冬弥苦悩の構造について。美咲の学校復帰当日の登校時から授業後の街中散策に至るまで、冬弥は一貫して楽しそうにおどけてあどけない様子です。ぶっているにしても、それらの時点では美咲との関係が深刻化する気配はありません。美咲といることへの幸せは感じていても、その穏やかな時間の存続を願っており、都度、頭の片隅にわずかなやましさこそ浮かぶものの、間違っても致命的な間違いを起こそうなどとは考えてもいません。それがクリスマスの話になり、美咲を誘う辺りで、冬弥は何だかおかしくなります。イブ当日も、ケーキを食べている時点ではのんきに可愛くもぐもぐしているのに、その後、急におかしくなります。明らかにおかしくなります。寸前まで強調して描かれている無邪気な冬弥が突如消え去り、なかったことのように彼は変貌します。それまで徹底していた穏便なスタンスとは対極の行動に出ます。破滅的で後先考えず、どう見ても距離の詰め方が異常です。内部で何か変なスイッチが入ったとしか思えません。実際、これはスイッチによる切り替わりなのだと思います。状態と状態の間に移り変わりの過渡期がなく、きっかり明瞭、完全に状態が入れ替わっています。
クリスマス前の外れ展開で冬弥は「ぎりぎりの境界線にいる俺達、いつまでこんな状態でいられるんだろう」と語りますが、これは単純に冬弥と美咲の関係だけを指しているのではなく、仮面と本性という冬弥の二形態を指しての「俺達」でもあり、その並立が限界に近いことを示しているのだと思います。純真で穏当な仮面としては、大好きな美咲さんと仲良く温かで無難な日常を普通に送れればそれで良かったのですが、冬弥そのものが見えない部分で限界に近づいているので、深部の本性は何とか自分を保とうと、しがみつく対象を求めてもがいています。その手を伸ばした先、ちょうどそこにいたのが美咲でした。本性も本来はそこまで危険な人格ではないのだけど、何せ切羽詰まっているので綺麗事は言っていられません。美咲は元々ちょうど近距離にいるし、ちょうど断れない性格だし、そしてちょうどかねてから自分を想ってくれているようだし、これはもう美咲に寄りかかってしまえば済む話じゃないか、そうする他に負荷を減らす方法はないんじゃないかと思い至ってしまいます。色んな意味で美咲はちょうどよかったのです。そして冬弥は利己的な思考のもと美咲への接近を断行します。仮面はその決定に関与せず、本性の独断で決行された行動であるものの、その際、仮面の方も意識は変わらず持たされています。体を動かすのは本性だけど、心は本性と仮面の両方が働いており、いわば心は望まないのに体が勝手に動く状態です。心の片側は望まないのに、もう片側の心により体が勝手に動く状態です。本性の急変に仮面が巻きこまれた形で、仮面はまったくそんな気はなかったのに深刻な現状を目の前に突きつけられ、その後の対処を後手後手で背負わされます。本性の暴走に一方的に振り回され、その都度、自分を省みては内罰し苦悩することになります。もっとも、結局は同じ冬弥には違いないので、他の誰にもなすりつけることもできず、初めから責任逃れはできませんが。また場面によっては、冬弥内部での認識共有が不十分で、下位の副人格である仮面には状況展開が知らされていない場合、あるいは知らないことにされて情報自体が抜かれる場合があるのか、彼は時として、自分が身を置く立場を自覚していない態度を見せます。それすら一貫しておらず、まったく気にしない様子で喋るかと思えば、ちゃんと判っている前提で喋ることもあり、状態を行ったり来たりです。
ひょっとしたら冬弥の仮面は複数層になっていて、装着する層ごとの所有情報に左右され、その重ね方によって認識度合いが違ってくるのかもしれません。本性から程遠い、一番表面にある仮面だけの場合は、自身の悪意も状況の悪化も、情報として何も知らされておらず、いたって平和でのほほんとしています。本性に近い深部の層の仮面ほど、より事情が詳しく伝わっており、認識内容は「段階的に」跳ね上がります。冬弥の知ることと知らないこと、その認識力が場面によってランダムに異なり、しかも前後関係なしなのは、このように意識が分化しており、また着脱自由なためです。そして全部を知っているのは本性だけ。何も知らない無邪気な仮面がけろりと無神経に喋るという、場にそぐわない状況でも、本性は普通に目覚めており、最奥からそれを黙って見ています。最表面には一切やましい所はなく潔白ですが、冬弥全体では判っていて知らないふりを続けているということです。しかしそんな中、冬弥が知りうるすべてのことを知っている本性であっても、彼自身の最大の秘密である記憶喪失事情は知りません。色々欠陥の多い人間です。冬弥の発言は、様々な理由で常態的に穴があるのが当たり前と思って、逐一疑ってかかった方がいいと思います。
美咲編で冬弥が安定を欠いていく原因は、記憶喪失という彼の裏事情に端を発した精神逼迫です。記憶喪失ゆえに初めから見つかるはずもない失われた答えを、冬弥は自分の内面と真正面から向き合って、無意味にも真面目に探そうとします。自分の行動の原因が確定していないと説明がつかず、納得できず、落ち着かないため、冬弥は考えられる範囲で答えを求め、安定を図ろうとします。色々言い訳を並べて見苦しく自分を正当化しているだけのように見えますが、症状に対し、彼なりに理性的に対処しようとしている表れです。「感情に溺れる弱い男」「自分に対し甘い男」というのが、冬弥という人物像の定説ですが、本当は意志が強すぎるくらい強く、自分に厳しすぎるくらい厳しく、それはもう意固地なくらいです。失くした跡を直視せず、だましだましやり過ごして自分に甘くしていたなら平穏な偽りの日々は続き、少なくとも重い状態に悪化することはなかったはずなのに、彼は真実を求め、何もない空洞と真っ向から見つめ合ってしまいます。そして周辺にある手近な情報から、あらゆる可能性として、片っ端に理由を組み立てて照合していきます。けれど、持てる情報がわずかで不完全で不正確である以上、絶対に正答にたどりつくことはできません。また建設的なすり替え案を打ち立てることもできません。手持ちの情報が事実上「心の空白」と「美咲への急激な焦がれ」しかないため、それは「由綺と会えない寂しさ」で、それを埋めるために「美咲を必要とした、なぜなら彼女を好きになってしまったから」と無理くり結論づけてしまいます。本当はそうではないのに。それでも照合した時に、たまたま説明にほころびが生じず、理屈は順当に通ってしまいます。そして、そんな過程で一応の答えを得た冬弥は、ある意味では安定し、その誤った前提でもって腰を据えて苦悩に徹することになります。しかし誤答だけに内心では納得できず、だとしてもその誤答以外に自分を説明するすべがないので、それゆえ冬弥はその誤った文言を何度も繰り返すことで自己催眠をかけ、疑問を打ち消し、迷いを断とうとします。見苦しい言い訳の裏には、そんな狂おしい葛藤とそれを制御せんと自らすり減らす信念とがあったのです。
冬弥は普段から「美咲さん大好き」を屈託なくストレートに表に出すので、元から彼女に少なからず恋愛感情を持っていて、美咲編はその熱がいよいよ高まってごまかしきれなくなった果ての展開のように思われがちですが、そういうことは全然なく、普段のあれは幼い子供が優しいお姉さんに無心になついてまとわりつくようなもので、思慕ではあっても恋愛ではありません。また根本的な質が違うため、思慕が恋愛に発展することもありません。それでも「美咲が好き」なのは実際本当なので、冬弥が「美咲を求める」理由を内部に探した時、その「好き」はまさに「恋愛」なのだと、それ以外に考えられないじゃないかと、自分で決めつけてしまいます。しかし、求める理由を「恋愛としての好き」に確定するには、冬弥の様子はあまりにも異例すぎます。冬弥が普段から一貫して強引で、自分の気持ちばかりを押しつける愛情表現のタイプならともかく、通常はまったくそうではない訳です。恋愛に限らず、気にしいで、人の顔色を窺って、当たり障りない言動しか基本的にしません。じれったいくらい気兼ねして自己主張しません。美咲編の冬弥は、そんないつもの冬弥とは全然違う、正反対の状態です。冬弥が美咲を「『本当に』好き」で求めているなら、性格上、あんな無茶苦茶な近寄り方はしません。困らせると判っていてそうするような言動は絶対にしてこないはずです。事実、冬弥が美咲を求める理由は「好き」だからではなく、また「そこまで好きではない」からこそ粗末にもできるのです。冬弥が美咲を求めた理由は「『美咲が冬弥を』好き」だからです。冬弥が美咲を相手にするのは、それが美咲にも悪くない条件で、彼女に断る理由がないことを判っているからです。恋する美咲の足元を見た打算です。誤用としての確信犯というやつです。冬弥は「想われているのを知っている」というずるくて優位な条件で、自分を餌にちらつかせ、美咲に接近しているのです。パネルで「美咲さんはどんな人を好きになるんだろう」みたいなふわっとしたこと言いますが、あれ全部判ってて知らぬ存ぜぬを通しているだけです。ほんと性格悪いです。あるいは、無知な方の人格は本当に何も知らないのかもしれません。自分にもだんまりを通すとか、ほんと性格悪いです。
それでも「思慕としての好き」は間違いなく純粋に存在します。この場合「好き」であればなおのこと、冬弥は美咲を求めません。美咲を大事にしたいし、彼女を困らせることはしたくないからです。例外的に、美咲を慕うがゆえの困らせ行動として、時たま彼女をからかっていじめることもある冬弥ですが、あれは反応が可愛いからという好意の表れで、基本的にはそこまでの害はありません。また、冬弥の基本性質として「変化を好まない」というものがあります。こと現状維持に関しては、自分の信念を貫き、てこでも動きません。対外的にはすんなり譲歩しても、内側では絶対に自分を変えず、折れません。加えて平和な日常を過ごしている冬弥に、あえてそれを捨てさせる理由がないのです。ところが美咲編ではその強固なポリシーに反する動きを見せる冬弥。といっても完全に身勝手で突っ走るという訳でもなく、しばしば自分を省みては減速し、つんのめります。態度がブレブレです。一方では居直って美咲を利用しているのに、一方ではそんな自分を修正し、少しはましな解釈へと繋げようとします。美咲を蔑ろにしてでも巻きこみたいのか、それとも自分を抑え彼女を愛しく想う運びにしたいのか、冬弥のスタンスが安定しないので、読み手としても彼の心情把握に結論が出ず、すっきりしません。冬弥の言動には一貫性がなく、しばしば前後で矛盾するように思われますが、それは、それぞれの思考に関わる根源が違うからです。「打算」の人格と「思慕」の人格はまったくの別物だからです。各々の人格が各々の考えに従って行動し、そしてその考えは相反するので、自動的に話が食い違うことになります。冬弥というのは元からそうした矛盾を抱えた存在で、時々裏返って感情のままに押し通しては、我に返って自分を責めるということを繰り返します。そうこうするうちに、本来「思慕」しか持たなかったはずの人格は「理由のすり替え」という自分への言い聞かせにより、美咲への「好き」を「恋愛」へと置き換え、自分の中身を組み直していきます。
美咲編の冬弥が他にも増して不安定で言動がおかしい、どうかしている、ということは巷でも昔からよく言われていることです。他編での彼はまだまだ猫をかぶっている仮面状態で、美咲編の彼こそが本性をあらわにした本来の醜悪な姿だ、みたいに受け取られることも少なくないと思います。まあ、仮面と本性というのはその通りなんですが、一般的な意味で安直にくくれるものではなく、そういう「構造」として、意図的に区別して配置されています。クリスマスケーキを食べている段階では子供のように無垢な冬弥が、その後、電灯のスイッチを切り、ロウソクに火をつけようとする(つかない)時点で変貌し、明らかに別人になります。完全に別人格です。電灯のスイッチを切ることで、冬弥内部で闇側にスイッチが入り、美咲がライターを扱う際に一芝居打ったことで、現実に火はつきませんが、冬弥内部の爆弾の導火線は点火されます。こうして闇の人格は表面化し、さらにはそこを直接焚きつけられ、危険な状態に燃え始めてしまったのです。以降、本性に火がついたまま、内部スイッチの切り替えという単純動作で、二つの人格は簡単にスイッチするようになります。
冬弥の、仮面と本性にくっきり分かれた人格構造は「いい人の裏の顔」という派生元のメイン要素そのままです。あの人は作中もっぱら裏の開眼形態で、笑顔形態は一瞬しか出ず、基本にこにこしている(と思う)冬弥とはかなり比率が違うのでまったく別物のように思えますが、おそらくあの人も普段の基本型は糸目の方です。作中での比率が異なるだけで、本人基準で実際に表面化する比率はほぼ同じだと思います。冬弥は主人公なので立ち絵がなく、また一枚絵でも目元が見切れた状態でしか描かれないため、その形態変化が判りにくいですが、美咲編では多分、場面によっては目から光が消え瞳孔開いちゃってると思います。実際に作中で冬弥の目を見ることができたなら、展開の合間合間で「ああ、スイッチ入ったか」とプレイヤー側でも確認することができたのでしょうが、残念ながらそういう親切設計ではないので。まあ、重大な秘密を構造的に伏せる、ゲームならではの特別設計ですね。そして作中人物である美咲は冬弥の目を実際に見ることが可能なので、その変化を知ることも可能ということで、明らかに異常と判る冬弥を避けるため当然の態度だったのだと、拒絶の展開にも意味が通ります。ちなみに酔っぱらいイベントでは、酒が目の中に入ったせいで、その後の介抱でそれを拭いた後も冬弥の目はあんまりよく見えておらず、視界がぼやけ、照準が美咲に向けられていません。この時は冬弥が怖い目をしていないため、美咲はやや安心した様子を見せます。けれどそれは一時的な安息に過ぎず、以降、日を追うごとに冬弥の目つきの変換は増えていったと思われます。冬弥の顔すらまともに見られないほどの美咲であるのに、それなのに、いざ向き合うとなると冬弥の目を熱心に見つめてきます。実際、美咲の視線であったり、冬弥の視覚についてであったり、美咲編は特に目に関する記述が異様に多いです。目を見ることが冬弥を見分ける唯一の方法で、それゆえ美咲は、識別と現状確認のために、臆しつつも彼の瞳の奥を覗きこまずにはおれないのです。なお派生元には、笑顔と開眼の二形態に加え、もう一つ幼児形態というのもありますが、この継承要素は主にマナ編の分担となります。オマージュという点で、WAの中でも特に美咲編は、派生元ありきのなぞらえ前提の物語であることから、それを知らなければてんで話にならず、理解される上ではなから間口を狭めているようにも思えますが、普段の人当たりの良さも、美咲編での嫌悪を誘う腐れぶりも、根本的な下地として抜けきらない幼児性も、特に出し惜しみすることなく冬弥本人の性質として存分に描かれていることなので、別に派生元のことを詳しく知らなくても、一応WA内だけに限定し完結した状態でもおおまかな構造は把握することはできます。もっともヒントは多いに越したことはありませんが。
派生の関係上、彰というのは、入り乱れたすったもんだにメスを入れ、事態を綺麗さっぱり残らず解決に導く強力な切り札、最終兵器として、特大の役割を持ちます。え、だって顔まったく一緒でしょ?原画さんは異なるというのに。親戚だから似ているのは当然ですが、あえて限りなく寄せてキャラ作りしているのは、そこに何かしらの深い意味があるからです。冬弥とは敵対関係が本来の正式な形であって、その二人がなぜか親友している通常状態というのがそもそも正規モデルからは逸脱したねじれ要素です。そして交友のこじれが極まった美咲編という特別枠において、あらかじめねじれて良好になっていたものが逆方向にねじれて元に戻り、深刻さをもって先祖返りしたと言えます。あの人も乱心して不埒にいそしんではいるけれど内心では止めてくれる誰かを待っていたのだろうし、正面からガツンとやってくれる人には恩を感じて、結果的に心を開くきっかけにもなるかもしれません。それを体現したのが冬弥と彰の関係です。冬弥の今後のためにも一度は反目して徹底的にぶちのめすのが正解です。ガラスの心ならば砕けたら容易に元には戻りませんが、冬弥の心は氷なので、砕けても解けてまた凍れば十分に修復可能です。大人しく彰に天誅されて、更生に臨むことにしましょう。精神世界で「妹がいなくなった」と泣いている幼児形態のあの人と同様、冬弥も内部で「何かが見つからない」と泣きながら失われた半身を探している訳です。そこにきて彰ならば「それってはるかでしょ!?いっつも近くにいるじゃない、何言ってるの、意味判んない!」と、一気に正解を叩き出して、半ば強制的に状態を正常に引き戻してくれます。はるかも美咲も、過度な負荷をかけることで冬弥そのものが倒れ完全終了することをおそれて真実を言おうとしませんが、彰はそういうことまったく気にしません。ためらいなくズカッと頭に踏みこんでガッと病変を鷲掴みしてブチッと引きちぎって、バッと目の前に晒してくれます。荒療治ですが、手っ取り早く非常に効果的です。凛々しく颯爽としていて、彰はまさに冬弥だけの救世主、色んな意味で最強のヒロイ…男です。冬弥も女の子攻略してないで狙いを彰一本に絞った方がいいんじゃないですか?そうするのが絶対いいよ。正規の彰EDがもし存在するならば、それが最短最善の解決の道だと思います。
一般に、悪条件が重なりまくった末の展開とされている美咲編ですが、実は見かけ以上の悪条件が見かけ以上に重なって起きているものです。想像を絶する過負荷で、単に冬弥の心の弱さだけを元凶として断罪するにはあまりにも酷な条件です。記憶喪失もの・精神崩壊ものであれば、それならそうと本編内でちゃんと言ってくれればいいのですが、そうもいかないのがこの作品です。記憶喪失で精神崩壊の危機にある当の本人がそれを知らないで平然と無自覚に喋るというのが、WA最大の大仕掛けなので、そこを説明してしまうと物語の価値がなくなります。だとしても、もう少し何とかならないものかという気はします。辛いなら辛い、限界なら限界と言ってくれれば読み手だってそれなりに状況を察して寄り添った見方をすることも可能なのですが、冬弥はどうでもいい愚痴を並べるばかりで、肝心なことは何も言ってくれません。「言うことが不可能」という縛りがあるにしても、ぐずついたことに焦点を絞りすぎです。おかげで「些細なことにもくよくよ悩む小さい男」みたいに思われて、たまに本当に行き詰まって苦痛にあえぎ核心を突くような大事なことを言っても、深く受け取ってもらえません。自分を低く見せる言動は慎んでほしいです。
冬弥が脳がどうたらと言い出したら、目を留めて、近辺の記述をクローズアップして吟味するといいと思います。正規でない方のバレンタインイベントで「記憶に闇が貼りつく」と表現することもあり、本人には自覚意識はないながらも脳に異常があることがちゃんとはっきり記されているはずです。そして、苦悩の根源は由綺でも美咲でもなくまったく別に存在し、けれど、その実態は依然明らかにならないままだとも間接的にしっかり示唆されています。適当言って、判りきった話を無駄に絡ませ曖昧に濁して勿体つけているんじゃないですよ、判りっこない話なんです。冬弥は真実に手が届かないので、絶対に事態を説明することはできません。エピローグにて「脳がやっと孤独を認識した」つまり「『あの頃のはるか』は完全に失われ、もう戻ってはこないのだと悟った」時点で、冬弥はようやく涙を流します。記憶回復のタイムリミットを過ぎて3月に入り、冬弥を狂わせた大元の原因が、ついぞ正体を現さないままついに消滅した時点でもって、美咲編通して描かれる冬弥の暴走過程もこれにて終了という運びです。冬弥、憑き物が落ちたように晴れやかです。実際、見えない妄執から解放されて身軽になったのでしょう。とはいえ、暴走に起因する行動結果の数々を思うと気が重く、後処理は山積みで苦労しそうですが。まあ不安の発生源は根本から残らず消え去ったことだし、美咲の補助のもと、少しずつ片付けていけば大丈夫だと思います。
冬弥の症状は、よくありがちな、自分にとって嫌な記憶を自分で都合よく頭から消し去っている、いわゆるなんちゃって記憶喪失ではなく、かつての高熱による脳へのダメージで実際に器官が損傷してしまった本物の記憶喪失です。失くした記憶は冬弥にとって輝く大切なもので、忘れたくて忘れたのではありません。望んだ記憶喪失ではないのです。冬弥は失いたくなかったものを失くしており、心からその奪還を望みますが、どんなに取り返したくても絶対に取り戻せません。自分の意志で故意に封じただけの、継続も回復も自由自在な偽の記憶喪失ではないからです。実際に、本当に、現実に熱で焼き消えた部分はどうやっても元には戻らないからです。努力で戻るものなら何よりも優先してとっくに取り戻している所です。そんな本物の記憶喪失を抱え、さらには自分がそんな異常を抱えているとも知らないまま、冬弥は、普通の日常と信じて彼の日常を過ごしています。冬弥がそう信じているだけでそれは、元から普通でなどなかったのです。ただでさえ、いつ、どこで、どんな風に壊れるか知れない限界寸前の状況下、美咲編冬弥は患部にさらに追い打ちをかけるように負荷をかけていきます。関連事実の抹消により、絶対に答えが出る訳がない問いに、それでも何とか答えを出そうと思考をめぐらし一応の答えを出すものの、それが正答でないことは真実を熱心に求める冬弥には無意識に判ってしまうため、自分に言い聞かせ、誤答を無理やり正規の枠に押しこみます。そしてその無理がさらに彼の精神を圧迫します。間違いだと深層では理解しているからこそ自分の言い聞かせにも本当は納得できないし、それでも間違いを押し通すことでしか解答欄を埋められないので間違いと判っていてもそれに固執するしかなく、望まぬ誤答を自分の最終解答として受け入れなくてはならないジレンマに冬弥は苦しみます。一体どの時点でなら冬弥の負荷の累積を止められたのかもう全然判らなくなっていますが、初期段階の記憶損傷時点で既に致命的で、以後の3年余りはいわば小康状態での延命期間に過ぎなかったのかもしれません。終焉を先送りにすることで、のちに苦痛をより重く長引かせる結果となっています。
冬弥の記憶障害が、たとえばふとしたはずみや周囲の日々の働きかけ、医学的な治療などによって実質機能的に回復する可能性はほぼゼロですが、物語上の奇跡として唯一、はるかと結ばれることで冬弥は失われた過去を取り戻します。とはいっても、はるかとただ単にするだけでオールOK、他には何の条件もいらないお手軽設計、苦労もなしに記憶がらくらく舞い戻るイージー仕様ではありません。はるかが冬弥記憶喪失後の3年半を棒に振って、想い出の複製をしていることが非常に重要になってきます。はるか個人としては、自分の記憶の保守のために想い出の複製をしてその強化を図っていますが、ちょうどその行動が、冬弥に受け渡すスペアのアルバムを作成していることに繋がっているのです。実際には二度目の想い出に冬弥は同伴していなくても、はるかは常に冬弥に想いをはせ、彼がそこにいるものとして想い出を複製するので、実質二人の想い出として蓄積されていきます。そうやってはるかが体内あるいは脳内にスペアを蓄積していくことで、はるか自体が、オリジナルとスペアとが袋状・中表に折り重なった状態の想い出の塊、表面が裏白の綴じられたアルバムを白い体に収めた「ホワイトアルバム」となります。はるかが女性であることも関係し、彼女の女性としての体そのものが「ホワイトアルバム」のシンボルです。いうなれば「ホワイトアルバム=はるか」は錠付きの日記みたいなもので、冬弥を唯一の対応鍵として開くことができ、その中身を見ることができるのも厳密に冬弥ただ一人です。冬弥が、表面が白く塗り潰された空白で綴られたアルバムを内部に有し、そしてそれが現在進行形で雪に埋もれ、今なお白く綴られていっていることは、駆け足説明なはるかの項目でもざっくり述べた通りです。無意識にではありますが、冬弥が失った3年半を空白のまま保ち、他の誰もそこに迎え入れなかったこと、さらには残り3年半とも抱き合わせで真実を受け入れる空きスペースを確保していっていることも非常に重要です。はるかの持つ二重の想い出は、鍵と錠の合致により、もう一つの「ホワイトアルバム=冬弥」と適合、じかに接触し、複写され、冬弥は見事記憶を取り戻すという仕組みです。そういう訳で、直接入れて中で出し、しばらくそのままでいないことには、冬弥のアルバムははるかのアルバムを写し取れません。雌雄合わせて両方がホワイトアルバム、二つ合わせて初めて完全なホワイトアルバムといえます。そしてホワイトアルバムという二種の限定構造は、交わりを経てその機能を果たした後、役目を終え、失われます。かつてホワイトアルバムだったものは、二人の二重の想い出として強固に定着し、確かなものとして二人に共有されることになります。もし二人が早いうち、半端な時期に結ばれていたなら、複製が十分になされていないので、記憶回復も不完全で、まともには達成されなかったと考えられます。冬弥の記憶喪失を折り返し地点として、はるかが複製に、オリジナルと等量の時間を費やしたことが重要で、終点が起点に立ち返り重なることで初めて、はるかは「ホワイトアルバム」として完成します。折り返し地点、つまりはるかの最奥が、かつて冬弥が何かを失ったその瞬間であり、はるかが今の冬弥にそのスペアを渡せる場所でもあります。はるか編のラスト一歩前の段階でようやくはるかは原本として有効となり、その使用可能な期間はわずか約一週間です。奇跡が起きる条件はほんの一瞬に集中し限定されており、冬弥がはるかを取り戻す奇跡は、それこそ奇跡的な奇跡によって起きているのです。
記憶喪失は脳炎という現実的な要因で起きていて、実際に壊れたものはどうやっても元には戻せず、いかなる外部干渉でもびくともしない不治の症状なのに、記憶回復は夢物語のような一夜の奇跡で起きる、というのはご都合的で、理屈が徹底されていない気もしますが、あくまで「物語」なので、そこは甘めに受け止めることにします。非現実的な現象とはいえ一応は機構として理論的に説明できますし、相当に練りこまれた設定だと思います。まさか、無為に描写したあれこれがたまたま深読み解釈を包括するだけのゆとり(というか非限定性の曖昧さ)を持っていたというだけで特に深い意味はない、とはどうしても思えないので、やはり意図的な考えあっての計算だと思います。WAは派生の関係上、サイコ系ファンタジーの側面もあるので、それが遺憾なく発揮された流れといえるのではないでしょうか。性行為が直接精神に影響し、お互いの中で何かが変わり、何かを得、何かが失われるという、何かよく判らない不思議な現象が発生しているという点で、派生元の原則を忠実に再現していると思います。