真が見つからないはずがないんです。でも何も言わない。ひょっとしたら、それは由綺との写真でない可能性があります。つまり、冬弥はかつてのはるかとの写真を、由綺との写真と思いこんで飾っているのではないでしょうか。はるかとの写真だとしたら、彼女は童顔だし、冬弥といつもペアルックで雰囲気が似ていますから、マナは「妹さん?親戚の子?つまんないの」くらいにしか思わないと思います。そしてマナ自身が家庭環境についてとやかく言われたくないので、相手にも深入りすることはありません。冬弥の引っ越し時点で由綺はデビューしているので、それ以降は肖像権?か何かで、おそらく由綺との写真はうかつに撮れないと思われます。そして身辺を最低限に保つことを好む冬弥が実家から厳選して持ってきていたお気に入りの由綺の写真は、結局はるかの写真ただ一つだったということです。多分、物語上の最重要隠しアイテムとして、はるか編ではるかが定期に入れているであろうもう一つの写真と対をなす完全同一のものだと思います。なおマナが掘り出そうと躍起になっている?不潔でイヤラシイ本とかは見つからないと思います。冬弥ってほら、全部頭の中で想像して進行するタイプだから、そういう直接的なお供は必要ないんです。まずそういう業界は、冬弥が好むスレンダーなはるか体型はあまり主力でないので、初めから期待しておらず手に取らないのだと思います。ほんと身綺麗というか、つまんないやつです。ベストショットのはるかの写真一枚あれば十分に事足りるのです。また弥生編で、弥生がこの写真立てを伏せたと思われる場面があります。写っているのが冬弥とかつてのはるかだとしたら、弥生は、はるかへの罪悪感のほか、その写真が持つ危険性を危惧して伏せたものと思われます。冬弥単体で写真の事実に気付いて混乱する可能性に加え、冬弥の部屋には由綺も出入りすることがあるので、写真に気付いた由綺が訊ねた際にも冬弥は混乱する可能性がありますからね。あるいは弥生が冬弥を心配しているとする説とは逆に、あえて写真立てを伏せることで注意を促し、冬弥に事実と直面させることを意図している可能性もあります。冬弥の負担お構いなしで、スパルタではるかとの過去を取り戻させようという無理強い。どちらなのかは判りません。なお弥生が写真にずっと見入っていたのは、別に由綺さんのプライベート写真に心躍らせているからではなく、冬弥の認識異常の決定的な証拠を目の当たりにしたからです。はるかの写真なのに、冬弥が由綺前提の返答をしてくることにより、ほぼ確信したと思います。仮に弥生が写真の焼き増しを要求するとしたら、それは由綺の写真がほしいのではなくはるかの写真がほしいのです。また、由綺は何度か冬弥の部屋に訪れているのでしょうけど、彼女は自分と冬弥の写真だったら「冬弥君、この写真飾ってくれてるんだ」と言及するでしょうが、冬弥を含め、自分以外が写っている写真には特に興味がないので、すぐそこに冬弥と別の女性が写った写真があったとしても気付かないと思います。由綺が実は冬弥本人を見ておらず、自分可愛さで恋に恋しているだけなんじゃないかというのは、検証中、何度も頭をよぎってはその都度「まさか」と振り払ってきた疑惑ですが、由綺が件の写真に言及しないその事実がすべてだと思います。パネルやシナリオでのやりとり等、由綺のために用意されたエピソードの数々を熟考するに、折に触れて匂わす要素が出てくるということは、どうもそれが由綺の真相のような気がします。はるかも時たま冬弥を傷つける冗談を言うことがあるので、由綺が冬弥を見下す内容の発言をしても、冬弥はさして気にせずスルーして、由綺の本質をいぶかしむことはありません。由綺とは接触の機会自体が少ないため、気に留めるほど問題発言が目立つという訳ではありませんが、由綺が定期的に、不穏で違和感のある発言を確かにしているのは、脚本的な表現のミスではなく、彼女の実質を知る手がかりとして意図的に組みこまれているのでしょう。冬弥は徹底的にはるかが好きなのに、由綺が一途に冬弥を想っていたら、由綺に救いがありません。由綺が大して冬弥に思い入れがないのは、二人のバランスが取れていると思います。EDで「私は今でもあなたを愛しています」って言っているのは、あれははるかですからね。冬弥と別れた由綺が、変わらず彼を好きでいる義理はありません。浮気野郎に「汚れなく奇麗」「私もなりたい」なんて褒める道理はないのです。とはいえ由綺の愛が薄いからといって冬弥が浮気していい理由にはならず、それはまた別問題です。写真の話に戻りますが、美咲は冬弥の事情を知っているので気付いても黙っていると思われます。実際、冬弥の部屋を見回す描写もあるので、普通に認識していると思います。この写真の真実を特定するための頼みの綱は、事情を知らず、かつ眼識に狂いのない指摘屋の理奈なのですが、彼女は冬弥の部屋に入ることはなく、玄関先で用事を終えてしまいます。結局、真実は闇の中です。うまくできていますね。


由綺は一途に、健気に、自分のこと以上に冬弥を想ってくれているように受け取られていますが、それは語り手の冬弥が由綺はそういう人物だと言っているだけで、実際に由綺が冬弥を気遣っているかというと、そんな場面はほとんど描かれていません。確かに由綺は口では冬弥を気にかけるようなことを言いますが、冬弥を気にするのは、自分の気が彼に向いた時だけに限定されるようで、それ以外は眼中になく意識の外でほったらかしです。目先のことしか考えられません。現状での多忙がどうとかいう問題ではなく、それが元来の由綺の思考パターンのようです。彼女は常に自分のしたいこと最優先で、それこそ恋愛モードになれば冬弥のことをひたすら想ってくれますが、基本、冬弥本人の都合はお構いなしです。それが悪いとは言いませんが、冬弥の語る由綺像に惑わされて、本当の由綺の姿を見誤ってはいないでしょうか。マナ編で、いとこの恋を自分のことのように喜ぶ由綺に冬弥は好感を持ちますが、それだって「いとこの恋」を喜んでいるのではなく、そのエピソードを「自分に置き換えて」喜んでいるのだと思います。由綺が冬弥の体調を気にするのも、冬弥本人が心配だからではなく、由綺が必要とした時に冬弥が使い物にならないと困るからかもしれません。また、連れの弥生が席に着くまで食事をするのを見合わせるのも、弥生を思いやって待っているのではなく「自分が」一人空しく食事をするのは嫌だからです。それは理奈を連れションに誘うことからも判ることで、ただ由綺は「一人」が嫌なんです。イブの外れ展開でも、冬弥がプレゼントを持ってこられなかったことに気を遣って、自分も用意していないと話を合わせてくれたのか、プレゼントも用意してこない冬弥君にくれてやるプレゼントはないと渡すのを取りやめたのか定かではありません。何だか由綺を悪く言っているようで心苦しいですが、個人的には、そんな徹底的に自分本位な由綺に魅力を感じます。冬弥に依存していそうに見えて、由綺は自分自身の中にある冬弥像を支えにしており、いわば自分の信念を頼りにしています。由綺は弱々しい外見に似合わず、とても自立した女性なのです。


皆さん、由綺の言う「冬弥君」が冬弥本人とかけ離れて、かなり美化されていると感じたことはありませんか?冬弥本人のことは大して気にかけていないけれど、彼女の頭の中にいる、少女漫画の相手役的な、素敵で魅力的な「冬弥君」は熱烈に愛しているので、その温度は偽りないものとなっています。どういったものが好みかは、完全に由綺独自の個人的な感性に左右されるので、肉まんが好きとか、ババシャツめいたセーターを好んで着るとかいう一見庶民的な一面にも繋がりますが、それは質実で飾らない性格というよりは、ゴーイングマイウェイゆえです。ものの価値はすべて由綺の一存によって決まるのです。同様に、マナ編でマナを優先するも冬弥を優先するも、すべては由綺のその時の気分次第です。別に相手を慮っている訳ではなく、ただ純粋に現行の由綺がそうしたいか否かです。マナが、由綺の場当たり的で自分しか頭にない性格を把握しているかは判りませんが、マナにとっては、常にありのままで自分と向き合ってくれる由綺が好きなのであって、実際に彼女に思いやりがあるかどうかはさして重要ではありません。


実質ありはしないのに、確かに由綺にはしっかりと思いやりが備わっていると自信を持って確信してしまうのは、冬弥の偏向語りを真に受けた結果です。彼は由綺の人柄をはるか投影込みで語るため、そこには由綺本人の実像とは違ったものが含まれることもあります。由綺に感じる思いやり要素はまさにそれで、本当ははるか固有の所有なんです。はるかには実際の真設定で、理不尽に晒されてもなおゆるがない慈悲と見守りという確実な裏付けがあります。はるかの思いやりは真実です。それゆえ実質確かな彼女と日々接している冬弥は、たとえその認知が裏事情に届かなくても、知らないうちにその大前提を確信できてしまうのです。そしてその根拠ある確信の対象がすげ替わることで、由綺に無根拠な確信を抱くことになります。当の由綺は別に冬弥への思いやりなどないのにです。彼女にとって冬弥など、いてもいなくても関係ない、特に思いやる必要のない軽い存在です。WAという作品は、由綺の見えない自分本位と、はるかの見えない自己犠牲の対比により成立している物語です。頼りなげな由綺は、冬弥がいなくても全然問題なく、どうでもよさげなはるかは、その実、常に冬弥を気にかけています。二人の姿勢に優劣はありません。価値観の違いです。


間接的な示唆について。マナの母による学校への嫌がらせ「娘を出席日数ぎりぎりにしか登校させない」というのは、はっきり言って無駄で、何の意味があるのか理解に苦しみますが、観月母もまた、姪である由綺同様、彼女なりの独自の感性で動いており、周りへの対処は完全に気分次第で、そこに正当な理屈はありません。自分自身が指標です。そうしたいからそうするだけです。観月母の人物像の意図としては、将来、由綺が子供をもうけたとして、彼女もまた自分のことだけを最優先にして子供を放置し、かといって、対面する時は存分に干渉するので自分としては十二分な愛情を注いでいると自負している、といった困った母親になることが匂わされています。現況でも既にその片鱗を見ることができるのではないでしょうか。その場合、父親と想定される冬弥が正常ならまだましですが、由綺ED以降では冬弥は自我を失い、由綺の意のままの「冬弥君」と成り下がり、彼もまた由綺だけを最優先にします。子供にとって辛い環境になるのは間違いないでしょう。その子がマナ同様、親を反面教師として寂しくもまともに育つのを願うばかりです。WAの本筋に特に関わりなさそうな観月母の問題ある人物像ですが、なかなかどうして物語上で重要不可欠な意味があり、主要人物である由綺の本質を暴くためのもので、冬弥と由綺が運よく結ばれたとしてもどのみち不穏な将来が暗示されているのです。


観月母は、自分は通常、娘に無関心でありながら、成長した娘が母である自分以外に興味を持つこと、また自分の意向に逆らった交流を持つことを許さず、娘の行動を制限し、家に閉じこめています。しかしそこはそれ、基本無関心で、自分の意識の及ばない所でマナが何をしていようが気に留めないので、マナは賢く自由行動して羽を伸ばしています。ただし通学すると、出席日数という確かな事実で母に自分の親離れ行動を知られてしまい、後で母が追加でどういう罰則を与えてくるか判らないので、控えなくてはなりません。対する由綺は、観月母のように冬弥を束縛することはありませんが、それは彼を信じているからではなく、彼に愛される自分を信じているからです。そして由綺が信じる脳内の冬弥君を信じています。冬弥君はそんなことしないもんね。冬弥が何をしようが基本無関心で、たまに思い浮かべる彼は、由綺を一番に想ってくれる理想の彼で、わざわざ束縛するまでもないのです。由綺が束縛の必要性を感じるとすれば、それはもう完全に冬弥の心離れが黒で、彼を監禁でもしないと安心できない場合に限られますが、それもまた、絶対の自己愛と冬弥への無関心により条件が成立することはほぼありません。由綺は浮気されても冬弥の自分への愛情を確信しているし(私の「他に」好きな人いるの?)、浮気された時点で、冬弥への失望から彼が理想の恋人であることに執着しなくなるからです。表面上では穏便な形になりますが、相手個人の思考を無いものとしている点で、つまりは観月母より段階は上なんです。


由綺と観月母の類似性についての補足ですが、結果には必ず原因があり、二人には共通の何かがあるはずです。おそらく由綺の母、つまり観月母の姉?が「蝶よ花よ」と身内をとことん甘やかして可愛がり自由にさせる性格で、それが結果的に娘/妹の純粋培養で傍若無人な性格に繋がっているのだと思います。作中のマナのわがままぶりから、観月母もまたマナそのもののような性格で、二人が似た者母子であるかのような想像に陥りがちですが、多分それはひっかけだと思います。マナのわがまま表現と観月母のわがまま遍歴では根本的な系統が違います。マナは冬弥の前ではそりゃもうきっついですけど、友人たちの前では気を遣いすぎなくらい恐縮しています。ある意味、相手と様子を見て言動しています。人と場合を選んでいるのです。対して観月母については、誰に対しても自分のやり方を貫き通し、相手によって器用に態度を変えることはできなさそうな言及がされています。他人への要求が強く、自分が迷惑をかけている自覚もなく、自分に問題があるとも思っていません。考えなしで、あるがままです。マナは状況を客観的に見ることができているし、自他の線引きもできています。マナのわがままは、ポーズであったり、安心の表れであったり、蓄積したフラストレーションゆえの暴発であったりと場合によって様々ですが、それらはむき出しの感情ではなく、様子見というワンクッションあっての言動で、厳密にはわがままと呼ぶのは妥当ではないのかもしれません。マナはわがままな母とはまったく似ていないのです。問題ある母を持ち苦悩して育ったマナは逆に思考が正常寄りで、慎重かつシニカルです。観月母の間接的描写は、マナではなく、由綺の言動をなぞるためにあります。由綺は一見温厚そうなので、衝突の多いらしい観月母とは趣を異にしている気もしますが、由綺もまた頑固で自分を曲げない所があります。先入観を取り払ったニュートラルな状態で由綺の言動をそのまま振り返った時、彼女の振る舞いは、マナによって語られる観月母のそれと驚くほど一致することに気付かされます。キャラ紹介でわがままと記載されているマナが実は気遣い屋で、作中でわがままになることをあえて決意するといった発言をする由綺が実は元より直球の利己主義者だったというのは、仕組みとしてとても面白いと思います。


今でこそ変わった名前はありふれていますが、少なくともWAが描かれた当時はまだまだ名付けに保守的だったはずで、フィクションというくくりを考慮に入れても「由綺」というのは変わった名前です。由綺が本当に堅実で慎ましい人物であるなら、奇をてらうことなく普通に、当時一般的であった「由紀」とするのがふさわしいはずなのに、あえて「由綺」と名付けられているのは、「己のあるべき所が奇なり」という、彼女の自意識の特殊性を判然と表しているのだと思います。名付けた親からして個性と自己主張を偏重する思想と教育方針であり、したいようにさせるまま、それがそのまま由綺の人物形成に繋がっているようです。


通常、気を遣いな由綺が「それでもあえて」冬弥のためにと率先して便宜を図ったり、仕事場から「心配のあまり無理して」冬弥に連絡を入れたりしているかのように受け止められがちですが、それは冬弥がそう善意に解釈しているだけの話で、何のことはない、元から由綺は気を遣いではなく、冬弥のためでもなく、ごく奔放に自分のしたいことをしたいようにしているだけです。一応冬弥と一緒にいたり、コンタクトを取ったりするのは彼女にとっての望みなので、それが叶うように積極的に行動します。私情を持ちこみ、自分の要求を通すことで生じる周囲のざわつきや困惑など感じもしません。気を遣うどころか何も気にしません。心臓に毛が生えた、鋼のメンタルの持ち主です。由綺は要望をいつでも遠慮がちに切り出すので、なるほど気を遣いに見えますが、別に何も遠慮していません。そう見えるだけです。上目遣いにおずおずと頼みこんで、いつでも図々しく要求を押しつけ結局は勝手を通します。かけた電話を切り上げる際にも、甘えた素振りで無意味にしつこく終わりを引き延ばすことの多い由綺ですが、別にそれは少しでも冬弥との会話を大事に確保したいという努力ではなく、自分だけ別れの挨拶をして冬弥の方の挨拶を待たずに一方的にガチャ切りする場合もあることから、まあ、常に自分の都合一本で動いていることが判るってもんです。


由綺を買いかぶっている冬弥のお熱な語りはいっそ無視して、由綺の発言を「そのまま直接」受け取って下さい。彼女は受け取られ方も何も気にすることなく自分の気持ちをそのままぐいぐい押し出していると判ります。そして何の手入れ・手直しもないだけに時折、発言の切り口に何だか毛羽立ってざらついた感覚を覚えることもあるはずです。どこがおかしいのかはっきりはしないけれど、ニュアンスが根本的に変な場合が少なくありません。言い方?言い回し?なのかな?どこかしら違和感があり、単なる天然の一言ではちょっと済ませられません。たとえば「冬弥君は『私と会えないのに』弱音を吐いたりしない」と、自分と会えることがさもありがたいことのように言います。本当に微妙な口上で、晒し上げるには及ばないちっちゃな引っかかりかもしれませんが、あえて指摘することにします。別に恋人との語らいでのろけて軽く自賛するくらいなら大した見苦しさには当たりませんが、にしても由綺はたびたび、それを自分で言うかな?ってことを平気で言ってのけます。他にも、本当に控えめな人間なら普通は言いそうにない独特な言い方で、いつものようにしおらしく目配せしながら健気っぽく言ってきます。可愛い可愛い由綺の健気アピールですが、よく考えると、本当に健気な人は自分の健気さをいちいち主張したりしませんよね。要するに、広く広められている由綺の性格と彼女の本質は、打ち出される内容こそ同じでも、前提がまるで違う訳です。健気を自分で標榜する人をそのまま健気と思っちゃいけない、健気でなどあるはずがないってことです。冬弥はもう完全に由綺の表情と健気所作にたぶらかされちゃってるので、由綺が見せる仕草のまま、実際の発言をよく噛み砕きもせずに、彼女を健気だと信じこんでいますが、まあ煩悩に惑ったみっともない話です。冬弥と由綺の恋愛は、浮気云々以前に、いわゆる純愛路線時点で既にもう、こっぴどい風刺が効いています。恋をすると、馬鹿になって目の前の大事な真実が見えないっていう。冬弥はあまつさえ「由綺は『無理して』はしゃいでる」とか「『無理して』自分をか弱く見せる」とか、誤った由綺イメージをさらに健気方向に引っ張るような真似をしますが、何言ってるんですか由綺は無理なんかしてないですよ、いつでもやりたい放題のわがまま三昧です。「あばたもえくぼ」で、欠点すらまるごと素晴らしく思えて仕方ないのかもしれませんが、都合のいい解釈に明け暮れるのも大概にしてほしいです。


由綺は、何かと冬弥の顔色を窺い「疲れてる?」「疲れてない?」と盛んに訊いてきます。由綺こそハードな日々の繰り返しで疲れているのに、その上で相手の疲れを気遣えるなんて、と感涙にむせびたい所ですが、そこには面白いトラップが仕掛けてあって、由綺の思考回路は常人の考え及ぶものとは一味違います。由綺は「自分が疲れている」から、周りも「自分と同じ」ように疲れているものとして受け取ります。由綺は、自分以外のものさしは使いません。由綺が誰かの疲れを指摘するということは、それだけ由綺本人が疲れているということです。つまり、由綺が疲れれば疲れるほど、由綺が周りの疲れを指摘することが増えます。それが傍目には、自分の辛さをおして相手ばかりを心配するいじらしい振る舞いに見え、その程度が重くなるほど評価は加算されます。けれど本当は「自分が疲れていても相手の疲れに『気付き、思いやれる』」のではなく「自分が疲れていたら相手も同じく疲れていると『決めつけ、自分に寄せる』」のであって、その実態はきわめて自己中心的です。考え方が普通とは根本的に異なり、それが由綺という人の絶対的な特質です。由綺はただ、暗に「私『も』疲れてるんだ(でも頑張ってるよ)」と言っているのであって、相手を見てその疲労を感知しているのではなく、また「そっち『も』疲れてるよね?(こんなに気にしてあげてるよ)」とただ指摘しているだけで、相手をいたわるつもりもありません。自分の感覚が相手にも共有されたと確認し、一方的に満足するだけです。また由綺側から率先して「疲れてない?」と何かにつけ振ることで、当然の切り返しとして期待される「由綺こそ疲れてない?」という、由綺のほしい言葉をほしいだけ、それこそ存分に引き出せます。言わせたがりな由綺は、望む言葉を言わせるためなら、必要な前振りとして、心にもなく相手を立ててみせることも厭いません。由綺はただ、疲れていても全力な自分、またそれでも平気と言ってみせる自分の頑張りを褒めて気遣ってほしいのです。現に由綺は、疲れたのが見え見えで、誰の目にもやせ我慢と知れる形で「疲れてない」と言います。いったん判りやすく疲れた様子を見せつけて、一転それでも頑張っているのをアピールし、相手の関心を誘います。他人の疲れへの指摘はその導入のための必要過程です。そんな経緯で、頻繁に相手の疲れを指摘しては気にするような態度を見せる由綺ですが、面白いことに、冬弥が疲れていて由綺が元気な時は、由綺は冬弥の疲労にまったく目を向けません。自分が元気だから、まさか相手が疲れているなんて考えもしません。自分が疲れてもいないのに、相手が疲れているなんてことは、由綺の中ではありえない話なのです。由綺が指標としているのは、まさに自分の感覚ただ一本で、相手のことなんかこれっぽっちも見ていないという証拠です。


由綺が自分を意識しておらず、まるで相手を中心にものを考えているような言動を見せることもたまにありますが、それは由綺の「視野」が中心となっているためです。目先のことだけが由綺の認識範囲です。由綺の見ている世界がすべてであり、鏡でも見ない限り由綺自身の姿は自分の目に入らないので、注目対象から外れます。それが一見、自分より他人に注意を払っているように見え、冬弥もそう解釈しますが、由綺の言動には必ずどこか引っかかりがあり、違和感が残ります。視点こそ他人に置かれていても、由綺の思考は基本自分中心なので、発言がちぐはぐになります。由綺の天然は純度100%の天然もので、興味深く不可思議な構造で成り立っているのです。


冬弥に常々自意識過小であるかのように評される由綺ですが、冬弥は別の人と遊んだ話をしているのに最後の締めで「私のこと気にしてた?」と窺ったり、別の約束が入ったことをごまかす嘘としてTV局から呼び出しを受けたと言う冬弥に「まさか私のことじゃ?」と不安がったり、当たり前のように、何でもかんでも話題を自分中心にすげ替えます。由綺に関係ない話でも全部自分の話に持ちこんでしまいます。「由綺は他人を軸にものを考えがち」という、よくある冬弥の説明に反し、実際の由綺は「他人の軸すら強引に自分の軸へと引き寄せてしまう」といった言動の方がずっと多く、もっぱら自意識過剰なんです。自分のことばっかりで、話と事実が完全に逆です。ところが、直近に解説した偽性の他人軸発言については、冬弥はきまって目ざとく気付いて、誤解したまま由綺の好印象に繋げるものの、真性の自分軸発言については、冬弥はちょうど同時展開している別件での自分のやましさに気を取られ、言葉の上でも明らかで覆しようのない由綺の自己中思考にまったく気付かず、何の指摘も入れません。はっきりくっきり間違いなく言い放たれているにもかかわらずですよ。冬弥という人は基本やたら心のつっこみが多く、ことあるごとに何かと細かく指摘するので、注目点を知るためのある程度の指標にはなりますが、その冬弥が何も言わないという落とし穴により、肝心なことが注目点として扱われず、意識から除外されてしまいます。語り手で当事者の冬弥が何の反応もせず、由綺の言動を振り返りもしないので、彼の思考をそのまま目で追っている読み手も、自然、由綺の妄言を素通りで見逃しがちです。ですがこの無反応は「冬弥は重大なことに気付けていない」という有意なひっかけであり、そして由綺の台詞自体は何もぼかされることなく、ストレートかつダイレクトに記されていることから、読み手目線では着実な把握を求められている当たり前の情報で、基礎中の基礎として置かれているといえます。「冬弥は気付かないけど皆さんは気付いて下さいねー、由綺、こんなこと言ってますよー」と、決定的証拠がちらつかされている状態です。


由綺は素直…っていうかおつむが足りないので、褒められた内容をそのまま真に受け、信じこみます。「自分ではそう思っていない」かのような一応の噛ませはあるものの、確実に「冬弥君が言うなら、私ってそうなんだ」と確信している節があります。冬弥がいつも「由綺はわがままを言わない」風なことを言って持ち上げるから、由綺当人にも「自分は全然わがままじゃない」と刷りこまれ、彼女はそれを当たり前の前提にしてものを言います。由綺は恥を知りません。冷静にとらえると、首を傾げずにはいられない発言の何と多いことか。見かけ上では自分の長所に無自覚であるかのような言い回しになることが多いけれど、明らかに由綺は、相手が褒めてくる内容を、まごうことない当然の事実として自分の常識に据え置いています。その長所が実際に由綺に備わっているものならまだしも、多くはまったく実質がないのに、意味なく賛辞に確信を持ち、本気にしています。だって目の前の相手が確かにそう断言しているんだから、由綺はもう、それを信じるほかありません。本当はそんなにでもないのに、必要以上に絶賛されてその気になってしまっている由綺はまるで哀れな一発屋です。全部、勘違いさせる冬弥が悪いんです。


冬弥のやみくもな由綺賛美というのは、作品内容を把握する上で本当に邪魔でしかない害悪なんですけど、過剰に褒めそやすのも仕方ないといえるだけの妥当な理由があります。冬弥が、由綺をはるかだと思いこんでいることが一番の原因です。由綺について語っているのに、由綺本人ではなくはるかについての説明があてがわれてしまっているから、事実に反して話が盛られてしまうのです。はるかの思考というのはほぼ世捨て人レベルで、自身への執着のなさは真性です。そう、こっちの自意識過小は、由綺のと違って本物です。冬弥の説明が本当は、はるかに確かに備わっている特性を指したものだとしたら、それは何も間違っておらず正確な正解なのです。冬弥は、はるかの性質を知り尽くしているという下地ありきで、その流れのままダミーの由綺の性質を語るため、別の対象について自信満々に間違った説明をしていることになります。はるか本人という、実質を裏付ける実例が実在する以上、語られる内容そのものの信憑性だけは潤沢にあります。確信事項自体は真実だけど、冬弥は対象誤認の上で確信事項を確信しているから始末に負えません。しかも、読み手に真実味をこめて言いふらすので、それは正式な真実と認識され、冬弥の誤認は伝染します。無自覚な偏向解説は、すさまじい影響力で正常な情報収集を妨げます。冬弥が無条件に確信していることの多くは、大抵確証のないことで、そして大概が不正解なので「また言ってるよ」くらいな気持ちで考慮に入れない方がいいと思います。


先に一通り述べた、冬弥の部屋にある写真についてですが、由綺パネルに、それを掘り下げた内容のものがあります。冬弥の証言によると「由綺と撮った二人の写真、その数少ないうちの一つが、ベッド脇の写真立てに入れてある」らしいです。その前提のもと「あんまり二人で写真を撮ったことないね」と切り出す冬弥に、由綺は「いっぱいある」と答えます。ですが、これまでに撮った写真の例として真っ先に「修学旅行での団体写真」を挙げ、二人の日常の一コマを指した具体例が一つも出てこないあたり、プライベートで二人で撮った写真は「あんまりない」どころか「皆無」なのだと思います、本当は。そんな事柄が本当にあったのなら、由綺は絶対に持ち出してきて話に花を咲かせるはずですからね。それが一切出てこないというのはやはり、そんな写真はこの世に存在しないということだと思います。そしてそれとは別経路での推測で、冬弥の言及する由綺との写真というのは、本当ははるかとの写真かもしれないとの疑いが生じるというのが自説なのですが、それが「はるかである」という確証は得られずとも、少なくとも「由綺ではない」という可能性を完全には否定できない段階まで持ちこむことは可能です。この謎については、構造としてうまくできたもので、写真立てに入れた現物の話は冬弥の「独白」なので、本当にそれが由綺を写したものなのか、由綺を写した写真というのが本当に存在するのか、由綺本人による事実確認は取れません。ですがまあ、実際に口に出して話を振っていたなら、おそらく「えっ、私そんな写真撮ったことないよ」と話がひっくり返ったに違いないです。流れとして「未確認のままになっている」ことが重要で、その状態保持に意味があるのなら、けっして確認に至ってはならないということです。物語上、実際に確認されては都合が悪いから、そのままになっていると考えるべきでしょう。


冬弥手持ちの一枚が本当は何なのかはさておき、由綺との写真を十分に持っていないのは事実なので、冬弥は「いつか二人で写真を撮りたい」と由綺に申し出て、由綺もそれに同意します。そして、以後写されるであろう二人の写真について由綺が「他のどんな絵よりも、すごく綺麗な画面になる」と予想していることから、それにはかなりの値打ちが生じると自負していることが判ります。「絵よりも絵になる、私可愛い」ってはっきり言っちゃってるんです。つまり由綺は、二人の写真を撮りたい冬弥の心理を「そんなに『私の貴重な生写真が欲しい』んだ」あるいは「そんなに『この私と写真に写りたい』んだ」と解釈しており、「判った、じゃあ今度一緒に『写ってあげる』ね」といった気持ちで快諾しているという訳です。ザ・芸能人で、かろうじて気さく系です。冬弥の方は「何気ないありふれた日常を大事に記録に収めたい」というスタンスで普段の写真を撮りたいと望んでおり「その気持ちを由綺も判ってくれた」と信じているけれど、「冬弥君の言ってる意味判ると思う」と理解を示した由綺の考えはしかしながら、まったく見当違いの方向を向いているということです。由綺は冬弥が、自分(由綺)の写真をありがたがって欲しがっているとしか思っていません。冬弥は、自分の慎ましやかな価値観のもと、由綺の価値観も自分と同じと思いこんで、同じ想いを共有できたと信じていますが、実際には冬弥は「写真を撮りたい」という希望は明確にしているものの、それに関する機微はうまく口にできていません。そしてその不完全な発言を聞いた由綺は「言ってること判る」と同調こそしますが、冬弥の心理に理解を示す彼女の解釈自体は、口頭では述べられておらず、言語化されていません。由綺が冬弥の心情をどう解したかは、実は冬弥に伝わってはおらず、正誤の確認は取れていないのです。他愛ない日常のささやかさを残したい冬弥とは対照的に、由綺は被写体としての自分にかなりの価値を置いており、撮影に関する二人の心境は根本的に食い違っています。本当は、二人の思考は全然一致していないのだけど、現に由綺は「判る」と言っているので、冬弥はそのまま「由綺は判ってくれた」と信じきっています。お互いが思考を言葉で表しきれていないことにより、相手の思考の本当の本筋が判らないまま、お互いが自らの観点による想像で相手の心情を決めつけ、判り合えたような気になっているというトラップです。表面上は何のひねりもない平凡で幸せな語らいですが、本当の主旨は、全然通じ合えていないことに気付かず、反対にばっちり心が通じて共感できた、共感してもらえたと勘違いし、すっかりその気になっている愚かな恋人たちをひねくって皮肉った、毒のきいた掛け合い描写となっています。


パネル経由でのイベントで「由綺にかわって経済学の本を借りに行く」という何日かに及ぶ一連の流れがあります。初日の帰り道時点で冬弥が由綺に本の入手を断念させた場合、冬弥に前言撤回させ、何らかの対処を引き出すためか、由綺は何度もぐずぐずと図書館のある大学方向を振り返っては随分と執心の様子を見せます。でも、そこはそれ、由綺は刹那的に生きている人なので、その時は後ろ髪を引かれる思いで強く気になっても、ほとぼりが冷めたらそこまででもありません。もう一つの選択肢で、冬弥が本を借りに行ったその後の展開では、由綺は都度「ほんと?」やら「ほんとに」やら「まさか本当に借りてくるとは思わなかった」的な言い方をします。言うなれば「冬弥君、どうしてそんなに本気になってるの?」です。本の入手は、由綺内部での優先度はそこまで高くないので、本当は別にどうでもいい案件ということです。それでも「『冬弥君がそうしたいなら』ありがとう」くらいなもので、冬弥が望んでかしずいて自分のために動いてくれるのであればそれで構わず、由綺は冬弥の厚意をありがたく頂戴します。由綺本人は本を得るのにそこまで本腰ではないのに、冬弥が変にはりきっているから、その無駄な駆け回りにはそれなりに申し訳なく思うので、由綺は「わざわざ」と冬弥の心尽くしをねぎらいます。「そんなことわざわざされても『私は別にいい』のに」と言っているのです。冬弥が由綺発信での望みを叶えるならともかく、自分が望みもしないことで冬弥が無駄に空回るのは、由綺としても本意ではありません。「由綺のかわりに、冬弥が本を借りに行く」というのは由綺自身の発案ではなく、冬弥側で気を利かせて持ちかけた提案です。それがいかに由綺に利になることといっても、由綺自身による切り出しでない以上、正式には「由綺の望み」ではなく「冬弥の望み」です。それが、由綺が冬弥に何らかの対応を求めて物欲しげにし、そして引き出されたものだとしてもです。由綺自身が強く望んだことでない限り、それは由綺の望みではないので、彼女はしきりに遠慮します。そこまで自分に必要な望みではないからです。


ちなみに冬弥が「かわりに本を借りる」と申し出た初動の時点では、由綺は「そこまでしなくても」と恐縮しつつ、それでも「できれば早い方がいい」と付け加え、がっつりつけこんで要望を上乗せします。それでいて、冬弥がいざ本を借りて「いつ渡そうか?」という時点では、もう心境が変わっているのでそこまで乗り気ではなく、由綺は本を受け取るために「自分の」時間を割くことを渋ります。別に冬弥の足労を気にかけているんじゃないですよ。由綺は自分の都合が大事なのです。手持ちのスケジュールが外部の都合で妨げられることは、それが自分のためであっても由綺はお気に召しません。でも無駄な働き者の冬弥君がどうしてもって言うなら、と仕方なく、貴重な自分の時間を費やして、さほど欲しくもない本を受け取る約束を承諾します。が、熱心な所望ではないとはいえ、その本は確かに自分に役立つものなので、もらえるものならしっかりもらいます。何ていうか、これだけ自分本位に生きられりゃ毎日がバラ色で人生ハッピーでしょうね。ポジティブに生きるって、自分を健やかに保つ意味でも素晴らしいことだと思います。


由綺のお願いを断ると、多くの場合、彼女は一瞬言葉を失い、面食らう様子を見せます。それまでの笑顔がそのまま凍りつき、固まります。由綺は頭から、冬弥はお願いを断らないものと決めつけて頼みにくるので、想定外の答えに直面し、言われたことがすぐにはのみこめないのです。「そんなまさか、私のお願いを断るなんて」というありえないショックで、由綺は呆然とします。この時、由綺は冬弥に明らかな失望の色を示しているのに、冬弥は「由綺はがっかりしてる」と、由綺がただ、願いが叶わなかったことに本人の中だけで意気消沈している程度にしか思っておらず、まったく危機感を持てていません。もっと相手の様子をよく見た方がいいと思います。このように、冬弥の思考の及ばぬ所で一時的に不満に満たされる由綺ですが、彼女はけっしてそのままネガティブな状態で居続けることはありません。由綺は、自分が朗らかでいるためのポジティブメソッドを天然で所有しているため、望みの断たれた主張にこだわることなく、すぐさま頭を切り替え「別に冬弥君でなくても、誰か他の人でいいや」と考え直し、特に冬弥の役立たずを責めることはありません。彼女の中には「冬弥君でないとだめ」という強い熱望意識はまったくないので、冬弥が使えないなら使えないで、別に使わなくても一向に構わないのです。選択肢なら、由綺の希望の数だけ他にいくらでもあるので。ただ、安易に使えるのであればそれに越したことはないため、何かあるたびに要求を持ちかけ、冬弥の使用を打診します。そして交渉成立したならば、その時は気兼ねなく、冬弥を存分に使い倒すというだけです。誰を使うも使わないも、すべては由綺の望むままです。


万事そんな調子で執着なく、思いつくまま可変的なのに、破局の場合に限り、他に目を向けることなく冬弥だけを変わらず一心に想い続けるなんて、そんな例外ある訳ないです。日頃の定例パターンにイレギュラーが生じることなどそうそうありません。その理論は、二人の交際そのものにおいてもそうで、冬弥と別れることになったとしても由綺は、大して引きずることなくすぐ他を見つけると思います。別に相手は冬弥でなくてもいいのですから。現に、依頼不成立の際にも「冬弥に断られた」だけの結論では絶対に終わらず、必ずと言っていいほど由綺は「それなら他をあたる」という前向きで即決的な切り替えを示します。「その相手」が必要なのではなく「相手がいる」ことが必要なのです。相手自体が大事なのではなく、自分の願望を押しつけられる存在を確保することだけが大事ということです。ただし現実問題、冬弥ほど自分を消して由綺の願望に添おうとしてくれる人はいないため、彼こそが不動の第一候補の位置に据えられる形となっています。ですがこれもまた、由綺の願いを叶えることが第一目的ゆえに、一番手っ取り早い対象として冬弥が第一に選ばれているだけです。そんな由綺ですが、でもまあ実際のやりとりでは、確かに冬弥へのあふれんばかりの切実な愛情を訴えていますよ?口では「それでも私はずっと好きでいる」みたいな一途で泣かせることを言ったりします。ですが、それはそういう風に言った方が「自分が」よく見えると本能的に察知し、「見せ方」を自然と心得ているから言っているだけで、由綺という人は一貫して発言に内容が伴わないのが確定しているので、本気に取らずスルーしていいと思います。上滑りした聞こえのよい決め台詞なんて、実質、何の意味も含んでいないのと同じです。


由綺は自分の至らなさを反省することもあるので、いやいややっぱり気遣いのできる良い子じゃないかと考え直しそうな所ですが、確かに根は悪い子ではないので、気が付いたならばしきりに反省はします。黙って反省すればいいのに、自省のていをいちいち詳らかに猛アピールするので、かえって冬弥に気を遣わせます。大々的に「私、だめな子」としょぼくれれば、そりゃ冬弥は「そんなことない」としか言えません。根っからのヒロイン気質です。実質ヒロインでないにもかかわらず「私がヒロインなんて信じられなくて…」と臆面なく自認してその席に座っているのが由綺というキャラです。また由綺本人が自覚しない限りは由綺のわがままは現実に存在しないことになっているので、その条件に至るまで彼女は何ら悪びれることなく自身を改めることはありません。由綺が自分を省み、相手を思いやるのも由綺の都合で行われ、心ゆくまで、すべては由綺次第ということです。由綺は自分の過失を事細かに並べるので、それをしっかり自覚できているということはつまり、逆説的に常日頃からそうならないよう意識してわきまえてきた証、また順当に自身を隅々まで省みて苦しんでいる証のように考えたくなりますが、実際には直近まで一切合切そのような意識はこの世に存在せず、また気付いた以上は、気付いたことを即刻全部口に出さずにいられないだけです。そうしないと由綺の気が済まないのです。由綺は裏表がなく率直で、本音や事実を体裁の良い建前で覆い隠したり沈黙で守ったりすることのできない、あけっぴろげで子供みたいな人です。成りゆきのすべては、由綺の手持ちの認識と当座の気持ち如何です。


申し訳なさそうな見た目と雰囲気から、由綺は一見、自信のない人物に見えますが、実はすべてが自分中心に回っているという意識を無自覚に持っています。ただ、その自己中心性が「自分のための周りの助力に感謝する」という性質も常に持っているため、言い回しが殊勝なものとなり、一周回って奇跡的にいじらしい性質となって表面化しています。由綺は、周囲が感じているような利他的な性質はまったく持ち合わせていないものの、ひたすら天真爛漫で、自分を飾ることはありません。周囲が勝手に由綺の本質を善意に解釈して好ましく思ってくれるだけで、由綺には何の作為もありません。他人から良く思われたいと自分を偽る偽善者とは違うのです。由綺としては、他人が褒めそやす「自分の善意」に自覚がないため(そもそも実質がない)、いたって不思議そうにして所在なげにはにかみます。それがさらに、周囲には謙虚な人物像に見え、一層好感を持たれるという正のスパイラルです。理奈と比べ、アイドルとして地味でぱっとしない印象の由綺ですが、受け取り側によほど悪意がない限り、周囲に無尽蔵に無根拠な好印象を与えるという点で、希有な才能を持っているのです。由綺のアイドル意識は、「みんなのために歌います」というよりは「私を見てくれてありがとう」という比重が大きいのではないでしょうか。由綺は常に自分中心の思考で、それを隠すことがなくても、その本質はなかなか周囲には気付かれないものです。