はるか目線の楽曲の歌詞をいくつか見るに、彼女は冬弥とのくだらない世間話の数々をこよなく愛しているみたいです。ゲーム内で、パネル会話を始め、どうでもいい話ばかりする冬弥ですが、こうした雑談は、WAという作品の中で思った以上に重要なようです。最終的には、いかに工夫して高レベルパネルを取るかに腐心することになり、浮気ゲーというよりは、ただもうシナリオ度外視した、やりこみ型の世間話ゲーになります(あくまで私の感覚です)。パネルを全部見なくても各キャラの攻略はできてしまうので何かと軽視されがちですが、謎解きする上で非常に有用なヒントも含まれており、一見どうでもいい話でも実は見過ごせない話だったりします。本当にどうでもよさそうな話も中にはありますけどね。何が重要なのかは、実際に解答を導き出さない限りそれが重要だったとは判らないので、私が気付けていないだけで、すべてのパネルに必ず何らかの意味があるのかもしれません。真相解明に必要なキーポイントは、必ずしもパネルの本題にあるとは限らず、脱線した余話の方にあったり、当たり前のように流される前提にあったり、冬弥が何気なく飛ばすくだらない冗談にあったりと様々です。また、パネルのあほさ加減がシナリオのシリアスさを削ぐので白けるみたいによく批判されますが、いや、そうではなく、パネルで描かれている方が通常運転、本来の姿です。こっちが主で基準です。当然のメインストーリーに思えるシナリオの方が副、むしろ特例的で番外的な展開なんです。パネルでくっちゃべってくだ巻いている冬弥の方がそれこそ本来の彼で、彼の基本型を知る意味でも雑談を無視しない方がいいと思います。イラッとしてばっさり切り捨ててしまいたい気持ちはよく判りますが。攻略には直接関係のない英二パネル、彰パネルも重要です。英二パネルは、WAという作品自体の二重構造を示唆するものが多く、偽物やイカサマなどの話がよく出てきます。英二のうんちくは、別に知性のひけらかしで無意味に語られているのではなく、謎を解明させる上で重要な役割を持って逐一配置されているのです。彰パネルは、彼の「正直者」としての特質上、冬弥による認識のゆがみを無邪気に吹っ飛ばしてくれます。冬弥の脳が心配になりますが、筋金入りの症状なので、特に新たな不具合を起こすこともなく平気そうにしています。冬弥の状態をどうこうするものではなく、読み手に向けての情報なのだと思います。冬弥の証言と食い違う話は、正直な彰の方を信用するのが吉です。この作品、嘘つきばっかりなので、一人くらいは基準というか指標というか、完全な信用に足る正直者がいてくれないと困ります。
七瀬彰、すなわち七つの瀬をあきらかにする。七は多岐にわたること、瀬は話の流れが速く掴みきれない謎のこと。それをはっきりさせるために存在するのが、彰です。彰が単純に長瀬姓でないのは、WAの謎が、長く一本化されたものではないからです。彰がWAのすべての謎に関わっているというよりは、WAのすべての謎の根本であるはるかに関する決定的な事実を、彰が有しているという形です。彰の高パネルで、冬弥とはるかが二人結託して彰をからかう話があるのですが、その際、怒った彰が何の気なしに言った「いつもそんなことばかりやってる」という、二人とも昔から変わらずそうだったかのような台詞によって、はるかが兄の事故死を境に変わってしまったという冬弥の認識や、それ以前の冬弥とはるかに距離があったかのような関係性が、事実と異なるのではとの疑いが生じます。ほか、冬弥とはるかは昔から、お互いけんかをする気力もなかったとの言もあります。これらによって、すべての謎解きが始まります。こんな最も重要な話を、各攻略とは特に関係のない彰パネル、しかも情報として入手しにくい高パネル等で出してくる所にWAという作品の意地悪さがあります。基本的に、こういう重要事項は一度きりの発現で、見逃すとそれきりになります。
彰側の発言ではありませんが、彰との会話に触発された冬弥が「彰とは『中学の時から』一回も一緒に買い物に出かけたことはない、『片方に恋人ができたら』そんなものかな」と語ることがあります。えっ「中学から」?由綺は「高校から」の恋人ですよね?何言ってるの、冬弥?中学時代、彰を差し置いて、一体誰と過ごしていたんでしょうねえ?これまでに述べた通り、中学時代は冬弥の記憶損傷部の初期にあたり、そこに存在したのははるかその人です。当時はるかは既に恋人同然の状態で(といっても今と同じ状態です。今でも事実上恋人同然のセット状態が基本です)、冬弥は何よりも彼女との時間を優先していたという裏描写となっています。この「中学から」と「高校から」の年表のずれは、特に意味を持たない記述として見過ごされるか、設定構築の甘さとして誤りだととらえられるかもしれませんが、これ絶対わざとです。一見、誤りのような記述でも、回り回って、実はそれでそのまま正しかった、というのはWAにはよくあることなので、あんまり頭ごなしに矛盾点を批判しない方が良いと思います。「おかしい」と思ったら、それは謎解きのチャンスですので、自分の感覚を大事にして、引っかかりを逃さないようにしましょう。
時系列のずれについてもう一例挙げますと、マナ編の家庭教師場面のどこかで冬弥は、「俺の『高校時代』にしても人に語るまでもないほど平凡だった、でもそれも『由綺がデビューするまで』だったけど」とかそんな風に述べます。んん?由綺は「大学進学後」にデビューという経歴ですよね?それなのに、冬弥は「高校時代」と言っています。当時、無風な彼の高校生活をにわかに慌ただしいものへと巻きこむ何かがあったということですが、それはけっして「由綺のデビュー」ではない。どういうこと?これは「はるかが公に知られ始めた」事象を指しているのだと思います。冬弥からははるか自体の記憶は消えているけれども、盛り上がりの中心人物が消えている状態で、同伴する冬弥を戸惑わせた旋風の実感だけは残っているのだと思います。このように、はるか全消しの中、二次情報については冬弥内部の残留程度がまちまちなので、彼はたまにチューニングが合わなくて、由綺にチャンネル指定しているようで証言的におかしなことを何でもなく普通に言います。
先行する兄が世間で既に名声を得ているという安定の期待感に加え、容姿レベルの傑出だけにとどまらず確かな実力も相まって、当時はるかはそれはそれは先取りで注目され取材記者辺りからも内密に追い回されていたと思います。それこそ時のアイドルなんか目じゃないくらいすべての点において青天井だと思うんですが、いくら才色兼備文武両道、ご令嬢系黒髪ロング(厳密には緑)の大人しめ清純美少女という完全パックでも
彰 「でも…それはるかなんだよ?」
冬弥「はるかだよなあ…」
で終わりです、近隣では。中身は一貫してはるかなので。二人ともはるかペースにはほとほと手を焼いて、彼女に夢を抱く想像の余地は初動で取り払われています。幼なじみは既に現実を思い知らされてへとへとです。
彰 「はるかが清楚とか優等生とかって、皆どうかしてるよ!」
冬弥「うん…」
そんな、はるかには絶対惑わされない二人ですが、かといって女性全般に向けて幻想を持てなくなっているのではなく、その現実把握の眼力ははるかだけに適用されるみたいで、それぞれ何かと夢見がちな感性で女性をとらえてしまう傾向が強いようです。全然だめじゃん。せっかくの教訓が何も活かされていません。
該当期間の回想で、冬弥が恥ずかしげもなくはるかの美しさを讃えているあたり「ひょっとして冬弥って当時はるかのこと好きだったんじゃないの?」と頭をふっとよぎることも少なくないと思います。けれど、それにしては語りに熱や感情が伴っておらず、どこか他人事のようで決定打に欠けます。そして現在のはるかに対する扱いを見るにつけ、その疑惑は頭の片隅に追いやられ忘れられがちです。そこにきて件の彰パネルを持ちこむことで、はるかは今も昔も変わらないと確定し、冬弥の持つ情報には何らかの欠損があると判明します。そして冬弥に記憶喪失の疑いが生じ、作中の様々な情報からその特定に至るのは、はるかの項目で述べた通りです。当初によぎった直感の通り、やっぱり冬弥は、はるかを好きは好きだったのでしょう。遠目に見た高嶺の花のはるかに憧れを抱く一方で、かつての冬弥が実際に深く愛していたのは、普段近くにいたいつものはるかの方だったということです。はるかに恋をした感情は記憶の損傷とともに大半が消え、彼女をあがめる視線だけが残り、回想の無機質な賞賛に繋がっているという訳です。ちなみに、はるかが「テニス始めようと思って」と言った際に、冬弥が愕然とすれば、頼みの記憶はまだ消えておらず、「えーテニス?何で?」といったふぬけた返事をするならば、はるかがテニスをする姿すら冬弥の中から消えた証拠になります。はるかは冬弥と連動しているとはいえ、彼の状態を完全に把握できる訳ではないので、時々こうやって探りを入れてきます。はるかの意味不明の言動の数々にはそれぞれちゃんとした理由があるのです。「こんなはずじゃなかったのにね」というはるかの特徴的な口癖も、単なるキャラ付けのために意味なく頻繁に言わされているのではなく、真相を知れば、これ以外に言いようのない実感のこもった言葉だったのだと判ると思います。はるかは無駄なことは言いません。言う必要のないことであれば彼女は面倒がって初めから喋りません。はるかが喋るというのは、その話にちゃんとした意味があってのことです。
なお、はるかが過去にテニスをやめた理由はよく判りません。テニスは大好きな兄さんを追う手段であって、彼が亡くなった以上、はるかにとって何の意味も持たないのかもしれませんし、テニスに夢中になるうちに冬弥との間に心の距離ができてしまったがために、彼の不調に寸前まで気付けず、倒れさせた自責の念があるのかもしれません。とりあえず、はるかは過去の栄光にはあまりこだわっておらず、現時点でテニスを始めたのは記憶保持のための意味合いしか持たないようです。忘却の試練が終わったと見られる時点で、ラケットを「冬弥にあげる」と言いますしね。現状の由綺への脚光に触発、あるいは嫉妬、対抗してテニスを再開した訳ではないのです。はるかに人並みに自己愛があれば、WAはこんなこじれた話になっておらず、早々に冬弥を取り返していたでしょう。はるかの設定は、あまりにも理想的で綺麗すぎて、ともすれば人間味に欠ける方向に寄りやすく、忍耐と無条件の愛を作品テーマとして大々的に強調されると逆に鼻白んでしまいがちですが、WAは真相が厳重に伏せられているため、見えない所ではるかが勝手にやってる感が強く、重くない仕上がりになっています。またEDの最後のフレーズを聴く限り、はるかが無私の姿勢を貫くのは、どうも冬弥の利他性に感化され見習っているからのようです。冬弥の過剰な献身にいちいち律儀に応えて、はるかもまた献身にいそしんでいるのです。お互いさまできりがありません。それが彼らの普通で、両者、自分に無頓着な分、互いを想い合うことで不足を補い合っているのです。ちなみにこれは冬弥とはるかの間でのみ可能で有効な関係であって、それを由綺との関係に持ち越すとどうしても無理が出てきて少なからず問題が生じます。冬弥の無軌道な尽力にそれとなく返してカバーしてくれるはるかと違って、台詞の上ではともかく由綺からはまったく気遣われることがなく何のリターンもないので、現状冬弥はひたすら消耗する一方です。ですが、別に由綺が悪い訳ではなく、弥生に言わせれば「自己管理ができていません」ってとこです。考えなしの献身は迷惑です。冬弥はもっと大人になってちゃんと自分を制御するべきでしょう。
冬弥の浮気の原因と目されがちな、由綺・冬弥間の人材的価値の格差についてですが「花形の彼女と不甲斐ない俺」という図式ははるか時代からずっとそうで、由綺のデビューがきっかけではなく、今に始まったことではありません。多少は落ちこむこともあるかもしれませんが、基本冬弥はそういう立場の違いに慣れっこです。なので、自己肯定感のなさゆえの鬱屈から浮気に走るということはありません。むしろはるかとの混同が強化されるので、その点では冬弥と由綺の関係を後押しする要素です。はるかとの間でも「俺って必要とされてるのかな」みたいにぐだぐだ悩んでいたであろうことを、由綺との関係においてまた繰り返しているという点で、冬弥ときたら進歩がなくてどうしようもありませんが、はるか時代に彼女と乗り越えてきた成果は帳消しされ、あらゆる障壁が再び有効化されているので仕方ありません。一から仕切り直しです。また、現状はるかは特に目立った活動はしておらず、ただ無為に冬弥の側にいます。はるかが自分と歩調を合わせるために、ある意味「降りて」きてくれているのを、冬弥が気に病んでいるのか、それともはるかが好きにしていることとして特に気にしていないのか、それは判りません。
大学合格について、由綺がかなり不安がっていたという情報はありますが、冬弥自身が不合格を心配していたという描写は特にないことから、冬弥はあまり頭の良くない由綺に合わせて大学のレベルを下げている可能性があります。学力判定目的のふるいとして、やや難易度高いと思われる設問群にも、マナの答案をさらっとチェックするだけで正誤を見通せていますし。話し方がへんてこなので頭悪く見えますがあれで意外と勉強はできるのかもしれません、何しろ本体は隠れていて未知数ですしね。そしてその冬弥より確実に頭の良いはるかはさらにランクを下げていると思われ、実に勿体ない限りです。学歴がすべてではないですけど、二人とも他人にかまけていないで、もっと自分の学業を優先した方がいいんじゃないかと思います。どうせ由綺はほとんど大学に来ないんだし。なお優等生のはずの美咲については、リスクを敬遠して、高い成績による推薦での安全な進学なのかもしれません。彰は真面目なのに頭の使い方が不器用なのか、成績はあまり良くないらしいです。
冬弥はしばしば「手の届かない存在の兄と、空を地面から眺めてるだけの俺『達』」みたいな感じで、さもはるかを自分寄りのちっぽけな存在のように言いますが、それは冬弥がそう思いたいだけで、はるかは本来、そのまま兄寄りの人です。本来ははるかもまた冬弥の手の届かない場所へと到達していたかもしれない存在です。テニスに限らずその人間性全体の意味で。空白期間の冬弥とはるかの相対関係は明らかにされませんが、おそらく冬弥は、はるかが自分から離れていくのが怖くてその成長から目を背けていたのだと思います。現在の由綺への対応を見ても、それは想像がつくことです。それでも、自分の側に戻ってくるはるかはいつものはるかのまま変わらないので、安心していた。これからも「変わらないこと」を望んでいた。でも「はるかが成長してるのに俺がそんなじゃいけない」とでも思ったのか、冬弥なりにはるか離れを画策して、少なくともテニスをしている間は彼女と距離を取った。近づくことへの気後れもあったかもしれない。そして、その部分だけはるかとの関わりが薄かったので、結果的にあの夏の記憶損傷を免れた。強がりで離れていた時間が、奇跡的に、運命により分かたれた二人を繋ぎとめる結び目となった訳です。けれど、記憶を失った冬弥当人としては、今後のためにあえて距離を取っていたはずなのに、ほぼすべてが元からなくなってしまったのは非常に痛い誤算です。はるかははるかで、冬弥があえて距離を取ろうと無理をしたことが原因で、その距離が現実になってしまったと考えた。自分のことに打ちこんで冬弥を一人にさせた間に彼を思いつめさせたことを悔いたはるかは、何もかも捨てて、以降冬弥の側で彼を見守ることに決めた。冬弥の望まぬ形で、冬弥の望んだ通り、はるかは彼のもとへ戻ってきてくれた訳ですが、冬弥はその望みすらも忘れてしまい、ありがたみもへったくれもない状態です。そんなこんなで、現在では何の成長の兆しもないまま、ひたすら近すぎる距離で二人だらだら過ごしています。何も知らない冬弥はともかく、はるかは冬弥のためだけに自分ののびしろある人生を無駄にして、本当にそれでいいのか訊きたくなりますが、その人にとって何が大切かはその人にしか判らないものです。はるかがそれで幸せを感じているのなら、はるかに彼女の選択の無意味さを説くのは野暮というものでしょう。もっとも、停滞を余儀なくされているのは、冬弥が失くしたものを補填すべく夢を見ている間だけであって、試練が終わったら再び歩き出すつもりなのかもしれません。その場合でも、どのみち二人の間柄は「変わらない」と思います。
はるか編における、はるかの「兄さんじゃなくて私の方が」「私が死ねば良かったんだね」という流れは、クライマックスの中でもピークになりますが、本当なら「自分が死ねば良かった」というのは、はるかではなく冬弥の方の台詞なのかもしれません。はるかの場合はただ単にたとえばの話で、実際にはるかが死に直面していた訳ではなく、兄かはるかかの二択ではありません。ですが冬弥の場合、実際に同時期に自分も死にそうな状態にあって、それなのに自分だけがおめおめと生き残ってしまったという負い目があります。はるかの場合は「はるかの方が死んでいたなら、兄は冬弥に負荷をかけ無理をさせることはしなかったはず」「それでも万一冬弥が病に倒れ記憶を失くしても、はるかが死んでいる以上、そのことで苦しむ者はいなかった」という優しいもしも論に過ぎませんが(はるかを亡くして兄と冬弥が二人して荒れ狂う可能性もありますが、収拾がつかなくなるのでこの場で掘り下げるのはやめておきます)、冬弥の場合は自己評価の低さゆえに「冬弥が死んでいたなら特に何も問題は起こらず、強い河島兄妹は変わらずそのままであり続けたのではないか」という悲痛な疑念があります。兄は死ぬべき人ではなかった。本当ならはるかの側に残るべき支えは兄の方だった。「自分が死ねば良かった」と実感しているのは、はるか以上に実際には冬弥の方なんです。そうでなくても冬弥は元々自分の命に罪悪感を持っており、生まれつき「自分が死ねば良かった」と自虐しているような人です。「引き換えになった方がいい命なんてない」と、形ばかりの慰めでもいいからとりあえずはるかに言うだけ言って存在を肯定してやればいいのに、どうしてもその言葉が出てこないのは、冬弥自体においてもまた深刻な意味を持つ、一生ものの非常にデリケートな問題だからです。そう思うと、はるか編クライマックスは幾重もの意味で胸にせまるものになるのではないでしょうか。はるかの痛みに同調し、さらに増幅する自分の痛みに取り乱した冬弥がむせび泣くのも無理はありません。冬弥の内心は二重底になっているので、本当の本音は目に見える独白として表面化しませんが、背景を知り、その思いつめた様子を見れば大体の所は想像がつきます。件の言葉を聞いて、冬弥が動揺し、自身を責めぬくだろうことに思い至らないはるかではないと思うのですが、通常、仏の境地で悟りを開いているかのような彼女でも、終盤はさすがに限界に近いので、いつもなら欠かさない冬弥への配慮もおろそかになります。自身を振り返ると、歩みを止めて冬弥を見守ることに専念するといった過去の選択に、幾ばくかの後悔を感じます。自分で決めたこととはいえ、その不毛さに迷いが生じ、やるせなくなります。事情を知らないと、ぱっと見はるかが自分本位に命を儚んで冬弥の同情を誘おうと自分を蔑ろにしているようにしか見えませんが、実際には冬弥を思いやる過程で忍耐を重ね、苦悩を一切口外せず自制してきた背景があり、それでもついに耐えきれなくなり、わずかにこぼしてしまった弱音が一連の台詞という訳です。あいつ本当に人間なんですかね?もはや御本尊の領域です。とりあえず、冬弥の心配をよそに、目下はるかに自殺願望はありません。自転車のローンがまだ残っていますからね。まさか踏み倒し前提で組んだ訳じゃないでしょうし。はるかがどこからその金を捻出するつもりなのか、また購入時の信用がどうなっているかは謎ですが、もしかしたらスパイとか情報屋とか、そういう割のいい闇稼業をしているのかもしれません。何しろはるかですからね、謎だらけです。ただの聖人で終わるはずがありません。そういう訳で、冬弥は不用意に印鑑をはるかに預けない方がいいと思います。その辺はっきり追及しておかないと、後でややこしいことに巻きこまれるかもしれません。
真相把握のきっかけの一つとして、髪の長いはるかのテニスウェア姿を思い描くだけで、真実のすぐ近くまで行けます。絵心のある人は、ざっとその全身図を描くだけでいい。凝ったウェアを描く必要なんてありません、シンプルなポロシャツとミニのプリーツスカートでいいんです。服に色を塗らなくてもいい。適当なら適当なほどいい、下手絵な彰の水彩画レベルでいいんです。それを見ただけで「あれ?これって由綺のアイドル姿の色違いなんじゃ?」ってなると思います。ラケットも遠近狂いか縮尺狂いでマイクに見えてきます。ところが、そんな重要なはずの画像が作中に一切存在しないため、はなから考えることをやめてしまうのです。テニス姿だけでなく、髪の長いはるかの姿は、はるか編において最も重要なはずなのにちゃんとした形で映っているものは一つもない。したがって、髪の長いはるかは冬弥にとって、あるいは作中において大して重要な要素ではないのだと思いこんでしまうのです。そして逆に、真実を知った時点で、なぜ髪の長いはるかの姿が作中に存在しなかったのか合点がいきます。冬弥の記憶に存在しないから、その姿は作中に存在できないのです。原画さんによる、絶世の美少女モードのはるかを見ることができないのは、仕様とはいえ非常に残念です。変に飾り立てなくてもはるかはそのままで純粋に美しく、内面から輝いています。現在の少年風の姿でも十分に可愛いので、磨きをかけたら向かうところ敵無しですが、冬弥ははるかの高校時代の制服姿も「記憶にない」だか「覚えてない」だか言っているので画像化は絶望的でしょう。高校後半は完全に由綺に首ったけではるかほったらかしなので、制服姿に限らずはるか自体が印象に残っていません。まあ、はるかに夢中な頃といっても、つやつやのロングヘアでおしゃれなブレザーに可愛いミニスカ姿でも、口を開けばあのはるかなので、冬弥はどのみちおでこをはたきたい衝動にかられていじめていたでしょうけど。それに「はるかはその辺のアイドルよりずっと綺麗で美しい」だとか、思っていても、しらふでは恥ずかしくてよう言わんと思います。
テニス姿に限らず、過去のはるか画像は、実際にはCGになっていないものの、存在するイベントCGを元に各自の頭で構築させる仕様になっていると思われます。たとえば、由綺編では屋上でのじゃれあい、理奈編では兄の尾行、マナ編では雨の中の自失など、はるか混同の把握によってそれぞれ過去画像が想起されます。また現在の姿でも、美咲編の「フェンス向こうの美咲」に対応する「フェンス前のはるか」だったり、シナリオで重要な局面を表す画像が水面下で潜在します。とはいえ、作品的にはるかの画像ばっかりそんなにあってもバランスめちゃくちゃで、冬弥以外喜ばないので、各人で想像するに任せる形をとっているのでしょう。雪の中でのはるかとのキスシーンは、過去画像と重複するため、あえて現在画像も有効化されていないと思われます。過去画像が「存在しない」という設定に引っ張られて、差分画像である現在画像もはるかCGとして「存在できない」という仕様です。なお、はるか編CGは、定期入れしかり、ベランダしかり、過去にはなかった新たな想い出が画像になっているようです。またはるか画像には、派生元への敬意と遠慮か、CG化するに十分な重要画像がなぜか画像になっていないものもあります。美咲編の「夕暮れフェンス前」や、はるか編の「膝枕」「横になる冬弥の頭を撫でる」等、派生元で既に画像化されている象徴的な情景は、先行するオリジナリティの尊重のため、はるかCGとしてはあえて省かれていると考えます。「同じ構図だから元を見て適当に想像してね、知らなかったら別にいい」という、はるからしい省エネ演出です。そんな中「肩を寄せる冬弥とはるか」はカラー化(現在の現実)という明確な差と役割があるのではるかCGとして有効となっています。弥生編CGは、弥生の特殊な立場上、はるかの彷彿を想定した画像はありません。え、密会画像?冬弥との同一視ってこと?えっ、弥生さんはるかには手を出さないでしょ?無体なことしないよね?ああ、お風呂でバストアップのマッサージだとか無駄な手ほどきはしているかもしれません。知りません。「はるかさんがお望みなら、微力ですがお手伝いします」とか?心配はさておき、弥生編は画像に限定されず、シナリオの裏側全体で現在のはるかの行動を推測する形となります。
冬弥の恋の始まりとおぼしき、空白部分の起点についてですが、はるかがテニスを始めた時期と限定するには若干中途半端なタイミングなので、それとは別に、冬弥とはるかの間で、何か二人の関係を転換する出来事があったのかもしれません。それがたまたまはるかのテニス開始と時期が前後していて、テニスと強く結びついているのだと思います。冬弥がはるかを一人の女性として意識し始めるに至った出来事については、完全に踏みこめない領域で、本編内の情報から推定することはできません。それこそ、あの二人だけの秘密で、他キャラとの混同でほのめかされることも一切なく、謎に包まれています。大したきっかけもなく、例によって何となく意識し始めたのかもしれませんが、はるかが冬弥の空白期間をほぼ正確に把握しているらしきことから、やっぱり二人の間で何か発端の出来事があったのかもしれません。しかし、残念ながら何があったかまでは判りません。時期的に、冬弥の性の目覚めと関わりがありそうですが、そういうこと指摘すると冬弥が嫌がりそうなので(忘れてるだろうけど)、いったん保留します。少し気まずいことがあったとしても、彼らは普段通りの状態を保持するので、その関係にひびが入ることはなく、何も変わることはなかったと思います。
それはそうと、いつまではるかと混浴していたのか冬弥に問いつめたい所です。はるかの裸体について「記憶のまま」とか聞き捨てならないことを言っており、彼女の体型が現在の状態に完成するまで混浴していたことになります。記憶喪失期間はそれこそ「記憶にない」ので、その間はどうしていたのか判りませんが、かなり遅くまで一緒にお風呂に入っていたのは確かのようです。中学生くらいでしょうか。あいつら、その辺の感覚が完全におかしいです。それでも冬弥も健康な男子なので、今まで通りではいられない時が来たのでしょう。おそらくは混浴現場でそうなったのだと思います。別の可能性としてはるかの方が女性になったという場合も考えられますが、空白から逆算した年齢を考慮に入れると、女性にしては若干遅い気がするので、やはり冬弥側の変化だと思います。そういう訳で、冬弥の空白はお風呂が起点となっていると考えます。冬弥が極度のカマトトなのは、元の性格もあると思いますが、そうしたはるかとの経緯を「なかったこと」にしてとぼけようとしていたからかもしれません。「俺そんなんじゃない」と。そのごまかしは記憶がなくなった今でも続行し「子供みたいな関係」は健在です。ですが、いかにしらをきっても、二人が男女として明確に分かれてしまったのは事実で「これからは一緒に入るのやめよう」ってことになったんじゃないかと疑っています。なお、冬弥の体型はそれ以降も成長して変化したので、作中、はるかはそのことに言及します。幸い、かつての出来事はそこまで重大な過ちにはならなかったようで、二人の間で保留扱いとなった模様。派生元における苦悩と我慢を限界まで重ねた挙句の暴発と違い、非常におぼこい状態での突発的/偶発的事態、つまりアクシデンタルだったので戸惑って深刻化せず、うやむやのうちに終わったのでしょう。共依存の関係だけでは本流の派生キャラとしていささか設定が足りず、上記の条件はWAの路線に応じたアレンジとして妥当だと思います。恥ずかしくて気まずい体験を経ることで切り離された冬弥とはるかは、その後、少年と少女として恋みたいなものを育んだ。元々の近しさに加え、再発防止という心の歯止めにより、その展開は非常に慎重で一進一退の運びとなり、然るべき時を待ち、それまで十分な関係を大事に温めようとした。さらにその後、不幸な運命によって距離ができ、無意識に焦がれることで互いに求め合い、男と女として結ばれたということです。二人にとって、いったん離れるという展開は各ステージにおいて必要だったのかもしれません。
はるかのキャラ設定上、散漫で適当なイメージのあるはるか編ですが、実は緻密な計算がなされた奥深いものであり、それもまたはるかのキャラに適合していると言えるでしょう。少女として身も心も美しく成長した日向の3年半、表面は停滞しながらも実のある女性として成熟した日陰の3年半、はるかのそのすべてを取り戻した状態で、起点前である未分化な「二人の少年」に回帰し、そして眠る。一夜にして想い出は元のあるべき所で定着し、全範囲の「あの頃」、冬弥の「当たり前」になります。冬弥とはるかの、欠落と忘却の「ホワイトアルバム」7年間は、お風呂に始まりお風呂に終わるといった所です。お後がよろしいようで。蛇足ですけど、冬弥は由綺とも混浴しますが、これはシナリオさんの引き出しが少ないからではなく、あえてはるかと重ねてあるのだと思います。由綺の項目で述べたように、由綺と結ばれることで冬弥ははるかを由綺で上書きしてしまいます。その後、由綺と混浴することで上書きは完了・固定化し、大切な「ホワイトアルバム」は跡形もなく解け、すべてがお湯に流され、消えてしまうのです。以降の冬弥は、由綺のことを「俺の幼なじみ」だと言い始めているかもしれません。仮に冬弥が由綺との過去ではない話を由綺との話として本人に振ったとしても、元から冬弥はピンぼけで不明瞭な不規則発言が多いし、由綺も毎度のたわごとには耳を傾けないので「もー、違うよ、冬弥君たらー」と言うだけで全然気にしないと思います。
作品冒頭のセピア画面にて、本編の1年前にあった由綺とのやりとりが語られます。由綺のデビューが決まったから、これからあまり会えなくなるという趣旨の話をします。おそらく、このやりとりには先行するオリジナルが存在すると思われます。つまり、冬弥の記憶損傷から約4か月前、高校2年の春、冬弥とはるかの間で、セピア画面の由綺とのやりとりと酷似したやりとりが行われた。「テニスの練習が忙しくなるから、これからあんまり遊べなくなるね」とか大体そんな感じでしょう。由綺との1年前のやりとりが、なぜ今になって表面化したのかというと「破損した記憶が完全に消失し、取り戻す機会を失うXデーまであと残り4か月」と無意識が知らせてきているのだと思います。はるか再喪失間近との通知です。本当なら、はるかとのやりとりが意識に浮上して知らせるべき所、それは冬弥から失われているため、代替として由綺とのやりとりが浮上しています。ただの出来事だった1年前のやりとりが、今また意味を持った記憶断片として改めて際立って意識上に表れたことで、記憶消失へのカウントダウンが始まります。厳密には、月ごとの日数によって、総日数が昔と今とで変わっているかもしれませんが、大まかに4か月と区切ります。冬弥は残された4か月を、自身の命題でありWAの作品テーマでもある「失くした何か」の探求に費やすことになります。