しばし脱線して、定期の話の深掘り。しばらく問答したのち結局はるかが冬弥に見せた現物は、かつて撮られた河島兄妹の写真です。そして兄が故人であることは既に述べられている前提です。その兄について、冬弥はそのまま話題続行します。そこ傷深いんだからもうその辺でやめたらって普通は思います。悩めるはるかの患部をえぐり、追い打ちをかける心ない所業のように思われますが、本当にそうなのでしょうか。「裏を加味するに」外野が思うような内情ではないのかもしれません。
手品師並みの器用さで「何か」を隠したはるかが、その器用さがありながらそれをそのまま単純に「はい」と出す訳がないでしょう?しかもかなり渋って、出すのに困ったものを。はるかが出したものは、当初見ていたものとは別のものです。でもなければ冬弥に「手品師か」とたとえさせる意味がありません。「手品師」の具体イメージを湧かせること自体に意味があるのならそれは、その場に「手品師的なアクション」が秘められているからで、だからこそわざわざ「手品師」という特定の言葉が使われているのだと思います。
つまりはるかは何らかの回避策として「すり替えで」兄との写真を出しています。現場の照準を兄の話へと移行させたのははるか本人なんです。だとすればその誘導に「乗っかって」冬弥が話を継ぐのなら、隠した「本当の本題」からは話がそれることになるのではるかとしては本望、好都合です。冬弥ははるかが触れられたくない部分には触れず、はるか本人が引きつけた方に触れる動きを取るので、彼の対応がはるかを害したとする判定をそのまま安易にくだすのは妥当でないかもしれません。外野から一見するといかにも不適切を問われる案件に思えますが、実質としては外野が考える方向には事態は動いておらず、結論を出すにはまだいくらかの補足が必要です。
ですが実際問題、兄の話題がはるかにとって刃となるのは確かです。いかに彼女の誘導に従った結果とはいえ、冬弥の独白展開はとても好ましいと言えません。兄について語りこんだのち、その割に彼の死をとても他人事のように言います。そしてその話はそこそこで切り上げて、唐突に自分語りを始めます。一見、自分の立ち位置、立ち居振る舞いへの感覚が乏しい低質な人です。明らかな感傷エピソードに対してこの温度感、人の痛みが判らないのか?と感じて当たり前な対応です。ここら辺の違和感をこれから解き進めていきます。
物思いのはるかが本当は何を見つめ、何を隠したのか、結局はまったく不明のままです。そこで基本に立ち返るに、作品のコアは一貫して冬弥の記憶問題なので、当時の関連品ではないかとの可能性が高まります。本文では一切明示されることはなく確定はしませんが「冬弥ははるかとの想い出を失っている」というのが全編読解によって導き出されるメイン格の結論である以上、該当のものはまさにその一節をとらえた写真なのだろうというのは、そうかけ離れた空想でもないでしょう。
当時のはるか記憶のうち、テニスをする姿だけはかろうじて冬弥の中に残っているらしく、そしてそのことははるかとしても把握しています。なので彼女が苦肉の策として身代わりで冬弥に差し出したのは、彼の脳を錯乱させることのない「テニス姿の自分」の写った「兄との写真」です。ですが冬弥にとってテニス姿すら即死リスクとしてギリギリのラインだったようで、自己防衛反応なのか、テニスはるかに焦点が合いづらい?描写も挟まれます。これが喪失部分に該当する直撃の写真だったらどうなっていたか、危ぶまれる事態です。
物語全体としては冬弥の中で「はるかの記憶」が欠けている事象がメイン軸で、これは必須で固定の前提です。そしてそれとは別に、冬弥は本線には直結しない事象として「兄の記憶」も同時に失っているようです。兄についてひどく薄情に見える冬弥の本当の事情は思うよりずっと痛ましく、まったく別の見方を提起することができます。
冬弥にとって兄は結局他人でしかないからそう深い絆は形成されず、実兄を亡くしたはるかの痛みを共有するほどの愛着は持てなかったのでしょうか?いえ、冬弥自身はあくまで「兄の想い出ははるかと共有している」としており、そしてまた兄への心酔・傾倒の事実証言自体は見られます。冬弥はかなり絶大な信頼で兄を慕っており、日常生活においてどうやら当たり前の立場、それこそはるかと同格の縁(兄弟/姉弟同然)で存在していたらしい形跡はあります。けれども具体的な交流描写は皆無、このアンバランスは奇妙です。意識のどこか根本に抜けがあるようなのです。そこで立ち返るに、冬弥の意識の抜け落ち、つまり記憶の欠落というのは作品上の主幹仕様です。「例によって」その構造がもたらす現象の表れなのではないでしょうか。
少し考えれば、あれだけはるかへの依存が突出して根深い冬弥が、その兄に依存しなかったはずないんですよ。依存先としては同年のはるかよりも年上の兄の方がそのまた上を行くので、より頼りになるのは判りそうなものです。またその役目をごく自然に十二分にこなせる度量を持っていたのは明記されています。一方で冬弥の方でも全般に弟気質がとても強い傾向にあり、そんな兄がいれば好んで弟ポジションにつくであろうことは目に見えています。それなのに冬弥の回想はいたって他人行儀で、兄への依存が見えてこないのはなぜなのか。…冬弥は「兄には」依存していなかった?本当に?当時、兄への「依存が」なかったのではなく、兄に依存した「当時が」なくなっているのではないか?はるか以上のブラコンだったとおぼしき冬弥が常に感化モードで兄と向き合っていたとして、それが全部消えたのだとしたら?まつわる感化エピソードが全部消えたのなら、今の冬弥に感化の記録は残りません。
冬弥の境遇には何かしら事情があるらしい?だけに、大きく欠けた構成を持つ自分の「兄でいてくれた」河島兄は、彼の中で相当な影響範囲を占めていたはずです。後発の姉コンエージェントの根底にも見受けられるように、非血縁でこその負い目とありがたみがよくも悪くも強烈にかぶさって彼を縛ります。実弟ではないからこそ、実妹であるはるか以上に冬弥は兄を絶対視し、それだけ依存も深かったのではないでしょうか。あれだけ強くて安定した地を持つはるかですら立ち直りきれていないのに、何かと兄に面倒を見てもらって救われてきたであろう訳ありの冬弥があれだけ冷淡にしていられるはずがないんです、本当なら。読者感覚で見過ごせないほどの薄寒さを冬弥の言動に感じるのならそれは、読者に向けて意図された仕込みです。言動、独白が感情に乏しいものであればあるほど、それは「喪失」という彼のダメージが重すぎることの証明となります。兄の存在は冬弥にとっても大きな基盤で、その兄を亡くした冬弥がその記憶をも失い、懐古すらできないのだとすれば、感傷ごと持っていかれて痛みに乏しい現状ははたして単なる薄情と言えるでしょうか?
冬弥ははるかに「(兄のこと)今でも忘れられないんだ」と言おうとして、口をつぐみます。そして「忘れられるわけないよな、どんな、時間が流れたって」と独白します。人並みの感覚がある人なら絶句して心を疑いそうな発言です。「忘れられないんだ」?何言ってんの、お兄さんですよそりゃそうよ。逆にどうしてそこが今さらの発見になる?「忘れられないんだ」なんて、自分にも同様の現状があるならまず言うことのない言い方です。そうじゃない人しか言わないような客観台詞です。そんな冬弥はつまり「忘れている」?だから普通に言ってしまえる?暗黙に、冬弥にはその点がはるかと共有されていないことが示されています。けれども、そんなことありうる?普段あれだけべったりな冬弥がはるかの事情、しかも身内ごとでかなり深刻な心情をまるで抜きにして、知らぬ存ぜぬでいられるはずがなく、一種異様な矛盾が起きています。また親しい人にすら親身になれず重要事項ですら平然と捨て置ける空虚な人間かというと、それも否です。冬弥は親しい人どころか誰に対しても身を削りがちで、その冬弥がここぞという自分向きのフィールドで機能していないというのもこれまた異様な矛盾です。
イベント通して冬弥は、はるかへの寄り添い意識は全体にわたってしっかりあるんですよ。言いかけた言葉の残酷さに気付けるだけの歯止めもあります。それなのにそれと並行して、あんなにも心の機微に疎い独白を平気で構築しています。これ、明らかに文脈構成の繋がりがおかしいですよね?前後でスタンスの方向が大きく矛盾しています。かといって冬弥自体の性格が暗愚で破綻しているから話の流れが無秩序という訳ではなく(単純にそう定義する人も多いですが)、現にそのイベント現在進行形で普通にはるかに対して気を回せています。冬弥本人の気質は特に変わらずいつも通りで、気にかける方が彼の地です。このイベントに限らず冬弥ははるかには特に理解があって、放任しているようで普段から彼女に合わせてまめに状況をくんでいます。つまり本来は該当の問題とは真逆。本来ならはるか本人を知り尽くしたはるか対応が冬弥基準で、前提認識不十分のまま止まっているなどまずありえないことです。要するに「本当なら言うはずがない」んです、はるかへの無関心前提の部外者然とした目線での物言いなど。兄との関係は詳細が記されていなくて判らないのはともかくとして、はるかについては冬弥は作中一貫してはるかコンシャスです。はるかに対してあんな今さら発言が出てしまうこと自体が「冬弥として」異例で異常な事象です。
結論から言うと、冬弥は本意でなしに「忘れている」ために、本来持っていて然るべき観点が欠けてしまう事情があります。意図してなっている状態でないので、本人にどうこうできる問題ではありません。読んだら読んだまま冷たい他人事にしか見えない独白ですが、これを兄の想い出を「不幸にも失ってしまった」冬弥が語っているとなると印象が根本から違ってきます。そう、彼の方は「忘れてしまった」から、かつ「忘れたことにも気付けない」から、あんなにも「忘れられない」に無頓着な言い方になるのです。「忘れられない」実感から切り離されているのだからある意味そうなるのは必然です。とはいえもちろん「俺はもう忘れたから、そうでない気持ちはまるで判らない」方向の意識ではなく、忘れたこと自体が本人としてはごく不本意な結果です。忘れていながら「そこが大事だ」という実感は潜在的にあるため、非常にもどかしい出方になっています。忘れたものははるかだけでなく自分にとっても共通の重要事項であるにもかかわらず、彼はそれを重要事項として把握できない、二重のハンデを抱えています。
事実上「忘れている」ので、冬弥には「想い出にしてしまう」という救い、心の整理すら不可能です。いつぞやの「想い出にしてしまえないのかな」も同じく、彼の悲しい背景が引き起こす情緒欠落の結果です。兄のエピソード(の一部)を想い出として持てておらず、そんなハンデを抱えて不調な自分なのに、冬弥は「俺、今のことしか考えられないから」などと脈絡のないことを前向き?に「吹かしてみせ」ます。多分にそれはえぐれた傷ありきでの強がりで、本気による主張ではありません。記憶の欠けはそれこそ無自覚なので、そこが冬弥の中で明確な「痛み」として知覚されているかは判りません。痛みをこらえて空元気に振る舞っているのか、痛みが麻痺しているから空元気できてしまうのか、それは判りません。
ただ、それを見た「はるかが」どうとらえ、どう感じるのか、ここが重要なのですよ。はるかは読者と違って「冬弥の独白を読むことはできない」ので受け取る情報は制限されますが、一方で彼女は読者の知らない冬弥の経緯を持ち合わせています。ふぬけた関係性の中、単にだらだらしているだけに見える二人ですが、読者には到底共通しない独自の背景があります。そういった事情が暗黙に存在する話なのだと特定しない限り、はるかが何を思っているのか想像するための情報環境すら整いません。
WAにおいてはるかは作品コンセプトそのもので、人物的にも背景的にも特別な存在です。読解を進めれば基本の基本事項になることですが、はるかは作品主軸に関わる事情のほぼすべてを知る人物で、物語の核となる超重要キャラです。彼女の描写に全神経がめぐっていると言っても過言ではありません。条件付きのはるかを条件不問の読者感覚で解像しようにも、はるかが見ている世界は基準からして別格です。はるか内面に実際に理解が追いつくかはともかく、心境を具体化するには、どれだけ読者主観を抜きにして彼女のビジョンを追跡できるかにかかっています。だからこそ彼女が身を置く条件をひとまず一度は客観視することが大前提となります。はるかの主観を想像するためには、まずは読者主観を消しはるかの立場を客観視して、そこから彼女の観点を推定していくことになります。文章で追うと長々めんどくさいですが、頭を切り替えるだけなので動作的には一瞬で、さして時間はかかりません。
兄への情の薄さという冬弥の現状を目の当たりにして彼に失望しているかというと、冬弥から見るはるかの描写にはそんな様子は窺えません。そうではなく、呆然とする中にも何やらふと目を凝らす仕草でいます。何か冬弥に見いだしたらしい?はるかはどうも、冬弥の浅薄な言動を心外に思って不服としているのではないようです。彼女はその程度の不出来を問題視するような人物ではありません。はるかは常に想像のかなり上を行く人物なので、単純に一般感覚に照らし合わせてその思索を探っても判るものではありません。嫌なことをされたのが嫌だった、気に障る対応をされて気分を害したといった短絡的な感覚では生きていません。はるかはそのくらいでは動じません。けれども明らかに様子が変で、何らかのゆらぎが見られます。
相対的に自分よりブラコン傾向にあった冬弥が(自然とそうなるだけの境遇が彼にはある?)、平然と兄について語ってろくな感情も伴わないでいること、それ自体がもうおかしすぎる異常なのだと「はるかには」判る訳です。彼女の知性的にも、冬弥との過去共有的にも。それも完全に無感情なのではなく、本人感覚としては今も愛着が深いのは変わらないようで根本の情緒は損なわれていません。彼の性格上、それこそ感傷に引きずられずにはいられないはずなのに、そこは機能せず出方がちぐはぐになっています。悲しみが悲しみとして適正に発現しない「冬弥が」痛ましい状態にあるのだと、はるかなら理解できるはずです。ひょっとしたらはるかは「冬弥が兄の記憶も失っている」不幸にはそれまで気付けていなかったかもしれません。そこは判りません。ただ(はるか基準で)あれだけ明確に表情化するほどの驚きが示されている以上、その時点で初めて思い至ったという解釈でとりあえず進めます。
はるかはこの時「はるかの記憶を失くした冬弥」と「兄の記憶を失くした冬弥」、二つの面に向き合うことになります。視点を変えることで見えてくるものもあります。「はるかを想う冬弥の気持ち」ははるか当人にはなかなか自覚しづらい部分がありますが、「兄を想う冬弥の気持ち」であれば、はるかとしても「兄を想う気持ち」で共通するので、まったく同じではないにせよ冬弥目線に落としこむのはそう難しいことではありません。兄への気持ちがそう単純に薄れるものでないことははるかが一番よく判っているはずです。所定期間の兄の記憶ほぼ全消しになった冬弥が「俺は今しか考えられない」と発するとは実質どういうことなのか?「俺にとって、もう過去は考えることじゃない」という切り捨てでは絶対にありえないのですよ。彼は考えようにも考え「られない」のです。はるかとの痛み共有に対し目が向かないのでも目を向けないのでもなく、自らも向き合いたいのに向き合えない制限があります。他人の痛みが判らない以前に、彼は自分の痛みを置き去りにして生きています。
記憶問題以前に、元々の素の冬弥自体がその強固なスタンスのもとで生きています。彼はそうした、自分の痛みを棚上げ・度外視して平気に見せる言動を一貫して取ります。あまりの何気なさに、それがまったく我慢として見えてこないほど。この特徴的な癖づけが自然発生するはずもなく、元を正せば行き着く指針に、癖が固定され素に成り代わってしまうだけの要因が潜んでいるのだと思います。ことあるごとに寓意的に仕込まれている傾向なので確実になんかあると思います、絶対口割らないけど。もしそうであれば彼の側近くで育ったはるかなら熟知していても不思議ではありません。定期の件でも、言動を逆探知すれば、鈍感そうに(無痛そうに)振る舞う冬弥が裏で少なくない痛みを抱えている状況は当然に考えられることで、はるかからすれば「いつものこと」「これが冬弥」です。非常に「冬弥らしい」発現になっており「いつもの」だとはるかには判ります。まったく同じメカニズムです。その確信にはるかは改めて痛感せざるを得なくなります。
冬弥は痛みを封じる性質を極めており、そしてはるかはそれを熟知かつ理解しています。無痛の様子で徹底されること、そここそが彼の痛みのありかということです。なお、これははるかに冬弥鉄壁のごまかしを上回るだけの強力な観察眼が備わっているからこそで、普通なら外部から見破ることは無理そうです。ただし特例として、読者は冬弥の内心を読んで違和感を特定できる立場なのでその限りではありません。
兄のほか自分(はるか)も含め、冬弥から記憶が一部失われている事情、それが彼の中で重い傷となっていることは、感情らしい感情が見られない彼の様子からはるかは逆算することができます。一方で、現状はるかは冬弥に忘れられることで多大な心痛を受けています。けっして冬弥が悪いのではないけれど、原因が冬弥なのは否定できない事実です。けれどそれで彼を責められるかというとそうもいきません。
冬弥の隠れた痛みを知って、そこで「私だってつらいのに」となるかというと、はるかの思考はそうはならず、何のアピールもしません。冬弥が記憶を失くした裏側で、まさにそのことが自覚できない痛みとなっていて、その上でなおも気取られまいとしていると知ったなら、こんなの責めようがないではないですか。冬弥がそのように振る舞うのは何より、他人に「見せない」ためです。相手に不要な負担をかけないため。たまたまはるかは勘がいいのでそれを看破しますが、本来は看破されない目的での動向です。いたわってもらうために知らしめたいのであればもう少し判りやすくやっていますよ。ところが冬弥が外部に判らないよう自覚なしにやっているその自制は、あいにくはるかにだけは判ってしまいます。判りにくすぎる冬弥ですが、判りすぎるはるかには特別に判ってしまうのです。はるかは判りすぎるからこそ、主観の赴くままに考えることはできません。冬弥視点をも認知し、実情を割り出してしまいます。冬弥の痛みなどたかが知れていると、自分尺度だけで自分優位にとらえることはまずなさそうです。冬弥の欠落ははたして厄禍でしょうか不幸でしょうか?それともある種の救いなのでしょうか?それは当人でないはるかの及ぶ範囲ではないので、冬弥の現状を現状のまま、そのままで認識するしかありません。
「今しか考えられない」と語る冬弥を前に、はるかは一瞬わずかに、けれども明確に反応します。何を考えているかの詳細はろくに記されませんが、基本的にWAという作品は対比を徹底させてそれを補正の土台とすることで成り立っている物語なので、先にあった冬弥の意味深な独白「忘れられないんだ」を基準に、はるか仕様に改変してみます。
今しか…の言葉を受けてまず、その言葉からの連想ではるかの頭には順当に「(兄の死を含め)冬弥は過去を何とも思っていないんだ」と一瞬よぎります。そこでふと思い直し「そんなわけないよね、どんな、記憶がなくなったって」と結論に至ったのではないでしょうか。少なくとも、冬弥の言動が時に不感な色味を持つのはけっして彼の本意でも本質でもないのだとはるかには理解できるので、そのまま受容するしかありません。そこが彼の中でもいまだ重い傷に変わりないのであればなおさら。ひいてははるかを忘れて由綺にうつつを抜かしている公の現状も、いうなれば「今しか考えられない」の最たる例ですが、それに関してもはるかは同じ達観で思い直したのだと思います。別に冬弥がはるかを軽んじてこうなっているゆがみではないので「そこに関しては」彼を責められないと。
由綺に関してはまあ、彼女にはそのー、無関係に巻きこんだ挙句に部外者相当なのはそれこそ軽んじられているも同然で大変心痛むけれども、あくまで事実認識は事実認識としてね。それはそれ、これはこれです。由綺には由綺で伏して謝罪する必要があるだけで、この事情は由綺とは関連が別です。由綺の立場と冬弥はるかの深い繋がりは、両者全然違った本質の問題なので分けて考える必要があります。いや、心情的には反発したくなるのも判りますよ。そんなの通じるかって。倫理的には確かにありえなすぎて信じられない問題スタンスですが、そういう構造でできている話で目下こうなるほかなく、仕方ありません。
そんな複雑な実態のもと、はるかが作中通して伏せている苦慮の秘密一連、自身の記憶問題を冬弥は知りません。WAのメインテーマとして描かれるすれ違いの「本体」はこっちだと思うのですよ。一番大切な人を心ならずも傷つけてしまう悲運の構造です。特定必須事項についての「無知」が設定づけられている冬弥は、その設定自体が凶器なので、何を言うにもはるかを侵害することしか事実上言えない「仕様」です。本人まったく望みもしない結果です。正常な本来の冬弥であれば言うはずもない無知な言動で、彼自身が最も大切にしたい存在を大切にするどころか日々悲しませ続ける状態にあります。そこで「はよ記憶戻せ」で話が済むかというと、先述の通り由綺が絡んでもはや取り返しがつかないからここまでこじれている訳で。二人とも、何気ないやりとりの中そんな隔たりが積み重なる毎日を送っているのです。それでいながら対話自体は損なわれず、相互の尊重は保たれていて、その特異な関係描写のさじ加減には唸らされるばかりです。