補足10


マナ編クライマックスにて、これまでマナが身近な存在として言及してきた「お姉ちゃん」とは由綺だったのだと判明します。マナを支えてきた心優しき「お姉ちゃん」なる人物が由綺だと確定することで、マナという別視点からも由綺の人間性が裏付けられ、その理想的な人物像は実証をもって強化されることになります。それは一層由綺に惚れ直す一理にもなります。やっぱり由綺は俺が思った通り、いや思った以上に最高の女性だ。一見、これこそがマナ編のオチのように見えます。しかし、それをもって話の終着点とするには、いくらか違和感が残ります。単純に由綺の位置づけがそのまま確定するだけだと、マナ編の要所通じて、不必要に思える説明がいくつかあるんです。


由綺のありがたみについて語る一方で、きまって付け加えのように、マナは何だかもにゃもにゃと意味深に、対人姿勢のずるさに関する意図不明な愚痴をこぼします。マナが「自分はこうはできない」と言っていることから、暗に「マナでない誰かはこうしている」とも取れます。でも全容は一貫して明らかになりません。明らかに何らかの意味があって含みを持った言い方がされているはずなのに、マナが一体何に思い悩んでいるのかが記載されないのです。それは今のマナを形成する考え方の礎となっているはずのことで、マナが一体、何を思って心を閉ざし、物事を斜めに見るようになったのかが不明なままになります。つまり、通常想定される通りの観点のままでマナ編を振り返ると、言及が不必要に思われる状況説明が余分に余って描写の無駄となり、また解消されない疑問点が残りすぎてしまうのです。また、そこで由綺が確実な存在として常に共にあったのなら、そもそもマナは謎の悩みを取り扱い困難なまでに深めてしまう理由がない訳です。今まで由綺によくしてもらってきたなら、別にそれでいいじゃん、マナはそれ以上何を望むの?ってなりますよね。十分に与えられていながら満たされなさを嘆くのは、不相応な悩みにも思えます。


また、素性判明時点で由綺のとことんまでの素晴らしさが確定したのなら、冬弥が、それなのに「その由綺」を裏切るのは道理に合わないことになります。マナによくしてくれていた由綺を前にして、まさにそのマナをどうにかするために、こうも無情に裏切れるものなのか?はっきり言って、不条理な上に無益で、無駄に関係を踏み荒らす行為です。世間的解釈では、そんなありがたい存在の由綺をそれでも正面きって裏切れる冬弥は、ほとほと理解しがたい救いようのないくずだ、みたいに受け取られています。結局冬弥にしろマナにしろ人間として低レベルに過ぎるから、何の思慮もなく由綺をそのまま裏切ってしまえるのだと結論づけることで、マナ編にはそれ以上の要旨はないとして、話をそこで切り捨ててしまいます。


ところが、クライマックスでこそ一気にマナと深く関わる方向に舵を切るものの、前提として、事情にそれとなく探りを入れつつも冬弥はそれまで頑なに彼女への干渉を控えてきている経緯があります。プレイヤーとしてはその鈍重さにイライラするくらいです。これもまた詳細は明らかになりませんが、冬弥なりの考えがあってその姿勢が徹底されていることは確かです。マナの境遇に深入りする機会はそれまでにもいくらでもあったのに、冬弥はひたすらそれを見送り続け、よりによってうかつに動けない状況になってようやく実行動に踏み切ります。腰の重い冬弥をして、何としてもマナのために動かずにはいられなくした、ただならぬ理由がそこにあるはずなんです。理由もないのに、それまでの固すぎる信念を覆してまったく真逆の行動に出るというのは、どう考えても理屈に合いません。


実は、マナ編のシナリオ展開にはもう一段階あるんです。確かに、マナの言う「お姉ちゃん」が由綺だと確定はします。でも、それを踏まえて由綺の実台詞・実行動をおさらいすると、皮肉なことに「お姉ちゃん」の実質に矛盾が生じ、マナの支えとして一切機能していない事実が露呈してしまいます。修羅場に至るまでの直近の流れを落ち着いて読みこんでみましょう。由綺がマナを思いやっているなら絶対に取りようのない行動を、現に由綺は当たり前に何でもなくやってのけてしまっているでしょう?それでいて穏やかに楽しげに微笑みまくっています。マナ精いっぱいの頼みごとなんか由綺にとってはものの数にも入らず、彼女を軽んじて薄情に切り捨てて不義理を働いても全然平気なんです。マナと「直面したら」さすがに向き直ってマナを気遣っている風な態度を取り、口でも何やら懸命に気兼ねを表明しますが、ほんの直前までそんな素振りなどなかったことは明らかです。場合によっては憂いなくはしゃぎ、場合によってはマナへの不満たらたら。マナへの配慮など持っていなかったのは明白で、その時になって取り繕うように自分の所感を説明します。取ってつけの、形ばかりです。シナリオ構造的に、由綺が常態としてマナに無情である状況というのは徹底されています。実際の発言としては確かに、由綺は表立って、面と向かって、そして画面向こうの我々にも判りやすく、マナへの思いやりを健気にうたいますよ?けど状況証拠はしかしながら、由綺の思いやりなど指し示してはいません。逆に、由綺は思いやりなど持ち合わせていないのだと立証されます。


そういえばと思い返すと、マナは「由綺はよく遊びに来てくれた」とは言っていますが「自分を支えてくれた」とは言わないんです。ええ、言っていないんですよ、そんなこと一度も。「言葉にしなくても、そんなの話の流れ的には明白だろ」と思われるかもしれませんが、それは事実ではなくプレイヤーの思いこみなんです。マナの「お姉ちゃん」こと由綺は、実質少しの情もなく、マナのことなど思いやってはおらず、何の支えにもなっていなかったのです。マナ編とは「マナの語る『素晴らしいお姉ちゃん』、それは由綺のことだった」と単純に由綺の魅力的人柄を確認するためのシナリオではなく、「マナの語るお姉ちゃん像、その素晴らしさは『虚偽』だった」と、従来の由綺像ごと認識がひっくり返るシナリオなんです。他でもない由綺本人と直接照合することによって。


そんな由綺の実質に直面した冬弥は、彼女はてんで話にならないと思い知ります。そして、マナの「お姉ちゃん」である彼女が、マナの求める役割を何ら果たしていなかったであろうことも察します。由綺は他人の痛みの判らない人です。それでも、相手を選べる立場にないマナにはその不出来な「お姉ちゃん」にすがる以外に選択肢はなく、彼女なりの言い聞かせで理想の「お姉ちゃん像」を由綺にあてがい、自身を納得させてきました。そんな感情のゆがみを冬弥は理解します。さらに追加で思い返すに、由綺の言い分は、自分の健気を押し出しながらマナを貶める方向で展開していました。このゆがんだ構図が従姉妹間で常態となっていること、ひいてはマナが言うに言いきれないでいた不明瞭な苦悩の本題はこれだということに冬弥は気付きます。マナがかろうじて支えとしている頼みの由綺は、不出来どころか害悪になっています。マナにとって一番の苦痛の元凶は、由綺なんです。それを取り除けるかどうかは冬弥の裁量にかかっています。由綺の存在に左右されず、マナの人間性をそのままで受け止めることができるかが試されます。そしてそれを示すには「由綺に惑わされていない」証拠が必要で、ゆえに冬弥は、由綺を裏切ることでしか正常な視点を証明することはできないのです。


マナの語る「お姉ちゃん」なる支えが、実質、彼女の打ち立てる幻に過ぎないと知った時点で、冬弥は「彼女を支える人は誰もいない」と痛感します。そして自分を振り返ります。一歩間違えたら自分もそうだったかもしれない。冬弥自身は幸い周囲に恵まれて救われてきたけれど、運悪くまかり間違えば自分にも課せられて不思議はなかったと思えるくらい、とても他人事ではないマナの境遇。そして冬弥には与えられていた救いが、マナには存在しないのです。救いの要である河島兄妹がいなかったなら、冬弥としては自分がどうなっていたかも判らない。まともに生きてこられたとは思えない。それこそ自分の不幸にかこつけて当たり散らし、人を傷つけることを平気でできる人間になっていてもおかしくはなかった。河島兄妹がいなかった人生などもはや考えられない状況で、それだけに、持たざるマナの状態に憂慮が及びます。だというのにマナは心を強く持ち、自分を哀れむでもなく、努めて周囲に害をなさないよう自制しています(冬弥には蹴って実害を加えるけど)。しかしその調整はマナ個人の胆力のみによって保たれているもので、このまま重荷と抑圧を抱え続けるには、彼女は既にいっぱいいっぱいなのだと冬弥は察します。マナには、支える誰かが必要です。それは誰か?共鳴と同調と使命感により、冬弥は「彼女を支えられるのは自分しかいない」と奮い立ち、気を引き締め直してマナへの干渉に踏み切ったのです。


冬弥はその満たされない生い立ち上、マナに自分を重ね合わせており、今すぐにでも彼女に駆け寄って、手当たり次第に手取り足取り密接に支えたいというのが一番の本音なんですよ。でもそれは自身の欠けを埋めたいエゴに過ぎず、マナのことを第一に考えた対応ではないと判っているから、努めて干渉を抑えます。また、マナにとっての「河島兄妹」がいるのなら、その合間には絶対立ち入ってはいけないと、冬弥は思っています。冬弥自身、彼らとの間に誰かが割りこむことは頑として受け入れません。それは彰ですら例外でなく、弥生に対しても何だか面白く思っていなかったような痕跡があります。冬弥は自分がされて嫌なことは人にもしません。マナ周りの基礎関係を侵害せず、保全最優先にしたいと思うはずです。マナ口伝ての「お姉ちゃん」を「河島兄妹」と同質の存在と見なすことで、冬弥はその実物を知りもしないのに絶大な信任を寄せます。こみいったことは、関わるにふさわしい人に一任すれば良いことで、自分は口出しすべきでないと身を控えます。そういったちゃんとした理由があってマナへの深入りに消極的な冬弥ですが、最終的に「お姉ちゃん」には「河島兄妹」的な救い要素など何もなかったと悟ることで一転、躍起になってマナのために力になりたいと願うことになります。それは元々からの願望でもあり、もう彼の心の高ぶりを止めることはできません。


マナ編エピローグにて由綺は、反応薄い冬弥の気を自分に引きつけようとチラッチラッと盛んに視線を送りますが、冬弥は「ああ、はいはい」みたいな感じで目も向けません。そんな気になれません。由綺に存在するのがただの浅ましい顕示欲のみで、中身は空虚だと知ってしまったからです。正直「またやってるよ」といった所でしょう。完全に引いています。


記載されているテキスト上、作中でマナが抱えている頭痛の種ってそもそも、ママこと観月母のことに決まってんでないの?と思われるかもしれませんね。ママがすべての元凶となって、家庭や学校でのマナの生きづらさに繋がっているって。でもこのママ、一切姿を現さないし、ストーリー展開にも全然噛んできませんよね?あくまでマナの現況の前提となっているだけです。それに、目下問題として展開している家庭事情・学校事情については、マナは自力で自分なりに区切りをつけてしまいます。万々歳の状況など夢見ていないで何とか折り合いをつけるしかないと諦め、理不尽を許容しつつ、それをマナ側から遠く突き放すことで収束を図っています。ママも学校も、マナが求めたって何も変わらないんだから、マナから求めることを一切やめることで、そういうものだとまるまる受け入れることができます。中盤時点でもうその傾向は見られ、マナは、勝手なママにほったらかされても自分はそれでも構わないと既に割り切れています。もういいんです、ママはママのままで。悩みとしては引きずっていません。少なくともママが原因となっている問題は、冬弥が関与するまでもなく、マナだけで決着がついてしまっているんです。


マナにとってママの話は済んだ話、つまり、ママ関連の話はマナ編の本題ではないということです。事実、ママの話は最終的に立ち消えになります。そして目の前に繰り広げられる展開に沿って、話はもっぱら由綺中心に移行します。由綺がマナ編の本題の中心にいることは、クライマックスでの堂々登場という待遇により明らかです。つまり本題は由綺なんです。それなら、結局本筋へと昇華されることのないママの話が、なぜ意味深に持ち出され、いかにもメインストーリーであるかのように長らく引っぱられているのかと疑問が残ります。意味のない話に無駄にだらだら時間を費やしていたことになります。けれども、描写の重点的ぶりから考えるに、それがまったくの無意味情報だとは思えません。ママの話が正味の本題でないにせよ、本題に到達する上で何らかの意義があるとするなら?話の焦点が由綺であること、これは固定です。本題でないママの話が、間接的かつ密接に本題に関わっていること、これも有力です。結論を言うと、ママに関する情報はことごとく、マナ編の本題、つまり由綺の本質を裏付ける伏線に使われているのです。


ママに関する記述は、単純にママ本人を話に絡め、ママ自身の人となりを知らしめるために置かれているのではありません。別の重要事項を引っぱり出すための糸口としての役割が大部分を占めます。一つには、その不在がちな常態をして「冬弥の」境遇を暗に示す重要な鍵となっています。冬弥の境遇自体については本文では具体的なことは何も語られませんが、マナ編であれだけ「母がいない」基礎条件が強調されるのには何か意味があるはずで、冬弥の心を狙いうちするために意図的に組まれている事項だとするなら、彼もまた相応の下地を持ち、マナに対しては少なくない共感でもって物語に応じているということです。一方で、マナの暮らす観月邸には父もまた帰ってくることはありません。海外赴任の観月父については、母と同じく家に不在であるにもかかわらず特に重要さをもって注視されません。こっちは冬弥と共通項にはならないため、彼をえぐる要素になく、「作品的に」深い意味を持たないからです。


そしてもう一つには、これがママ描写の主目的と思われますが、由綺とかぶる行動パターンが挙げられることで、由綺の言動の裏側を、ママ批判モデルに沿って説明することができます。遠慮がちで気遣い屋と思われている由綺が、実は凶悪なモンペママと同質の人間なのではという衝撃の疑惑が示されます。ママは学校やPTAを馬鹿にしてほったらかしにする、そのくせ勝手な口出しだけは平気でするとされていますが、実際由綺もまた同様に、冬弥相手にしろマナ相手にしろ、相手を馬鹿にしきって基本放置プレイ、立場を軽く見積もって相手本人の都合を完全に無視、口先だけで言いくるめて言いなりにするのは、作中にて目にも明らかな話です。家庭教師募集の条件について「ママも良いように言ったんじゃないの?」みたいなことをマナが言うことから、傍若無人なようで意外とママは人受けセンサーが敏感で、呼びこみというか、うまい話に持ちこんで興味を引こうとするあざとい所があるようです。由綺同様、口では調子のいいことばかり言って自分フィールドに他人を落としこんでしまうのです。またマナの誕生日イベントでママは、娘の趣味傾向まるで無視で、ママ本人の一存で、おそらく「自分が気に入った」クマちゃんを一方的に送りつけてきます。自分が良いと思うんだから当然マナも必ず喜ぶと信じて疑わず。由綺いつもの行動パターンと非常にオーバーラップする一節ですね。ママ本人は作中に出てくることはなく、あくまでマナの話の中で強烈さをまき散らしているというくくりは越えないけれども、その個性は、性質を同じくする由綺の問題点を大々的にクローズアップするために敷かれているものだというのはほぼ疑いようがありません。完全に丸かぶりですからね。


困る贈り物についての具体例。相手側の需要を一切考えていないからこそ由綺は、弥生に不釣り合いなストリート系のアクセサリーを贈ろうなどという無茶も思い立ちます。本人の趣味や実際似合う似合わないはどうでもいいのです。とにかく自分の感性で自分が望むものを自分が贈りたいだけです。以下由綺の思考回路。弥生が自分所有のアクセサリーを褒めてくれた→弥生もこういうのが好き→好きなものを共有できて嬉しい→弥生にも同系のものを贈りたい→弥生は喜んでくれる→私、嬉しい!…とまあプラスの善意に満ちてはいますが、思考の軸は徹底して自分です。ちなみにプレゼント現物ですが、物選びに同伴する冬弥の配慮が加わったためか、そこまでいきった代物ではなく、弥生の雰囲気に何とかはまる落ち着いたものを選べたようです。


マナ編通じてほのめかされている全容の見えてこない問題、これこそが本題で、マナの切実な悩みの根源だろうと想定されますが、一方で、ママについては、手短ではあるもののちゃんと全容が説明されています。言うことがためらわれるような問題や難点や醜態も、濁すことなくはっきり述べられています。やりたい放題に勝手しているママが、人を馬鹿にして対応を軽んじるから、周囲から嫌われているって。その他、各方面での横行態度も色々。ママは、マナが「一貫してぼかしている何か」とは完全に別物です。ママについては「はばかりなく言えている」のですから。一番苦痛に感じている、現在進行形で悩まされている問題の出所については、マナはどうにも口に出すことができないでいます。その「言えない何か」は、問題を語る方向からは結局明らかにならないままです。一方向からでは謎が解けないようになっているのです。そこにきてまったくの別方向から単体で「由綺が本題」だと構造的に示されることで、結果的に、保留にされてきた謎のスペースに由綺を放りこむことができます。一方向からでは「問題とされる本題の詳細は謎のまま」となっている所に、もう一方向から「本題は由綺」と確定することで、「謎である問題の正体は由綺」ではないかとの線で考証を進めることができます。その流れで順繰りに「マナの苦痛の根源は由綺」との解が導き出されます。


由綺はママの上を行くモンスターで、ママと共通する問題点の上に、さらに由綺固有の問題点が加算されます。ママは単に、身勝手によって迷惑をかけ、マナに愛情を注がない(というか自分しか愛せない)だけで、マナ個人固定で直接的に害をなす訳ではありません。行動を制限し、マナの自由な自己実現を阻害してはいますが、マナの自己認識そのものに影響することはありません。ところが由綺は、ママ要素に加え、その偏向発言によりマナがマナ自身として生きるすべを封じます。マナは悪印象というハンデつきの自己イメージを公認ファクトとして押しつけられます。となれば当然、先入観を払拭したいマナの言動は自然と抑制されます。これ以上偏見を深まらせたくないマナは、普段から極力大人しく振る舞い、由綺にも低姿勢で接します。必要以上に主張を押しこめるため、マナは自分らしくいられません。そうやって心を砕くマナから全力で気を遣われてもなお由綺は気にせず、なぜなら彼女にとって厚遇は当たり前だから、自分の通常行動を貫きマナを貶め続けます。一度定まった由綺の強固なスタンスを変えることはもうできません。誤解を身に受け、抑圧を強いられ、真摯に懐柔を試みようにも、それでもマナは現状に甘んじるほかありません。そこまで由綺にこだわらず、視野を広げ、全然違った種類の人たちにも目を向けていたなら少しはマナも救われたかもしれませんが、由綺というのがまず、何かにつけ関心を求めてあっちからまとわりついてくるのが基本なだけに、嫌でも目について頭から離れません。それが人生初期から長期にわたって続いたため、マナが由綺の存在を度外視して思考を構築することはもはや不可能です。マナは常に由綺の脅威で足がすくんでいます。由綺の多忙により交流が激減した現在であっても、その呪縛は深く根を張り、依然マナを苦しめています。


マナ編の肝は、何の欠陥もない、それどころかマナの「お姉ちゃん」との照合を経ることで信頼に足る人柄が今まさに目の前で実証された、人として完璧な恋人を裏切るから心に痛いって話ではなく、信じていた恋人が実はガチでヤバかったから心に痛いって話です。洗脳が解け、期待する実質も何もないヤバいものに入れあげていたそれまでの痴態の数々を振り返り、自分の愚かさを思い知って心に痛い、ひいてはそのヤバさに翻弄され実害を受けながらも逃れようがなく、美化でもしてのみ下さないことには日々を乗りきれなかったマナの心痛を推し量るとなお痛いっていう。由綺が無邪気で天然なのは確かな真実ですが、一方で優しく健気というのはまったくのでたらめです。事実、由綺のマナに関する口述はどれもこれもヘドが出るくらいひどいもんです。精読すれば一目瞭然です。マナの性質がひどいってんじゃないですよ、マナを物語る由綺の言い草がひどいんです。この有様で「マナを思いやる優しい由綺」が当たり前に信じられているって、世間的評価は全然あてになりません。


マナ編とは、由綺という存在によって自己意識という根本から足を引っぱられてどん詰まりになっているマナを、そのしがらみから解放する物語です。「由綺がマナの救いとなっていた」話ではなく「由綺の害からマナを救い出す」話なんです。由綺に対する認知を修正して初めてマナ編は正常に回るようになっています。その手順を踏まない限り、読みこみエラーが発生して、解釈がとんとんと流れていきません。でなきゃ話の筋としておかしいでしょう?「由綺がマナの支えだった」として、そこで解釈を止めてしまうと、まったく読むに値しない理不尽な話になってしまいます。それまで親身になってくれていた由綺をマナは裏切り、その美しい慈悲を聞かされた冬弥はそれなのに由綺を裏切ることになりますからね。由綺を裏切るに至るだけの理由が皆無で、二人の心境にまともな説明がつきません。こんな腐れた結論をシナリオテーマに持ってくる筆者の気が知れません。ただしそれは、従来の観点を何ら疑わず、まったくもって正しいものだと据え置いたままでいられるなら。実際、目を背けたくなるほどの本質が由綺にあって、マナもいよいよ限界とあれば、見かねた冬弥が意を決し、「彼らしからぬ」思いきった行動に突っ走ってしまうのも、全然おかしくない話なのです。己への必死の言い聞かせの裏で切実に助けを求めているマナを、そうと知りつつ放置することなどできません。


ただ誤解してほしくないのですが、冬弥の最終選択には相応の理由があると言っているだけで、その理由が正当とは言っていませんよ私は。由綺を裏切ってマナを選ぶということは、彼の「恋人としての誠意」の問題に関わってくるので、由綺のヤバい本質を把握したからといってそれがそのままマナを選ぶ正当性に繋がる訳ではありません。いくらヤバくても、そのヤバい女がれっきとした公式の恋人としてしっかり保証されている限り、彼女を裏切ることは全面的に冬弥の非です。由綺という人物が誠意を向けるに値しなくても、それでもです。社会的立場というのはかくも煩わしく、人道に基づく正義の行動をも悪と縛るものなのです。


真相こそ徹底的に由綺に幻滅させる方向で組まれているマナ編ですが、普通は順当解釈通り、マナを温かく包みこむ美しい心の持ち主の由綺に感嘆するという形で受け取ります。由綺がめちゃくちゃ天使だから、これじゃ裏切れる訳ない、それができるのはよほどの外道っていう。そしてそんな結論に至るというのは、おそらく筆者の狙い通りだろうと思います。筆者が意図する狙い、読者に求めている解釈は、実にその、由綺に尊さを見いだして彼女に申し訳なさを感じるというものです。由綺をハイクラスの存在ととらえるのは、天の誘導に従った、いわば正常な判定です。でもそれは「誤解を狙って」の筆者の意図に沿ったもので、その解釈自体は誤答です。まんまとシナリオの罠にかかってだまされた結果です。筆者は俄然だますつもりで物事を描き、しきりに由綺寄りの解釈に向かうよう読者をそそのかします。つまり「事実関係としては」正しくない答えが、「筆者が仕向ける上では」正しい答えなのです。ただしその枠組みはあくまで仮置きで、筆者の真の意図としてはやはり、最終的には真相を暴くことを求めているのだと思います。隠された真の正答があるという二段構成ありきでの、一時的な誤答強調です。そうでもなければ、曲解を生みようがないほど純粋に、由綺の善意をごく普通に当たり前に描けばいい訳で、わざわざ変な引っかかりが施された言動をさせる意味がありません。その意匠はほぼ確実に恣意的で、要するに真実はそういうことだと思います。


マナが置かれている環境は、特に生活が立ち行かない訳でもなく、命の危機に直結するものでもありません。けっして相談所案件ではなく、大したことない話といえばその通りです。でも、非常にドメスティックな社会問題というか、精神的にかなり息苦しい、深刻な内情を抱えています。ごく近しい間柄での人間関係・位置関係があらかじめ決まっていて、自分の努力ではどうすることもできないのです。外部から強制的に押し当てられる役割分担を、我慢して受け入れるしかありません。俗にいう搾取子と愛玩子の身分差が、家庭内(正確には親戚付き合い)を飛び越え、野放しの愛玩子が自分にめっぽう都合よく吹聴しまくる全範囲にまで広がっています。悪びれない由綺の口は塞ぎようがなく、発言もやたらともっともらしく、もう手のつけようがありません。絶望的です。根本的な尊厳に関わる、これだけひどすぎる前提がありながら、それなのに普段少しの悲壮感もなく明るくぷんすかしていられるのは、それこそマナの強さです。マナ編が非常にコミカルな見かけをしているのはひとえに彼女の人間性によるもので、実質重すぎて安易に扱えないテーマを、何でもなく吹き飛ばして蹴散らすかのような雰囲気で保たれています。なお、子供間格差、一見これははるかが抱える家庭問題のように思われがちですが、攻撃的であったり猜疑的であったり不満がちであったりと、機能不全家庭で育った場合に見られる典型症例の色濃いマナと比べても明らかに、はるかにはそういう傾向が「ない」んです。ノンストレスです。実際に当該設定を課せられていることが確定するマナとの明確な差異により、実際にははるかにはそうした背景は「ない」のだと割り出されます。


他愛ないラブコメ的な様相で描かれるマナ編ですが、実質、心理的あるいは社会問題的にえぐくてやるせない真実が隠されています。当時としてはそこまで広く認知されていなかったであろう問題に鋭く切りこんだ、先見的で意欲的なシナリオです。ただしWAという作品はマナ編に限らず、その緻密で念入りな練りこみを表面には出してきません。ぱっと見では精度が低くうだつの上がらない駄文としか受け取られないでしょう。でも実は、あのしょうもない陳腐な文体・構成の裏には、様々な重みが秘められています。かといって、重苦しい真相こそがすべての真実で、あのコミカルさはただのまやかしに過ぎないのかというと、そうではなく、あれはあれで本物なのです。深刻な問題をフラットな視点から軽妙に見やり、負荷を軽量化して安定を図るという、WA独特の価値観です。重さを重さとして感じさせないのが基本方針です。単純な恋愛作品としてではなく、こう、心理的で社会的な何かを描いた作品として、また問題への着眼例として、一つの参考になる物語ではないかと思います。


ということで、マナが抱える真の問題を読み取ることだけに限定されず、表立って強調されるコメディ要素をそのまま素直に味わうというのも、それはそれでマナ編の正しい楽しみ方です。余剰の裏話にはなりますが、メンタルたくましく生まれ変わった妹と、誰にも邪魔されず何の気兼ねもなく、平和で自由で愉快なおうち時間を過ごす幸せというのは、肩身の狭い派生元では求めても得られなかったささやかすぎる夢の時間で、それも冬弥にとっては大きなテーマの一つです。マナが何の不安も感じることなく、感情いっぱいに殴ったり蹴ったり罵倒したりするその様子が、ただただ愛しいのです。かつてそうすることができなかった分だけ存分に吐き出してほしい。見えない背景を抱えた冬弥の、何よりもの癒しです。


WAの総評として、拍子抜けするくらいボリュームが足りていないとよく言われます。ストーリーが中途半端で終わり、状況にまともな決着がついていないとも。いや、表面上の結末の詳細なんてはしょっちゃっていいんですよ。由綺との別れの過程を克明に描いて関係破棄の結果報告を具体的に示すこと、あるいはその先の展望をくまなく明らかにすること、物語としてはそこ全然重要じゃないので。大事なのはテキスト裏で描かれる真相です。WAは何かと不十分な作品と馬鹿にされがちですが、それは結局、納得に足る相応の結論に達した本当のオチがあるのを「認識できていない」だけです。周知されていないだけでどのシナリオもテーマにはちゃんと筋が通っています。不出来な作品と見下して全力で叩こうとするのであればそれなりの条件として、その作品がどうか以前に、自分の読みの方が十分であるかをまず確かめた方がいいと思います。読んでいて感性が合わないとか、読んでも意図が判らないと放り投げるならともかく、偉ぶって、読む価値なしと上から断定して低品質を公然事実化するのなら、ですよ。普通にプレイして「何これ訳判んない」と当惑し、その不親切設計に憤るのは当然のことです。仕様とはいえ、実際判りやすい説明記載というものが徹底排除されているのだから、そこはけなされても仕方ないです。


一見、チープで雑なシナリオが展開する裏で、WAにはかなり練りこまれた設定が隠されています。ずさんに見える概観とは裏腹に真相はきっちり詰められており、断然裏の隠しネタの方が物語の本体です。その表裏配分としては、原作テキスト量きっかりが最も適切な加減で、ベストなバランス状態なのだと思います。シナリオ自体がコンパクトに収まっているからこそ、その中から大事なものだけ抜き出して考えるという検証手順を踏みやすいのです。この短さが大事で、与えられる情報が初めからある程度厳選されていなければ、とてもじゃないけど手に負えません。情報過多ともなれば整理に支障が出てきます。真相に関係ない、無駄に話に花を添えるだけの受け狙いエピソードがふんだんに挟まれ幅をきかしていたなら、全体図から重要事項を抽出すること自体が難儀な作業になります。パネルはそれこそ無駄な茶飲み話の垂れ流しにしか見えない作りですが、ふたを開けてみればあれって、手短さ、的確さ、切り口としての多様さ等、あらゆる面でヒントとして最高のクオリティです。あれ無しでシナリオだけで深読みしようとするなら、謎解き難度は一層厳しくなります。


事例の蓄積が足りなくては共通パターンや特異パターンを特定することは困難で、かといって手持ち情報が膨大であれば、そのうちの何が検証に必要とされるパターン傾向なのかを限定することは困難です。短く限られた表現範囲でなら、その中で集中的に挙げられる共通項を見つけること、あるいは他と逆行する特例を見つけることは、比較的達成しやすいと思います。意識すべき適用範囲の絶対域が小さくて済むからです。短く切りつめられたシナリオと短い多数パネルの二段構成で、ヒント配合としては十分、かつ検証が苦にならない必要最低限のボリュームとなっています。あれ以上でもあれ以下でも成り立ちません。WAの作品としての規模はあれで理に適っているのです。問題は、検証ありきで作られ、一見さんにはまともに話を受け取らせる気のないいけずな構成と、のっけの作風イメージがちゃちでナンセンスすぎてそもそも積極的に検証しようという気が湧いてこないことなんだよなあ。皆が皆、WAにはまるとは限らないんだからさあ。


ひょっとしたらリメイクで追加イベントや文章の手直し等があったかもしれませんが、集客に向けてのアピール効果はともかく、裏情報との整合性バランスを考えるとあまり好ましい措置ではない気がします。真相を無視して下手に加筆してしまっては、真相自体が真相として成り立たなくなり、存続できなくなるからです。不出来に見えてきっちり仕上がっている作品という真実が、余計な異物が入ることで限界ぎりぎりの構造が崩れ、本当に破綻した物語という惨状に成り果ててしまいます。真相について十分な認識を踏まえての加筆ならそれも構わないのですが、まともに引き継ぎされているはずがないし、状況的にどうしても無理ですよね。秘められた真実は膨大かつ多岐にわたり、何がどうどの真実に絡んでいるのか正確完璧に把握するなんてことは元のシナリオさんでしか不可能な話で、それを言っても仕方ないことです。加筆担当者さんにとっては自分の持ち場でない仕事を振られ、それなのに一つの作品として完成型となるまでに関わり、お披露目に持ちこんで下さったというのは、それはもう喜ばしいことで、WA信者の立場からすれば本来感謝してもしきれないほどのありがたさなのかもしれません。


なんか、クソなアニメ版が「由綺が幼なじみだった」という絶対ありえない変な独自設定をでっち上げたらしくて、それが公然化された下地が作られてしまい、場合によっては原作からそういう設定だったと勘違いする人もいるかもしれないことは非常に遺憾です。原作無視するなら全然関係のない話にしてくれればまだいいものを、なまじ原作の要である無二のはるか設定を侵犯してむごく汚すものになっていてはらわた煮えくり返ります。アニメの由綺に原作由綺の性質が反映されているかは判りませんが、質の低い別物が上等な本物に成り代わって大事な評価を乗っ取ってしまうという暴力がまかり通っています。確かに原作でもはるかは由綺に立場を乗っ取られていますが、設定という根本から、はるか固有の存在意義自体を由綺の所有として根こそぎ強奪されるなんて、そんな馬鹿な話が許されていいはずがありません。原作者は怒っていい。 でもどうせ辻褄もクソもあってないようなもんじゃないですか?原作を低く浅く見積もって、ほんのうわべだけを汚らしく読みかじって、勝手に余計な尾ひれつけて、その、WAとは言えない異物部分がメインストーリーになったような作品らしいですし。そういうのは単独で、新規のオリジナルでやってほしい。これ見よがしな怒涛のごたごたコンボでも、原作はるか設定みたいに、条件や症状、回復機構の隅々にわたって精緻に組まれて理屈が通っているとは思えません。


これは関係ない話なんだけど。カスアニメに原作構成を再構築させるだけの影響力があるとは到底思えませんが、あくまで仮に、軽慮な由綺幼なじみ設定が筋もなく無法に逆輸入されるとします。由綺という存在そのものが諸般に影響してはるかのアイデンティティを冒涜しつくす形態が原作フォーマットだとして、その上さらに図に乗る親近設定が追加導入され、無邪気な害悪がのうのうと幼なじみの座を占拠してでかい面する状態がWAそれ自体の公然認識に成り代わるとしたら、それ何て船ゲー?冬弥君は私のってことでいいよね?いいよ(素直)。はるかもさ、少しは怒りを感じなよ。そんなだから好きにやられるんだよ。上位メディアの蹂躙パワーで「冬弥の運命の人」「こみいった設定を持つ、絆の深い最重要幼なじみ」が由綺ってことにねじ曲がって定着し、はるかとの経緯がこの世から跡形もなくかき消された日には、冬弥ははるかがいないことに耐えられるはずもなく、カワシマハルカイマセンカ状態待ったなしですよ。いや全然関係ないけどね。