補足9


マナ編修羅場前、冬弥と鉢合わせ、彼と話しこむ由綺は、自分がその場に足を運んでマナを待ち受けている理由として終始「(マナが)すねちゃったんじゃないかって思って、私…」とか「(マナの)機嫌が直ったら、どうたら…」とか、当たり前にマナの悪印象を全面に押し出して、その激しやすい神経を逆撫でしないよう、最大限の配慮でおずおず応じる立場の弱い私をアピールします。ひっでえ。え?何で?マナに相手にされなくて「ひどいんだよ」とすねて機嫌を損ねているのは由綺の方だし、一人むなしく休日を過ごすのは嫌だからって由綺の一存でマナにすり寄ろうとしているのに、何でこんな発言になるの?これを聞いた人は誰だって、マナが気の弱い由綺に暴挙を強いるめちゃくちゃ荒れた娘だと思いますよ。


他にもマナ編最終分岐の展開で由綺は、これまで恋するマナののろけ話を深掘りしなかったことについて「由綺の方で勝手に盛り上がることで、マナが変に意地を張って、相手の人に素直になれなくなったらその人に悪いと思ったから」と言い訳します。ここでも大々的に人を理由にして、それに対する自分の配慮をしっかり畳みかけます。何かもう、これ系の言い方は由綺の常套みたいです。事実関係にかかわらず、こういう組み立てパターンで出来上がった構文なんです。つまり、言は必ずしも真実を示すとは限りません。さも、マナの様子を鑑みて根掘り葉掘り探るのは遠慮したみたいに言っていますが、それは由綺が「自分で自分を」そう位置づけて説明しているだけで、本当は、単に彼女にはなから人の話を聞く気がないだけです。


由綺は自分の恋をひけらかして愛され自慢をするには前向きですが、自分でない他人の好き好かれなんて自分には関係ないから興味を持てず、話題に食いつきません。マナの話は即刻切り上げ、自分がしたい自分の話をしたいというんで、「それよりも、私ね」と自分軸に強制的にすり替え、マナの話はそこそこで終わらせます。マナの価値は、由綺が話したい時の相手に選ばれることだけにあるのに、どうしてマナの話に乗る必要があるんですか。マナの恋なんてどうなろうがどうでもいいんです。ただ、シチュエーションには今後の参考として興味があるので、自分の想像力を高めるために少し聞きこんでいます。その詳細を又語る由綺が「やだあ」と悶えるのは、そのシチュエーションを「由綺本人想定で」思い描いているからに他なりません。


由綺はおそらく誰に対しても、自分の好きなフルーツ牛乳の話とか私に優しい彼氏自慢とか、自分が話したいことだけ長々と喋るだけ喋って、喋りきって満足したらそこで薄情にやりとりを終わらせてしまうのだと思います。マナの所に頻繁に遊びに来ていたというのもその形式で、自分だけ話しまくった後は、ごめんね本当は忙しいんだってぶっちしてそのまま帰っちゃう。何しに来たの?って感じですけど、それは見ての通り自己顕示して満足しにきたに決まっています。自分の話をしに多忙な自分の自分時間を割いてマナの所に赴いているのに、それ以外のこと、特にマナの話に悠長に耳を傾けるなんて無駄をする暇は由綺にはありません。たとえばはるかであればあの性格だから、由綺が相手の様子お構いなしに自由に喋りっぱなしでもにこにこ聞いて面白がりますが、マナは彼女自身も主張が強いだけに、聞く一方の立場は非常にストレスがたまります。でも由綺に嫌われると後がないので「わあ~、お姉ちゃんいいなあ」だとかベタないい子ちゃん仕様の猫撫で声で由綺を持ち上げ、彼女の優越感を満たし、繋ぎ止めようとします。それが由綺の意を得て、彼女は一層の満足を求めて足しげくマナの所にやってきます。そして、マナも一緒に喜んでくれると喜んで、由綺ははりきって身の回りの楽しい自分話を提供し、内心面白くないマナにはさらに増幅されたストレスがかかる、という無限加算サイクルです。


冬弥に対しても由綺は、最近彼が取り立ててはずんだ反応を見せないことについて「私、何か悪いことしたのかなって…」と、自分の行いを反省しているようで、よく読むと「自分には思い当たる節がないのになぜか相手を怒らせた、相手が勝手に怒っている」みたいな言い方をします。「悪いのは私」という自責の意味じゃなく、逆に「私は悪くないのに」という主張が主旨なんですよ?惑わされちゃだめですよ?いかにもいたたまれなく目を伏せるのは「由綺は悪くないよ」のお墨付きを引き出すための落としテクニック(天然)です。悲しげにそう呟かれたなら、彼女の嘆きを痛々しく感じた冬弥は必死でフォローに回り、不必要に過剰な心痛を負わせた不甲斐ない自分を責めるしかありません。冬弥の方での自発的なしょいこみにより、自然と由綺を上げるように話の流れが変わり、そして定まることになります。このような心配ごとだけでなく、前向きな話でも由綺は「『冬弥君のために』頑張る」とか「『冬弥君のために』歌う」とか定型文のように言いますが、発言例を考える限り、それはいつもの、人を理由にこじつけるお仕着せパターンで、全然冬弥のことなんか考えておらず、本当は「冬弥のため」ではないと思います。


ちなみに由綺は自分が「口だけ」であることをちゃんと自覚しています。これまたいちいち身を縮めて、自分を切々責め通すように自己申告するので、本人精いっぱい努力しているのに状況がままならず実現に至れないこともあるだけで、由綺自体にはけっして気持ちがない訳ではないかのように見えます。その姿は、十分に力を尽くしていながらそれでもなお自分を至らないものとして過剰に責めるストイックなものに映ります。でも実際は、「口だけ」と反省していること、それすら「口だけ」なんです。おそらくは、その遠い過去にきっと「由綺ちゃんは本当は全然そうでもないのにいつも口ばっかりで、ずるいよ!」とはっきり的確に欠点を指摘した子が実際にいたんだと思います。誰とは言いませんけど。若気の至りで、思わず口を滑らせちゃったんでしょうね。だから由綺には自分が「口だけ」と言われた実体験があるから、言われたそのままを自己認識に据えています。でも実感はありません。「『口だけ』って言われたから、言われた通り、私は『口だけ』なんだと思う」ってな具合です。言われたからそう思うことにしただけで、自分では全然そんなこと思っていなかった、自分はそう思わないけど、そう思われているならそういうことにするってことです。全部「人があれしたから」です。


形状の一貫した類似例で立証される通り由綺は、自分の立ち位置を説明するのに、本当は自分が自分本位にそうしたいだけのことや一身上の自己擁護的な不満でも、いちいち他人の動向を持ち出してきて関連づけます。ナチュラルに他人を理由にしてものを言います。そういう言動様式が徹底的に確立していることから、持ち前の個性として、彼女は生来ずっとこの調子だったと推測されます。他人への気遣いで自分の行動を方向づけている風に言いながら、実際は他人に責を押しつけ、自分を存分引き立てる黄金パターンです。こんなのをずっと身近で絶えずやられ続けたとしたらマナには結構な過重ストレスになっていると思いますよ。


マナには実際に、人を言い負かしたり当たり散らしたりする所が確かにあるので、彼女の態度全部がまったくの潔白という訳ではないのですが、全然そうじゃないケースでまで、由綺は全部マナのせいにして状況を説明します。厳密には直接悪く言うことはなく「マナが機嫌を損ねるといけないから、しがない自分はその意に添うように譲歩する」という言い方ですが、それを聞いた人はどうしたって極論「いや、そんなひどいマナに気を遣わなくていいんだよ、由綺は全然構わず好きにしていいからね、マナなんか我慢させとくくらいがちょうどいいよ」ってなります。結果、由綺にとって望ましい条件の方が優先されて通ります。由綺が必死に要求しなくても、周りが進んで由綺の意に添うように取り計らってくれます。マナ寄りの条件は、厚遇に値しないとして選択的に切られます。そんな形で、自分が自分自身の持つ良し悪しで評価されるはずの当たり前の状況を、マナはことごとく由綺に奪われてきたのです。


由綺による余計な吹きこみのせいで、マナは不当な評価を余儀なくされてきました。例の「マナを怒らせるといけないから、そうならないように自分は心をこめて応じる」で、何でだか実質以上に由綺の方が気立てよく思われて、マナだけが責められます。それこそが由綺トラップで、完全にどつぼです。いくらマナが「違う、そうじゃない!」と経緯を否定しようにも、周りは先に由綺の言葉を聞いて関係図を決めつけているから、マナが後出しで何か言っても、見苦しく言い訳しているようにしか映りません。マナは徹底して悪者にされます。そういう理不尽な構図に、ずっとマナは耐えてきたのです。


それ以前に、マナ自体の性質により、あらかじめ周囲の受けがよろしくなかった部分もあります。子供だてらに大人を凌駕する才覚を持つ子供なんて、並の大人としては非常に厄介な存在です。小賢しくて口が達者で可愛げがありません。その対比で由綺が朴訥としたためらいがちな態度で例のマナ下げをやらかすと、さすがの遠慮しいの由綺でも無法なマナに心底困らされ、意を決して難点を挙げているかのような印象になります。けっして悪く言うつもりはないんだけど言わずにはおれない、だって実際そうなんだからそうとしか言えない、みたいな真実味をもって。


初めのうちこそマナは自分の尊厳を守るため、必死に事態に抵抗もしたでしょうが、つけいる隙もないほどの正攻法な理屈を並べ立てて相手を打ち負かすくらいに弁が立つマナと、うまく口が回らないながらも言葉を尽くして相手に伝えようと働きかける由綺、二人を見比べたら誰だって由綺の肩を持ちます。マナの言い分は、口のうまさで言いくるめる詭弁であって、由綺がつたなく真摯に語る切実な訴えの方が事実なのだと誤認します。整然とした理屈はそのもっともさゆえにかえって猜疑と反感を呼び、むしろ差っ引いて受け取られます。由綺の言い分の方が下手に正攻がかっていない分、論破する害意がまったく感じられないため主張がそのままで通りやすいのです。そんな、強いられる偏向にたまりかねて、とうとうキレたらキレたで「やっぱりマナはそういう子だ」と決定づけられてしまいます。それに対し由綺がなだめようとおろおろしたりなんかしたら、なおのこと状況は確定します。さらに由綺が「私のせい」とか体をくねらせて落ちこみ始めたら一巻の終わりです。マナは何をやってももう手詰まりなんです。


由綺特有の言い回しを聞いた周囲は「由綺=遠慮」「マナ=苛烈」という根深いレッテル貼りで彼女たちをとらえます。少なくともマナ周囲の大人たちは、由綺の説明だけを偏重的に受理してマナの弁明には聞く耳を持たず、二人を明確に振り分けて扱ってきました。マナは頭ごなしに否定され、まともに話を聞いてもらえません。そのため、マナは周囲の、主に大人に少なくない不信感を抱いています。運悪く、マナの周囲は残念な大人ばかりが揃っていたのです。それでも何とか理解を得ようと根気よく立ち回ろうにも、自分に関する正しい説明を折られるたびに弁明の無意味さを悟り、マナは自分を受け入れてもらうことを金輪際諦めてしまいました。そのため現在では基本的に、誰に対しても心を開くことなくうわべだけで従い、抑圧の不満を抱え、身を控えています。マナはああいう性格だから誰に対しても暴れていると思われがちですが、違うんですよ。マナが当たり散らす相手は厳密に冬弥だけです。冬弥にはあらゆる対象への不満を率直にぶちまけますが、それら対象本人に向けて同様に反意を表明している訳ではありません。人前ではひたすら大人しくして口をつぐみ、最低限の自己主張すらすることはないのです。


「自分が寂しい時だけ、何の苦労もしないで人に好きと言ってもらうなんてずるいと思う」と、マナは言います。その、自分が寂しい時だけすり寄ってきて、誰に何を差し出すでもないのに、それがそのまま許されて、無条件に周囲からの「好き」を一身に受ける人物、それが由綺です。手前勝手が容認されてきたずるい存在です。これまで、由綺にあってはそんな反則が当たり前に横行してきました。そして由綺には諸手を挙げて認められてきたことが、ごくごく至近距離という残酷さで、マナには一切許されませんでした。由綺は甘々に甘やかされる一方で、まるで見せしめのように役割が振り当てられ、マナの扱いはひたすら冷遇を強いるものでした。マナは、「好きでいてもらうこと」には「資格」がいるとの考えを示し、そして自分にはその資格はないとこぼします。「勝手を許された」由綺とは、当人の行いに関係なく無条件に、生まれついた立場が違うのだと刷りこまれているのです。幼少期からそうした待遇の差を通して自己肯定の基盤を削られ、覆すことのできないカースト意識を植えつけられたマナは、すっかり諦めきって、自分の人生を悲観的に放り投げています。


相手には要求するのに自分は何もしないというのはずるいことで、もろに子供の所業です。でもそれが「由綺には一貫して許されてきた」のです。実際、冬弥との関係でも由綺はその姿勢を強行しますが、まあ、冬弥はああいう負担を好む性格だし、恋人という立場で相手に惚けているから、一方的に言われるままに聞き入れるのもそれは個人の恋愛スタイルで、当事者同士の要望のもと、お互い納得しているならそれでいいんですよ。でもマナは、彼女自身主張が強いのに、それをへし折られて理不尽な抑圧を強いられるというのは相当な屈辱な訳です。さらにはマナは年下でありながら、由綺よりも大人になって彼女を寛容に見なければなりませんでした。子供なのに、大人の選択を押しつけられてきました。そんなマナの我慢など知るよしもなく、由綺は無自覚のずるさでもって自分に都合よく思い通りに生きてきましたが、そうではあっても、本人としてはまったくの無垢で悪意はありません。マナは精神年齢が高いから、そのことはよくよく判っています。そんな罪無く純真な由綺に対し、正面きって非難を突きつけ辛く当たることは忍びなく、どうしても変革には踏みきれません。由綺はひたすら子供な人だけに、マナの方で折れて我慢するしかないのです。と、理性では判っているんだけど、でも心情的にはね。割り切れませんよ。いくら強がっても、マナの方こそが本当は子供で、そして結局、子供は子供なんだから。


何の憂いもなく心の赴くままに生きられる由綺とその優遇をやっかむ一方でマナは、由綺のようになっては人間終わりだ、みたいに思っています。自分だけに功利的で他人には無神経な、そんな低い品性でいたくありません。マナは内心、由綺を下に見ることで溜飲を下げていました。「負けて『やってる』」とすることで、気持ちの上でだけは由綺よりも優位でいられます。私の前ではせいぜい好きにしていなさいよ、私だから、一段下がって大目に見てるだけなんだからね、と。ところが、由綺の勝手領域が有効なのは狭い範囲のごく近辺に限った話のはずで「そんなの世間に出れば通用しないわよ」と思っていたことが、逆にそのまま世に広くまかり通ってしまうことになります。由綺がアイドルデビューし、人気を博し始めたのです。


マナは作中「由綺に才能があったから、その仕事で認められ活躍している」とし、相応の才能を認めているかのように言います。しかしマナの辛口審美眼をして、実際歌声がかな~り今一つな由綺のことを、優れた才能を有すると評価するとはとても思えず、背景には言葉通りでない一ひねりがあると思われます。自分にそこまでの力量がなくても何ら問題とせず、普段から「アイドルになりたい」と真剣に大口叩く由綺の大それた野心について、マナは口では「お姉ちゃんはすごく頑張り屋だから、絶対アイドルになれるよ!」とガンガン焚きつけても、内心その怖いもの知らずを馬鹿にして、本気にはしていませんでした。そんなの無理に決まってるでしょ、何勘違いしてんの?って。でも顔ではキラキラ目を輝かせて由綺を憧れの眼差しで見つめながら。そんな、マナだけの口だけアイドル(志望)だった由綺が、現実に、全国的アイドルになるという無謀な夢を叶えてしまいました。マナとしては予想外の番狂わせです。青天の霹靂です。こんなはずじゃ…。でも現実は現実として確かにそこにあります。マナは展開を見誤っていました。信じがたい現実でも現実として受け入れるしかない意味でも、おこがましくも由綺の程度を決めつけた自分の見込み違いを脳内からもみ消す意味でも、「由綺にはちゃんと才能があった」と、マナは自分に渋々言い聞かせています。由綺が夢を叶えたことそれ自体よりも、由綺を侮っていた自分の浅さとみじめさを直視したくないですから。


そのマナの想定外は、冬弥にはとても共感できることなのではないでしょうか。由綺が「アイドルになりたい」と言っているのはいわゆる「言ってるだけ」で、成就に向けての努力は重ねているものの、その実現を本気で見据えているとは、冬弥は本気にはとらえていなかったと思います。努力すること自体に喜びを見いだす由綺は、それだけでも十分に満足できているだろうと思って。「言ってるだけ」の時、目標に向かって近づいていく段階こそがいい、夢が叶わなくたってむしろそっちの方がいいんじゃないかって。そもそも由綺は大仰な身の丈なんて気が引けてしまうんじゃないかって。だから「応援するよ」とは言いながら、そこまで現実的に考えていなかった実情が多分にあります。ですがそれは冬弥の見込み違いで、由綺自身の考えは実に実効的で建設的なものです。自分に関することについては「口だけ」では終わらせず、しっかり今後に繋げてみせます。「アイドルになる」というのは由綺にとって固く定まった目標で、そんなふにゃふにゃした曖昧で消極的なつましい気持ちで臨んでいるのではなかったのです。そして由綺は強靭で貪欲な意志で着実に歩みを進めた結果、見事その夢を実現しました。由綺の夢を話半分にしか考えていなかった冬弥としては、まさに「こんなはずじゃなかった」、由綺のアイドルデビューは本当は、そこまで冬弥の望んだ未来ではなかったということです。


由綺のはびこる範囲は無尽蔵に広がり、彼女は大々的な認知を得て、人々を虜にしています。マナとしては「何でよ!?馬鹿しかいないの!?」と叫びたい道理のなさですが、世の中って割とそういうもんで、愛され体質の人は何やってもお目こぼしされてちやほやされちゃうんですよね残念ながら。もてもてなのを嫌うタイプの女性には受けが悪いかもしれませんが、男受け、お年寄り受け、お子様受け等々、あらゆる層で総じて好感触と思われます。ここだけの話、由綺の支持層には十分な思考力は求められていないようです。


由綺はまさしく、アイドルになるために生まれついた人間です。それは歌って踊るだのの表面上の素質を指すのではありません。皆に好感を持たれ、優遇を欲しいままにするという魅了の素質がものを言います。人をたらしこむ能力がきわめて高く、その上、本人はそんなつもりはさらさらなく、自覚もありません。類まれな天性の素質です。歌い踊る才能なんてのは、アイドルを目指す卵諸氏においてはごく当たり前のありふれた素養で、何の特別性もなく、それが多少抜きん出ているからって他を圧倒する要素にはなりません。そこにきて由綺は、何でだか周りが自然と彼女を「仕方ないな」といった見方で許し甘やかしてしまうだけの人受けポテンシャルがあります。しかも気立てよく健気な理想の正統派に見えて、本当はその実質がまったくないにもかかわらずです。見る者をペテンにかけるのが至高の喜びという独特な芸能感性を持つ英二は、その希少でまやかしな人間性こそに特別な価値を見いだし、絶対他にも数いたであろう有望株には目もくれず、歌踊りは二の次にして、技能のおぼつかない由綺をそれでも構わず、迷わず大抜擢したという訳です。選考基準として重きを置かれるポイントとなる才能が、一般通俗とは根本から違っているのです。


「愛されることが確約された子供」である由綺の側で、マナは、ただ子供であることそれ自体が叶わない日々を送ってきました。それでも自分が「可哀想な子供」であることは認めたくなくて、必死で自分の立ち位置を保ってきました。けっして由綺を羨んでなどいない、由綺に反感など持ちようがない、なぜなら自分は「由綺が大好き」で、彼女と接することに苦痛を感じてはいないから。大好きなお姉ちゃんは私を親身に思って大切にしてくれてる、そのように所感と違うことを自分に言い聞かせ、由綺に対する不満を押さえつけてきた背景があります。だからマナの言う「お姉ちゃん大好き」を言葉のまま受け取って、のんきに由綺の信頼性を確信し、仲の良い従姉妹の絆に感動している場合じゃないんです。ありったけの譲歩でマナが自分に吹きこんでいるだけで、事実は「そうじゃない」んです。マナ精いっぱいの涙ぐましい強がりで、由綺の慈愛あふれる虚像を打ち出して、それにすがり、またそれを理由に自分を制止しようとしているだけなんです。マナが由綺の本質を熟知していてなお、それでも愛着という意味で彼女を好きなこと、これは本当かもしれませんが、由綺という問題の人物を、全面的な信頼でもって心から迷いなく一心に好きでいる訳ではないのです。


「私はお姉ちゃんが大好きだから、そのお姉ちゃんから大切なものを奪えない」という風なことをマナは言います。続けて、少し意味をとらえかねる妙なことを言います。「私は誰も裏切りたくない、『私を置いてった人』とおんなじになりたくない」と。マナを置いていった人たちの中には確実に由綺も含まれる訳で、なおかつ他の詳細は特に語られず、その時点で話題の中心となっているのが他でもない由綺であることから、それは完全に由綺を特定して指している話と定まります。マナははっきり「由綺と同じになりたくない」と言っているのです。マナが「なりたくない」としている由綺要素とは何か?それはまさに直前の「自分は由綺から奪えない」宣誓の対極パターンに相違なく、「由綺はマナから奪っていた」という根深い背景が確定します。


いってもマナが近辺の人間に受け入れられなかったのは由綺が原因の一つではありますが、由綺には何も悪意はないし、由綺だけのせいでもありません。しかし由綺がマナを悪く印象づけることで、好ましい展開を可能性という根本からことごとく奪ってきたのは確かです。それゆえマナは由綺の影に怯え、人間関係に怯んで、今や由綺がいない所でも自己表現することを諦めてしまっています。また大人の選択を強いられたマナが「譲る」という形で由綺に何もかもを「横取り」されてきたことも容易に想像できます。二人の前に「お姉ちゃんだから我慢しなさい」は展開することはなく、年下だろうが何をめぐってだろうがマナの方が必ず我慢して、進んで由綺に譲らなくてはならない。それが決まり。それ以外の対応は許されない。由綺は由綺で優遇をそのまま遠慮なく受け入れ、悪びれる様子もない。口ではマナを思いやっている風に言いふらしながらその実、何の施しも分配もない。味方のふりをして害をなす、ひどい裏切りです。そんな人間になれるかと問われれば全力で拒否します。今まで自分が由綺に心なく奪われてきたのとまったく同じように、自分も由綺から平気で奪い取るという暴挙に出られるかとなるとそんな真似はできません。それが望みを満たせる順路であろうが、由綺と同類にはなりたくないという誇り高いマナの意地です。


マナ直接の証言により、由綺が妹に寄り添ったすごく優しいお姉ちゃん、文句なしに出来た人柄をした純正いい子だと実証され、それに伴って由綺への愛しさが断然強化されるから、あえて格の落ちるマナを選ぶ理由がないという結論に至るのであれば、一体、マナ編の何を見ていたのかという話です。もっとも、二人をどう感じるか、どちらを選ぶかはまったくの自由だし、現状公式の恋人である由綺を蹴って、よそ見でマナを選ぶことに正当性はありませんけど。ともあれ由綺賞賛の結論に及ぶとなれば、マナの話を全然聞いていなかったってことになります。表面上では裏返って話される、隠された本当の意味で。自分からは口には出せないこともあるのよ、大人ならそれでも判りなさいよ!と怒られちゃいますよ。ちゃんと言わないくせに判れって、そりゃ理不尽。ですが話にじっくり耳を傾けることが求められるマナ編において、客観的で深慮な見方に努めることは、基本中の基本の必須スキルです。マナ苦悶の言い聞かせで美化して語られる由綺、その由綺こそに悩まされるマナの悲痛な非言語の訴えを見逃すというのは、一番の本題を取りこぼしているも同じです。ましてや逆方向に受け取るなんて論外です。ただ、個々のプレイヤー認識はどうあれ、冬弥は明らかに由綺への態度を硬化させており、確実に状況を正しくのみこんでいます。冬弥内部では、マナの真の悩みの種を理解するという決着は固定の規定ルートなのです。


由綺かマナかの二択を前にした冬弥の予備知識として、マナは何としても彼に従姉妹関係の本当の状況を理解してもらいたい。かといってマナは「自分は今まで由綺の仕打ちに悩まされてきた、由綺は本当に困った人間で、自分はそれにずっと耐えてきた」とは軽はずみに言ってしまえない訳です。人の気を引くために他を下げて自分をよく見せるといった「由綺と同じ」方式は、何よりマナの良心に反するし、また自分が使う手段としては無意味、それどころかむしろ逆効果だと判っています。それは由綺だから許されている反則技であって、マナが使っても反感しか呼びません。ゆえにマナの口からは由綺を悪くは言えません。そんな分の悪い条件の中、マナは自ら、あえて由綺を持ち上げて塩を送るという思いきった手段に出ます。由綺の虚偽の良好イメージをその場に展開させた状態で、それでも自分を選んでくれるなら、それは認識ハンデを一気に飛び越えた自信に繋がります。さらには真意を伏せた言葉の端からそれでも真実をくみ取ってくれたなら、その人は確かな信頼を置ける人物だと認定できます。


それでも、ただやられっぱなしの手加減させられっぱなしでいるのはマナも落ち着かないのか、正々堂々由綺と肩を並べるためにも、由綺被害者の立場からのささやかな逆襲として、「由綺と同じ」方式で、人を理由に持ち出して自分の行動を説明し、話を聞く相手の判断を仰ぐという卑怯ながらもフェアな手も同時に使っています。由綺と同じ手を使うことで公平に対抗できます。「由綺が好きだから、自分は彼女を裏切れない」、マナは自分をよりよく見せかけるために由綺を引き合いに使います。けれども由綺とは違って、理由に挙げる対象を下げる形ではなく、逆に上げる形で用います。由綺との違いを明確に意識した上であえて枠組みの形式を合わせ、由綺と同じ土俵に上がっています。その差でもって判断がなされるようにとのマナなりの計算です。マナはけっして由綺を悪く言わない。そこに気付いてもらえさえすれば自分が一気に優勢になるかも、そうマナは期しているのです。


これまでマナ周囲の人間は由綺の言い分だけを聞き入れ、由綺だけに味方してきました。そんな中、マナは作中「由綺がいない」という格好の条件で、由綺との比較や由綺によるバイアスなしに自分を自分のままで見てくれる人間に出会いました。冬弥はマナをマナとして知ってくれて、なおかつ仲良くしてくれました。わざと過剰に悪意を押し出してすら、彼はマナから離れていきませんでした。「この人は今まで周りにいた人たちとは違う」と実感したマナは、冬弥を特別視するようになります。ところがクライマックス、由綺と鉢合わせることで、マナは冬弥周りの構図を悟ります。「由綺がいない」のを幸いに、初めてまともに自分だけの人間関係を安心して築けていたはずが、その場に堂々由綺が出張ってくることで、やっぱりいつものパターンに流れていくことを予感し、マナは絶望します。由綺が出てきた日には、マナがマナ個人の人間性で評定されることはなくなります。そこは由綺の領域となり、すべてが由綺に都合よく組み変わり、話の基準は由綺だけに合わされることになります。当然、冬弥の認識状態に懸念が及びます。藤井さんも他の皆と一緒なの?やっぱりお姉ちゃんだけに味方するの?お姉ちゃんの言うことだけを信じて私を信じてくれないの?それ以前に、彼の「由綺の恋人」という立場を考えるに、彼は常態からしてもっぱらの由綺側の人間のはずで、理解を得たいマナの希望は限界ぎりぎりにまで断たれてしまいます。


けれども、短い期間で急速に親交を深めることで、マナは冬弥の人柄をよくよくのみこんでいます。マナは普段、冬弥が頼りにならないというんで完全になめきって扱いますが、しかしながら彼の人間性自体には信頼を置いています。彼は、話を聞くことのできる人で、頭ごなしに決めつけて否定したりはしません。理解の器が大きいのです。だからこそマナは安心してわがまま放題して、彼だけに自分を解放してこられた訳です。普段の尊大な態度により印象が極悪であること、それは自己責任として、その欠点も含め、冬弥はマナをマナのままで知っていてくれます。そこには由綺の干渉は入っていません。冬弥は、今までの人たちとは条件が違います。マナを単体で見てくれる彼はひょっとしたら、マナの本音を読み取り、真実に気付いてくれるかもしれない。マナは、そのわずかな可能性に期待し、望みを賭けます。


マナは冬弥に言葉の制限を飛び越えた正しい理解を期待しますが、「由綺の恋人」という、由綺に傾倒していることが前提的に確定している相手にその判断を委ねるというのは無謀すぎる賭けです。由綺にのぼせているであろう彼が、由綺を贔屓目で見て由綺寄りの思考に偏ること、これは避けようがなく、マナの一存ではどうにもできません。さらには自ら由綺をよりよく印象づけることで、マナは一層自分に不利な状況を作り出しています。マナの口からはあえて由綺の本質は暴露しません。冬弥本人が持つであろう由綺への幻想、マナがあえて焚きつける由綺の虚像、それら圧倒的加点のついた盛り盛りの由綺を相手取り「私をお姉ちゃんほどに好きじゃないんだったら、帰って」と、マナは冬弥に吹っかけます。玉砕上等です。マナは初めから勝ち目のない戦いに挑んでおり、普通にしたって彼女が選ばれる可能性はほぼありません。そんな中、一か八かの大逆転を狙って、一番無理筋な条件を設置してそれにつぎこみます。だめで元々、当たれば大勝利です。期待薄だけに得られる配当も相当なものになります。マナは自己存在をしっかり肯定されると同時に、ガチガチの由綺有利条件でもなおマナへの理解に踏み切ってくれる冬弥には絶対の信頼を置けると確信することができます。そして、さすがに強く期待はできないんだけど最終的な状態として、もし仮にマナが伏せている従姉妹の真実をも残らず見抜いてくれたなら、彼には正しく人を見る目があると立証されます。冬弥を、本当に価値ある人間か試してもいるんですね。また試すだけの価値があると冬弥の可能性を見込んでいます。マナが冬弥を得た時点で、冬弥自体が人間的に大化けすることになり、とてつもない大配当となるのです。


さてプレイヤーの認識をよそに、冬弥は自分単独で、独白化されない胸中の胸中で由綺の真実を特定します。動かぬ現実に直面し、由綺にのぼせていた頭はすっかり覚め、幻想は泡とはじけます。由綺に対し距離を置いた態度に変わるのはそういうことです。最終分岐でどちらを選ぼうと、つまりマナを選ばない展開でも、冬弥はマナの立場を知り、真の状況を理解してくれます。彼は基本ポンコツですが地頭は悪くありません。情報が不十分なうちは反応が鈍く、ほとほと埒があかないですが、すべてが出揃うことで、あらゆる事項を残らず関連づけ、一気に解答を導き出します。聞いてなかったり、意味を解していなかったりに見えて、あいついちいち心に引っかかってためこんでますからね。根が深いです。さらに感受性に至っては特別優れているので、これまでのマナの不明瞭な話の中で、彼女が本当に訴えたかったことは何なのか、彼女の立場に立って情報を思い返し、状況を見渡すことができます。


冬弥が持ちうる情報、中でもマナの台詞という実テキストを総ざらいすると、直接的に「由綺の干渉のありがたさ」をうたう一方で同時に、どうもはっきりしないんだけど、何かしらの理不尽にずっと我慢を強いられてきたとおぼしき切実な苦悩が示されます。それは徹底して「全容を特定しない形」であり、正直意図が全然見えてこないため、実態のないただの愚痴をいかにも深刻っぽく思わせぶりにちらつかせているだけで、要点としてまったく意味をなさないかのように思われがちです。けれども言いづらそうに言葉を絞り出すマナの様子を鑑みて、それは何か重大な理由があって具体的な開示に踏み切れないだけで、悩める実質は確かに存在し、その制限をも含め本気で悩んでいることは確かです。状況的には、口に出せないこっちの方が本題なんです。本題なのに、本題として詳細が挙がってはいないんです。そんな、空欄のままで保留され釈然としなかった所に、由綺の立場が判明し、追って由綺の台詞という実テキストや、物事の実経過を次々追想することですべてが繋がります。「このことだったんだ」と。冬弥は、マナを苦しめる理不尽の元凶とは、他の誰でもない、この由綺だったのだと悟ります。実際の台詞や行動にその人間性がまんま直で反映されていますからね、擁護しようがないです。この結論はもう動かしようがないです。


しかし内容把握する上で困ったことに、冬弥はその決定的な認識を、プレイヤーには説明しません。自分の中だけで状況をのみこんで、そのまま言葉をのみこんでしまいます。冬弥としては、もはや否定しようのない確定事実で、説明するまでもない判りきったことなので、言語の形でことさらに自分に言い聞かせる必要がないのです。それまでのテキスト読めば判るだろ、書いてある通りなんだし、俺あんまり責めること言いたくないし、みたいな感じで。でもプレイヤーはその気付きをきっちり説明されなきゃそのつもりで受け取ろうとは思わないんだからちゃんと言ってよ。すぐ自己完結するんだから。冬弥が、というよりはシナリオ構築レベルで、説明責任というものをおざなりにしないでほしいです。


ついに知ってしまった衝撃の由綺の本質について説明されないのは、「自己完結」と「見て見ぬふり」という冬弥の二大気質も理由としてあるとは思いますが、何よりマナの意志を尊重するためでもあります。マナは徹底して由綺を下げることはありません。実際、当の由綺に苦しめられ悩んできたにもかかわらずです。マナが外に向けて洗いざらい打ち明けてしまいたいこととはまさにその話であるのに、絶対に由綺を悪くは言いません。こうなったら意地でも姿勢を貫きます。冬弥は、マナの気概をくみ、それに倣った行動を取ります。マナは、冬弥の由綺認識を下げることを望んではいません。由綺が下がることで相対的にマナが上がるとして、それはマナの正義に反し、彼女はその評価が正当だとは受け取れません。冬弥が由綺への気付きを表明したならば、せっかくのマナの高潔な強がりが無意味になります。場の空気を介し本音が伝わることで結果的にマナが由綺に害をなしてしまっては、マナに害をなしてきた由綺と同類になってしまい、そうなるまいとマナが保ってきた矜持が台無しになります。だからマナには気付きが伝わってはならず、冬弥はけっして自分の認識状況を明らかにはしないのです。