美咲は悪女なのか論争。元々美咲には冬弥を奪うつもりは毛頭なく、日常のありふれた場面で、時々振り向く彼に笑いかけてもらえればそれでいい、くらいの小さな願いしかありませんでした。けっして踏みこんだ意味でなく、ごくささやかな範囲で冬弥に振り向いてほしくて、そう、振り向いてほしいのは確かで、美咲は日頃から彼にモーションをかけ続け、都度望みを叶えては満足していました。そんな、進展なく地味に続いていくはずの美咲の片想いでしたが、本編で冬弥の状態が怪しくなり始めます。今まで色々手管を尽くしてもまるで脈なしだった冬弥が、ここにきて、過剰に反応し始めます。美咲は冬弥の記憶喪失・認知障害を知っているので、ダミーの由綺と満足に会えないことを皮切りに、仮支えすらも失い、寂寥感を抱えた冬弥がついに失くした本物を、見つからないはるかを求めて均衡を崩し始めたことに気付いてしまいます。強引な詰め寄りは、いつもの冬弥では絶対に考えられない言動で、明らかに異常がさせている症状です。そんな折、美咲にはささやかで大それた願望が芽生えます。冬弥に正常な判断ができない間なら、その喪失感の隙間を埋める要員になら、なれるかもしれない。一時的な合間にだけ、限られた時間だけでも彼に相手してもらいたい。それはけっして確定的な関係ではなく、本当にほんの少し、今までよりも少しだけ近くで親密な時間を過ごせたらという慎ましい期待、あるいは不安定な冬弥の仮止めになりたいとの思いやりで、美咲は冬弥が距離を詰めてくるのを受け止めます。ところが、美咲の想定以上に冬弥の異常は深刻で、ちょっとの休息程度、穏便に相手する程度の話では収まりませんでした。行き着く所まで行ってしまいます。美咲は冬弥が、はるかが原因で異常をきたしていることをちゃんと判っているし、ぐらついた彼が危なげに美咲に寄りかかるのも暫定的、その異常ゆえだと判っています。それでも構わない。冬弥がまともに自律できないわずかな隙、その限られた期間が、美咲に与えられたボーナスステージです。けれど、冬弥そのものが押しても倒れ、引いても倒れる完全な境界線で、本当は、指一本触れてはならない極限状態だとまでは把握していませんでした。押しても引いても美咲が冬弥を落とせる好機、同時に、押しても引いても冬弥が冬弥を失う危機です。美咲は冬弥の一時的な不調は望んだけれど、完全な故障まで受け止める覚悟はなかった訳です。
さて、美咲は迷いのゆさぶりの一手で冬弥をついに陥落させたものの、それだけでは留まらず、冬弥自体が変貌し、突きつめた状況に急展開してしまいます。それでも何とか冬弥が即時故障するまでには至りませんでした。けど、それも時間の問題です。美咲との関係を火種に、爆弾の導火線はくすぶり始めます。そして同時に、美咲との関係により冬弥の意識がそれたことで、爆弾のタイマーは延長されることになります。冬弥の爆弾は、殻を破って中身が飛散する性質と、時が尽き爆発の暁には灰燼に帰す性質の両方があります。ある意味では炸裂、ある意味では瓦解します。以降の冬弥は、壊れる寸前でかろうじて持ちこたえる、非常にきわどい状態で日常を過ごすことになります。一方美咲は、確かに冬弥を引きつけようとはしていたものの、それはあくまで淡く甘い願望と見通しで、決定的な関係までは考慮に入れていなかったため、自分たちの行きすぎた関係に耐えきれず、また遠くない未来に完全に壊れきるであろう冬弥をおそれ、彼を避け始めます。冬弥を場におびきだしたのは確かに美咲ですが、行ける所まで行けそうという期待感だけは悶々とあったものの、最後までやり合う覚悟はというと、なかったのです色んな意味で。
美咲は純粋で優しい藤井君を振り向かせることだけに必死で、彼の手を掴んだ暁には、性悪で扱いにくい本性がもれなくついてくるだなんて考えてもいませんでした。冬弥の恵まれない生い立ちは知っていても、彼が自らの本心を厳重に伏せている以上、それが彼の内面に如実に影響していること、本質としての闇というものを外野が知覚するのは困難です。通常、表には一切出ませんから。美咲としては、そんな境遇にもかかわらず温和な冬弥に惹かれたのでしょうが、闇を「見せない」だけで、確実に闇は「ある」のです。そして現在、不幸な要因ではるかを失っている冬弥は、基盤が欠け、さらに危うい状態にあります。精神構造がゆらぎ、本性が表面近くまで浮上して有効化している冬弥は、いわば抜き身の刀です。相手を思いやることなく、不安を追いやるままに煩悶を押しつけます。美咲は雰囲気に流されて冬弥と関係を持ってしまいましたが、我に返ってよくよく考えるとそれはいつもの藤井君ではなかった気がする。確かに彼だけどどこか違った。それがいつの間にか、またいつもの藤井君に戻っている。でも、もはや元のままではなくなって、正体不明の不穏な空気をまとっている。センサーの鋭敏な美咲は、冬弥が故障を前にした最後のがたつきで、見える形ではないものの、大きな振れ幅で二つの状態を行き来していることを知ってしまいます。そして、失われていく従来の冬弥の、消え去りそうに脆い最後の優しさに染み入り、あるいは、暴走のままに強い態度で接触してくる本性の危うさに溺れていきます。
美咲はあくまでいつもの冬弥を基準に彼との交流シナリオを日々計画しているので、イレギュラーな本性が出てくると計算が狂い、対応しきれずぐだぐだになります。本性は常識では縛れず、美咲の準備したレール通りには動きやしませんから。せっかくの美咲の脚本力も、相手が相手ではまったく活かされません。ちなみに美咲編を進めない状態で得られるパネルの方が、どう考えても幸せで和やかな雰囲気のものが多く、美咲が本来想いを寄せているのはやはり、美咲編に進まなかった方の普通の冬弥だと思われます。美咲編というのは、誰にとっても最も不幸な、誰にも望まれない究極のカタストロフ展開です。ただそんな中でも美咲は、本性の方にも急激に引き寄せられているみたいで、吊り橋効果というやつなのか(ちょっと違うか、DVから離れられない的な?)、堕ちていくように危険な恋にはまり、抜け出せなくなっているようです。
結末として、美咲は何だかんだで冬弥を手に入れる成果をものにしているので、しおらしい困惑顔で、結局は人の男を略奪するしたたかな女であるかのように思われがちですが、由綺を蹴落としてでも冬弥をぶんどるなんてことはとてもとても、美咲はそこまで欲の皮つっぱった女ではありません。色々と策をめぐらす腹黒さはありますが、肝心の目的は非常に慎ましやかで、やることは重たいけど、本人自体はそこまで欲深ではないのです。否、欲は人並みにあるけれど「慎み深い」彼女は体面とたしなみから欲を満たすために実際に行動することはためらい、結果、願望は微弱化します。冬弥が一時的に羽を休める止まり木程度でいられればいいだけで、冬弥強奪・囲いこみにまで及ぶ覚悟はありません。冬弥を欲してはいるけれど、その欲を成就するために積極的に行動するだけの気概はありません。美咲は冬弥の気持ちは手に入れたいけれど、冬弥そのものを手に入れ、略奪者の立場を確定させるまではしたくないのです。
それでも確かな事実として、美咲は自ら由綺に話を切り出し、冬弥の横取りを決定づける行動に出ます。気弱な美咲に思いきった決断をさせるほどまでに冬弥への想いが高まった結果なのだとそのまま受け止めるべきで、また物語を締めくくらなければならないので、そう展開せざるを得ないのかもしれませんが、どうにも美咲らしくありません。いわゆる恋人というような確固たる立場を、彼女は多分に望んではいないからです。立場上の承認欲には乏しいものの、そっち系の欲は人並み以上の美咲は、終盤、辛抱たまらず冬弥の家に再び押しかけてきます。もう、だめだめです。それでも密通女として周りから公然と白眼視される状態にはなりたくないはずで、冬弥とは体の関係を維持しつつも、表面上は貞淑な女性像を取り繕っていたいはずです。つまり冬弥と由綺が正規の交際を続ける裏側で、誰にも知られず、愛人状態でずるずるとひそやかに肉体関係だけで繋がっていくことも、選択肢としてあり得たはずです。それならば欲も満たせ、体面も保て、誰を傷つけることもありません。裏切りにより潜在的に由綺のメンツを傷つけてはいますが、知られなければ問題ありません。計算高く、また各立場の心情を推し量ることができ、誰も傷つけたくなく、自分も傷つきたくない美咲ならば、自分が日陰の身で我慢することで丸く収めることを選ぶはずです。逆に、美咲がこの選択肢をとらない理由がなく、行動としては本来これしか考えられないのです。そんな美咲に望まぬ決断をさせたのには、引き金となる何かがあったのだと考えます。
皆を裏切っておきながら、何もなかったふりをして、誰も傷つけることなく今まで通りの毎日を送ること、はるかがそれを許さなかったのだと思います。はるか?何でそこではるかなのか。表向き、はるかには冬弥の女性問題に口出しする権限はありませんが、本来の当事者かつ冬弥暴走の原因で、すべての事情を把握している彼女は事実上、最も強い発言力を持ちます。美咲編において、何かとうろうろするはるかの姿が確認できますが、つまりは、あのはるかが「関与を隠しきれない」ほど、それだけ彼女が物語に深く関わっているということです。実際後半で、冬弥に美咲への思慮を促す働きかけをし、それが後の展開にまで響いていることから、二人の関係の確定化ははるかの意図する所のようです。美咲も、はるかが正統な相手だと判っているので、彼女の意向を拒むことはできません。はるかは、このまま二人が秘密の関係を続けていくには展望芳しくなく、足のつかない底無し沼に沈んでいくだけのようなものと判断しました。いつまでも続けていける関係ではなく、悲劇を先送りにしているだけ、発覚の折には積算された不幸が降りかかる、と。そのため美咲に早いうちの清算を促しました。そこで、冬弥にけじめをつけさせることをしないで、なぜ美咲だけに掛け合ったのかですが、それは崩壊寸前の冬弥には自分の状況を説明できるだけの認識も余力もないからです。かたや美咲の手持ちの認識としては、由綺が忙しくしている隙に寂しい冬弥をかすめ取ったという単純な経緯ではなく、冬弥そのものを壊すスイッチを押して恋の手合わせを始めたという大過があります。そっとしておけば問題なかったのに寝た子を起こした状態です。冬弥があと一差し一引きで落ちると判っていて手を下し、見えている地雷をあえて踏みにいった美咲には、それ相応の責任があります。はるかは常時ゆるやかに応対するので、何に対しても訳なく容認する、がばがばで締まりのないやつに思われていますが、あれで非常に身清い人間で、締める所は締め、筋はきっちり通します。はるかには美咲を責めるつもりはないけれど、それでも筋として、美咲は代償を支払わなくてはなりません。そうしなければ美咲にも始末がつけられず、彼女の精神衛生の面でもよくありません。そういう訳で、はるかは美咲を思えばこそ彼女に辛い決断を課すのです。
はるか、自分のシナリオでは黙秘を通して、それでいて美咲には決着を強いるってなんてずるいやつだって思いますが、彼女はそれぞれの場合に応じたそれぞれの最善の道を示しており、別に日和っている訳でもご都合している訳でもありません。条件が異なるので必然的にことの収め方が違ってくるだけです。記憶を取り戻すことで重いハンデが取り払われ、視野と度量が一足飛びに跳ね上がった、いわば完全体のはるかED冬弥ならば、長い目で見た適切な対処も、これまで荒れ果てるままにしてきた心の整理への着手も十分に可能ですが、美咲編冬弥は数ある冬弥の中でも症状末期の状態です。身を置く状況も、全方位を裏切った申し開きのできないものです。今は混乱の只中にあるため熟考を先延ばしにできていますが、冬弥がこの先、我に返った時、これまでと今を目の当たりにして、堕ちる所まで堕ちた自分を許せず、さらに一層自分に苦痛を強いることは間違いありません。冬弥頼むから無駄に無理すんな。せっかく正気を取り戻してもまた逆戻りです。また元より正気に戻ることなくそのまま完全に壊れてしまう可能性もあります。そのため死中に活を求める覚悟で、美咲との関係を確定し、罪を背負った上でこれ以上の悪化条件を断ち、目下考えられうる最低限度の最善の道をとる必要があったのです。許可っていうのも変ですけど、委任という形で冬弥を美咲に託したはるかは、彼女に辛い役回り、つまり由綺との対峙を求めます。元々はるか自体が自分を殺して冬弥と由綺の交際を見守り続けてきた前提があり、冬弥の無制御な暴走と巻きこみ、争えない美咲の性格、また彰の真っ白な恋も全部知った上で、それでも筋は正さねばならず、本来、他者に何をも求めることをしないはるかに、そういった無理な強制を余儀なくさせているというやるせなさがあります。由綺が何も気にせず自分のことに打ちこんでいる間に、美咲編の裏側では、思いもよらない人物が思いもよらない苦悩を抱え、そして耐えがたい決断を下していたということです。由綺はというと、物語において重要な役どころは少しも担っていません。形骸的に存在しているだけです。
美咲が望んだのはあくまでほんの小さな自己満足で、大々的で確定的な冬弥奪取は少しも望んではいませんでした。これは本当で、野心はこれっぽっちもありませんでした。しかしながら、願望はささやかだけれど性欲は旺盛で、冬弥に執着せずにはいられません。けっして悪女ではないのだけれど放漫な人ではあります。彰には絶対聞かせられない話です。絶対に内緒ですよ。「努めて」欲を「控える」慎み深い美咲ですが、その実、清純ではなくゆるゆるで、お情けを頂戴せずには自分を鎮められません。かといって積極的に動くでもなく、羞恥心から表立った要求ははばかられ、一貫、待ちの姿勢です。とにかく保身的です。強く出れば難なくやらせてくれて、わがままも寛容に受け止めてくれて、辛くて面倒な責任ごとは全部まるごと引き被ってくれる、そういう都合のよさで美咲を気に入っている人には非常に残念なお知らせですが、そう甘いもんではありません。冬弥のための完全なる無償の包容ではなく、美咲当人にも表に出せない思惑あってのことです。美咲は自分の欲求充足も見越した打算でもって冬弥をそそのかし、あくまで受け身という形で、自分からくわえこみに行っているのです。
美咲は繊細で気のつく性格ゆえに部外者だてらに事情を知りすぎており、それでも深部までは理解しようもなく、そして介入する資格は持たないながらもおっかなびっくり立ち入って、結果、予想以上の展開に巻きこまれますが、行き着く最後まで同行する覚悟はありません。裏側を知らないと、自身は何も悪くないのに冬弥の分まで責任を肩代わりして、必要以上に自分を苛むお花畑にしか見えない美咲ですが、実際には何の罪咎もない無辜の被害者ではなく、干渉が故意なだけに罪状は明白です。それでも行きすぎた野心やねじくれた悪意は皆無で、降って湧いた冬弥ゲットに戸惑う彼女をやみくもにやり手と一刀両断するのは気の毒です。美咲を一言で表すなら、中途半端。彼女は中途半端に知っていて、中途半端に干渉して、でも覚悟は中途半端で、中途半端にぎくしゃくして、中途半端に逃げて、でも完全に見捨てることはできなくて、中途半端に抱えこんで、でも全部は背負いきれなくて、そして中途半端に投げ出して降参し、中途半端に白状してしまいますが、みなまで明かしきることはできません。美咲は飛び抜けた聖女でも突き抜けた悪女でもなく、ただもうぐずついて見苦しい葛藤を抱えた、愛すべき半端者です。期待するほどの徳もなく糾弾するだけの非もないその中間。どうあっても高潔ではいられず、狡猾に徹することもできない、ひたすら優しく控えめで、生煮えで臆病で、そしていたって善良な迷える人なのです。人のことも自分のことも、とかく考えすぎだと思います。表面上あえて強調されているであろう、何でも受け入れ許してくれて、嫌なことは余さず受け持ってくれる、主体性がなくて勝手のいい女性、といったある種ゆがんだ理想像を当てはめるよりは、流され迷いつつもちゃんと自分なりの意志で動いている美咲像を知ることで、より一層彼女に魅力を感じることができるのではないでしょうか。