大晦日に冬弥が実家に電話した時、父は、一人で過ごす時間の有益性を語り、冬弥の帰宅を拒否します。その際はっきりとはしませんが、暗に、父もまた一人で過ごしていることを前提とした感じの物言いをします。藤井邸には現在、父しかいないのです。家には父しかいないと判りきっているのに「この声は親父だ」と語るのも冬弥の茶番でしょう。冬弥としては、父さんが一人で寂しがってると思って家に帰ろうとしてたのに、邪険にされたので心底不服そうです。父に対しやたら強気なのが気になりますが、あれははるかに対するのと同じで、強い態度に出る割に実際には頭が上がらないのだと思います。冬弥はほとほと内弁慶ですからね。マナに脛を蹴られるお約束はその暗喩だと思います。何にせよ冬弥は結構なファザコンだと思います。良き父ぶりを坊さんに褒められて調子に乗る父の話をする時の、冬弥の呆れているようで嬉しさを隠しきれない態度といったらもう。そんな自慢の父が冬弥の記憶喪失事情を把握しているかどうかは判りませんが、もし承知の上なら、近すぎて見えにくくなっているはるかとの関係を一新し、彼女について改めて考え直す時間を設けるため、冬弥に一人暮らしをさせているのかもしれません。藤井家、河島家の間で事情は暗黙の了解なのかもしれません。見えない所で父は頭を下げてくれているんだと思います。なお、父が冬弥の現恋人の由綺についてどう思っているのかは判りません。話を戻して、実家に父しかいない想定についてですが、冬弥が実家に電話して向こうが出るとしたら、それは父以外いないのだと思います。父が出ないのなら、それはそのまま家に誰もいないということです。というか初めから、冬弥が家に電話かけて出てくるとしたら父だけだし、父が電話かけて出てくるとしたら冬弥だけだったのだと思います。父は妻を亡くして以来、いい人を作ることもなく、藤井邸に入り浸る女性はせいぜいはるかくらいだったと考えます。派生元は子供の成育環境として明朗でなく、性的にゆがまざるを得ない状態だったのですが、藤井父は亡き妻に誓いを立て、男盛りを謳歌することなく、持てる精力をすべて転化して子育てに明け暮れていたのかもしれません。それはそれでひずみが生じるというか、冬弥が過度に潔癖で欲を恥じる性格なのも、そうした父の気質がもろに伝染したんじゃないかと想像します。とりあえず、水着番組見るくらいの娯楽は四の五の言わずに許してあげましょう。
作中、父の出番はほんのわずかですが、その間にも色んなことが示されており、想像をふくらませるのに役立ちます。特に冬弥の、父に対する態度には注目です。ぶーたれたり、利かん気を見せたり、すごく甘やかされて苦労知らずに育った感を前面に出します。でもあれ、そのまま本気に取っちゃだめですよ。ああいう自己演出です。物心ついた頃から自身の家庭状況を察し、父が辛い思いをしていることを理解せざるを得なかった冬弥は、基本物分かりがよくて手がかからず、時として「子供らしい子供」を演じることで、父を安心させようとしていたのでは。父を困らせない範囲で「わざと」ごねて、子供らしく振る舞うことで、自分は何一つ我慢していないのだと、母がいないことで感じる不満や苦痛は何一つないのだと、当たり前に「子供」でいられているよと、父にアピールしていたのだと思います。でも本当の要求は口にできません。禁句だからです。「本当は辛い、子供でいたい」なんて絶対に言えません。それを要求する時点で、現時点で子供であることを自分で否定することになるからです。父に無用な心痛を与えないためにも、それだけは伝わってはなりません。冬弥はほぼ生まれつき、空気を読みすぎて、本当に子供でいられた時間なんか一度もなかったのだと思います。マナ編においては「子供は子供でいていいんだよ」と、冬弥自身が誰かに言ってほしかった言葉を、自分には言い聞かせられなかった言葉を、マナへの内なる見解を通すことで間接的に自分に向けて跳ね返すことにより、幾らかの充足を得ることができますが、それ以外の展開では特に目に見えて状態が改善されることはなく、成人に近い年齢の現在まで子供ぶる演技は固定化されたままです。多分そういう症候群なんだと思います。生来そうした鬱屈を抱える冬弥に対し、父が何の手立ても取らなかったのかですが、父の方でも問題を言葉にして確定化するのは避けたいことです。冬弥の状態は判っていても、解決のつかない、どうにもならないことでしかありません。そういう訳で温かな見守りありきで、あえて患部には触れず、豪胆でわだかまりのない気楽な父を演じています。「父さんも平気だぞ」と。そして冬弥もそれを判っています。藤井父子のやりとりは何のつっかえもないぬるいコントのようですが、相互理解のもと、あえて平和な馬鹿話をしているのです。それが父子のお決まりのパターンなんです。
要するに、美咲の子供時代とは正反対の経過が、冬弥の子供時代にはあったということです。美咲の想い出話に対する冬弥の、言いたいことがありそうなのに明瞭でない態度から考えて、単純に美咲を掘り下げるためだけの余話とは思えず、冬弥絡みで何らかの深い意図があって展開されているはずで、言語としては表現されない冬弥の隠し設定との対比として表立って描かれ、可視化されていると考えます。ほのめかしはWAという作品における常套手段ですが、行間には実質テキストを上回る大量の情報が仕込まれていると踏みます。年端もいかぬ頃は駄々っ子だった美咲も、親の気苦労をくみとる流れでいつしか成長し、今では誰に対しても心配りできる立派な人物になっており、いわば順調に大人への階段を上ったと言えますが、冬弥はというと、初めから子供ではいられなかっただけに彼は大人へと羽化することができません。今も昔も変わらないからです。美咲の当たり前に満たされた子供時代に「あっそう、幸せで良かったね、でも俺だって、別に自分のこと不幸だなんて思ったことないけどね」と胸の内では鼻を鳴らしていると思います。子供時代の美咲の様子に「可愛いなあ」、過去を省みる現在の美咲について「大人だなあ」みたいに独白しているのは、完全に意識そらしです。「子供は結局、どうしたってわがままでなくなんてなれない」と一般化の上で断定されては、生まれつき「我慢できるよ」と自分を押さえつけ、あまつさえ「我慢してないよ」と自分を偽ってきた冬弥には大人に成長するための余地がありません。「これ以上、俺にどうしろっていうんだよ」です。美咲はあくまで自分の話として子供時代の業を語っているので、冬弥に何をか当てつけているのではないのかもしれませんが、さすがに訳ありの冬弥に面と向かって言ってしまうのはどうかと思います。美咲としては「気持ち判るよ」という歩み寄りなのかもしれませんが逆効果です。確実に「俺の気持ちが判ってたまるか」となります。負傷者に駆け寄って手当てするつもりで、逆にこすりつけて傷を広げ痛がらせているようなもので、結構よくある話です。微笑ましそうな雰囲気で美咲の話に大人しく耳を傾ける冬弥ですが、目は全然笑ってないと思います。口を開く前のわずかな沈黙というか、一瞬の「間」が怖いです。一見、心温まるほっこりエピソードで癒しの効果しかないと思われがちですが、実は張りつめた空気が流れており、冬弥がいつ豹変して美咲に当たるか判らない緊迫の事態です。冬弥にとっては心をなぶられ、いたぶられる話でしかありません。あいにく美咲に対しあまり好感的な意識でのイベントではないと思います。冬弥側の忍耐によって表面化されないだけで、美咲に関しては一貫して、水面下では割とこの感覚で徹底されています。大概のことには卑屈な姿勢で従属し、角を立てない冬弥ですが、わずかに、独自のこだわりの品位を守るという一点においてのみ、絶対に折れないし弱みも見せません。同情されることを最も嫌います。自分のポリシーはけっして譲らず、他人に触れさせようともしません。ああ見えて、局所的にとても気位が高いのです。
マナ編で重点的に取り沙汰される冬弥の食生活についてですが、彼は普段自炊していないようです。外で食べているのかもっぱら惣菜やインスタントなのか知りませんが、そもそもちゃんと食べてんのか心配になります。老婆心はひとまず置いておくとして、少し引っかかります。これまでの自説が真実であると仮定して、それまで父子二人暮らしであったなら、当然冬弥にも家事分担が大きく課せられていたはずで、また自立にうるさい藤井父が、冬弥を生活力のない状態でそのままにしておくとは思えません。息子を顎で使っていたはずです。冬弥が料理できないとは単純に受け入れにくいのです。関連してもう一つ、気になることがあります。冬弥は中盤、マナの看病のために病人食を作りますが、その際にあまりにも何ごとも起こらなさすぎるのです。人によりけりかもしれませんが、ほとんど料理経験のない初心者が、何の手引きもなしにぶっつけでまともな料理ができるものなのかなと疑問に思います。卵や野菜を買いこんでいることから、米だけの白粥ではなく、具材入りの手の込んだ調理粥と思われます。冬弥は見よう見まねで何とかなるみたいに言いますが、微妙な調味とか細かい切り揃え(病人食ですからね)とか火入れ状態とか、相当危なっかしいことになりそうなものなのに、そんなトラブルはなかったらしく料理過程の様子は特に描かれません。そして現物ですけど、風邪のため本調子でないとはいえ、あのやかましいマナが冬弥の料理に一切文句を言わずぱくついています。てことは、ちゃんと食える食事が作れているということです。何を隠そう、実は冬弥にはのっけから人並み外れた料理の才能が!…なんてことは凡庸が身上の彼にはあり得ないドラマで、そうではなく何か妥当なからくりがあるんだと思います。おそらくは、習った覚えがないのに、なぜか料理を作れる状態なのだと考えます。記憶はないのに体が手順を覚えているってやつです。そう、冬弥の記憶は一部失われているのです。ポイントとなるのはやはりはるかです。はるかが当たり前に料理することを、ずっと身近にいたはずの冬弥が全然知らないのは、記憶喪失によるいつものあれなのか、それとも本当は知っているのに「はるかなんかに料理は似合わない」という個人的な決めつけで、認識を封じてはるか像を捏造しているだけなのか、その辺はよく判りませんが、冬弥はかつてはるか経由で最低限度の料理手腕を習得していたのだと思います。それは完全な子供時代から脱却し、親の負担を減らすべく自立し始める少年期だったはずで、ちょうどそれは冬弥の空白期間と重なります。修練の日々は冬弥から失われ、彼の意識は料理を習う前へとリセットされ、料理習慣もまた失われました。高校後半から冬弥引っ越しまでの間で、藤井家の台所事情がどうなっていたのか不明ですが、冬弥本人としては記憶は失われたとはいえ、一通り習ったことをまた繰り返すのは無意識に面倒がったのか、新たに料理を始めようと奮起することはなかったようです。現在一人暮らしをするにあたって、必要にせまられて改めて自炊をし始めても良さそうなものですが、父がいる実家ならばまだしも、自分一人のためだけに料理をする気にはなれないのかもしれません。冬弥は自分のために何かするということが根本的にできない人なんだと思います。なお、伸び盛りでのあらゆる成長・吸収要素は常にはるかと共にあったので、それが失われたことで現在の冬弥は、言いようもなく世間知らずな無知キャラとして停滞しています。もしかしたら冬弥は、本当は色々できる子なのに、自分では「できる事実を知らない」のかもしれません。
場面変わって冬弥が看病される側になった際、快く看病してくれるマナについて「初めて駅で会った時の彼女の笑顔を思い出す」と冬弥は言いますが、その時のマナに既視感として誰かを思い起こしていることは、作中で幾度も言及されます。ここで、マナの第一印象を介して間接的に既視感と看病とが結びつけられることで、想定の人物がかつての大病での事後経過で実際に冬弥を看病していた人物となれば、それははるかでしかないとほぼ確定します。病み上がり期間は正確には記憶損傷箇所には該当しませんが、色々はるかに世話されていても意識が朦朧としていて状況をおぼろげにしか覚えていない、うっすらとした優しい面影しか残っていないのだと思います。はるかに世話になりっぱなしなのに冬弥ってばすっかり忘れ去っていて困ったものです。そしてひとしきりの回想の直後に由綺が訪ねてきて、これがまたタイミング良すぎなものだから、プレイヤーには格好の目くらましになっています。冬弥が言及する瞼の裏の献身の人物とは由綺ではないというのに。まったくはるかときたら、命の危機に付き添ってくれた恩人なのに何も言わずただ側にいるだけなんて、それじゃまるで人魚姫だよ。願わくは、お風呂の泡になって消えていなくなってしまいませんように。
河島兄妹と兄妹弟同然に育ってきたらしき冬弥ですが、一方で、その両親である河島夫妻とはそこまで密接な関わりはなさそうです。その背景が関係しているのか、冬弥は作中で夫妻を信用しきれていない独白をこぼします。しかし見方によっては、夫妻が冬弥にあまり干渉してこなかったのは夫妻サイドの配慮とも考えられます。母のいない冬弥に、満ち足りた家庭を見せつけることは残酷なことです。当たり前のことが冬弥にとっては当たり前でなく、何が彼を傷つける結果になるか判りません。そのため、実際の干渉は子供たちに一任し、夫妻は見えない所でフォローに徹していたのではないでしょうか。はるかは、ネグレクト家庭で突然変異的に満ち足りた性格に育ったのではなく、両親ともに思いやりのある家庭環境だからこそ、それを受け継いだ性格になったのだと思います。その方が因果関係として自然です。冬弥は夫妻を悪く言いますが、実際はよその子の冬弥もまた温かく見守られていたということです。大切なことは目に見えにくいだけです。はるかの性格を鑑みるに、両親も多分に説明不足な人たちでそれが誤解を生んでいるようですが、それにしたって冬弥は勘違い甚だしく、恩知らずにも程があると思います。はるか本人からして、その内面の確かな愛情深さとは裏腹に、愛情表現の形は非常に淡白で、冷淡とも取れるくらいです。同様に、目に見えて判るむき出しで雄弁な愛情表現をしないからといって、夫妻が本当に娘に愛情を持っていないとは限りません。冬弥の夫妻への非難ははるかを大切に想えばこそなのでしょうが、夫妻は娘の意思を尊重して冬弥の側にいさせたのだろうし、項目冒頭で述べたように、そもそも葬儀での情景は、冬弥に記憶損傷という異常な制限があった上での話なので実際の経緯は不明で、河島夫妻がはるかを軽んじているとする冬弥の見解には何の信憑性もありません。成育環境が良くても子がまともに育つとは限りませんが、立派に育った子の成育環境というのはえてして良好です。冷えきった家庭ではるかという抜きん出た人格が育つ訳がないんです。あのはるかを育て上げた両親が、自分たちの悲しみにとらわれ、残されたはるかに気が回らない、なんてことはあり得ない話です。息子から失われた栄光ある将来だけを重んじ、娘には期待をかけず目を向けない、などという虚栄心と不平等を基準とする両親なら、はるかはあんな、こだわりがなく思いつめた所もない博愛の人にはなっていません。ただ、マナ編との関係で、冬弥がマナをはるかと混同して思い入れを募らせていくためのきっかけが物語上どうしても必要なので、そのため便宜上でだけ、事実とは反しながらも、冬弥が「はるかは両親から愛されず、捨て置かれている」と思いこんでいる状態になっているのだと思います。冬弥の中で真実になっていることは、実は冬弥の中だけの勘違いで、現実には真実でないことの方がずっと多いので、あまり正面から信じこまない方がいいと思います。
マナ編の結末の裏側について。冬弥に包みこまれ、充足し、心から安心できる日常を過ごしたことで子供時代を卒業できたマナは、冬弥の帰宅後に一人取り残され、頭を冷やして考えることで、ここにきてふと彼の真実に目を留めるに至ります。冬弥から彼の真事情を聞かされた上で、改めて、これまでの彼との数か月を振り返るにあたって、マナは彼の病巣に気付き、彼の今後を危惧します。冬弥という人が、由綺から伝え聞いたような「ただひたすらに優しい彼」という甘く生半可な次元ではないことにマナは気付いてしまいます。お人好しというレベルを軽く飛び越え、自分を一切顧みず他者への奉仕に身を削る性質は、完全に異常者の域です。冬弥の秘められた生い立ちは、そっくりそのまま「自分を大事にできない異常さ」という深刻な症状として表面化しています。冬弥は、自分の命を肯定できず、他人に尽くすことでしか自分の存在意義を確認できない人です。相手を、生き甲斐の対象と指定してしまうと、それ一つに全力投球してしまい、他が見えなくなり、行き着く所まで行ってしまいます。マナへの看病においても、徐々に疲労が蓄積していっていることを自覚してはいても、それでも冬弥は自分を休めるということをしません。自分を虐げぬきます。冬弥自身の喋りが、いつもああいうネジのゆるんだ悠長な感じなので、どうしても差しせまった深刻な状態とは受け止めづらいですが、明らかに「根本的におかしい」のです。明らかにおかしい兆候はそこかしこに散見されたのに、それでも冬弥本人はいたって普通にしているので、マナは実際に冬弥から事情を明かされるまで、彼がそんな重荷を抱えているなんて考えもしませんでした。そのことを知った以上、彼をそのまま病んだ状態にはしておけません。しかしながら、現状マナには冬弥の根詰めを止めることはできません。現に彼の優しさに甘えきって、今の今まで、彼の事情を知った後もしばらくは、彼自身の状態に目を向ける余裕はありませんでした。大人として開眼した今だからこそ判ることがあります。自分がこのままでは彼と一緒に居続けることはできない。一方的に守られ尽くされる存在のままでは、結局、彼が彼自身を傷つけてゆくのを、判っていながら止められません。そのため、マナは一度冬弥と離れることを決意します。マナがいずれ成長し、冬弥の極まった思考の癖を緩和できるだけの余裕を持てるようになるまでしばしのお別れ、冬弥を心の奥底から救い上げるために必ず戻ってくると誓って、マナ編は終了となります。
TV放送で、音楽祭のステージをやり遂げる由綺の姿に感銘を受け、自分を見つめ直したマナは「私、何かやるね」と言い出します。「何か」やるといったって「何か」って何なのかって話です。マナの発言は漠然としており、具体的な見通しは何一つ示されていません。マナが威勢だけで、なんかそれっぽいことを大げさに言っては実際にやった気になってしまうのは今までだってそうだったし、表面的には何も変わりません。だもんで、マナ自身に目ぼしい成長要素は確認できないと見なされがちです。そして決意表明としてあまりにも曖昧で弱い、と。けれどそれは、言語として徹底して隠されている一連の流れをくむもので、だからこそ順路上、自動的に明確な言葉にはされていないだけで、実質、マナの目標はほぼ確定していると思います。冬弥が生まれ持った深い生傷の痛みを和らげる方法を見つけること。これしか考えられません。だとすれば、マナが一度冬弥から離れ、そして再び会いに行くと固く約束するのも、理屈に合います。マナが新しい住所を教えないのも、冬弥が「弱虫」だから。尽くす対象なしにはまともに自分の生を生きていけない、そして寄る辺を必要としてふらふら来てしまう冬弥の病理を知るからこそです。溺愛することで自分が溺れてしまう人だからです。マナはそれを修正したい。解決法を独学で探るつもりなのか、進学先で学ぶつもりなのかは判りません。マナが冬弥の事情を知るのは大学入試を終えた「後」になるので、そのことが志望学部指定に直接影響することはありませんが、マナ自体にも孤独な家庭事情があり、屈折して育った自分を納得させる意味でも、元からそういう方面の進路を選んでいるのかもしれません。そしてその場合、本来自分のために選んだ進路が、奇遇にも冬弥を救うための道筋として大きな意味を持つことになります。自分と冬弥、双方ともの進歩のため、発展的な意義を見いだせます。何よりも自分のためであり、次いで、自分だけのためでもない。マナは、一人で道行くことを選びながら、冬弥の救済を胸に、実質二人で目的地を目指すことになります。作中、冬弥に対するマナの心情は淡い初恋のようなもので、てんで深みのある重厚な恋愛としては描かれていませんが、最終的には恋愛という段階を既に上回っており、恋愛よりも深みのある、人間性そのものを重視したゆるがない関係の構築を選んだと言えるのではないでしょうか。子供の恋愛ごっこにしか見えないマナ編ですが、裏側では、割と高めの精神年齢でもって描かれている大人向けのシナリオみたいです。