補足28


冬弥は人の痛みを分かつ人です。なので普段は相手が嫌がるであろうことは極力しません。もっともはるかや彰には日頃何かと厚かましく振る舞いますが、ここまでなら大丈夫という彼ら相互での線引きで調整がきいていることで、特に害はありません。冬弥が遠慮抜きなのと同じくらい、相手方も遠慮しないのが普通で、冬弥だけが一方的に言い放題している訳ではありません。はるかも彰も冬弥には色々と手厳しいです。冬弥がたまに繰り出す辛辣指摘の、見た目に強気なほんの字面だけに脊髄反射して全体を見ない人はそこ割と見落としがちですが、冬弥の方でもばっさり食らって痛み分けな関係性にあります。それを「ええー?」程度のゆるいブーイングオチにできる関係です。冬弥の辛口意見は基本独白止まりな上、仮に直接発言するにせよ率直な指摘が「相互間で可能」という下地ありきであり、いたって対等です。やりすぎたと感じたら冬弥は即反省して態度を切り替え修正します。感度が高いから相手の感情の小さな波にもすぐ気付いて読み取ります。悪ガキやらかすこと自体に反感を持たれやすいですが大事なのはその後のリカバリーで、この辺の素直な機転というかバランス感覚は、冬弥固有の長所としてもっと評価されてもいい部分だと思います。まあ初めから図に乗りすぎなければ済む話ですけど、そこまで求めるのは求めすぎでしょう。


冬弥の不躾はあくまで、行き過ぎを経てもそうした改めにより修復可能という親しさへの信頼で担保されていることで、その他の特に親しくない相手には彼は徹底して当たり障りなく無難に接します。親交薄い人の気を損ねたらそれまでで、誰に対しても挽回の機会があるとは限らないのは当然に判っているから。美咲はもっぱらその無難対応の相手であり、そこまでの信頼関係は構築されていません。


そういう訳で通常冬弥は美咲に対し、心を開くでもなく完全遮断するでもなく、社交辞令的な友好を示して歓待します。そしてここからの説明が難しくなるのですが、まったくの見知らぬ人よりかは交友は確かなので、冬弥は美咲についてある程度の認知はあり、その分の信頼はあります。冬弥にとって美咲はそこまで特別な存在には至っていませんが、美咲自体の人間性には心服しており、彼女をとても評価し、尊重しています。冬弥一身上の人間不信の都合で個人的には美咲に信用を向けないけれど、美咲単体は絶対的に信用しています。「冬弥は」人を信じないたちで美咲を信じないものの、「美咲の」信頼性は確信しているということです。


そんな美咲に冬弥は、博愛的というか良識の領域で「大切にしたい」との意識で接します。かといって美咲本人が「特別な人」「大切な人」というのではないのです。別に特別な意味での「好き」ではありません。どう言えばいいのやら、これだけ理解があって大切にしたいと思うのなら、もうそれは特別感情だろうと判定する人もいるかもしれませんが、あいにく「冬弥は」その考え方ではなさそうです。どちらがいい悪い、どちらが普通かそうでないかの問題ではなく、この場合「たまたま」冬弥がそういう考えではないというだけです。冬弥は「(自分から見て)個人的に大事」な相手でなくても「(相手自体を)個人として大事」にできる人です。人によっては恋愛認定が当然の正答かもしれませんが、冬弥の正解ではありません。美咲を評価して大切に思う公共心はあっても、特に自分個人のものにしたいという私情は起きません。


美咲編冬弥が分別つかないまでに美咲を追い回す、あれこそまさに熱情の表れではないかと思われるかもしれませんが、あれは別に好意が高ぶった結果ではありません。美咲への好意は一貫して「ソーシャルで人道的に大切にしたい」性質のもので、けっして「プライベートで個人的に焦がれる」訳ではないのです。冬弥が美咲に公の観点で好意を持つのと、冬弥が美咲に言い寄るのとはそれぞれまったく別の経路で起きていることで、その二つは因果として結びつきません。それとこれは別個の事情です。冬弥が美咲を好きなのは事実です。確かに冬弥は美咲が好きですが、私の観点での好意ではありません。その好きは美咲個人を熱望する種類のものではなく、それによって彼女を追う動向に発展することはありません。冬弥が美咲を追いかける事態は一貫して、好意ではない他の要因で起きている無関係な現象です。美咲が好きでも、だからって追いかけるなんて真似は冬弥はしないし、美咲を追いかけているからといってそれはまったく好きの表れではないのです。「普通、好きならそういう好き以外にない、相手に近寄る理由はそれ以外にない」と思うのはその当人感覚での一般の好きの普通であって、冬弥はそうではありません。


冬弥は閉鎖的なので、自分にとって特別な存在だと認定する基準がやたら制限されていて、そうそうその対象と見なすことはありません。面識程度に仲良くする垣根は非常に低い一方で、個人的、特別に好きで大切に思う相手は徹底的に厳選しています。基本冬弥は誰にでも優しくしますが、無論それがその相手が好きだからという訳ではないのはいくらでも理解可能なことだと思います。好きな相手にしか優しくしない価値観の人にはピンとこないかもしれませんが、特に好きでなくても彼は人に優しくできる人です。好意的なのがそのまま直接好意の表れとは限らないのです。ぱっと見は人当たりがいいのでとかく来る者拒まずなたらしの優男と認識されがちですが、性根は全然そうではなくむしろ逆でくっきり線引き、ぬるい愛想の裏で大半をことごとくはじいています。冬弥というのはもう、確立してそういうやつなんです。広い許容範囲内にあって本当に受け入れるかどうかの関所は厳正です。そして美咲はそこを通過していません。


これはひとえに冬弥個人の性格の問題といえますが、とはいえその難を指して単純に人格としての欠陥どうこうの話に落としこめるものでもなく、そういう要素があるからといって性格自体が害なのではありません。その性格が「要因」というだけでそれが「いけない」のではなく、単に冬弥にはそうした独自の個性があるという客観的事実に過ぎません。それを無理に矯正する必要はないと思います。世の中そう善人ばかりじゃないので慎重にふるいにかけるに越したことはありません。一方で不信を相手に気取られてはそれはそれで角が立つので、礼を欠かない程度に友好を示すのが最低限の必須スキルだと思います。


読者は冬弥の独白を直接目の当たりにするから彼の中身に若干引く部分もありますが、作中人物にはあの癖強い独白が一切伝わらず温厚な表面しか視認できないのだとすれば、めいめい好意的にすぎる冬弥評にも納得がいくでしょう。読者が持つ冬弥像と作中でもてはやされる冬弥像が噛み合わないのはそのためです。こんなちんけな男がここまで好かれるなんて「ねーよ」と思われるかもしれませんが、案外「ねーよ」でもないんです。よくある主人公補正としての無条件絶賛ではなく、それがきわめて妥当と言えるだけの実質があります。冬弥目線から一歩引いて客観視すると「こいつ実はすげえな」としか思えないですもん。総じて読者大半のひんしゅくを買っている普段の独白ですが、冬弥はあれ、全然表には出していないんですよ。主人公のうじうじした性格が好かないというのがWAの不人気要素としてしばしば挙げられますが、その不評の主要因であるうじうじを、彼は人前では一切出しません。見た目には、ちょっと抜けた所のある素朴で柔和な好青年でしかないんです。内面の愚痴内容とは裏腹に、その自分の個人的な気分を対外に持ちこむことはほぼありません。色々毒づいているとか、悶々悩んでいるとか、そういう典型的な冬弥個性は外部から見た彼の姿にそのままで反映されることはありません。なごみ顔の裏でまさかそんな思考が展開しているだなんて、じかに対面する相手によほどの感覚がない限り見抜けるはずもないのです。


読者印象ではいつも不平不満ばかり言っている感で認識される冬弥ですが、外観としては逆に、けっして不平不満を感じさせない穏やかで安心できる人物に見えるというのが彼の実態です。不平不満が「あるのに言えない」抑圧むき出し状態じゃなく、不平不満が「あるようにはまるで見えない」「あってもまるで見せない」んです。困った様子はしつつも嫌々な態度ではなく、何だかんだでさらっと対応して特に何も当てつけません。なかなかお目にかかることのない相当な好人物です、独白を見なければ。普段こんなにも自分をコントロールできているって、よく考えたらかなりすごくないですかこれ?内から外への変換で、あれだけもの愚痴総量が微塵も気配に残らないんですよ?出たとしてもせいぜい「えー?」くらいなのんきなものです。それがいいかっていうと、ある意味人間として逆に怖い、余計怖いといえばそうなのかもしれません。腹黒い点でも、実質想定をかなり上回る点でも底知れなくてめちゃくちゃ怖い。私は冬弥怖いです。


先ほど注釈として「普段」は、と限定しました。普段は感情を内部で制御しおおせている冬弥ですが、時として彼は暴走します。その暴走が致命的すぎるのでどうしても冬弥をそこメインで注目することになり、結果として当然の最低評価がくだります。彼が制御不能に陥るのは基本、はるかトリガー発動下のみで、記憶の空白を刺激されるなりはるか欠乏に苛まれるなりの理由でなりふり構えなくなる条件に限られます。彼ははるかトリガー以外の理由で見境をなくすことはありません。言い換えれば暴走要素はそれ以外にはないのです。冬弥が作中で問題を起こす大半は彼自身の性格によるものではなく、回避不能の強制要因によって別格に引き起こされていることです。それは彼の制御系統の範囲外にあります。不可避のはるかトリガーで一気にがっと心を持っていかれて不覚になるだけで、普段の内面うじうじの方は内側のみでしっかりけじめづけられており、その悩みが突発的行動に結びつくことはありません。


脇道展開での冬弥は基本的に割合まともなんですよ。というかこっちが普段の当たり前の冬弥です。イベント発生の道に進んだ別の自分に向けてか、想定する行動に「いや、そんなのはどうかしてる」調のセルフつっこみがなされることもままあることです。シナリオ本線を外れた方は目ぼしい出来事が特に起きないのでつい「価値が低い」と思いがちですが、冬弥の「考えを読める」という点では貴重な機会です。しかも端的なことを手短にまとめて言ってくれるのでむしろ「こっちのが有益」まであるくらいです。フラグを折った場合にこそ冬弥本来の制御優位な価値観が反映されていたりするので参考までに、彼の人物判定の足しにしてみてはいかがでしょう。


ちなみに由綺のフラグを折る場合も例外でなく、冬弥のまともぶりを垣間見れます。彼女の急すぎる無茶振り要請に乗っからない選択では、ざっと要約しますと「いくら由綺のためだからって私情で勝手に元ある予定を変更するのはどうかと思う」みたいなわきまえを語ります。思わず笑っちゃうほど正論な正論で、確かに確かに。ああ、それがだめなんだってこと本当はちゃんと本人判ってるんだ…。他にも、むやみに聞き入れる言いなり状態を指して「下手したらアイドル森川由綺にかしずいてるだけになる」と自己批判します。自分をよく判ってるじゃないですか。自分の問題点をしっかり自覚できています。見たくない現実も直視しています。想定する由綺像は相変わらず現物とはズレていて思いやりに満ちたものですが、まあでもかしずくなんて自己イメージが浮かぶこと自体、半分もう気付いているようなものです。由綺から扱われる自分の立場が人道的におかしいということも「奥底では」ちゃんと承知の上で普段から懐広くして合わせているのだと窺えます。それらを力説するでもなくさらっと素で普通に当たり前に述べることからも、こっちが本来の冬弥思考なんだろうなとつくづく感じます。


ただ彼は致命的な欠陥として「自分を守る」という意識が異常すぎるほど欠けていて、「自分が責められる」事態を厭いません。誰かを立てるのに自分の不義理が生じる場合「自分の方を落とす」という方法で決着してしまいます。本人としてはそれなりに十分な自覚があって、周りのことも見えていて、けっして無思慮ではないのに、それでも何らかの板挟みになった時「率先して自分が悪者になる」ことで収束をはかってしまう闇の深さを持ちます。普通の人なら自分の身を案じて普通こんなことになりません。冬弥は標準から逸脱した存在として、あえてそういう性質に徹底されている特異主人公です。


相手に応じて態度を使い分けることからどうも、見た人の感じ方によっては強い者にへたれて弱い者に偉ぶる卑怯者的な冬弥概念があるようです。いわゆる内弁慶というやつでしょうか。彼は確かに、内弁慶は内弁慶なんですよ。典型例です。ただその内弁慶はそうしたよく見受けられる一般ケースとは違った彼なりの原則があって、格下認定した者を見下して強く当たるのではなく、親しい相手に甘えて図に乗ってやらかすパターンです。まあ問題行動には変わりありませんが。関係浅い相手に対しても、萎縮で尻込みしてものを言えないのではなく、対外的には低姿勢な応対の裏で大体いつも淡々と様子見をしていて、ニュアンスが根本的に違います。


冬弥は幼なじみ二人については結構ディスとも取れる(ディスとしか思えない)言及をしますが、くさすのと同じくらいかそれ以上の内容で、褒める部分はちゃんと褒めます。くさす「だけじゃない」んです。マイナスを挙げただけでもうそれだけに噛みついて他が頭に入らなくなる人も割合多いので見落とされがちですが、別口で長所を認める発言の機会をしっかり確保しています。ただ作品スタイル上、短い区切りで構成された会話群の集合体になっているため、アゲサゲがそれぞれ単発で発信される場合が多いせいでそれがなかなか公平に把握されないんですよ。一連の会話の中でアゲサゲ同時にワンセットで入れてもらわないと、その収支が作品全体では実質(実数ではなく質で)プラスになっていることが感じ取れない人もいるかもしれません。


冬弥はけっして幼なじみを下位に置いておらず、彼らには対等な目線が向けられています。その目で見て感じたことを率直に語って、それがたまたまディスになる「場合もある」だけです。つまり常に上から物申す位置取りなのでなく、一方ではリスペクトする「場合もある」ということです。よく見ると冬弥、結構こまめにフォローを入れたり、ちょっとしたことにも反応して「いいねそれ」と共感したり、ちゃんと褒めるんですよ。褒めてんですよ。地味に。いい所はいいとちゃんと認めて尊重しています。それも、別に「冬弥基準を満たしているから」褒めるのではなく「相手基準の価値」そのままを認めて褒めます。「自分が」採点してやる、ではなく「相手に」感嘆します。褒め方として理想の形です。ただ心証の問題なのか、これら地味に褒めるエピソードというのは目にした時の障りが特にないだけに、どうしても読み流したそのままでスルーされがちで話として頭に残りません。かなりハイレベルなことをしているのにです。もっともハイレベルだからこそ目立たない自然さに帰結しているのですが。一方で読者的に気に障るダメ出しエピソードの方ばかりが強烈な印象で刻みこまれます。結果、幼なじみには横柄に振る舞うマイナスイメージだけが冬弥に定着してしまうようです。


幼なじみディスは裏を返せば、短所も含めて彼らの要素で、それでもなお冬弥は彼らを心から大事にしているという親愛描写です。この短所がだめ!と吐き捨てるのがメインの目的ではなく、それがあっても別に構わない、さしてマイナスにならないという寛容さの方がより重要なポイントです。短所といっても、そういう「一面がある」くらいの認識で、そこに強い否定感情はありません。この短所が「あるからだめ」「あったらだめ」ではなく、色々ある中で「残念な所もある」「そこはどうしようもないね」というだけです。両者は全然別物なのに、なぜかその違いが判らない人はいるもので、冬弥の所見に不必要に反発するケースもままあるようです。何でもかんでも全否定してかかる人がいつも通り全否定するのと違って、冬弥は基本穏便で、めったに否定側に回らない人間です。その彼がたまたま数度、気のない否定の形を取るだけで、そのたった数度をして、彼全部が思い上がって人を下に見る何様な性格だとされたりします。…えっ?ってなる。どちらかというと努めて公正寄りを心掛ける人物が逆に??公正を欠いた粗野な人物像で受け取られる??えっ??公正だからこそ肯定するのみならず時には否定もします。長所も短所も把握した上で相手を尊重できるというのはむしろ理想中の理想で、信頼としては相当高度だと思うのですが、なかなかその本質通りには認識されないようです。


信頼が構築されていない相手をディスるのでは、それじゃただの悪意、中傷でしかありません。前提としてディスをリスペクトが大幅に上回る相手にのみ、平気でディスる「ことがあり」ます。いつもいつもじゃない。レギュラーのリスペクトの方が先行して絶対優位にあるので、そこに多少ディスが混じろうとさほど見下げる意識になりません。というか、実質的にはディスという単純な否定行為ではなく「そういう一面がある」くらいのごく正直な指摘に過ぎません。そこに気持ちの上での遠慮がないだけです。


第一、それらディス発言は「直接には言わない」場合がほとんどです。「言っていない」んです。例によって「あくまで独白に過ぎない」形式です。冬弥の偉そう発言は大抵独白止まりで、対面相手に直接叩きつけて思い知らせてやった、なんて状況はほぼ発生しません。はるか相手に限ってはまあ、完全になくはないですが、「言う」「言わない」の比率としては確実に「言わない」が主流です。


言わないのは何より、口任せの放言は相手の気持ちを害するおそれがあると判っているからです。人間関係として当たり前ですけど、言っちゃだめなことは言うものでありません。その分別はついています。親愛相手に対し「思うこと」は率直で、時にはその中にディス内容もありますが、同時に相手へのリスペクトも確かだから、単に相手を貶めるだけの文言は「口に出さない」のです。心では何かしら否定的に思ったとしても、相手へのリスペクトが高ければむげにそれを言い放つ結果にはなりません。内心にディスがあっても、リスペクトによって言動が調整されて「結果」としてはディスの形で表明されることはない、という一連の過程があります。結果は「否定していない」で決着する、ここが大事です。構造を把握していないと本質を取り違えることになります。最終的な結果は全体でみる必要があります。


超個人視点での偏見気味なディス意見も、思うだけなら本人の自由です。人によっては、否定感を持つだけで悪意の人間だとアウト指定する人もいるかもしれませんが、そんなのアウトにならない人いないですよ。マイナス感情を持たないで生きるなんてできますか?実際言わなくて結果荒れていないのなら、それで何の支障もないのではないでしょうか。


なお、このようにディスがリスペクトとの兼ね合いになっているのはあくまで冬弥個別の原則で、内弁慶は必ずこうってことではないです。世にありふれたトラブル元の内弁慶の場合、ディスるならそれは大抵言葉通りに見下した攻撃で、誰もがそんな内訳ではありません。冬弥のようなケースはメジャーでなく非常に限定的だと思います。彼の思考はそう単純ではありません。


まず、対はるかについて。冬弥がはるかをくさす文句の大半は「だらしない」関連で占められています。ですが実は逆に彼女は根底ではとてもまめな性格です。確かにだらしない一面もありますが、やることを適宜しれっとこなした上での延長線で存分に怠け生活をしています。本当に何もしない訳ではありません。そして冬弥はそれを当然に承知しています。本文でも折に触れて言及ないし描写されていると思います。手抜きに見えるはるかが、手抜きをすることにかけては手を抜かないってこと。要するに、基礎段階で大事なことを必要分しっかり揃えて詰めていれば後は大勢に影響なし、割と楽できるってことです。事前にいかにベースを整えておくかが大事で、はるかはそれを「怠ることなく」実践・実現できている人です。はるかはずさんな手抜きはしません。万全な手抜きです。ただの無気力じゃなくて戦略的気楽なのです。当時は理解されにくくて目立たなかったスタイルですが、現代ではもうこれ当たり前の考え方ですよね。はるかさん早すぎて時代の先を行きすぎた。


ちなみにはるかのだらしなさには一貫して不摂生要素はなく、ああ見えて非常に整っています。はるかを単純にノーメンテと思っている人いませんか?はるかは素地を綺麗に「している」から素地が素地から綺麗なんですよ。下地作りにほぼ抜かりがないのです。


はるかがそうした思考回路で動いていることへの直接的な言語化はされないものの、随時それを結論として導き出すのに直結可能な言及がされています。それは、語り手の冬弥がはるかの本質をおおむね理解しているということです。手抜きスタイルを取るはるかのことを普段「よく判らないやつ」と評しながら、その手抜きシステムが高い効果を発するのをざっくり判っているという裏構図があります。冬弥の「判らない」は大体「本当は判ってる」だったりします。理解した上でのポーズで、彼はあえて難癖をつけます。はるかはそれを言われて嬉しい訳ですよ。「だらしない」という指摘、言い換えれば「はるかが全然すごく見えない」というのは、労力の意義を水面下に集中させることに費やすはるかにとって「はるかすごいな」と言われているのと同義なんです。努力として特に何もやっていない人が何もやっていないことを指摘されたならそのまま痛い所を突かれることになりますが、はるかの場合、何もやってなく「見える」ことは最大の賛辞です。対はるかに限ってはディスがそのままディスとして成立しません。はるかには無効で、ディスがまったくディスになりません。単なる否定の意味で使われる一般的ディスとは違う結果になります。


冬弥はまずはるか自体が高度なことを内心ちゃんと認めています。そのスタンスの理屈もおよそ判っています。声をかける上でどう構えば彼女が喜ぶかも心得ています。そしてそれらを何も知らないていでディスります。両者ともに高度な域にないと成り立たないことです。実質彼女の人間性を「毀損する内容になりはしない」との認識なので、冬弥のディスにはためらいがありません。本音は敬服、そんなはるかを最高にリスペクトしていますからね。はるかの本質に理解ある冬弥が、そのスタンスを把握した上でその意をくんだ知らんふり対応をしてくれるとなれば、はるかとしてはかなり嬉しいと思いますよ。こいつら見た目へぼそうに見えて、実はかなり優れたレアキャラなんです、どっちも。別方面でどっちも。へぼく見えるとこも含め、すごいことができているのにそれが全然目立っていないのがどれだけすごいことなのか、判ってからが面白い設定になっています。


とはいえはるかが現実「だらしなく」していることには違いなく、それ自体は確かなので、もちろんダメ出しの意味も当然あります。ただ冬弥は欠点をなじって相手を落とす性格ではなく、そういう所あるよなくらいにしか思っていません。欠点をさほど否定対象と見なしていないのです。また「困ったやつ」とは思っていても、その難が帳消しになるくらいはるかに対するリスペクトが大きいため、はるかの欠点を挙げたところで冬弥としてははるかイメージに大したマイナスはありません。困り要素があっても、それでもはるかの良さは変わらないという逆転のおのろけなんですよ。


裏の本筋を押さえてはるかディスの意味合いをしっかり把握してしまえば、冬弥がはるかを心底好きなことはもうデレデレなくらいに伝わりますが、そこが判らない人にはまったくピンとこないかもしれません。冬弥がやたらはるかを馬鹿にしているとしか取れないのでは。そうじゃないんだなあ。「俺のはるか」大絶賛にあふれた本音を言葉にするのは恥ずかしいので必死に隠しているだけです。内弁慶にも色々ある中、そういう出方の内弁慶なのですわ。それにはるかは正面きって褒めても大抵薄い反応をするだけでそんなに喜びません。はるかが褒めて喜ぶなら冬弥だってそっちに合わせますよ。はるかくらい卓越していると褒められることへの要求は特になく、かえってダメ出しされることで実感を確認する方が嬉しいのかもしれません。超人にしか判らない境地です。


お小言カモンで視界にゴロンする(比喩)はるかに対し、無言圧の要望通りに冬弥は呆れてみせます。はるかが「喜ぶから」冬弥はそうします。基本「はるかが」叱られたくて挑発するから、冬弥は「快く応じて」叱ってみせている訳です。順序が逆なんですよ。冬弥が感情できつく当たるのをはるかが大目に許しているの図ではなく、はるかが「構って」というのを冬弥が「しょうがないな」と応じてシメている図が彼らの基礎地にあります。いわゆる芸としてのボケツッコミも本来そうですよね。前提に「型がちゃんと定まっている」ありきです。ただこの「両者示し合わせ」という暗黙ルールの判らない人が場面だけ切り取って見た時、それは一方的な横暴にしか見えません。こういうのを「横暴が許される」様式として目をつけた人が、ルールを知ってか知らずか勝手に自分事に流用してルールなしに決行するケースが後を絶たず、今やそっちの事例がメジャーですが、問題があるのはそっち側だけで、役割合意でやるケースは特に害はないと思います。


あともう一つ、違いが判らない人には「横暴許さない」系のパターンもあり、お約束で確立している実情に対しそぐわない非難をかざしたりします。どちらにせよ本質を取り違えた人が当たり前に意味を変質させてしまうので、この手の表現全般はゆがめられ、事例ごとにある本来の方向性で受け取られることはもはや難しいのかもしれません。なお問題がこじれる人たちのケースは実際に「その関係性に」問題があるから問題になるのでしょうし、それもまた個別事例で、それはそれで存在するパターンです。冬弥パターンとは全然別物です。問題パターンと問題ないパターンを一緒にするなということです。


冬弥の「はるか下げ」はまた、はるかを自分側の存在として、謙遜の適用範囲を自分だけでなく近辺にも広げたものです。「身内下げ」というものでしょうか。自他の認知を踏み越えている問題もありますがここではとりあえず保留します。「謙遜」自体は元々「愛情」とは独立して存在する概念で、また「身内下げ」も元々は「謙遜のみ」に限った表現です。なお元から身内を見下して下げるケースは「意図ある表現」には当てはまらないのでここでは除外します。そんな中、身内に愛情深い人の中には「身内下げ」で自制するのに加えて愛情表現のニュアンスをこめる人もいます。中の中の中、ということで複数の限定を経た層が本来の該当者です。身内下げという「謙遜」に、追加でそこに「愛情」をこめる人もいるということですが、あくまで「人もいる」です、必ず入っている訳ではありません。謙遜は固定、愛情はオプションです。で、冬弥はちょうどその少数限定層にあたります。


冬弥は身内下げを愛情表現という亜種の意味で使っていて、またはるかはそれがそうした言葉だと承知しているだろうから、彼らの関係においては何も問題なく愛情表現として成立します。ただ、こうした個別ケースは今や非常にまれです。愛情以前に謙遜の概念からして理解されにくくなったようで、こういうのを侮蔑表現としか見なさない場合もあります。表記的には「下げ」に違いないのでそれも仕方ありませんが。そういう構造を持った「一つの様式」なんだと区切って理解できる人は今もそれなりにいると思うんですけど、通じない人にかかったら範囲拡大で問題化する方向にしか認識されません。否定の解釈が固まりつつある中でそれと違う用法で使っても、否定の解釈で受け取られる可能性の方が圧倒的に高いので、今となっては表現として使うにはいささかリスキーと言わざるを得ません。まあわざわざ表立って下げても特に何もいいことはないし、余計なことは初めから言わないに限ります。


大体が惰性で通じ合えてしまう冬弥はるかですが、そんな彼らでもいつでも同じパターンが通るとは限りません。いつものパターンがいつも通りにいかない時、ごくごくたまに、はるかにも気分じゃない時があります。定期イベントがまさにそれで、特例中の特例です。


今日もはるかのやつがぼやぼやしてるから、よし構ってやろうと「いつものやつ」をやったけど、はるかの反応はすぐれない。あっこれは違うやつだと気付いた冬弥は、自分の行動のまずさを悟ります。振りを取り下げる頃にはもう冬弥の方がいたたまれなくて後悔で泣きそうになってる感じ。この動向だけでも、いわゆるいじりと呼ばれる「マウント行動」とは全然別物であることが明らかだと思います。冬弥ははるかに対するからかいを「好意を示す意図」でやっているので、彼女が困惑し傷ついてしまうのは本意でありません。嫌がったらちゃんとやめます。冬弥はいじられたくない人をいじるようなことはしません。なお本道でない選択肢では、そのたび状態の不穏を瞬時に察知して深入りせずにはるかをそのままそっとしています。


からかいが問題になる場合、やりとりの当事者同士の「関係性そのもの」に問題があるから問題なのであって、個別の「からかいそのもの」に問題があるかどうかは別問題です。問題ある場合もあるし問題ない場合もあります。問題あるのに「ただの冗談」と矮小化されてもみ消されるケース、問題ないのに「からかいすべて見下し行為」と一律非難されるケース、どちらにせよ力関係ないし発言力がものを言います。いじりにしろ過剰反応にしろ問題があるのは当事者関係で、そして冬弥はるかは関係悪くないので、そのからかいケースは先のどちらでもなく、同列に置くものではありません。


また、いわゆるノンデリと呼ばれる概念とも違います。この事態が起きたのは冬弥自体が無神経な性格だからではありません。というのもはるかの基本行動として、しばし引っぱってから変なものを繰り出して冬弥を驚かせて楽しむというのが恒例になっています。大方のケースではそうやってはるかが喜ぶのは標準なので、冬弥がその前振りで「見せて」とせがむのは本来なら正解のはずでした。はるかが普段から冬弥に構われたがる性分で、冬弥はある意味そのはるか需要を満たすサービスのために彼女をからかった訳です。いわゆる一般男性が一般女性の女心をくみとれなくて地雷を踏むのとは、同じようで同じではありません。冬弥は一般における「一律やっちゃだめなパターン」をやったのではなく、いつもならはるかが喜ぶはずのはるか合わせパターンが「その回はだめだったパターン」です。


冬弥はるかの場合、下地にある関係性や発生条件が一般の普通とは全然異なるので、無条件の一般論を持ちこんで行動をジャッジしてもまったく道理が噛み合いません。冬弥は親しくもない人には初めからこんな絡み方しないし、親しくてもそれが相手の趣味に合わないならしません。はるかだからやっている特別なことで、はるかの趣味にカスタマイズして個別対応でやったことです。ただ、はるかの気分にもごくまれに例外はあって、それに気付くのが若干遅れてしまった。しかし「遅れた」だけで結果的にはちゃんと気付けています。気付いた時点で、対面のはるかに合わせた対応に即時切り替わっています。


一応いつものはるかと違う雰囲気は初動から散見されますが、違和感があってもどうしても習慣が勝ってしまうものです。また普段のはるかが超安定しているもんだから、冬弥はそうそう彼女の波に遭遇したことがなく、状態に対する経験が多くありません。さらにはその波すら微弱で顕著に表面化しないので、それを見抜くのは相当困難です。マナみたいに普段からギャーって言ってる子は「なんかいつもより不機嫌だな」とすぐ判って気を付けますが、はるかの浮き沈みは傍目にほとんど判りません。おそらく冬弥でなければはるかの波に気付くこと自体が不可能なのでは?冬弥視点の作品内で「冬弥が」気付けているだけで、冬弥でないそれ以外の人は大半がはるかの兆候を感じ取れないと思います。当イベントは、くみとり高難度なはるか感情に対してかなりのアドバンテージで底上げされた普段がある中での惰性が効かない超特例で、その非常時への対応にこそ冬弥の度量が出てくると言えるでしょう。


この二人がけっして共依存に浸りきった自堕落関係ではないことを示す重要なエピソードです。甘えで許されないこともある、何でもありな訳じゃないことがしっかりと描かれています。これがあるかないかで全体像がまったく違ってきます。いや共依存は共依存でそこは確かに違いないのですが、時折それに伴う盲信に気付いては境界を切り分け、本人なりに身を正して進歩します。ちょっとだけ。その一歩の継続が進歩。とかく共依存だけの話と狭めてとらえがちですが、それ以上に大事なのは、そこに気付きと切り替えが生じるのびしろです。二人の癒着を結びとした話ではなく、逆に「俺達は別々なんだ」という自覚に至る過程がメインテーマです。現状を最終地点とはしていません。こういうのをきっちり挿しこんでくれるからWAの人物描写には奥行きがあっていいと思います。それに価値を見いだすかは人それぞれですけど。話の中身に複雑で面倒な構造はいらないのが多数派なら、さようですかとしか。