マナ4


対等に軽口を叩いたり、皮肉を言ったり等、冬弥がのびのびと、一番楽しそうにしているマナ編/マナパネルですが、彼の生い立ちにより、シナリオ全体が悲哀を帯びたものになっており、そんな中で、マナとの交流は、切ないほど幸せな、得がたい時間として描かれているようです。冬弥が出生時に母を亡くしているとしたら、ひょっとしたらマナは本来「冬弥の妹」として生まれるはずの魂で、運命が狂ったために、他人として離ればなれに生まれついてしまったのかもしれません。初対面以前から、彼女を知っていたような気がするのはそのためです。世が世なら、ポンコツな父と兄を叱咤する口うるさい娘/妹として、藤井家に君臨していたかもしれません。はるかに対しても冬弥は自然体で、本人としてははるかを「妹」と見なしていますが(作中では「弟」と言っていますが、あれは照れ隠しで、はるかが女性であることは冬弥も理解しており、実際の認識は「妹」だと思います)、基本はるかが一貫して優位な関係性で「姉」の立場ですから、マナとの対等関係は貴重です。年下相手に対等というのも変な話ですが、冬弥は低姿勢で侮られやすい性格なので、関係がずれこみます。


ある質問に対して、冬弥は選択肢によっては自分に「妹がいる」と返答しますが、一方では「いない」とも返します。選択肢によって基本設定がブレるということは考えにくいため、どちらかは嘘ということになります。結論から言うと「いない」のが本当で「妹みたいな存在なら、一応いる」という内容を、言葉を省略した前提のもと話しているのだと思います。WAってこの手の省略表現多いですからね。冬弥の言う「妹」とは十中八九、はるかのことでしょう。仮に冬弥に実妹がちゃんと存在しているのなら、はるかへのあの異常な依存に説明がつきません。冬弥は、原型とおぼしきキャラが存在意義をシスコンに全振りしている人なんで、派生先の冬弥がシスコンっけが強くてはるかがいないとだめなのは、もう仕方ないとしか言えません。冬弥が由綺に対し「妹みたいに思う」のも「理想の恋人だと思う」のも、どちらもはるかからの持ち越しです。


それはそうと、冬弥の前では、身内のように甘えてわがまま放題のマナですが、友人の前では、良識ある深窓の令嬢っぽく、大人しく楚々としているようです。そこんとこつっこんだり冷やかしたりすると、マナの体面に関わるし、後でまた蹴られるので、冬弥は黙っています。雨の中で座りこむマナの姿は、3年前の夏のはるかを想起させるほか、はるか・マナ共通の原型の姿を意図している可能性があります。降り注ぐ雨粒の波紋の中「彼女」はずっと待っていたのでしょう。冬弥とマナが「兄妹」として生まれることができず、離ればなれになってしまったのは、派生元での罪のせいかもしれません。直接の血縁は失われているとはいえ、仮にも「妹」のマナと関係を持っていいのかって話ですけど、そこつっこむとやぶ蛇なのでやめときましょう。まああの人も、のちに規制に負けて血縁を剝奪されてもなお苦悩する姿を晒しているようなので、その辺の懲罰はあまり意味がないみたいです。しかしまあ、マナのしたたかさを見る限り、過保護は成長の妨げにしかならないという見本ですね。性質が反転し、茫洋とした原型とは似ても似つかない癇癪持ちのマナですが、原型のあの子も元の状態がどんな感じか判らないものの、割とわがままで人を振り回す所がある気分屋なので、そこを受け継いでいるとしたらよく似ていると言えるかもしれません。マナの名前全体として「月を見る目」を表現しているなら、ヒトミ(瞳)とした方が名付けの意図を周知させやすいのに、あえて判りにくくマナ(眼)としているのは、マナへのキャラ変更上、月をぼんやり眺める童女の瞳であってはならないからです。心の陰を観察する意識と強い眼力が必要で、そこには明瞭な意志が介在しており、気が確かでなければなりません。マナは、冬弥と傷を共有し、さらには業を軽減する使命を受け持った正統な「妹」なのです。由綺への後ろめたさはともかく、マナに対しては、その小柄さや家庭教師の生徒という立場に起因する禁断がかった部分はあるものの、別に実年齢に支障はなく犯罪にはならないし、マナの了承も得ているから問題ないはずなのに、やたら「犯す」「汚す」と、しつこく罪悪感を語るのは、派生元での経緯が強烈なためです。という訳で、優しく気遣い、両者合意の良好な状態で改めて仕切り直したいのです。いい雰囲気で「やり直す」ってのも間違いで、そもそも初めから「しちゃいけない」んですけど、あまり多くを制限すると抱えこみすぎてまた暴発するので容認するとしましょう。それに、派生にあたって、そこはありがたくも撤廃されている足枷です。ちなみに終わった後、冬弥に「大丈夫だった?」と訊かれたマナが、冬弥についても「大丈夫だった?」と意味不明に訊き返すのは、まあその、元の次第を踏まえ、何かに目覚めたり内部で壊れたりしてないよねって意味だと思います。当人たちには何のことだかまったく「判んない」ですけど。


実質的な負荷は減っているとはいえ、由綺への罪の意識そっちのけで、何だかよく判らない所でそうと知らずにやましさを感じてそうな冬弥ですが、もしかすると、彼がマナと関係したのは初回の一回きりで、以降は手出ししていないかもしれません。マナを通すことで、冬弥は「マナの兄」として、二人は「親のいない兄妹」として、観月家に「生まれ直す」ことになります。関係することで兄妹関係が損壊した派生元から反転し、冬弥とマナは関係することで、逆説的に兄妹関係が発生しています。そのため以降の性関係はタブーです。キス?それくらいならいいんじゃないですか?冬弥が自らの境遇を明かしたのも事後になると思うので、より疑似兄妹としての意味合いが強くなります。目下の冬弥にとっては恋愛感情よりも家族愛の方が優先されます。ようやく自分だけの「妹」を手に入れたのだから、安易に手放さないと思います。はるかにはちゃんと、冬弥とは別に実兄がいたので、兄の役割を持つのは文字通り兄の方で、冬弥はきょうだいに限りなく近い赤の他人であり、はるかを独占できなかったはずですから。条件違いの派生がたまたま近接しているだけで、冬弥の本来の兄妹ペアははるかではありません。河島兄妹は、両親健在の円満な家庭という好条件に生まれ育っているので、変な抑圧を受けておらず、よき兄よき妹の本分を守りつつも、好き勝手に奔放です。一方藤井家は父子家庭ながら愛ある環境ではあるけれども、事情により冬弥本人の自責の念が強く、父に大切にされることに罪悪感を覚え、知らず知らず自身を抑圧してしまっています。その上さらに、自分の存在のせいで「妹」のマナが育児放棄の家庭にそれて生まれ落ち、本来受けるはずだった家族の愛情を受けられないとあっては、これもまた自分を責めずにはいられません。自分が辛いのは耐えられても「妹」が辛い思いをするのには耐えられません。「妹」のためなら何だってわがままを叶えてあげたいのです。あくまで設定裏の話で、派生事情が実際に認識にのぼることはありませんが、根底の物語として「妹」を救い出し、同時に自分の傷も癒せるとあって冬弥は内心はりきります。マナとの数日間、色々一緒に過ごしたようですが、語りの雰囲気からは性的な要素はあまり感じられず、ひたすら他愛ない家族の日常を送っていたように見受けられます。冬弥の「パジャマどこ?」へのマナの対応、完全に家族のそれです。ありふれた日常、それこそが冬弥がずっと求めてきたものなのです。


もっとも、大事にしすぎてまたやらかしそうなのはご愛嬌。別に禁忌でもないのに自分で自分を追いこんで悶々としそうです。万一そうなってもマナはたくましいのでひるまず騒いで反撃します。本気でドン引きして取り返しのつかない状況に陥ることはなく、愉快なギャグにしてくれるので大丈夫でしょう。それに別に禁忌ではないので普通に受け入れるのもありです。禁忌ではないといっても両者由綺への裏切りという罪はありますが、この際、由綺は念頭から外した方がいいでしょう。マナ編はあくまで「兄妹」間の物語で、他人である由綺には関係ないことです。マナが由綺の「妹」なのは運命の手違いで、本当なら冬弥の「妹」なのですから。「妹」とするかしないかの問題であって、たとえ恋人であってもそこには立ち入れません。冬弥とマナ二人だけの案件です。派生元で兄ばかりに負担を強い、彼の重荷となっていたことへの寓意的な反省も含め、ラストでマナは冬弥といったん距離を置く決断をします。冬弥は「そんなの苦じゃない」とか言いそうですけど、自覚なしに消耗して自分を苦しめた末に問題を起こすのでたちが悪いです。傷ついた子供の心のまま、子供部屋に二人で閉じこもっても先がありません。お互いの健全な未来のために、二人は別々の道を歩むことになります。その後、再び出会った時、お互い少しは大人になれていたら上々なのではないでしょうか。


作中、冬弥が早めに自分の境遇を明かしていれば「心の兄妹」方面でそのまま絆を深めることができたはずで、マナが冬弥への想いを恋と勘違いして突っ走ることもなかったはずです。冬弥は割と中盤から、内心でマナの寂しい境遇に共感し「もう一人の自分」「心の妹」として彼女を見ていそうな所があり、また自分に恋心を募らせていくマナに気付いている部分もあったにもかかわらず、見ないふりをしています。のちにマナが引くに引けない展開となり、一方的な認識ではあれど冬弥が「妹」と関係に及ばざるを得ない状況に陥ったのは、ひとえに自分について明かしたがらなかった冬弥の保身のせいです。ただ、冬弥が自分たちを「兄妹」と見なすためには、相応の決定打というか確約として「生まれ直す」という手順を踏まない限り互いに唯一無二の存在にはなれず、境遇告白ひいては傷の分かち合いに踏みきれないので、どのみち冬弥とマナは禁を犯した状態でしか「兄妹」関係を得られません。何も知らないマナはともかく、冬弥側はマナを「妹」として認識していながら受け入れ、手を出しているのは確実で、非常に罪深いです。コメディ要素の多い当シナリオですが、最後の最後で、水面下では意外とヘビーで背徳的な内容を抱えているようです。マナを「妹」のように思っているなら、それこそ「兄妹」としての意識があるなら、彼女に肉体的な願望など心理的に持ちえないのではないか、と普通は考えますが、いや、そこの前提が元から普通じゃなく、おかしいんです。妹だから、彼女と結ばれたい。そこがおかしいから派生元で問題が起きて、派生という形で生まれ変わり、派生先での決着が求められているのです。もうこれは動かしようのない根本的な基礎設定なので、倫理的に間違った前提でも正すことはできません。そこが要ですから。それでも世間的には忌むべき思考であり、その上、いわゆる潜在意識に過ぎないことから、冬弥がそれをあえて口にすることはありません。一方で、マナの了承を得るために直接「妹と思ってもいい?」なんて言おうものなら、ジト目で気持ち悪がられて変質者扱いされるのも確実なので、どのみち言わない方がいいです。マナ編に関しては、冬弥の出生や派生関係など、あまりにも不確定要素が多すぎるので、自信を持って設定を断定することはできませんが、作品全体をパズルとした時、空いたスペースにちょうどぴったり適合し、話の辻褄が合うピースを模索すると、上記の条件に絞りこまれます。ひょっとしたら私の仮説とはまったく別の、マナ編をカバーしうる妥当な条件が存在可能かもしれませんが、残念ながら、当面、私には他の条件に思い至ることはできませんでした。


通常、冬弥をいびりまくりのマナですが、何が気に食わないのか、彰に対しても敵意を向けてきます。はるかは「許してたよ」というスタンスを受け継いでいるので出来すぎなくらい寛容ですが、原型のあの子は内心では全然許さず根に持っているのかもしれません。話の流れ上、収拾がつかないので仕方なく穏便に決着をつけているだけです。そりゃそうだ。そういう訳で、マナの姿を借りて「あんたたち、私に何したか言ってみなさいよ!とぼけるんじゃないわよ、謝りなさいよねー!」と怒り心頭なのかもしれません。マナちゃんだとどうしてもご立腹のノリが軽くなっちゃいますが。急所を執拗に狙ってくるのも道理です。何とか脛限定で容赦してもらえて良かったねとしか。リーチの関係で結果的に脛で済んでいるのかもしれません。自分のでない罪を着せられても、そんなの知らないし、冬弥も彰もたまったもんじゃありません。二人して「えー」と鈍い反応をしてマナの神経をさらに逆撫でしそうです。あんたたち絶対許さない。