原作の楽曲3曲のほか、PS3版の新曲やアニメ版のEDテーマも、個々の作品としての内容は判りませんが、楽曲としては原作準拠で作詞されているようです。一応表面上のヒロインである由綺の歌としても齟齬がない程度に調整してあるようですが、よく見ると、所々の表現が、由綺の心情とするには根本的なニュアンスが違うということに気付くと思います。WAのいくつかの楽曲(ほとんど)は、作中でほとんど想いを口にしないはるかの数少ない自己表現の場です。冬弥を見守る作中はるかの想いだったり、空白期間の淡い恋の想い出だったり、冬弥との呼応だったり。ひとたび気付いてしまえば、今まで由綺だと思いこんでいたのが不思議になるくらい、はるかの歌でしかありません。情景描写、思考パターン等、はるからしさを隠そうともしていません。そのまんまです。しっぽ出してゆらゆらさせてます。「忘れている冬弥」「忘れられている/忘れていく/忘れないはるか」を念頭に入れて楽曲を聴くと、また違った味わいがあり、しんみりするのではないでしょうか。
ED「POWDER SNOW」においてはるかは、粉雪が自分に降りかかるままに佇んでいます。そういう行動が昔から冬弥に心配をさせているのに、相変わらず改めようともしません。もうあれは習性なので変えようがありません。基本、冬弥に心配をかけまいと配慮しているはるかですが、根っから自身への配慮がないので、ナチュラルに冬弥に心配をかけています。はるかは、冬弥側から吹きこむ忘却の雪に辛さを感じる一方で、ある種の幸せも感じます。冬弥は、凍てついた自分の心を削って、他人を楽しませる雪もどきの欠片として降らせているような性格です。そのためはるかは、その雪に優しさや暖かさを感じ、愛のしるしとして降らせるままにしているのでしょう。かたや由綺にとっての冬弥は「優しくてかっこよくて、私を応援してくれる冬弥君」以外の何者でもなく、冬弥が実はちょっとおかしい人格であるとか、苦悩をひた隠しにして無邪気に振る舞っているとか、そういう事情は何も知りません。そのため、冬弥の何気ない仕草にいとおしさを感じることはそこまでないと思います。一応、由綺としても、冬弥が過剰に無理をする性格だとは認識していますが、それも「私のために」無理をしてくれているとしか思っていないと思います。また「あの日見た白い世界」とは、冬弥とはるかが心通わせた場面での雪景色のほか、兄の葬儀の場、冬弥が昏睡していたであろう病室の意味もあります。そして各場面で「指先の冷たさ」がはるかの記憶に深く残っているのです。一方、由綺の過去にそうした歌詞に合致した場面が存在したかは不明です。「POWDER
SNOW」は、別れてもなお愛に執着する歌というよりは、元より見返りを求めず、ひたすら慈母のような目線で注がれる愛の歌です。初聴では、まさかはるかが歌っているなんて思いもしないので(はるかは歌手ではないので、歌手さんに口寄せしてもらう形です。本人の歌声としても問題ありませんが、はるかが一番歌うまいとなると、本職の由綺・理奈の立場がありません)、製作陣の誘導通り、普通は由綺の歌として聴いてしまいます。そのため、作中では由綺との交流はさほど深く描かれていないにもかかわらず「これほどまでに由綺は冬弥を一途に想っている」と確信させられます。けれど、それは実質のない由綺の幻です。そういう製作陣の計略です。「POWDER
SNOW」の人物像に涙するということは、由綺の姿を介して、実際にははるかなんぞにうっかり惹かれるという不覚をとってしまっていたという事実に他なりません。そしてそれは作中での冬弥の初期状態とまったく同じで、その混同様式は完全に一致します。残念ながら、皆、はるかに化かされているのです。由綺想定だと、いい感じにセンチメンタルな名曲ではあれど、汎用的な雰囲気ソングの域を越えませんが、はるか想定とすることで、WA原作の物語対応でしか成立しえない、固有の意味を持つ専用の楽曲となっています。どちらを本流と見なすかは読み手の自由に任せられています。各々が共感・同調するための普遍的な投影先ととらえても、唯一無二の特別な物語に没入するための手引きととらえても、どちらでも良いのです。はるかの歌としては、限定対応したその背景や心情から、本来はるか以外には適用できず、彼女以外の人物が歌うということは人間性の踏みにじりで、絶対にやってはならないことですが、由綺の歌ってことにしてしまえば(あるいははるかの真設定を知らず由綺の歌と信じきっていれば)何色にだって染まるので、誰が歌ったって、気軽に別作品に流用したって全然いいのです。由綺の歌と見なすには整合性に欠ける箇所が多々ありますが、それでも強引に由綺の歌で通すなら、それ自体可能でまかり通ります。何と言っても由綺は公に認められる権威「ヒロイン」なのですから。名曲をはるかに独占させるのも勿体ないですしね。それに、どうせはるかは大してアイデンティティの主張はしないと思います。はるかは他人事のように「いい歌だね」ってとぼけるでしょうし、由綺は「私の気持ちにぴったりだと思う」ってしみじみ照れるでしょうし、ほんと、この態度の差、如何ともしがたいです。真ヒロインは無関心だし、仮ヒロインは身の程知らずだしで、ひっかけの仕組みが構造的に堅固で、そりゃ真相がなかなか周知されないはずだわと思います。判りにくさで見落として、あるいは判りやすさに目がくらんで、真実を掴めません。由綺に侵食されてもぼんやり微笑んでいるはるかを思うともどかしくなります。もっと自己主張しても罰は当たらないと思うのですが。
アニメ版1期ED「舞い落ちる雪のように」は、想い出が消えることはないという点で「POWDER SNOW」とほぼ同コンセプトです。その上で、一度積もっていた雪が今また舞い上がり再び落ちるとの描写から、想い出が二重に積もるという点で、原作はるかの状態と一致します。さらにどうも相手の名前にもこだわっていることから、原作中で冬弥そのものをも忘れかけていた可能性があります。そういえば、冬弥を無視して(気付かず?)通りすぎようとしていたことがありました。思った以上にはるかは深刻な状況にあったようです。また冬弥とはるかは、最中、互いの名前を呼び合う様子が印象的ですが、自分と相手の記憶や存在を互いに確かめる意味でも、ごく自然な流れなのかもしれません。話のついでに別件に言及しますと、先の自説をそっくり覆すことになりますが、はるかの無視行動にはもう一つの可能性があります。「無視するな」の問いつめの後、はるかと別れて冬弥が帰宅すると、マナが人身売買をおそれて震えています。マナが言っているあれこれは、非現実的な夢の話ではなく、実際に冬弥の部屋に入ってきたはるかと接触した時の混乱が元になっていると考えます。はるかは喋りが片言なので、人買いの外国人と勘違いされたんじゃないですか?以下憶測。はるかは定例の冬弥偵察のため何の気なしに構いにきたけれど、屋内に人の気配はするのにチャイムを鳴らしても冬弥は一向に出てこない。やれやれまた倒れたか、来て正解だったと結論づけたはるかは、許可もそこそこに部屋に上がりこんだ。緊急事態なので冬弥の文句は後で聞きます。その際、おそらくは「生きてる?死んでる?」みたいな物騒な冗談を言ったんだと思います。布団をかぶるマナの恐怖はいかばかりか。そしてはるかが布団をはがすと、そこには見知らぬ少女がいたので、はるかもまた腰を抜かして即刻退散した。さて、いったんは立ち去ったものの、少女監禁?の現場を目撃したはるかは色々思案します。通報?救出?説得?そこへ冬弥が帰ってきて鉢合わせた。今、一番会いたくない相手です。はるかは彼の乱心を疑っているので、ひとまず刺激しないように知らん顔して当座をやり過ごそうとした。それが作中での無視の理由だと思います。ところが、誘拐犯・冬弥の方も知人に会いたくないだろうに、いたってのんびり普通にしており、それどころか自分から声をかけてきます。おやっと思ってはるかは再考し始めます。話しているうちに、冬弥にやましい所はないようだと確信したはるかは、彼がまっとうな経緯で知り合いの少女を看病しているらしいとの解答を導き出します。はるかの見解が具体的だったのは、買い物袋からすべて推理したのではなく、寝込むマナを直接見たからです。その頃にはもう安堵したのか、いつも通り冬弥を構って遊ぶ余裕が出てきているみたいです。結果的に問題が甚大化しなくて良かったですけど、自分が疑われていたと知ったら冬弥が怒りそうな話です。
PS3版OP「雪の魔法」について。冬弥と由綺の友達めいた恋人関係を歌っているようにも見えますが、やはりはるか想定の歌でしょう。「出逢ったときからもう」「昔からの友達のように思えた」という経緯に引っかかりを覚えますが、幼稚園で出会った時点で既に昔なじみのように感じたということだと思います。「生まれてたった4、5年しかたってない頃の昔って何だ」という冬弥のつっこみ待ちのはるかジョークだと思います。おそらくはるかが出会った時点で既に、冬弥は今のように、心を閉ざした内面と裏腹に着ぐるみっぽい反応をする性格で、それが俄然はるかの興味をひいたのだと思います。運命の出会いですね。歌詞の大筋については、失われた空白期間における交流がメインテーマで、いつもの二人のそのままの姿が描かれており、そこまで解説の必要はないと思います。ただ当時は、その後、冬弥が病に倒れはるかの記憶を失ってしまうとは知るよしもないので、宝物のようなそのやりとりを「きっと忘れることない」「きっと忘れられないね」と信じきっているのが何とも切ないです。現在では、心ならずも心隔てられている二人ですが、歌にも歌われているように、はるかの望みは当初から、ただ「冬弥の側にいること」であって、自分の立場や二人の関係性にはそこまでこだわりはないのかもしれません。
PS3版挿入歌「君のかわり」は冬弥目線の歌のようです。一見、由綺への歌みたいです。由綺の面影を求めて浮気して、彼女と別れた後、彼女に別の誰かとの幸せを願う歌詞に受け取れます。しかしよく見ると、1番の「別れてから」という状況は恋人としての別れではなく、単に「じゃあね」と別れてからという意味にも受け取れ、はるかに向けての歌としても成り立ちます。冬弥がはるかの面影を追い、彼女のかわりは誰もなれないと思っていることは、これまでの項目で何度も述べた通りです。さらに、1番は確かに冬弥目線ですが、一人称は変わらないものの、2番ではるか目線に変わっていることに気付きます。「君のかわり」は冬弥とはるかの問答歌のようです。WAも同様の形式ですが、二人がデュエットしている姿は想像しない方が良さそうです、名曲が台無しになりますから。話を戻します。2番の、相手の家を地図で眺めていた時「初めて」その人からの電話が鳴ったという情景は、昔からの幼なじみであるはるかには一見当てはまらなさそうですが、はるかは、冬弥のアパートに初めて入る時「初めまして」と呟くような変わった思考の持ち主です。つまり、冬弥が一人暮らしを始めてから、初めて彼からの電話が鳴ったという意味にも取れます。想定される時系列についての、歌詞の調整力の高さに感銘を覚えます。「あの頃のいとしさ取り戻すには」の「あの頃」というのは電話が初めて鳴った「その時」ではなく、その電話を受けた時からさかのぼった「さらにその前の」「あの頃」です。「あの頃」が指している時系列は、直前の内容をそのまま受けているのではなく、直接には描かれない経過を挟み、時間的にずっと遠い箇所にあるのです。おそらく電話自体は割と最近のことです。電話の時点で既に二人の心は分かたれており、その定点からかつて心通い合っていた「あの頃」を思い返し、アンニュイになっていると取ることもできるでしょう。はるかは、自分の面影を追って相手を愛する冬弥が、いつか面影にかかわらず誰かを愛せるようにと願っているようです。ただ、この「君のかわり」ですが、初出がWAではなく、作品とは関係ない意図で作られたようで、歌詞が冬弥とはるかに合致しているのはまったくの偶然かもしれません。ありがたい偶然です。あまりにも適しすぎていることから、時を経て、元々ひそかにWAの補足内容として後出しで作られていた楽曲が、さらにのちの作品リメイクの際、満を持してWAの曲として使われた可能性もあります。制作秘話は特に明かされておらず、単なる想像でしかありませんが。
しばし脱線します。WAは見た感じ、扱いが不遇で、作品としてそこまで重要視されていたようには思えませんが、真相を知った上で後続作品や楽曲をいくつか振り返ってみると、かすかに関連を感じられるような感じられないような、微妙にかする描写もちらほら見てとれるので、思ったよりはちゃんと評価されていたようです。ていうかネタバレ小出しのフォロー、アフターケアという点で、むしろ結構大事に、慎重に扱われていたようにも思えます。真相が極秘という都合上、製作サイド自ら表沙汰にすることはできない制約があるのか、大々的に強調されることはなかったようですけど。「気のせいです、関連はありません」ととぼけられたらそれで話はおしまい程度の儚く頼りない糸口で、痒い所すれすれで手が届かない感じです。ともあれ、派生の条件違いによる思考実験はしばらく継続されていたのかもしれません。それが全面的に展開され、真相ではそうした「やり直し」がほぼ下地に近いWAと違い、後続作品では言及が不規則かつ部分的で、関与するのが特定のシナリオに限られることもあり印象は薄いですが。条件のパターンがあらかた出尽くしてしまったのか、近年の作品では、そうした実験要素は見られないようです。そういう意味では、WA2はタイトルこそ続編の扱いですが、WA本体との関連性は低そうです。補足の意義も持たされているらしき後続作品では、シナリオさんごとのカラーが反映され、それぞれが全然違った独自路線で描かれており、バリエーションの面でも興味深いです。並々ならぬ訓練を経ているはずなのに慢心と不注意でポカミス常習者のやつとか、基本常識人なのに人格を疑う方向に唐突に振りきれ、極限まで突きつめる異常者素質の高いやつとか、晒される条件に強く影響されて大変個性豊かで良いと思います。とりあえずパンツへの執着なんとかしてほしいです。冬弥にはなぜかその傾向がまったく見られませんが、はるかがかつてテニスキャラだったのは間接的にそういうことなんでしょう。パンチラありきです。つつけば冬弥もボロが出てくると思います。長々続く派生モデル発生の発端はそもそもあの人のパンツ遊びですからね。パンツフェチの系譜です。作品ごとにいちいちネタにして蒸し返してくれるな、もう忘れてやれよって。パンツが好きで何が悪い、欲情をパンツに向けて満足するくらいいいじゃない。恥ずかしい決定的現場を見られて進退窮まって一番まずい方向に舵切りしてしまったのは非常に、何というか、やっちまった感で言葉にもなりませんが。
後続作品のうち、前者は特定シナリオが非常にWAを意識した感じで描かれています。しかし、設定や年表/年数などが、アレンジとしての独自性か、WAと完全には重ならないように微妙な具合でずれて異なっているので、郷愁としてWAっぽい何かを全体的に感じるけれど、それが何なのか確実に特定できないもどかしさがあります。WAの数ある真相を踏まえた上でそのシナリオをたどると、各所で「これはあれの補足か」とおおよそ照合できる作りにはなっていますが、WAの真相自体が明文化されていないこともあり、ずれた微細な相似がかえって関連性の確信を遠ざけています。つまり、せいぜい軽いお遊び要素としか受け取られず、まさかこみいった深い意味と繋がりがあるだろうとは考えられません。別物というなら完全に別物です。シナリオヒロインの女性は、はるか派生らしきイメージが強いかつてのシンプルで清純な姿と比べ、現在では何となくちぐはぐで不安感を誘うキャラデになっていますが、長い年月が経ったことで別の不純物が色々混じってしまい、もはや単なるはるか的な存在ではなくなったのかもしれません。一度分散し、混濁した要素を集約しても元通りにはなりません。壊れたものが元に戻らないのと同じように、混ざったものももう元には戻せず、はるか要素を限定して復元することはできません。彼女はキメラ状の見た目で示される通り、性格もどこか分裂気味、不自然で統一感がなく危うい印象ですが、本人そういった研究に携わっているらしいので自分のことはちゃんと把握していることと思います。「共通点を軸に性質が反転する」というのが派生する上でのルールのようなので、無償の愛を共通点、無口で自然体から饒舌なわざとらしさへの変更を相違点として、はるかとは似て非なる正反対のキャラになっているのは筋が通っています。ちなみに冬弥からの派生は、浮き沈みある感情面を軸に、小心者から大胆不敵になっているようです。本文ではいたって平穏な日々が描かれますが、どことなく噓臭くて地に足がついておらず、現実感がありません。ひょっとしたら作中に存在しない原初のルートでは姉さんを守れなかったのかもしれません。何らかの発端があって、それを回避しようとする意志でもなければ、そもそも繰り返しは起きませんから。無数のやり直しの中でそのすべての姉を救えても、始まりの姉を救えなかった事実は覆りません。主人公がある部屋に入ることをひどくためらう描写があることから、その部屋が姉の仕事現場で、そこに不用意に立ち入ったことで幼心に深いトラウマを負ったのでしょう。それは幾度やり直しを繰り返しても消えることはなく、心の奥に刻まれていると思われます。いくら情緒不安定で姉さんコンの彼でも、理由もなく道のど真ん中でいきなり意味不明に「姉さんは綺麗だよ!」と本気の半泣きで悲痛に絶叫するはずがなく、その過去ではない過去において、彼のために姉が身を汚した事実が不動であるからこそ「何一つ汚れてなんかいない」との意味で、姉の存在を肯定し、存在否定を否定しているのだと思います。今ある幸福な時間が後付けでかりそめの現実であり、本当の真実はそうではないと両者気付いているのではないでしょうか。ほぼ一本道のシナリオで、WAにおけるパネルのように筋を補足する予備情報が豊富にある訳ではなく、また路線の異なる複数のシナリオの中の一つという扱いに過ぎない上、その中でも特に短い内容でテキストの絶対量が少なく十分な検証は不可能ですが。さらに主人公が躁鬱激しすぎる性格で安定しておらず、言動に一貫性と信頼性がないので、彼の供述もあまり参考になりません。あくまで解釈の一つとして挙げておきます。最初の主人公は発端の分岐点に取り残されたまま、球体の遊具の中から、格子で区切られた外部の空で象徴されるいくつもの未来を夢見て眠り続けている状態なのかもしれません。籠の中にとらわれています。そして決着を終えた最後の主人公がそれを外から回転させるという形で統合され、完結しているのだと思います。
思いこみで頭とけてる状態で上記作のバックボーン、主人公のルーツについてもついでに少し触れますと、主人公の父とされる白フードの男は何だか偉そうにしていますが、主人公が身体的/頭脳的に優れ、隠密行動に向いているのはおそらく母方の優良血統だと思います。時々かます根本的なだめ要素が他でもない父方の血でしょう。父は素で喋るとボロが出るから厳格な口調しているだけだと思います。主人公が再起する(生を受ける?)ための条件として「(自分は)何度でも殺され」だの言っているので、伴侶ともども現実世界で殺され幽玄世界の住人になった後、そこで息子をもうけたのかもしれません。時系列に矛盾が生じますが、あっちは時間の流れが異常らしいので目をつぶることにします。しかし殺傷沙汰とか、思い当たる節がありすぎて怖い。だから、馬鹿正直に自白しないで自然消滅するか向こうがふってくれるまで待てばいいんだって。さて神話上でも、偉大な統治者というのは後々の設定で、スサノオの元来の姿はマザコンでシスコンで泣き虫で感情的で衝動的で悪戯好きで責任感のないほとほと困った人です。人物像に心当たりがありますね、フルコンプです。単純にスサノオと称していますが、カグツチ要素もブレンドされ、母恋い属性がより加算されていそうです。さらに言えば「スサノオ」というのはおそらく代々受け継いだ称号で、スサノオ本人から5世代のちの子孫の化身という可能性があります。そうすると自動的に息子は6代目となり、伊勢の祭神とは浅からぬ因縁のある神様の化身ということになります。オオクニヌシは場合によっては大黒天とも同一視され、全身真っ黒で職業隠す気のない主人公のイメージカラーと色々紙一重なキャラ特性に合致します。そうなると、男か女か不明の黒フードはひょっとしたら、白フードのただの配下ではなくれっきとした妻、つまり主人公の母なのかもしれません。普通に連れ添っていますしね。神話を参考にするなら、オオクニヌシの母は息子の岐路の度に何かと陰で助力します。黒フードも神出鬼没でフットワークが軽く、フォローに抜かりがありません。普通に喋ったら意思伝達が滞り、夫同様、身バレする可能性もあるので丁寧な口調でかしこまっているのだと思います。声も七つ道具で加工しているのでしょう。主人公が夢の中の黒フードを指して「不安が姉の姿として表面化したと思うことにした」と語ることから、黒フードの見えない中身は姉の外見を彷彿とさせる若布色のそっくりさんなのかもしれません。神話上の親神/夫婦神の、本来の正確な名の由来は判りませんが、名の持つ要素をそのまま直訳解釈するなら、父は「天から降り積もる冬の覆い」、母は「土を刺し息吹く春の若芽」を意味します。そうした組み合わせのキャラが、既存作品にちゃんと対で存在しているだけに、仰々しい神話なぞらえは後付けとしても、属性の一致は偶然とは思えません。彼らを半々で配合して野放図にかき回したような主人公ですしね。もっとも、スクランブルこそが彼の本分で、どんな配合であってもかき混ぜれば結局同じで、行き着くのはあの破滅的な性格なのかもしれませんが。ちなみに神話上のオオクニヌシには八十神というたくさんの兄たちがいますが、作品上では、白フードが本命を見失ったことによる無数の浮気の「可能性」を指しているのだと思います。主人公はようやく最後にたどりついた正解の結実と言えますが、先立つ膨大な過失を考えると割に合わないっちゃ合わないです。正直、本編内での独自の使命以前に、罪深い父さんの後始末のために生まれてきたんじゃないの?とりあえず父は無駄に死亡フラグ立てず大事なことは全部黙っておく方がいいと思います。ただの浮気なら許されるのは確認済みですし。連れのことはもう何年も待たせてきたのだから、多少それが延長してもそんなに変わらないでしょう。恋人の方の彼女による真相認知はそのまま二人の死を意味するので、公表すれば正当な評価を得る可能性がある作品内容にもかかわらず、頑なに沈黙を守る状態が徹底されているのもやむを得ないことです。二人と解読者だけの秘密にして、平穏に命を繋ぐことにしましょう。以上、妄想に妄想の上塗りを重ねた上での仮説で、あくまで考えられる可能性の一つです。
さて縁の濃そうな前者と比べ、後者には一見、丸々まったくWAと繋がりがなさそうですが、わずかに存在する関連エピソード?を抜粋すると、かすかに笑うジーンズの女の子に膝枕されて撫でられる夢を見た主人公が、切なさで胸を締めつけられて目覚めた後、ヒロイン(真ヒロインの方)と顔を合わせる流れがあります。その夢と彼女には何らかの関連がありそうです。仮に夢の人物をはるかと仮定すると(膝枕はともかく美少女ゲームでジーパンはいてる子ってそんなにいないですからね)、対面する少女とはクール系の頭脳派という以外、特に見た目やキャラクター性に共通点はありません。ああ、あと貧乳か。あんまり言うと殺されるので切り上げます。はるかとは異なり、割と陰険で棘のある性格が魅力です。褒めてます。いつまでも常に味方でいると思うなってことでしょうか。もしかしたら素地は近かったにもかかわらず、直面する現実が災厄レベルなので、余裕ぶっこいた寛大で綺麗な超越キャラで居続けることはできなかったのかもしれません。Leaf繋がりではなく、該当作のシナリオさんの過去作にそうしたジーパンキャラがいて流れを継承している可能性もありますが、寡聞にして判りません。なお、肝心の夢についてはそれ以降、一切作中で触れられることはなく、何の意図があったのかまったく不明のままです。件の夢の当事者である主人公と、はるかに膝枕される当事者である冬弥との関連については、冬弥表面の、普段のどうしようもない間抜けさにより、共通点などおよそ見つけられない状態ですが、真ヒロインとセットで、互いが互いを半身として以心伝心でやりとりが進む関係性そのものを引き継いでいると思われます。冬弥は常に冴えている訳ではないので実感しにくいですが、察しの良さを活かした先読みの能力を持っており、特にはるか相手にその性質は顕著です。そして、該当作の主人公が真ヒロインと共闘する際、特段の打ち合わせもなしに即興で作戦を遂行できる阿吽の呼吸は、ストレスフルで鬱憤のたまる本編内において、実に痛快で心地よいものとして描かれます。一方で、秘密を抱える彼女を十分に理解できている訳ではなく、時として無知が二人を隔てている点も共通です。反転要素としては、主人公が身を置く家庭環境が母子家庭ということもあり、自主的に父親代理の大黒柱たらんと努めてきた所があるのか、甘ったれで夢見がちでふわふわしている冬弥と違って、現実的で人一倍責任感の強い性格をしています。家庭事情に関しては、WAを飛び越え、連鎖して隔世派生?をもしている一面があり、妹シナリオでは、どちらかというとWAよりも断然、隔世側の路線にずっと近いです。従来のお約束通りのシスコンを軸に、反転して、逆に変調をきたしていく妹側の毒気に中っていく過程が描かれています。それでも元から彼自体にも予兆はあったようで、過去に妹の戸籍を調べたという行動力、きわめて冷静で現実志向な論理的ガチさが見てとれます。いたって理性派なのにとことん異常っていう。敵さんがあまりにもぶっとんだネタキャラなので、相対的に地味でいまいち注目されない主人公ですが、彼も相当面白いキャラです。時々予告なく、当たり前に、人の道に外れたことを言い切り、しでかします。作中における外的要因で壊れたというよりは、元々壊れていた内面が明るみになった結果と言えるでしょう。ちなみに作品のメイン格としてパッケージで強調されているのは豚ちゃんですが、実際の所は見ての通りです。まあ見方によっては不信とつけこみという作品テーマを最も象徴する人物と言えるし、話を回す現場や惨状の只中におおむね配置されているのは事実なので主要扱いは妥当です。ところで、他作品の主人公と比べ、冬弥の性能がひたすら役立たずなのが気になりますが、彼ははるかが常に側にいる限り、甘えまくってやる気を出しません。かといってはるかを失えば完全に生気を失って使い物になりません。はるかのピンチに気付いた場合にのみ、自覚を持ち、状況を打破すべく本気を出すと思われますが、はるか自体の危機回避力によりそんな事態はほぼ起こりません。よって冬弥が主人公として能動的に活躍できる機会はありません。はるかという強力な駒を、自在に、あるいは自動で扱えることが冬弥最大の強みで、そのため冬弥自体は凡庸に抑えられていても何ら問題ありません。
長らく脱線しましたが、楽曲の話に戻ります。理奈の歌はそのまま理奈のイメージソングだと思います。SODは星空を描いた歌で、理奈が本来象徴しているであろう月と太陽の存在感は薄いですが、言うまでもないこととして身近な天体は省かれているのかもしれません。理奈の目から輝きが消えることがないようにというのは、英二の切実な願いのようです。英二は理奈を心から大切に思っているみたいなので、理奈は変に兄の愛情を疑って試すようなことはせず、信頼する方が良いと思います。アニメ版2期ED「赤い糸」はまたまったく別の人の歌のようです。発表当時、WAらしからぬ内容の歌だと結構批判されたようですが、従来とは別の人物の恋愛をモチーフにしていると思われ、毛色が大幅に違うのは当然です。はるかだったら、あんな妙にえっちい歌詞になっていません。弥生さん自重して下さい。
番外として「POWDER SNOW」の英語版がありますが、ジャケット絵は私服の由綺です。でも微妙に表情が由綺らしくありません。由綺は屈託なく朗らかに口を開けて笑うことが多く、口角を横に引っ張って様子を窺い見るような含み笑いはあまり見せません。髪の分け目もいつもとは逆です。もしかしたら、冬弥が女装した姿かもしれません。素の状態でも女性と見まごうほど可愛い顔立ちですし可能性はあります。作中でも実際に由綺の扮装をしますしね。単独カットなので背丈も判らないし、体のラインが出ない服装ですからごまかせます。脚にあまり丸みが見られないのでいよいよ怪しいです。まったく何やってんだって感じです。何やらされてるんだの方が正しいかもしれません。また別の女装?(ボブヘアのかつら)をした冬弥を英二が構うくだりがありますが、見るからに男だとバレバレな面白さで笑っているのではなく、可愛い女の子として普通に通用する仕上がりだったのでその素質にいたく感心しているのだと思います。冬弥は別のイメージを心配しているようで、すごく不本意そうですが。冬弥が言うように、英二が「男同士カップルに偽装」を想定しているのなら、別に冬弥側を変装させる必要はありません。かたや由綺に急ごしらえの男装をさせているのなら、冬弥の方もやっつけの女装をさせたと見るのが妥当です。ただ冬弥の受け取り方に応じて英二は話を合わせてくれて、そういう方向性の説明をしたのだと思います。ちなみに脱出劇を企画した英二がインスパイアされたという昔の映画「卒業」、ラストの逃避行シーンこそ有名ですが、あれって大部分おばさ…人妻との逢瀬に尺取られていて、そんな映画を弥生に薦める英二の意図が判りません。まったく判りませんね!若者との火遊びの可能性に釘を刺すにしても、弥生さんはうら若き20代ですよ失礼な。あっ横道にそれました、冬弥の女装適性の話に戻りましょうかね。冬弥はよく彰について、女性的とか女の子みたいとか表現しますが、何のことはない、冬弥も同類です。いつもの棚上げと無自覚で、他人事みたいにあげつらっているだけです。彰、それとはるかは中性的だと明記されていますが、冬弥に関しては、彼が自身の詳細をあまり説明しないので注目されません。でも幼なじみ三人のうち、冬弥だけが系統違いであるはずもなく、三人とも性別不詳です。ジャケット絵のもう一つの可能性としては、服装が、WA当時から20年近く前のテイストのように見えることから(服飾の歴史に詳しくないので自信ないですが)、ひょっとしたらホワイトアルバムのブラックボックス、藤井母の姿なのかもしれません。アイドル姿ではなく私服姿なので由綺とは限らず、似た誰かかもしれません。そして由綺と冬弥は髪色など外見が似ており、冬弥の親族なら同じく似ている可能性があります。藤井母を曲のイメージキャラとして表に出す意味と目的が思い浮かばないので、またぞろ与太話の域を越えませんが。’70年代テイストというコンセプトで由綺を撮影した姿かもしれませんが、どのみちギリが反対ですから何か意図があるはずです。まあ、単なる原画さんの絵柄変遷と結論づけてしまえばそれで終わりですけどね。
ギリといえば、ボーカルコレクション1の挿絵、雪を手のひらで受け止める由綺?は、髪が真ん中分けで色も深緑です。服こそ由綺のものですが、まあ、そういうことなんでしょう。由綺はほころぶように笑うことが多く、そうでないとしても照れくさそうに恥じらったり、気を引くために媚びたりと感情豊かで、あんな風に静かで慈愛に満ちた達観の表情をすることはありません。正気の第三者目線では違いが明らかなんですが、認知障害の冬弥にとってはそうではなく、彼の目には確かに由綺がああ見えているという表現なのだと思います。ぶっちぎりで可愛いです。これが普通になってちゃ冬弥の理想が元から人一倍高いのも当然です。彼が一途に恋い焦がれて、本質的に浮気できないのも仕方ありません。普段の扱いはともかくとして。なお、のちにまったく同じ構図で雪を受け止める、ギリが確かに由綺のものな絵も描かれましたが、あえて自説にこだわり、それに沿って深読みするなら、あれは緑髪の彼女のような愛しくてたまらない心穏やかな見守りの眼差しではなく、離心を認めず囲い縛る怨念の眼差しだと思います。形ばかりは微笑みの顔でいますが、何か目つきが尋常じゃないですもん。根っからナルシストで超ポジティブ思考の由綺もついに真実を知ってしまった別世界での姿で、鼻っ柱をへし折られた逆恨みで冬弥への憎悪に満ち満ちているのかもしれません。英二の警告の中で存在する、由綺に起こりうる凶悪な状態、それが冬弥を雪片に見立て、逃さず手の内に閉じこめ潰そうとする呪いがましい姿だと思います。由綺が天使というのはあくまで幻、その実態は、頭から爪先まで危害の詰まった、いわゆる地雷というやつです。自分の感情がすべてで、自分のためだけが第一。その絶対ルールを否定する存在など視界から消します。由綺が一番でないのなら、冬弥など、生かす価値すら持ちません。