補足8


由綺とは、身の回りの好意的な人間を片っ端から無邪気に食い物にしてしまう天性のマンイーターです。深く付き合い続けるにはそれ相当の覚悟が必要な、札付きのモンスターです。冬弥はそんな由綺の難点に言及することなく、破局においてはひたすら自分の至らなさを責めまくる状態ですが、一次元上の立場で物事を見渡せるプレイヤーとしては、彼の異常感性に倣って思い悩む必要は全然ありません。由綺とは別れる方が、どう考えても大局的に望ましい安全な結末なのは確実です。心苦しい破局展開はむしろ、由綺の際限ない捕食から解放されて助かるルートとも言えます。何だかんだで冬弥側の過失という理由にかこつけて、かなりの良心の呵責は伴うとしても、平易かつ道なりに、何とか無事に由綺との縁が切れる結末は、ある意味ましな部類と言えるのです。


冬弥側の非が公になった時点で、それきり由綺の非は何も明らかにならないまま、何も問われないままでご破算の運びとなります。由綺は完全潔白の身です。したがって冬弥は「こんな俺は由綺にふさわしくない」として自分を卑下し、自分の方だけに原因を絞って由綺に別れを請うことができます。「由綺をふる」のではないですよ、「冬弥が謹慎する」のです。これが逆に、由綺の非があらわになり冬弥がそれを認識してしまうと、別れるのは格段に難しくなります。由綺が問題あるモンスターだからって、それを理由に彼女をふることなど、冬弥にはできないからです。冬弥は自分のせいにするのは得意中の得意ですが、人のせいにするのは全然無理です。相手の欠点を理由にしての優位な処断は、潔癖な冬弥の性格上、とてもできません。たとえ両方に非があっても冬弥は、相手に理由はわずかも負わせられません。けれども由綺の非が露呈した時点で、それは理由として有効化します。理由の一つとして無視できない段階に繰り上がってしまうともう、それが関与しうる諸行動すべてが制限されます。その理由が理由となりうるだけで行動自体が不可となります。つまり、冬弥の非だけが有効な条件でしか、冬弥は自己決定で由綺と別れるに至れません。由綺の本性を認識しないことには、危険な由綺と別れる理由がない。ところが、由綺の本性を認識したなら一転、由綺の危険さを別れの理由にはできない。冬弥が由綺の本性を知らないまま、手持ちの由綺像を綺麗なまま保ち、その上で、冬弥一身上の罪により「汚れない由綺の側にはとてもいられない」という自責での辞退の形式でのみ、彼は由綺の危険から安全に逃れることができるのです。


破局の場合に限らず、ほとんどの結末で冬弥は由綺の本性に気付かないままです。はるかEDは、他とは比較にならない断トツの大本流ではありますが、冬弥の記憶は戻るものの、由綺単体に関する誤解が解けたかどうかははっきりしません。「由綺が偽物」と気付くことにはなっても、「由綺の本質」にまで気付けたかは判りません。実質トゥルー扱いのはるかEDでも、単独では冬弥の真相獲得率は100%に達しないのです。しかし数ある展開の中でたった一つ、由綺幻想が確実に解け、彼女がガチでヤバい女だと冬弥が把握している結末があります。それが、最終分岐も含めた広域でのマナEDです。


マナED全域において、冬弥は由綺に対し情感をシャットアウトしている様子であり、彼女に不信を感じているのは確かです。普段から由綺に甘すぎる状態が標準化している冬弥の態度を、一転して冷ややかにこわばらせるには、相応の何か強い要因があるはずで、それはとりもなおさず、由綺の本質をまざまざと思い知るに至ったからだと結論づけられます。今一度マナ編を振り返ってみれば、兆しはいくらでも思い当たります。かといって上記の通り、由綺をヤバいと知りえてもそれを理由に由綺を切ることは冬弥にはできません。またそのヤバさゆえに、おいそれと別れを持ち出すこと自体が危険であり、何もかも慎重に運ばざるを得ません。自分の本質に無自覚な由綺に衝撃の真実を突きつけるのもひどく心苦しさを伴うことで、詳しい説明はためらわれます。別れようにも、冬弥からのとどめの一手は指せないのです。別れるとしたら、由綺が冬弥に飽きて向こうから手放してくれる手順でのみ可能であって、それまで辛抱強く耐えるしかありません。ただし、別れる別れるってその方向ばかりで見通しを立ててみたものの、必ずしも別れの結末だけが唯一冬弥に適した道という訳ではありません。搾取される一方の扱いを、冬弥がそれと承知の上で受けるのであればいくらでも順応は可能です。由綺の本質は一つの個性として片目つぶって、欠点込みでまるごと由綺をありのまま受け止めて付き合い続けるという選択もありです。時には相手の瑕疵を見逃して譲歩するのも恋愛において必要とされるスキルです。恋愛感情なんてもはやまともに持てませんけど。


冬弥一人が養分になるのなら、何の手出しもせず由綺をそのまま野放しにするのも良しとします。はるかED、弥生EDでは、それぞれの要因で冬弥自体の根本的な度量が底上げされることになるので、由綺の無茶ぶりへの耐久力も確保されます。冬弥だけの被害に集中して収まるうちはそれでもいいんです。ところが、身近で長期の由綺被害者であるマナの立場を考えるとなると、話は違ってきます。冬弥の身一つなら、搾取にずっとは甘んじず、いずれは逃げる見通しでおいおい策を講じることも可能ですが、マナは親戚だけに由綺との関係を断つことは困難です。冬弥としては、不憫なマナを由綺の捕食圏内に置き去りにしたまま自分だけ逃げる訳にはいきません。冬弥自ら盾となって、マナのすぐ側で彼女を守れる立場が必要となります。それには食い物にされがちなマナを絶えずガードするより、食う側の由綺をマークする方が理に適っています。つまり、由綺を監視下に置くためにも彼女の側を離れる訳にはいきません。それが、由綺への気持ちが冷えきったマナEDでなお、冬弥が由綺と付き合い続ける理由です。


正式には由綺とマナは従姉妹なので、そこまで密接な家族関係にある訳ではありませんが、冬弥が「由綺の恋人」の立場を維持することで間接的に「マナの義兄」の立場を得ることができます。冬弥はその「兄」の立場をもって、マナを保護する大義名分とします。無節操にマナと浮気しておいて、どの面下げて由綺とそのまま付き合ってる?しかも相手が身内同士という気まずさなのに?みたいに思われることも当然なマナEDですが、冬弥としては「兄」の立場を固めるためには形ばかりの「恋人」を取るというのも全然ありな結末です。マナ本人とは「恋人」としての繋がりは望みません。マナの「兄」となることが冬弥たっての希望なのです。由綺は、マナと自分を繋ぎ止めるのに必要な縁故です。いびつな関係図でも、結果として最重要目的に適合するならそれでも構いやしません。冬弥はその辺の感覚が根本の所でゆがんでいるんです。


しっかり関係を持つというのに、てんで「恋人」としての扱いではなく、所詮ただの「妹」の域を越えないなんてマナちゃん不遇、なんて思われるかもしれませんが、いや、冬弥の優先順位は普通と違いますからね。「妹」に「所詮」とか「ただの」とかそんな軽視の前置きはつきません。妹の価値は何よりも上回ります。恋人よりも妹の方がずっと大事っていうのはもう、冬弥に先天的に備わったガチガチの基礎設定なので、そこはゆらぎません。冬弥はマナと恋人同士になることはそこまで強く望んではおらず、ただ疑似的にでも兄妹の関係で結ばれたいのが第一です。兄妹というのが最上位の関係性です。はるか?あれは一人で妹も恋人も全部兼ねた総合的友達だから、そのはるか要素の中のどれが最上位とかはありません。彼女は別格。話戻って、マナとは性的接触が伴っているのに平気で兄妹然といようとする神経もあれですが、その辺の葛藤はどうなんだろう?よく判りません。冬弥本人の口からは関連する思考は一切語られないし、言ったとして倫理的に問題ある内容にしかならないから、ふわっとごまかして、いかがわしい提議はなかったことにしましょう。派生上、ぶつぶつ自問自答しまくる流れは判りきっているし、冬弥には断固喋らせないに限ります。いっちゃった長文省略しろ。まったくもって浮気とかロリとか以前の問題です。それよりずっとインモラル。実の関係的には罪には当たらないけど、感覚的にね。道徳として潜在意識からアウトです。


さっきから当然の知見のようにマナを食い物にする食い物にするって人聞きの悪いことを言って、由綺をただ悪意ではすに見ているだけなんじゃ?と思われても仕方ない状況ですね。由綺が大好きだとマナ本人も明言しているし、由綺が信頼に足るのはシナリオ内でも確定している話なのに、その由綺を否定するなんて何て言いがかりを、って思われるかもしれません。ごもっともです。でもそれ本気で受け取っているんですか?


マナは見ての通り、普段からやたら態度悪いです。冬弥に憎まれ口を叩いては、彼をやりこめます。だから、そのマナの様子を由綺との関係図にもそのままスライドさせ、あたかも強気なマナがやりたい放題に由綺に無茶を強いまくって、心の広い由綺は困って苦笑しながらもそれを快く受け止めている、なんて構図を思い描いてしまいがちです。当たり前にそう思います。でも実際はそうじゃないんです。


中盤、マナはその過去において、遊びに来てくれる由綺に対し、同情されるのを嫌って素直に喜んでみせなかったと語ります。続けて、いや喜んではみせたけど「いかにも子供が喜んでますよ、これであなたも満足でしょう」といった形で接した、と補足します。プライドを保とうとするマナの意地により詳細は説明されませんが、状況を簡潔に整理すると、下位存在であることを強調し、相対的に由綺を持ち上げ、彼女に嫌われないよう必死に媚びてきた実態が明らかになります。マナが語る当てつけの気持ちというのはあくまで、由綺にはけっして伝わることのない隠された本音であって、その後ろ暗い意図がそのままあらわになっていたのではないのです。


マナが当てつけに振る舞ったという「子供らしい演技」というのは言葉通りの解釈を誘いがちで、いかにもマナが、演技がかった棒読みの見え透いた子供仕草を見せつけ、裏の悪意を由綺に強烈に知らしめてしっかり判らせてやった、みたいな想像に陥りやすいですが、そんなマナの悪意が伝わってなお由綺が変わらず親しんでくれていたなら、マナが由綺に好かれることについて不安に思う理由はどこにもないはずなんです。お姉ちゃんはどんな私でも好きでいてくれると自信を持って言い切れるなら。でもマナはその断定に踏み切れません。確証がないからです。つまり由綺は、マナの真実の姿など何も知らないということです。冬弥との場合もそうですけど、親しい付き合いがあるなら当然のように見込まれる、相手の立場に密着した間近な観点というのを、由綺は呆れるくらい本当にまったく持ちません。


マナが、自分には由綺に好かれる資格はないと嘆くのはまさにその、何も知らずに「純真な従妹」を信じて、虚像に過ぎないそれを好きでいてくれる由綺をだましている罪悪感に起因します。本当はマナなりの打算があって、由綺の気を引くための卑しい演技(マナ的には)で「いい子」でいるだけで、内心では由綺のだまされやすさに「楽勝」と得意になっている部分もあったりと醜い有様なのに、表の態度では露骨にゴマをすって何の悪意もない顔をして平気でいる自分。立場や状況に適した演技をして他人をだます狡猾さを、マナは子供ゆえに世慣れの処世術として正当化できず、心苦しさに縛られています。


由綺に好きでいてもらうために、卑怯な手を使って由綺をだまし続けてきた自分には、由綺に好きでいてもらう資格はない。それに、由綺が好きでいてくれているであろう自分は本当の自分ではない。素顔を見せていたなら、由綺が自分を好きでいてくれたかは判らない。本当の自分には、由綺に好きでいてもらえるだけの価値はなく、それゆえその資格も持たない。そんな思考でがんじがらめなマナですが、冬弥との交流を経ることで、由綺に対しても淡い期待を持つようになります。ひょっとしたら、自分が本当の姿を晒したとしても、由綺は離れていかなかったかもしれない。なりふり構わずみっともなく子供ぶって、必死で由綺を繋ぎ止めようと媚びた努力もむなしく、結局由綺はマナの家にとんと寄りつかなくなりました。どのみち由綺が離れていくことが避けられなかったのなら、本当の姿でぶつかって、自分を知ってもらった方が良かったのではないか。認識するマナ像がどうあれ、由綺は確かにマナを好きでいてくれた。それなのに自分はけっして心を開かず、自分の領域内ですべてを済ましてきた。自分に向けて開かれていた由綺と、同じく開かれた心で向き合うことができなかった過去をマナは悔やみます。偽らず正直に、包み隠さず自分を見せること、それが側にいてくれた由綺に対するせめてもの誠意だったのではないかと、離れた後になって気付いたのです。


マナは、自分が素を見せても冬弥が離れていかなかったというんで、それなら由綺もそうだったのではないかとの考えで過去を振り返っている訳ですが、冬弥との間合いのつめ方というのは条件としてかなり特殊です。マナは冬弥と知り合った当初、邪魔な新人家庭教師を退却させるつもり満々で辛辣に当たります。相手を怯ませるために攻撃的態度を取ります。つまり、冬弥に対しても序盤は素ではなく、過剰に悪意を見せつけるという演技込みの態度なのです。それでも冬弥は特に気を悪くするでもなく普通に接してくれます。過度な悪印象を押し出してすら全然離れていかないという確約により「この人になら素を出しても大丈夫かもしれない」と信頼を寄せる下地が形成されていきます。そして徐々にマナは、日頃から素でいられる状態が整い、冬弥に対して心を開いていったのです。ある意味「冬弥が特殊」なのであって、はたして由綺に対して同じようにして、同じように結果がついてくるかは疑問です。


マナとの関係がどうこう以前に、由綺のヤバい性格というのは基礎設定として固定されています。冬弥、周囲、はたまたプレイヤーが気付くと気付くまいと、物語の前提として、由綺のヤバさは実際に彼女に備わっています。そこにきて、幼い頃から由綺と間近で接してきて、本人の性質としても人一倍冴えているマナが、はたして由綺の現実に気付いていないなんてことがありうるのでしょうか?由綺の本性というのはけっして表沙汰にはされないものの、設定上では確実にあり、マナがその事実を知らないはずがないのです。


マナは日頃の態度が悪いのでただのやっかみに見えるのもやむなしなのですが、冬弥の高校時代を想定して「どうせ森川由綺とかに浮かれてたんでしょ」と毒舌を吐きます。「由綺ちゃんなら藤井さんが浮かれても当然ね」と自慢の従姉に納得する感じではなく、明らかに冬弥を馬鹿にする悪意を含んだ言い方をします。まるで「現実を知らないだまされやすい馬鹿」みたいに言います。いや、そんな直接的表現で言うことはないけど、ニュアンス的に。実際、別展開では「藤井さんはお子ちゃまだから森川由綺みたいなのが好きなんでしょ?(要約)」とも言います。やはり、冬弥がものを知らないから由綺をイメージで好んでそうみたいに言います。由綺が「本当に」周りに思われているような好ましい実質を持っているなら、こんな言い方には絶対ならないはずなんです。ごく近い存在で、かつ信頼の存在であればなおのこと。でもマナは由綺に対する認知状況を斜めに見ています。マナは由綺を「大好き」とは言いながら、現実問題かなり複雑な心境で彼女をとらえているのが判ります。言葉で信任するほどには由綺のことを肯定してはいません。マナが口で提示するだけの実質など由綺自身にはないことを知っているからです。それでも由綺が当たり前に好意的に受け取られている現実は現実としてあります。甘い言葉と雰囲気を真っ向から本気にして、まんまとだまされてのめりこむ層は、冬弥を始め一定数います。はては、意図的に自分を見せつけていると判ってはいても、あえてその媚びざまを好んで喜ぶ層というのも一定数いるものです。そんな馬鹿げた現状を、マナは冷ややかに見下しています。


由綺は確かに、いつも冬弥に面と向かってありったけの好意を示します。冬弥のやることなすことにすごく喜んでくれます。でもそれはもっぱら由綺に利することだからこそです。そしてその厚遇は由綺にとって当然の前提で、特に返礼が必要だとは思いません。冬弥へは真心の伴わないリップサービスだけが報酬です。冬弥は発言をそのまま信じているので心がこもっていると思っていますが、全然そんなことないです。ちょっと目配せして形ばかりの感謝の言葉を贈れば冬弥は飛び上がって喜んでくれるので安いものです。だからさ、人受けに特化した人間の話なんか、本気にしちゃだめなんだってば。


由綺は魅せ方を天然で心得ているので、口先では、冬弥をいつでも心から想い、気にかけている的な言い方をします。まったく飾る様子もなく冬弥に訴えかけるような胸にくる振る舞いを常時してきます。やー、もう、これは人をたらす才能です。しかも相手にどう思われる云々より、自分はこうだとの主張をそのまま伝えたいのが一番なので、変な打算性がないんです。「冬弥君を好きな私」の気持ちのすべてが残らず表に出せればそれでいいのです。由綺には日頃から「見て見て、私、健気でしょ?」的な所があります。本人が自身の行動をはっきり「健気」という言葉で定義しているかは判りませんが、少なくとも「見せつける」方向の態度なのは確かです。こうすれば冬弥君は喜ぶんでしょ?みたいにウケを決めつけなめてかかって、ぐいぐい自分を押しつけます。


由綺は恋する自分に酔っているだけで、冬弥自体についての実際のあれこれに気を留めて何か考えたりすることはありません。別に冬弥を本気で好きな訳じゃないのです。由綺はろくに冬弥を見ていないから彼がどういう人間かをほとんど知りません。その点、罵倒するにしろデレるにしろ、マナはちゃんと、冬弥を冬弥という一人の人間として認識して応対しています。「自分を」表明するだけの由綺とは違い、マナは「冬弥に」反応しているのです。恋愛成就の行方はともかくとして、人間関係としての勝敗は完全に決してしまっています。由綺は初めから話にもなりません。


他愛ないアイドル談義の中で冬弥が由綺を「森川由綺」とフルネームで呼び捨てすることについて、マナは生意気だと評し「由綺ちゃんは『気持ち悪い』って言う、絶対」と言い放ちます。別に一般的な呼称としてはありきたりで、そんな非難されるほど図々しいことじゃないのに、マナはそんな風に言います。実際に由綺自身が一般層による呼び捨てを快く思っていないかどうかは置いておくとして、面白いのは、由綺が一般指定で平然と「気持ち悪い」との感想を言いうるとされている点です。マナが冬弥を「気持ち悪い」って言っているのではなく、由綺が「気持ち悪い」って言う、とマナは言っています。由綺が他人に対し誠意ある人間で、かつマナが由綺の人間性を信頼し心服しているならば、マナはこんな、由綺の印象を心なくする方向の発言はしないはずなんです。アイドルは客受けあっての商売ですからね。そこにマイナスイメージがつくのはよろしくありません。仮にも由綺を応援しているなら、マナとしても由綺の足を引っぱるようなネガキャンは避けたいはずです。でも言ってる。冬弥をいじめる気で言ったにしても、普通にマナ自身の発言としてけなせばいい訳で、由綺を絡めて代弁するといった迂回形式をわざわざ取る必要性はありません。それが由綺自身にまったくいわれのない傾向ならば。由綺に見下しイメージがつくおそれにも構わず「絶対にそう言う」とマナが断言するのは、由綺をよく知る立場から、彼女の実質を踏まえた正しい真実を言っているからです。おそれも何も、それが事実なんだから認識を曲げようがないのです。


由綺は、思ったことを全部口に出してしまう人です。相手の気持ちを思いやって言動を調節することは一切なく、ひたすら自分の感情の赴くままです。由綺の感情だけがものを言います。由綺が言うのをためらうとすればそれは、由綺自身が言いたくないことなだけで、他人への配慮ではありません。そのため自分が「気持ち悪い」と思ったなら、その通りに「気持ち悪い」って、隠さず正直に言ってしまえます。嘘をつかないことだけが由綺のポリシーで、それ以外は気に留めません。「気持ち悪い」に限らず、他人を傷つけることを言ってもそれが自分の偽らぬ考えである限り全然平気なんです。ただ本人きわめて楽天家で、現状では特に彼女ベースで否定的に感じる事柄が見当たらないため、その結果、致命的な舌禍状況にならないだけです。マナが勢い食いついて難癖つける事柄「呼び捨て」には、たまたま由綺自身は無関心で、特に何も反応することがないだけです。


「『気持ち悪い』って、それマナちゃんの意見だよね?由綺はそんな、人を傷つけるようなこと言わない…」と冬弥は思うかもしれませんが、ただでさえ夢想家で、加えて常態的に認知機能に問題があることが確定している冬弥と、いたって正気かつシビア、幼少時分から由綺と密に接してきたマナとで、由綺についてどちらがより正確に見ているかは誰の目にも明らかです。マナの言う通り、由綺は平気で他人を傷つけることを言って気にしない人間なんです。マナの思考回路はいたって正常だから、彼女の指摘によって、見ようともしなかった現実に目が向きます。希少なご意見番担当として本当に貴重な存在です。


マナは由綺とはごく近い親戚なので、幼い頃から親密な付き合いがあると思われます。普通、感情制御のおぼつかないほんの幼少期から他人に気を遣って自分を抑えていられるはずがないので、少なくともその頃はマナも当たり前に子供らしくわがままに生きていたと思います。ところが次第にマナは由綺に素を見せることがなくなります。おそらくマナなりに、自分がそのままで居続けては良好な関係性が立ち行かないという危機感を抱いたのでしょう。由綺はあの性格ですから、自分のエゴを満たす意味がなければ、その対象への興味を持ち続けることはありません。由綺に見放されたら他にあてがないマナはおしまいです。由綺に嫌われることがないよう、マナは彼女を持ち上げ、媚びて丁重に扱います。由綺を前にしたマナは、作中で強烈なきつさを放っているあのマナではなく、プライドを完全に捨て去って由綺に取り入る哀れなおべっか使いなのです。


マナは実に薄氷を踏む思いで由綺と接してきています。「お姉ちゃんは私を好きでいてくれてると思う」というのは、足場のしっかりしない儚い期待であって、加えて実際に由綺に本音を晒してそのままの自分を受け入れてもらう見込みは望み薄だから、実行動には至りません。興をそがれればそれきりになるであろう由綺の自分主体な感覚を、ずっと身近で見てきただけにマナはよく判っています。冬弥に対するみたいにひねた態度を取ろうものなら、即アウトだと本能的に察しています。だから絶対にやらかしません。


マナは由綺の前では「完璧な理想の妹キャラ」に徹しています。その完璧さときたら少しの欠けもなく、由綺に与える好印象はゆるぎません。現に、かつての由綺は気分を良くしたのか好んでマナ宅に出入りしていたようです。マナの理想っぷりはそれこそ「お姉ちゃんお味噌汁あっためてあげるね」的な気のつく従順な妹です。マナの場合、暴れ回る方の面が作品上のオモテになっているだけです。冬弥に対してはチンピラキックが基本動作ですが、由綺に対しては徹底してエンジェルスマイルで、けっして不快に思われるような振る舞いはしません。「ばっかじゃないの?」みたいないつもの悪たれは、由綺には絶対に言わないのです。いついかなる時も問題ある素顔は見せません。それが平穏な従姉妹関係を続けていくための鉄則です。天使の外面に悪魔の本心を抱えているという闇要素はあくまでマナに限定した話で、別に四女ちゃんの素地も同様に、各自のスタイルでめいめい我が道を行く姉たちに自分だけが我慢を強いられて日々不満をためこんでいるとかじゃないですよ。いつもの彼女は本当に完璧にいい子なんです。暴虐の限りを尽くすのはキノコ毒が反転行動をさせているだけで本人の意思ではありません。毒の力を借りねばとても表に出す機会のない切実な本音という訳じゃあ…。……。だよね?


冬弥に対するストレートな態度だけが例外中の例外で、マナは基本的に、由綺を含め人前で素を出すことはありません。けれども、実質的なマナの性格としては、ほぼあの通り、冬弥の前で表に出しているままで特に想定外な引っかけ要素はありません。つまりマナの主張の強さは地です。通常、我を押さえつけているだけで、別に見栄で自分を偽り、本性を必死に隠そうとしている訳ではないので、外面の演技徹底が甘く、場合によってはふとしたはずみで露呈することもあります。印象良く思われたいと目論んで自分の体裁を飾っているのではないから、地が出たら出たで、それはガス抜きであって、マナにとって特に危機的状況とはなりません。友人たちが近くにいる状態で冬弥に「殺す」なんて脅し文句を吐いたりして大丈夫なの?と思いますが、友人たちに対して攻撃しているでもなし、そこは意識として影響しないみたいです。単に周りが見えていないだけかもしれません。