通常、没個性的ないい子ちゃんとしか思われていませんが、由綺はかなり特異な個性を持った面白いキャラです。ただの寝取られヒロインにしておくには惜しい逸材です。主人公が冬弥でさえなければ、もっと違う輝き方をしていたかもしれないと思うと勿体ない限りです。冬弥は冬弥で、思いこみと混同で本質を見誤りがちな上、異常な利他性の権化なので、由綺の清々しいまでの利己性とがっちり噛み合ってしまい、今日まで来てしまったという感じでしょうか。冬弥が正常な状態で由綺と出会っていたらどういう関係になっていたのか想像するのも面白いかもしれません。どのみち冬弥が一方的に搾取されて、なおかつそれを喜ぶ状態になるのはほぼ間違いないと思います。よく訓練されたファンのようです。冬弥のはるか依存がいかに深刻とはいえ、3年以上も付き合っていて、いまだに由綺がはるかのかわりの域を出ないのは、これまた異常です。冬弥とて、そう薄情ではなく、働きかければ必ず応えてくれるので、少しでも由綺が冬弥を気にかけていたら、由綺は由綺本人と認識され、独自の恋愛関係を積み重ねることも可能だったはずです。数年来の恋人という立場の由綺ですが、その間の想い出話は作中でもほとんどされておらず、せっかくの設定が活かされていません。しかしこれは死に設定なのではなく、あえての脚色だと思います。想い出といえるような想い出は存在せず、由綺とは心を通わせた蓄積がないという事実の表れでしょう。結局、由綺は冬弥を使い物にするばかりで、冬弥本人を顧みることは一切なかったのだと思います。冬弥自身はそれでも良いと言って、由綺の負担になることを固辞しますが、それにしたって、その言葉を真に受けてあぐらをかき続けた由綺の対応は、かなりお粗末だったと言えるのではないでしょうか。まあ冬弥が甘やかすのが一番悪いんですけど。作品上、自分が方々で浮気しまくっといて、その口で由綺の過失に言及するというのは、ただでさえよろしくない冬弥の心証がすこぶる悪くなるので、基本的に、冬弥は由綺の本質に気付かない状態のままに据え置かれ、彼女をけなすことはありません。本質を知ったとしてもそれを理由にすることはなく、冬弥はひたすら自分を責めるだけだと思います。ちょっとくらい言い訳してくれた方が、読み手としては状況把握できて良いんですけどね。無駄に潔くて困りものです。
高校時代の由綺は、男女問わず周囲に遠巻きにされていたようで、彼女と関わった一介の同級生たちは、由綺の性格に難があることを思い知っており、彼女を避けていたのかもしれません。もし仮に、冬弥の被搾取を心配した善意の第三者が、由綺について、冬弥が思っているような好人物ではないと忠告した所で、冬弥は由綺をはるかと混同しているため、はるかの意図の読みにくさを指して「それは彼女を誤解してるだけなんだ」と擁護します。ひっかけが二重になっており、認識は打ち消しののち打ち消され元に戻ります。忠告者が由綺の本質を指して助言しても、冬弥ははるかの本質に言及して、真実を受け入れることはありません。まさに「馬に蹴られて」ってやつです。意地になって強情に聞き入れやしません。勝手にしろって感じです。
由綺がまったく変装しないで街中を歩くのは、リスクお構いなしで、周りから騒がれることこそを望んでいるからかもしれません。由綺は自覚がないので、スキャンダルのおそれなんて考えていません。実際にはあまりにも平然としているからか周りの注目を集めないらしく、由綺は残念そうにしています。冬弥は、自分の魅力に無自覚な由綺にいとおしさを感じていますが、逆ですよ、由綺は自分の立場を自覚していないだけで、自分を知らしめ目立ちたいのです。冬弥が見初めた当初の由綺が、学校で孤立し目の敵にされていた?のは、時間の経過とともに馬脚を現し、そうした持ち前の自分勝手で無神経な性格が徐々に露呈することで周りに敬遠されていたからかもしれません。冬弥は、由綺が当時良く思われていなかったのは、美咲に特別可愛がられていたことが原因だと言いますが、おそらく彼の時系列認識・因果認識は誤りで、美咲に関係なく元から由綺そのものが快く思われていなかっただけだと思います。その上で、美咲からの特別扱いを当然のように振る舞うので、由綺は一層反感の対象になったのだと。美咲の方も、自らの恋との兼ね合いもあり色々もやもやする部分はあるけれど、由綺を邪険にすることで冬弥に嫌われたくないから、ことさらに手厚く接しているのだと思います(やはり時系列は逆なのです)。由綺を知る人の多くは皆、彼女を腫れ物扱いです。そういう次第で、過去、孤独な状況に身を置いていた由綺の様子に「(はるかのやつ)、また人の輪に入れてない、俺が何とかしなくちゃ」と冬弥はお節介を焼いた訳です。幸い、冬弥周りはそんな問題児でも分け隔てなく接する心の広いメンツばかりなので、現在では由綺は自らを改めることのないまま良好な人間関係を享受しているようです。
由綺はマナについて「友達もいないような子」と実に配慮のない突き放した言い方をします。由綺も感情に波のある生身の人間なので、まるで天使のような完璧な理想像を彼女に押しつける必要はありませんが、少なくとも、このたった一つの確かな失言によって、他人の痛みに寄り添う心優しい女性という由綺像は完全に覆り、幻と消えます。なお由綺は特にひどいことを言ったとは感じていないようでそのまま話を続けます。暴言を暴言とも思っていないから失言という形で表れるのでしょう。由綺もかつては友達がいなかったのでしょうけど、冬弥と親しくなったことで、彼に付随した友人関係をそのまま獲得しています。格付けは大幅に由綺が上回り、もはや同列ではありません。よってマナを同類として共感することもなくなります。マナと同条件だった頃ならいざ知らず、由綺はもう友達ゼロを脱却しているので既に他人事です。今では上からの立場で悠然と眺めるのみです。実際にはマナにもちゃんと友達はいるので無意味な優越感ですけど。現状マナは猫をかぶっているので、不満を募らせた際に反動で思わず逆ギレしてしまい「友達に嫌われちゃう!」と自己嫌悪に陥りかねない危うさはありますが、マナの友人たちは方向性こそ違えどどちらも気立ての良い子みたいなので、マナの素を知っても友情が損なわれることはないと思います。むしろ、より友情が深まるのではないでしょうか。
マナについて「友達がいない」と平然と晒し上げる由綺の心ない発言の対比例として、それを受けた冬弥は「『シャイ』って点では由綺も人のことは言えなかった」といった、あくまで自己表現の不十分さにより意思疎通の面で人間関係がおぼつかなかったことを匂わす独白にとどめます。由綺が爪はじきにされ集団にとけこめなかった高校時代の事実を露骨な形では表明しません。はっきり「そういやさ、由綺も友達いなかったよね!」なんて絶対に蒸し返し暴露はしません。あくまで「シャイだった」とぼかします。言葉を選ぶこと、それが優しさ、思いやりというものです。由綺の言い口は苦境に添う立場として最悪の部類、冬弥の言い口は理想的な最善の模範例です。このように、近接した言い回し同士によって、その人間性の違いが明確に表現分けされています。
そもそも由綺が人前でシャイ、つまり大人しくせざるを得なくなったのは、それまで自己表現全開でひたすら我を通していたのを誰からも相手にされなくなったことで、他人と交わる状況自体を失っていたからです。周りは由綺の身勝手に迷惑して距離を置いていたのに、それなのに冬弥は、恥ずかしがって気持ちをうまく表せられない由綺が、その良さを周囲に伝えきれていないために、受け入れられるのに窮していたとしています。由綺の人柄そのものを理解してもらえさえすれば、彼女は十分に人間関係を構築できるはずと思って、色々手を尽くし、周囲との折り合いを取り持ったと思われます。実際由綺を誤解しているのは冬弥の方で、周囲としてはいらん世話だったでしょうが、冬弥の誠意に免じてかそれなりに状況は軟化したようで、由綺の立場は改善されたらしく、冬弥は「由綺がシャイだった」当時を、既に区切りのついた過去の一幕のように話します。
現在、友達としての理奈について話す由綺に、冬弥は「由綺って良い友達『多い』よな」と感心しますが、由綺独自に得た友達というのはたった一人その理奈だけで、多いも何も、後は全部、冬弥経由で繋がった範囲です。冬弥周りが「良い友達が多い(ただし本当に親密な人間は限られる)」のであって、由綺自体に備わる要素ではありません。由綺の友達付き合いにほんわか感想を語る冬弥ですが、当の自分が人間関係に恵まれていることを無自覚にしみじみありがたく実感し、気付かず自慢している、という何だかよく判らない恥ずかしい図となっています。なお、そんな天性の気配り屋で抜群のバランサーのはずの冬弥が、唯一はるかについては大っぴらに「友達いない」と平気でやらかすのは、あれは「はるかには俺しかいない」という自賛的意味です。「俺だけのはるかでいてほしい」と全力主張、はるかを独り占めしたい欲求からくる願望表現です。
マナの友達話に限らず、作中で由綺は、無意識にか、登場頻度に対して割と頻繁に人を低く見る発言をします。その際、態度はしおらしくいじらしいまま、あるいは愛らしくあどけないまま、もしくはひたむきで熱意のこもったもので、すべて好ましい雰囲気なので、それらの発言は手落ちの表現ミス、つまり単なる誤植なだけで由綺の性質そのものの非としては描かれていないのだと考え直したい所ですが、それにしては類似例が多すぎます。由綺の問題発言はそのまま確たる暴言として提示されているのです。対象は限定されませんが基本冬弥への軽視が多いです。例として、由綺はホワイトデーのお返しについて、可愛くおねだり風に「ちょっとは期待してもいいのかな」と言います。「ちょっとは」って。言い方。それわざわざつける?言葉まるまる由綺の飾らない意識だとするなら、普段の冬弥にろくすっぽ満足できていないという明確な表れです。より手厚い誠意を要求しています。お茶目ジョークでわざとプチ欲張りアピールしているのではないと思います。ましてや「せめて期待くらいなら許してくれるよね?」なんて奥ゆかしさからの発言でもないです。完璧に素であり、由綺自身は特に何か特別なことを言っているつもりはなく、話はそのまま何のつけ足しもつまりもなく流れますから。
由綺の冬弥に対する、そんなつもりもなく馬鹿にした扱いについては、間接的ですがマナの口からも確かに語られます。マナは、由綺の内輪話を聞く中で、彼女が美咲のことを彼氏より頼りにしているのを察しており、追って「『その本人は』そういうところに気付いていないみたいだ」と指摘します。これは「『冬弥が』自分が頼りにされていないと気付いていない」を指しているのではなく「『由綺が』自分が冬弥を低く見ていることに気付いていない」を指しています。マナは「由綺の彼氏を直接には知らない」のですから、彼については、その様相から本人の意識を判定するなどできようもないのです。由綺は、のろけまくって彼氏を好きだ好きだと言うものの、実質激しく彼を軽視している現実に「本人は」気付いていません。かたや、ざっと話を聞いただけでそのことを目ざとく見抜いてしまう鋭いマナ、という対比です。マナの性格上、やっかみで言っている風に受け取られがちですが、実際、由綺本人が冬弥を見くびる発言をして平気でいるのは本当のことなので、マナの見解は正解なのだと思います。元よりマナは名前からして観察力と眼識を象徴している人物なので、彼女の分析は信頼できます。冬弥の程度が低いから軽く見られるというより、由綺自体がそういう人なんです。
けれど由綺からあふれ出る軽視の思考を知ってか知らずか、それとも言葉自体の持つ確かな証拠そのものに気付いていないのか、冬弥は常にスルーして発言に注意を向けないため、読み手も「別にいいのか」と疑問を飲みこんでしまいます。それどころか、どう考えても馬鹿にしきった発言なのに冬弥は逆に喜んじゃって「えっ、本当にそれでいいの?」と驚くくらいです。由綺編クライマックスの感情吐露で由綺は、英二との比較により冬弥の競争率の低さを「本人知らず知らずのうちに」あげつらっています。それなのに冬弥は、ずれた視点からなぜか由綺の言葉に共感し、自信を持てない?彼女の自己認識に愛おしさを感じます。由綺の問題発言に対し、問題視方向の追及は一切されないため、読み手もそれをどう解釈していいか戸惑ってしまいます。結局、冬弥に倣って放置です。しかし冬弥はスルーしたと見せかけて色々ためこむ性格なので、もしかしたら目を向けたくないだけで由綺の本質に薄々目星はついているのかもしれません。引っかかりつつも見逃してきた由綺の言動は着実に蓄積していると思います。
確定を先延ばしにしてきた認識が飽和、決壊して、さすがの冬弥も由綺の本質をそうと認めざるを得ない展開が、マナ編最後の分岐ルートです。冬弥は多くを語りませんが、由綺相手に心を閉ざした感のある態度を示します。別に浮気未遂で由綺に申し訳ないからはっきりしない態度でお茶を濁している訳ではありません。ただひとえに由綺に失望しているのです。由綺は相変わらず、これまで何かとマナを気にかけてきたかのようにアピールしているようですが、実質そうではなく、単に由綺自身の都合で来訪していただけでマナのことは一切考えておらず、初めから何の対処をするつもりもないことはそれまでの流れで明らかですからね。かつてはマナ以外に親しい人がいなかったから由綺は寂しがりマナを必要としていたけれど、今の満たされた由綺にはマナに執着する理由はありません。マナはお払い箱です。由綺のステップアップに伴い、冬弥もじきそうなるのではないでしょうか。由綺はそういう心ない人間ではなく、有名になっても人情を損なわずそのままでいてくれる、というのはあくまで認識に問題のある冬弥の見解です。由綺ははるかじゃないんですから。由綺は「言う割に実質がない」ことで「言わずとも実質のある」はるかと、総合的にちょうど等価となります。立場の向上により由綺が取捨選択する環境も自然と上昇していくので、下方にある過去の愛着に未練はありません。由綺は上だけを見ています。基本無関心で、気が向けば戻ってくるだけの話です。それでもマナがそんな由綺を好きなのは放置子としての悲しいさがです。由綺はそれでいて欲張りにも相手の待機だけは要求するため、愛情というものがまだ残されているかのような期待を持たされます。マナは賢いから真実を判っているでしょうけれど、見かけの上だけでも関心を持ってもらえるなら十分で、そのお情けにすがってしまうのです。マナの個人的な問題を自己アピールのために勝手に暴露してしまう由綺と、由綺の問題ある本質について冬弥の夢を壊さないよう沈黙を守るマナとで、どちらが大人なのかは明らかです。それは冬弥も最終的には全部気付いていることと思います。
マナ編最終分岐で、由綺が言葉を尽くしてマナへの思いやり?を語れば語るほど、皮肉なことに、由綺の残念な実態があらわになります。由綺が口で並べる気遣いと、彼女の行動のあらましとが一致していないからです。由綺の証言を整理すると、家庭や学校で、マナが徐々に厳しい状況に追いこまれていっていることを知りながら、由綺はそれを黙って見ていたことになります。まあただの近所の暇なお姉ちゃんじゃないんだし、別に由綺がマナの問題にお節介しなければならないという義務はありませんが、事実マナは苦しい立場にある訳で、それを判っていて見殺しにしていたというはっきりとした構図があります。合格発表前日の会話パターンによっては「受験生は心細いもの、自分もそうだった」とお利口さんな理解を示しておきながら、由綺が現にマナの誘いを手ひどく断っているのは動かぬ事実です。可哀想に、マナはらしくもなく、すごく落ちこんだ様子でいます。冬弥が促さない限り、由綺は元々マナの誘いを受けるつもりはなかったようですし、その誘いが合格発表の付き添いとは知らない、そもそもマナが受験生であることすら頭にないのかもしれません。おかしいですよね、本当にこれまで由綺がマナに親身になっていたなら、というか親身でなくても近親者なら、それくらいのことは把握していて然るべきなのに、由綺はマナ本人にまったく興味を持っていないということになります。
もっとも由綺としては一応、マナが受験生という情報自体は手持ちにあるようですが、それが由綺の意識として有効となるかどうかはそれこそ彼女の気分次第で、マナへの認識は絶対性のない非常に不安定なものです。由綺自身が興味を持たない限り、マナは由綺の興味対象になりません。ゆえにマナの受験など、たとえ知っていても由綺の知ったことではありません。かくも由綺はマナに無情なのです。芸能人としての多忙はまったく理由になりません、それ以前の問題です。打ち解けた家庭教師とはいえ結局は他人に過ぎない冬弥がマナの依頼を断るのとは訳が違います。マナがすがれる相手は事実上由綺しかいないというのに、当の由綺はマナを屁とも思っておらず眼中にありません。気が乗れば由綺主導で好きなように相手してやる程度の相手です。由綺は、自分の経験から「受験は大変だ」と感じてはいても、それをマナに当てはめて寄り添うつもりはありません。「自分は大変だった、よく判る」という自分の感情だけで、マナの受験のことなんか少しも考えていないのです。従妹のお守りよりも恋人との甘い時間を優先したいというのは何もおかしいことではないし、それはまったく由綺の自由で別にいいんですけど、現状由綺しかいないマナの頼みを断ってでも冬弥を優先できるものなのか、それも心優しいはずの由綺が?という疑問に至り、ここで、従来の由綺に対する認識は誤りだったことに気付かされます。
由綺の状況説明は、追ってマナの恋にも焦点が当たり長々と続きます。「(マナの恋に)わざと気付かないふりをしてた」と配慮していた風なことを語る由綺ですが、これは体裁ばかりの弁解、責任逃れに過ぎないと思います。それに「昔みたいに長電話してたら良かったんだね」って、そこじゃないですよね?この期に及んで由綺は何も判っていません。結局、マナの話を聞くつもりはありません。由綺が喋るだけの一方的な会話を繰り返すだけでは、何も好転するはずがありません。そして由綺は不意に「どうして追いかけてあげなかったの?」と呟きますが、これは自分よりマナを優先してほしかったとする譲りと思いやりの気持ちではなく、ただただマナへの無関心が言わせている言葉です。「私は関係ない、冬弥君が追えばよかったのに」程度の薄情さです。自分がマナにとって重要な存在だと気付いていない、自分の価値に自覚がないといえば聞こえは良いですが、由綺にとっては自分から相手に向ける感情がすべてであって、相手からの感情は一切感知しません。相手の感情については由綺の想像する内容が彼女の受け入れるすべてです。由綺らしいといえば由綺らしい態度です。さて先の台詞を呟く由綺の目は冬弥を見ておらずうつろだった、という風に語られますが、実際は「冬弥から見た」由綺の目がうつろに見えた、ということだと思います。由綺そのものが、冬弥にとって空っぽのただの入れ物にしか見えなくなったということです。冬弥も惚れた弱みで由綺をむやみにこき下ろすことはできないので、うやむやに濁して弁護していますが、由綺が自らを責める優しい人間でいてほしいと冬弥が思っているだけ、そう信じ続けていたいだけで、本当は、由綺の本当の人間性を思い知ってしまったのだと思います。冬弥は察するまでが手間取りますが、ひとたび察したら一気にまるごと悟りつくす人ですので。
マナ編は、万事に恵まれた人柄の良い姉と、それをひがむ意地悪な持たざる妹という、単純で昔話的な図式にはなっていません。多分にそうしたセオリー通りの解釈に持ちこむ意図であえて強調されている面はあるでしょうが、ひっかけです。また、その絵面をマナ自身が自覚して悲嘆している部分もありますが、心の底では「本当はそうじゃないのに」と撤回を求めて悲嘆する気持ちもあります。我を通す姉と耐え忍ぶ妹という、それこそ昔話的な対比ならば「本来なら救われるのは自分のはずなのに」という不満があります。由綺は短絡的に思うまま好き勝手に生きていながら多くの人々に認められ順風満帆なのに、気兼ねして生きづらく過ごしている自分はどうして報われることなく抑圧され続けなくてはならないのか。嫉妬と自己憐憫という自分の嫌な部分を確定化したくないので、マナはものすごく言葉を選んで、何を言いたいのか判らないような遠回しな言い方でしか事情を吐露しませんが、悩み相談で本当に言いたかったことの一つにはそういうこともあると思います。しかしながら、由綺はストレートに欲求や希望を口にするからこそ、その理想に近づき、夢を実現させてきた訳で、いわば正当で相応な対価です。有言実行です。何の努力もなしに現状を与えられているのとは違うのです。わがままに生きることは必ずしも害悪であるとは限りません。逆に、遠慮して自分を出さずにいながらそれでも察してほしいというのは、我が身可愛さと甘えであり、けっして美徳とは言えません。そんなマナにとって、冬弥との出会いは転機となります。まるごと受け止めてくれる冬弥とのひとときは、マナが意思表示する練習をするのに最適な時間となります。マナは虚勢に本音を織り交ぜて話すうち、態度の変わらない冬弥に安心し、いつしか開かれた自己表現の仕方を覚えていきます。そうしたマナの成長に一役買っている冬弥ですが、彼自身もマナと似た者同士で、自分の要求を打ち出すことなくひたすら受け身の姿勢です。けれど彼の場合、滅私精神が異常で、使われることに喜びを見いだす特殊な性格なので、特に自分の待遇を良くしてほしいとか個人的な願望は元よりありません。だから勝手にすればいいし、別にそのままでもいいんじゃないでしょうか。放っておきましょう。冬弥が普通そうに見えて実は全然普通じゃなく、感覚が完全に狂っているのは基盤の設定なので、言っても聞かないし、あの性格は死んでも直らないと思います。