冬弥に母がいない(仮)、しかも母の命を犠牲にして生まれた(仮)という設定は、彼の人格形成過程を説明するプロフィールとして相当重要で欠かせない要素なのに、本人はそれを語りません。「母親がいない、『だから』こんな性格になった」と、因果関係を、母の不在という理由だけに一本化して決めつけられたくないのです。いやまあ、それが根本的な原因で、確実に影響を与えているからこそ、冬弥はあんな性格だとしか考えられないのですが、自分ではそれが主な理由だと認めたくないし、他人から断定されたくないのです。自分で自分を哀れみ、自己正当化の大義名分とするようなことはしたくないのです。そして、関連する話は、本文の中で一切直接的に明かされることはありません。言えば、ほぼ底辺に近い悪評が一転、同情の余地が加わり、彼の尊厳としてかなりの挽回になるはずなのに、彼はけっして言わないんです。繰り返します、言わないんです、一度たりとも。ヘタレとか弱っちいとかよく言われますが、こういう徹底した姿勢から考えても、本当はすごく芯の強い性格なんですよね。何かのはずみでぽっきり折れそうな危うい強さではありますが。また、感情素通りで見え見えの、手に取るように判りやすいザルな作りの安っぽい人間にしか見えませんが、本当は全然ちっともそうじゃない訳です。うかつなことを口走ってはマナから制裁を受けている冬弥ですが、あれは前振りで、ちゃんと判っていて、わざと「あ、言っちゃった」と挑発してやっていることです。ああいうのは、彼の中では言っても別に問題ないと判定されているので、そのまま喋っているだけです。素通りしていい感情は自己検閲の上、制止が入らないままそのまま通しているだけで、全部を素通りさせている訳ではありません。厳選されたものは冬弥の内側に留まり、ふるい落とされた結果だけがそのまま表に出ているだけです。何が選別されているのか、そのふるいの性質が明らかにならないから、見た目では何もふるわれていないように見えるだけです。いわゆる、巷でメインキャラとされている由綺や理奈による認識、その定型である「純朴で素直で判りやすい、流されやすくて頼りない冬弥君」というのは、ほんのうっすい表面の削りかすに過ぎなかったということです。彼女たちは冬弥のことをほとんど知ることなくシナリオを終えており、本当は作品的にそこまで重要な位置づけではないのかもしれません。
冬弥は、自分の家庭状況如何にかかわらず、自分をそのまま一人の人間として、変な条件指定なしに受け入れてくれる、はるかや彰といった幼少期からの友人を、見方によっては友好範囲の極端な狭さを感じられるくらいにとても大事にしています。冬弥は出生こそ不遇ですが、成育環境には恵まれ、周りの人たちの存在にかなり救われてきました。少なくとも母がいないことを、全部が全部、何かしらうまく立ち行かないことの理由だとして持ち出さないくらいには。だからこそ冬弥は、入試イベントでマナが友人たちと帰ることを望みました。マナを取りまく状況にかかわらず、当たり前に友達として普通に接する彼女たちが、マナにとって何よりも代えがたい貴重な存在だと解釈したからです。
その不幸な出生上、冬弥はそもそも「母を死なせてまで生まれてきただけの価値は自分にはない」と思っているため、「誰かに『自分こそが』求められる」条件を想定できません。自己評価が限りなく希薄なのです。「冬弥でなくてはだめ」「冬弥こそが必要だ」という「冬弥だから」選ばれる展開は、彼の頭には浮かびません。だから友人たちとの再会を果たしたマナが、彼女たちを蹴ってまで自分を選ぶなどとは考えもしません。当然友人たちを取るだろうと。自分の存在というのは、すべてにおいてただの間に合わせに過ぎず、他の選択肢があるなら迷わず捨て去って構わない、それだけの仮のものだと思っています。それは、冬弥が自分の命に負い目を感じて育つうち、自分で自分に繰り返し強固に刷りこんだ、根深い思考です。彼のポリシーというか、自らに課した戒律ともいえるもので、作中、至る所でいつもそんなことを言います。哀しい病理です。
皆さんは、冬弥の自己肯定感の乏しさについて、あまりにも限度を超えていると感じたことはありませんか?確かに彼はめざましい活躍を期待できる能力を何も持ち合わせていないので、それが一番の理由となって順当に自信のなさに繋がっているのも当然のように思えますが、それにしたって程度があります。ただ単純に「何者でもない自分に自信が持てない」といった青少年期にありふれた感覚ではなく、自分が自分のために何かする、自分のために他人に何かしてもらうということをはなから前提にしていない、つまりは「自分には、自分を含め誰かが心を砕くに相応な価値はない」かのような思いつめた思考が見え隠れします。転じて言うなら「自分は自分のために生きてはならない」「誰かのために生きるのでなければ、自分は生きる意義を持たない」として、常に罪悪感で自分を縛っているような。「少しでも誰かの役に立てたなら」といった前向きな望みというよりはあまりに強迫観念的です。理由もなく、単に生まれ持った気質として自虐と悲観に偏った傾向にあるだけ、ただのありがちなキャラ付けというには、冬弥には意味深で不可解な言動が多すぎ、そしてその論調は徹底して固定されています。目に見えない、何らかの確固たる前提に沿って、粛々と論理を展開しているかのようです。下地として、何か隠している一つの理由があって、それがぶれないコンパスとなって、冬弥特異な思考の方向は一点を示しているのです。関連事実が決定的に示されることはけっしてありませんが、作中のあらゆる描写、肝心のオチがついていない謎の数々から自ずと導き出される答えはある程度絞られ、一つの意味を持った空間、パズルのピースがちょうどはまりこむスペースを形作っています。
入試イベント後半というのは、マナは「待ってて」と念を押しているのに、冬弥はそれを無視して勝手に「彼女は友達と帰る方がいい」と決めつけ、街中ほっつき歩いて、その後何となく現場に足を運んだら、マナは雨の中でも構わず冬弥を待ち続けていた、という全然意味判らないめちゃくちゃな内容ですが、背景を割り出すと、支離滅裂に思える諸行動のすべてに説明がつき、一本の筋が通ります。「物語の展開がおかしい」のではなく、冬弥に関しては特に「一人の人間として、思考回路が根本的におかしい」、つまりは普通でない彼の、外れた行動の一端として描かれています。マナについては、彼女はけっして思考をこじらせている訳ではなく、ちゃんと展開に見合った妥当な観点から心情を推測できます。冬弥、友人たちの両方から見捨てられたという恨みがましい悲嘆で自失状態に陥っているのではなく、他でもない自分自身の希望に則った決断によって、不運にもどちらも手元に残らない結果になってしまい、誰が悪いのでもなく、ただそんな間の悪い自分を「馬鹿みたい」と自嘲しているのだと思います。そうそう得られない望ましい選択肢だけのボーナス分岐点だったはずなのに、自分はうまく立ち回れなかったと思うと、泣けてきます。また、せっかくの厚意が厚意として活かされることなく無に帰してしまったことで、相手からの思いやりは確かな実感として得られていただけに、それを自ら無価値にした自分がやるせないのです。悲哀の曲が流れるため、薄情と見込み外れを主旨とした肌寒い置いてきぼりエピソードに見えますが、ただひたすらに自己評価に乏しい相手主体な思いやりと、それまで直面したことのない両方がありがたすぎて選べない幸せな二択とその結果という、希有な人情の温かさへの、切ない実感をもって描かれた感涙の展開となっています。
友人たちは、ここ最近良好とは言えない立場にあるマナへの気まずさから、ぎこちない雰囲気をまとっているので、見ようによってはマナを遠回しに敬遠しているようにも受け取れますが、別にそんな心をえぐられる実情ではないようです。ノブコ(ショート)はまあ、ちょっと気が回らない所があって軽はずみなことばっかり言いますが、基本的に根のいいやつです。イヅミ(メガネ)は配慮しすぎで、何か口には出さない裏があるようにも見えますが、気にしいなだけでそのまま柔和な性格みたいです。二人は、マナにとって数少ない救いの存在のようです。あの不信感の塊のようなマナが、少なくない信頼を寄せているのを表に出してまで伝えようとしているということは、それだけ彼女たちの人柄が確かな証拠です。
今まで生きてきた中で「悪い」と「より悪い」のうち、少しはましな方に嫌々手をつける選択しか許されなかったマナにとって、冬弥と友人たちの二択は、どちらを手にしても喜ばしい双方プラスの選択です。そしてそれは、選ばなかった片方に対し不誠実ではないかとの心苦しさを感じる選択でもあります。おいそれとは選べず、迷います。友人たちはおそらくは、マナの決めきれない心情を察して、彼女が冬弥と帰ることを促したのだと思います。それを受けてマナは、友人たちの気遣いにありがたく従い、一人冬弥との待ち合わせ場所に赴いた。ところがそこに冬弥はいなかった。冬弥もまたマナを思いやって、彼女が友人たちと帰ることを想定して、身を潜めていました。両方がマナのために身を引いて、もう片方を立てたという訳です。マナはちゃんとその意図を理解できる人です。いまだかつて、こんなにまで自分のことを全方向から第一に思われたことはなく、みすぼらしい濡れ鼠状態でいながら、結構あれでマナは心底幸せな実感を噛みしめているのかもしれません。雨に濡れて体が冷えるのも気にならないくらい、ぬくもりで心満たされているのです。
作中、マナの問題行動?というか、人を馬鹿にして突き放したひねくれた姿勢について、冬弥は色々教育的な持論を展開しますが、ぬくぬくと温室で育った何の痛みもない青年が、複雑な家庭に身を置く少女のやりきれなさも知らず、軽く安易な気持ちでいっぱしの口をきいているのではないんです。「お幸せな人間からの同情なんて願い下げ」と、自分の方から遮断してやるスタイルを、そうでもしないとプライドを保てないからだと、自分とも照らし合わせて重々理解した上で、思い通りにいかないことばかりだけど、自分をごまかして何とか折り合いをつけて平凡にやり過ごすことは「できるよ」と、実体験を踏まえて語っているのです。冬弥ができたからといってマナも同じようにできるかというと、それはまた別の話で、それもまた価値観の押しつけといえば押しつけですが、そもそも冬弥は心の中で論理を展開するだけで、マナに直接何か教唆することはほとんどありません。マナにはマナでしか判らない独自の事情があり、訳ありの冬弥が訳あり事情を明かした所で、それがそのままマナの苦悩軽減に繋がるとは限りません。下手するとただの不幸自慢になって「何それ!?私より自分の方が不幸だからって、いい気になって説教しようってわけ!?立場が全然違うじゃない!」ってなるでしょう、間違いなく。冬弥の方でも、自分独自の苦悩は誰にも理解することはできないと決めつけており、理解できた気になどなってほしくないというのは嫌というほど感じてきているでしょう。現に、自分の父を引き合いに、冬弥の心労に対してそれなりの理解のほどを示す美咲に、当の冬弥は、特別欠けた所のない当たり前の毎日を平穏に送っているだろう美咲の父と自分とが似ていようはずもない、一緒にするな、とばかりにやや険のある受け答えをします。部外者に、むやみに同調という名の知ったかぶりをされたくないのです。なのでマナにもその心境を当てはめ、打ち明けたい気持ちは徐々に高まりつつも、事情を伏せ続けます。その辺の、けっして言葉として綴られることのない冬弥の内なる葛藤を踏まえてマナ編をおさらいすると、時々何かを言いたそうにしながら曖昧に濁す煮えきらなさと、やたら唐突に思える意味不明で前提不明な飛躍的論理展開に説明がつき、最終的にマナを選ぶという結末には、冬弥の生来の人生方針そのものをひっくり返す、かなり変革的な意味を伴った決意がこめられていると判ります。冬弥とマナの今後において、由綺とか恋愛とかはもうどうだっていいんです。相手に理解され肯定してもらうことすら、もう必要ではありません。お互いが、自分で自分を肯定するだけの余裕を持つことに、お互いがちょっとだけ後押しできただけで、相手の力になれたという小さな自信だけで、それだけで二人とも、これからをそれぞれに生きていけるのです。
冬弥はプライドを捨てて周りに迎合することで自分を安んじてきましたが、そんな風にへりくだって馴れ合うことなく、自分を曲げずに気を張っているマナは、それはそれで、信じる自分を貫いた理想像に映ります。冬弥自身にも選ぶことができた一つの可能性、自分にもあり得た自己像だと。自分は何も間違ってはいないのだから、自分をゆがめてまで周りに受け入れられようとする必要はなかった。マナのように生きるのは生きづらいけれど、それでも生き方として、冬弥が自ら手放した、泣きたいほどにまばゆい可能性を見せてくれます。そう、何も間違ってなどいないのだと、自分を肯定し、断言する力強い姿を。そういう訳で、マナをもう一人の自分として、正しさの証明として、その選択を尊重し、行く先を大事に守りたいという気持ちがあります。自分がそれを選べなかった分だけ、彼女に自分の一部を託す想いで。このように、冬弥の根幹を動かしうる要素をマナは持っており、そういう意味では由綺よりずっと、彼にとって心理的に近い距離にいます。
冬弥がマナを選ぶにあたって、そこまでの気持ちはないのに可哀想な少女に同情するあまり無責任に深入りしただけで、決定的な理由がなく、どうしてもそうしなければならないという必然性はどこにも見当たらない、だからいまいち腑に落ちない、とよく言われますが、他でもない冬弥が重い痛みを抱えて生きてきたという背景により、話が大幅に違ってきます。ただの通りすがりの気まぐれな同情じゃないんです。冬弥が自ら傷を晒し、お互いの痛みを分かち合えるかもという期待を寄せられる相手はマナしかいないんです。基礎設定時点で、由綺よりも確実に重要度は上です。痛みの共有という点で、マナには圧倒的なアドバンテージがあり、ある面では由綺どころかはるかをも上回ります。はるかは冬弥の「救い」「癒し」としてはこの上ない最上の存在ですが、冬弥自らの「マイナス思考の緩和」に向けてはまったく意味を持ちません。はるかは冬弥を、マイナス思考込みでそれが冬弥だとまるごと受け止めているため、根本から状態を改善することはできません。冬弥が自分に「許し」を与える後押しにはならないのです。冬弥が「自力で」自分を何とかするための片翼は、同じく「自力で」自分を何とかしようともがく只中にいるマナしかおらず、彼女以上に冬弥の成長を促す存在、互助効果を持つ存在はいないということです。
冬弥が十分でない環境で育ったからといって、それは彼の問題点である浮気を正当化する理由にはなりませんが、少なくともマナ編に関しては「『大した理由もなく』気分で浮気をしている」という従来の説を覆すことはできます。「浮気」はともかくとして、マナを「選んだ」正当な理由づけはなされます。冬弥には冬弥なりの事情があって、相応の理由があって、彼が彼として望む通りの選択をしているのです。冬弥は、恋愛感情ではなく、もっと近しい親密な感情でマナを抱いているので、厳密には、恋人としての由綺を裏切っているのではありません。恋人がいようがいまいが、マナの位置づけの重要度は変動しません。由綺との恋人関係とマナとの親密関係は、それはそれ、これはこれで、まったく方向性が違い、二つの要素に置換性はありません。
作品の外観上、由綺と理奈だけが話の核で、後はついでで価値が数段落ちるかのように受け取られがちで、WAの本筋というのは、芸能界を交えた下世話でセンセーショナルな三角関係が他でもない最大のメイン要素だとされています。しかし、それではそこに冬弥という一個の人格を持った人間のありようは何も反映されていません。冬弥本人の本分は本当はそこではなく、本領発揮できていない状態です。つまり、由綺・理奈目線での冬弥だけを指して彼を論じるというのは、あんまり意味がないことなのです。WAが、心理描写に乏しい浅い物語だとして、深掘りするに値しないと切り捨てられ、世間的にいまいち評価されてこなかったのは、宣伝範囲を特定の見せかけ要素だけに狭めた上、あえて表現を制限した形で表現することを選んだ製作側の自業自得だと思います。ていうか多分、そうなると見越してそれでも通したことなんでしょう。「謎解き」が真のメインテーマであり、またそれが真の作品ジャンルでもあります。ハンデ込みで完成している作品です。それだけに、ひとたび制限を突破してしまえば、それはもう類を見ない強力な破壊力を持った物語と言えます。確かに人を選ぶので合わない人には絶対合わないですけど。緻密な人物描写がなされ完成度の高いWA2と比べて無印は圧倒的に出来が悪く不満が残るのでプレイする価値はないとか、何かと極端に引き立て扱いされますが、実際はそうでもないよと、ささやかですが声を上げたいと思います。