美咲編は、冬弥からすればストーカー被害で精神を削られたことにより行き着いた仕方ない結果だけれど、由綺側に立って考えたら、不祥事の前提として美咲の圧があったかなかったかなんて関係ありません。恋人を恋人として信じきってその恋人でいる由綺の前ではそんなの理由になりません。恋人としての資質が問われます。恋人を想う気持ちが確かならストーカーに負けるはずがない、愛があればストーカーを受けても気持ちは折れないだろうって話です。行動選択への影響力で恋人がストーカーに負けるなんてありえないし、恋人の絆をもってすればストーカーとは可能性すら生じないはずです。にもかかわらずつけこまれたのは結局、冬弥が恋人をさほど重んじていなかったから、つまり元々からして冬弥側の恋人観念が欠けていたということになります。意志が弱いとか節操がないとかいうのは言わずと知れた冬弥評です。けど実際はそんな実質はなく、重いストレスを課せられた上でのどうにもならない強制展開です。それは冬弥のせいじゃない。恋人という重みあるはずの存在が、そんな背水冬弥を支えるだけの重みを全然持っていないのが問題なのです。はたして、恋人への愛着が薄い要因、恋人としての務めがまっとうされない要因は、本当に冬弥側だけにあるのでしょうか?
本来なら、確かな恋人である由綺こそが冬弥暴走の一番の抑止力となるはずのところ、それはまったく機能していません。冬弥由綺間の結びつきは脆弱なもので、二人を繋ぎ止めておくだけの絶対性はありません。冬弥が由綺を恋人認識するための土台として、その由綺がそもそも恋人として本当に機能しているのかが争点になってきます。由綺を恋人相応に重んじられなくなる冬弥が全面的に悪いのだと言い切れるのは、由綺が誠実に「恋人としての役割を果たしていたなら」の話です。由綺は、冬弥が「これほどに消耗してしまうまで」彼について何も気にかけることなく、ひたすら自分の活動しか考えていません。末期にさしかかった彼氏についぞ関心を寄せることはなかったってよほどのひどさですよ。恋人としてこうまで無関心でいられるのは相当ヤバいことなんです。皆さん是非そこに気付いて戦慄して下さい。
えっ…?でも…。(私と違って)冬弥君には頑張ることなんて何もないよね?何もしてないよね?なのにどうして…。って?ええ、そこなんですよ、よくつつかれるのは。まあ表面上はそうですけど。それにいつも冬弥はかっこつけて「俺は大丈夫だからさ」とか「何でもないよ」とか普通に言いますけど。言いますけど!あいつ自覚ないだけでほんとは全然大丈夫じゃないから!限界で普通にしてるだけだから!それをそのまま受け取って、特に気にかけなくても相手は大丈夫なんだし大丈夫だよねと高をくくって、気にかけること自体を自分の回路から省いてしまえる由綺は相当心ない人間だと思います。
下手すると由綺って、冬弥が実際大ごとになるまで彼の過酷状態に気付くことはないんじゃないかと。大ごとになってもなお気付かないかも。冬弥が頭に負担かけすぎて、なんか破裂して運悪く壊れたとして、せいぜい「冬弥君…どうしてこんなことに…」と思いもよらぬ事態に戸惑うだけで原因を考えもしない、彼の抱えてきた過剰なストレスをいたむことはないと思います。由綺にとっては、なんか知らんけど冬弥が勝手に壊れただけとなります。形ばかりの「どうして?」を呟くだけで、自分からは何も知ろうとせず終わりです。
彰からも真っ向なじられる通り、自分のことを何一つちゃんと言わないのがスタンダードになっている冬弥が悪いといえば悪いのですが、由綺の方でもご覧の通り、常に自分のことばかりで冬弥そのものに目を向けることはありません。冬弥個体には取り合わず、自分好みの冬弥君像を妄信するだけです。由綺はこれまでに何をしていたのかという話です。冬弥と付き合ってきたこれまでの間に。今の今まで冬弥への理解は一歩も進んでいません。彼女は冬弥本人の人格をまったく相手にしていません。そりゃあそうですよ、由綺にとって必要なのは自分のご都合一つで飛び回ってくれる理想の彼氏だけですから。由綺は自分の利益でしかものを考えないので、互助のために冬弥に歩み寄ろうだなんて初めから考えません。冬弥側の利益など由綺には不要だからです。冬弥の指向傾向を知ることは、それを満たす気のない由綺には必要ありません。冬弥を知るための努力など由綺の中では何の意味も持ちません。知らなくても由綺自身は全然困らないのだし。だから由綺は冬弥のための努力は一切しません。冬弥のために何かする、なんて、そんな何かなど由綺には一貫して「ない」のです。彼女が「冬弥君のため」と位置づける行動は往々にして冬弥は正味関係なく、ただ単純に「自分のため」だけに決行されている(のを冬弥を口実にすり替えている)のは徹底した現実です。事実だけを見て判断して下さい、事実が指し示すのは純粋な由綺側利益だけに限られるはずです。
由綺は、冬弥が自分の支えである的なことはいつも主張するけれど、逆に自分が冬弥の支えになろうとすることはありません。冬弥のため、冬弥に親身になって動くことはない。一切ない。「何かあったら私飛んでいくから」とか何かそれっぽいことは言うけど結局は口だけで実際には何もしやしない。冬弥を案じて働きかける動きはまったく取らないんです。冬弥を支えと見なしてがっつり利用はするけど、自分が支えとして力添えを提供する立場になることは絶対にありません。
由綺が冬弥の問題過積載な心身を把握していない現状は、むしろそれを告知していない冬弥側のペナルティになるのかもしれません。致命的な欠陥を開示しないまま相手に付き合わせているようなものです。もっとも冬弥が障害持ちにしても本人すら知らないのだから仕方ないことで、それを知らされていない由綺にそれを知るすべはなく、その辺の認識不足は輪をかけて仕方のないことです。でもまあ現実問題、冬弥が健常体でないと知れば多分由綺は普通に離れていくでしょうねえ…。由綺にしてみれば望まぬ不利益話だからです。「私、そんなこと全然知らなかった…」とすごく悲しそうな顔をすると思います。哀れな冬弥に心痛めているんじゃないですよ、付き合わされたこれまでの自分を残念がっているんです。そうと知ってたら冬弥君なんか選ばなかったってのが本音です。由綺ならそうだろうね。由綺にとっては「いつも私のために何かしてくれる冬弥君」がすべてで、冬弥個人の余分な欠陥はいりません。いや案外、冬弥の欠陥お構いなしになおも彼に鞭打って都合を強いるのかも?冬弥が壊れるまでの利用価値があるうちは、由綺は冬弥君を存分に使い、愛します。壊れたらその時点で冬弥は冬弥君の価値を失うので、そこで関係は終わりです。由綺は「自分の都合」の実現者が必要なだけで冬弥自体は徹底して必要ないのです。
「冬弥君が倒れても私、看病してあげられそうもないからあ」っていうのは「大事な時、大事な人に何もできないのは辛い」って意味じゃなく「私は看病しないからそのつもりでいろ」ってことですよ。現実を占めている現実を見ましょう。また由綺が何かにつけ「どうしたの?」とか「疲れてない?」とか気にかけてくれる?のは、あれHow
are you?的な決まり文句のただの声かけで、フレーズ自体には何の中身もありません。アイドルが観客に「みんな大好き!」「みんなのために!」とか呼びかけるようなもんです。別にみんなを知りもしないのに。由綺はアイドルですからそういうアイドルトークは標準装備です。別に言葉通りの感情が言葉のまま心にある訳じゃないのです。ただ、「たまたま」その時冬弥は思いつめていたり疲れていたりして(ていうか冬弥は常時何かしら苦悩して疲労している)、ちょうどそこに由綺の言葉が直撃するものだから、彼は感激して「自分の辛い状態を察してくれた」と思いこんでしまいます。つまり指摘としては的中してしまうんですね。本当は、言葉だけの由綺の言葉に冬弥への見極めなんて少しも含まれていないのに。いるのよね、そういうの真に受けちゃう人。そして作品徹底して冬弥という人は「真に受けやすい人間」として描かれています。残念ながら由綺に惑わされているのが作品としての現実です。
とはいえ売り出し中の身の由綺は日々多忙で、冬弥周りで個人的に対応するのに時間を割けないというのも実質的な余裕がないから仕方ない、状況が許さないだけで由綺は悪くないと思われるかもしれません。それこそ典型的な冬弥思考で由綺に食い物にされる一因です。うまく言えないですが、そういうことじゃないんですよ。実践の問題じゃなく、心の持ち方の問題です。
美咲編エピローグ、それまで冬弥放置で自分のことだけに打ちこんできた自らのスタンスを振り返って由綺は、とうとうと反省を述べます。それ自体はとても真摯で痛み入ることだと思いますし、深く反省しているのは確かでそこを疑問視するつもりはありませんが、根本的な問題が由綺には自覚できていないままです。由綺は冬弥に向けて反省を連ねるものの、一貫して、その冬弥を見てはいません。冬弥に向き合っていないのです。冬弥そっちのけで反省に浸ります。それに、冬弥を一人の人間として相手にする意味でも彼に向き合っていません。冬弥の心境など我関せずで、冬弥側に寄せて話をすることはありません。冬弥の話は必要ない、冬弥を「話にしない」んです。これでは話になりません。実にこの、冬弥の人格を無視した気持ちのありようこそが一番の問題と言えます。
由綺は多忙ゆえ、実践的に冬弥に働きかけようにもままならない、それは仕方ないことです。そこじゃないんです。実際の「した/しなかった」「できる/できない」の事実内容が問われているのではありません。行動の有無や可不可以前に、初めから冬弥に目を当てるつもりのないその姿勢が問題なのです。由綺は実際の動向についてはしきりに反省していても、その動向の根っこにある観点には完全に無自覚です。冬弥を軽視していることが問題なのに、由綺はその反省の合間においても依然冬弥を軽視して、彼に関心を割こうとはしません。肝心の問題点からして由綺の眼中にはなく、反省は全然意味をなしていないのです。
由綺が自分を優先するのは単純に自分のためでしかありません。それなのに彼女は、自分が自分を優先していたのは、そうすることで自分が成功して冬弥君に好きでいてもらうためだったと言い訳します。冬弥君のためだったから私、それでも頑張って自分を優先したんだよ?とでも言いたいのか。それこそ冬弥君がかかったら自分に無理してでもわがままにも乱暴にも?いや冬弥どうこうより自分を押し通したい方が明らかに先にあるでしょ。そもそも自分が思った通りに冬弥も思ってくれると思っていること自体が都合の押しつけです。さすがにそういった自分の展望が冬弥の意向とはずれていたことに気付いた由綺は、その姿勢について「お金で人をなびかせる悪いお金持ちみたいな私」とか何とか、露骨感あふれる頭悪そうな自省を繰り出します。私って、私ってこうなの!的な。発言としての異様さというか、そういう酔った台詞を直接に口に出してしまえる由綺に鳥肌が立ちます。そんな自意識をカリカチュアしたような誇大反省より他に言うべきことあるだろうに。もっと冬弥に目をやって?疲れきって壊れはてた(見た目は変わらないが)、今の彼に感じ取れる何かはないの?由綺はこの期に及んで自分ばっかです。自分にしか焦点を当てません。もう絶望で死んだ目になる。冬弥に目を向けてこなかったことを大仰に反省していても、その反省を経てすらも結局、最後の最後まで由綺が冬弥に目を向けることはついになかった、という実に救いのない破局となっています。
テキスト上、ろくに冬弥を責めることなく自分に過失を認める振り返りばかり連ねるので、ついつい由綺をいじらしく感じてしまいがちですが、あんまりセオリー通りに彼女をとらえない方がいいと思います。作品構造上、そういう安易な由綺イメージは徹底的に大甘に甘すぎの虚構として置かれているので。「冬弥を責めない」のではなく、そもそも「冬弥に関心がない」ので、何か言おうにも何も言うことがない、冬弥について話すことなんて何もないのです。情が薄いんです。冬弥をどうこう言えるだけの冬弥認識がないから冬弥を本題に話をすること自体ができません。冬弥を本題に取り立てること自体、由綺の意識では起こりません。自動的に由綺は自分の話をするだけになります。要するに彼女は「自分を責めてばかり」なのではなく単に「自己発信ばかり」なのです。反省のていになっているのはその時の「たまたま」なだけで、由綺は自分の思いつくままの主張をそのまま表明したいだけです。自分の正直な反省をあれこれ訴えて、洗いざらいすっきりして、自分が納得したいだけです。
正直に、ありのままの自分本位な内心を余さず懺悔するのはある意味、由綺にとって自分に不利になることです。自分の落ち度から目をそらさず保身に走らないという点では、由綺は非常にまっすぐな人間で、そこは素直に評価したいと思います。ただ、由綺が自分をよく見せようと思っておらず何のごまかしもないのは確かですが、それと同時に、自分を悪く位置づけて相手におもねる意図がある訳でもないのです。たとえ不利になろうとも相手への誠意を立ててあえて開示に踏み切ったようにも見えますが、そうではないんです。由綺には自分が不利になるという見通し自体がありません。浅はかなのです。由綺は「子供のように無邪気」なので、自分の発言が自分を引き下げる内容とは認識していません。良くも悪くも由綺は正直で、自分に正直であれば、それで自分の優位を損なおうがまったく気にしません。
由綺の正直さは他人へのはからいにおいても同様の無神経形態を取ります。発言する上で、彼女が相手の心情に配慮することはありません。由綺は自分に共感してもらいたがる一方で、他人への共感能力は著しく低い人です。相手にも心があるという当たり前のことを考えもしません。だからこそ由綺は、冬弥を蔑ろにしてきた現実も普通に口に出して反省できてしまいます。無邪気で悪意がないからできることです。冬弥を見下すことに悪意はないんです。その自覚のなさが非常に残酷ではありますが。悪意がないから見下すことに罪悪感を持たないということです。まず、自分が見下している自覚すらありません。無邪気な由綺は、冬弥が傷つくとか自分を引き下げるとか、そういう観点などまったくないままに平気で本音を言えてしまいます。人を傷つける意味でも自分が下がる意味でも、「これは声に出すべきでない」という慎みがないのです。
ただし、由綺は心ない内面とは裏腹に雰囲気「だけ」は優しい「感じ」なので、冬弥はまんまと彼女の健気な優しさ(偽)に心打たれてしまいます。優しい声色でささやかれる「でも冬弥君も悪いんだよ、冬弥君が優しすぎたから」というのが身に余りすぎる慈悲対応で、冬弥ボロ泣きです。でも、ちょっと待った。そんな訳あるかい。「冬弥君が優しすぎた」というのは、冬弥君がいいよいいよって言ってくれてたから、私は「それを信じて」そうしてきたのに…って意味ですよ。冬弥君が優しくしてくれるから、私は「これでいい」んだって。何でも容認してくれていたのに結果的に良くなかったというのが、由綺にとっては「聞いてない」話なんです。由綺は優しくされるまま「そのつもり」でいたのだし、今になって手のひら返されたって自分の今までを撤回できません。優しくしてきた冬弥が悪いんです。全肯定の冬弥の態度からそうでない部分を読み取るなんてできなくて当然、だから「冬弥君も悪いんだよ」なんです。私も悪いけどその前に、私にそうさせた冬弥君「が」悪いよねってことです。冬弥君にこんなに甘やかされてなかったら、私だってこんなに勘違いしなかったんだよ。全部人のせいです。ゴリゴリの他責思考によって冬弥の許容がすべての元凶にされます。冬弥は由綺が好きだからこそ、意に染まぬことにも目をつぶって譲歩、むしろ喜んで不都合も受け入れてきましたが、彼の気遣いは由綺には響きません。由綺は気遣いが気遣いとして通用する相手ではなく、気持ちを割くだけ無駄です。感謝されるどころかその肝心の気遣いさえも逆に問題の原因にされては冬弥も浮かばれません。
見方を変え、たとえて言い換えるなら「冬弥君、どうして何も言ってくれなかったの?言ってくれれば私にだって、色々できることあったのに」ってとこです。由綺はいつだってそういうこと言って意欲ならいくらでもと主張します。は?一貫して冬弥に目を向けることのない人が?初めから何する気もないのによく言うわ。知っていれば何かできたはず…って、普段から何もしない人は何かあってもどのみち結局何もしないです。由綺は冬弥を知ろうともしないんだから。あまつさえ、冬弥に無知な由綺の認識自体、冬弥の方が能動的に知ら「せ」なかったせいにされます。「気を遣ってかもしれないけど、何も話してくれない冬弥君が悪いんだよ」「優しすぎるのが悪いんだよ」と。まあ間違いなく真理ではありますけれども。由綺お得意の例の男殺しの目配せと口調で、なんか取り入って甘えた感じの、いじらしい我慢ありきでのあえての非難に見えますが、彼女は単純明快はっきりと冬弥の非を主張します。それが彼女の嘘偽りない純度100パー意見です。由綺の健気「風」所作での無慈悲な断罪台詞にジーンときて、「俺が悪かったのに、こんな俺を由綺はこんなに立ててくれる…」と由綺をありがたがって自分をさらに貶めちゃう人はもっと自己尊厳を大事にして心を守った方がいいと思います。由綺全然そんな人じゃないですから。自分だけに必要以上の責めを割り当てることになりますよ。
作中では「たまたま」由綺の自由にできる時間が限られているがために「由綺が冬弥のために何もできない」のは「特例期間の」作中だけの話で、彼女本来のルーティンとしてはまったく不本意な例外のように思われていますが、違う違う。状況に関係なく、初めから「冬弥のためには一つも動かない」のが由綺のデフォです。今に限ってどうしても「できない」んじゃなくて、今まで通して当然に「しない」だけです。記載場面が限られていることにより、それを基礎ベースの現実として把握しにくいだけです。もっぱら由綺は冬弥に、気を割くだけの価値を置いていません。なのに口では「気にしてる」ようなことをいつも言います。そしてその態度を見せつけられた冬弥はそれを真に受けて恐縮し、より一層の信心を誓います。ばっっかじゃないの。冬弥はもっと自分本位になって、自分主体な意識でもって、思うまま自由に我を通したっていいんですよ。それでもまだわがままのうちに入らないくらいです。
冬弥が「錯覚で」由綺はこんなにも俺を想ってくれてると思いこんでいるだけで、実質由綺から冬弥への働きかけはありません。実態のない由綺の善意に応えたいという冬弥側の熱心な善意一つで、彼らの信頼関係は成り立っています。要するに、冬弥側の頑張りだけが唯一有効な計上なのです。つまりは、冬弥に余裕があるうちはそういう幸せな妄…幻想で十分に繋ぎ止められていても、彼が非常事態になればそれはそのまま尽力不能に直結し、一気に関係が危うくなるということです。
「由綺は気にしすぎ」等々、日々由綺の思いやりを持ち上げる冬弥証言とは裏腹に、彼女の働きかけは一つのカウントも始まっていません。色々のたまうけど、それで実際相手主体の方針で動くかというと何もしません。彼女が冬弥に持ちかけるのはいつも自分主体の件のみです。貫徹するのはわがままのみで、実質、思いやりの実現数はゼロです。由綺が何を言おうが冬弥がどう受け止めようが、結局「実動」がないから、冬弥無意識の内部ゲージとしては「実数」でカウントされません。事実がないから「実績」で残らないのです。虚構にすぎない由綺の「思いやりポイント」は一つも冬弥内にたまっておらず、今に至るまでまったくのゼロです。見かけの「由綺ポイント」は増えても、そこには思いやりは含まれておらず、その「実値」は依然ゼロです。口だけ善意による「由綺ポイント」は、有効な「思いやりポイント」として換算されません。由綺から冬弥への思いやりの蓄積など現実には存在しないため、本当は冬弥が由綺に絶対の信頼を寄せていられるだけの根拠はなく、したがって彼女への信頼を前提とした関係を維持していくのにもまったく先の見通しが立ちません。むしろ、いずれ破綻を迎える未来が待ち受けているのは確実です。
恋人としての基本型からして冬弥と由綺の間には不平等がまかり通っています。気を遣う側の冬弥だけが十割で気を遣わなければならなくて、気を遣われる側の由綺はそれをまるまる享受し、自分からは相手を一切気遣おうとはしません。そして十割気を遣う側がちょっとでも気遣いをおろそかにしたら即、その気遣いの不足を指摘されます。ううんっ、いいのっ、仕方ないよねっ!だからいいのっ!(私が!我慢するからいいのっ!)みたいに圧られます。十割全部を割けないこっちが悪い風に持っていかれて罪悪感を植えつけられる冬弥。彼には自分を維持するだけの余力すら残されていないのに、通常通りの手厚い誠意を当然とされてもどうにもできないです。それでなくても通常時点で負担超過で、まともに維持できる関係ではないんです。でも「持ちつ持たれつ」とか「お互いさま」の意識のない由綺には冬弥の負担も不調もどこ吹く風です。彼女は自分だけが大事なので冬弥の状態が実際どうなのかなんて気にかけることはありません。由綺を、気持ちが通じる相手と思わない方がいいです。大部分我慢して我慢を主張しない冬弥と、ちょっとしたことでもいちいち自分の我慢を我慢だと強調して見せつける由綺とで、結局は由綺の方の我慢だけが読者感として認定になる不条理。我慢しないで我慢を主張する方が断然我慢している健気側と見なされるこの人物評価基準、再検討の必要があります。
以上の通り、由綺からの積み立ては皆無です。そのためいざ冬弥が調子を崩してしまうその折に、彼が今ある絆にすがろうにもそんなものは初めから形成されておらず、由綺という存在は何の押さえにもなりません。美咲編冬弥は他以上に、恋人由綺という確かな存在がありながら平気で人の道を外れて堕ちていくあの有様は信じられないってよく言われますが、いや、だからね、冬弥の暴走に由綺は一切関係ないの。あの子はシナリオ相関図の人員に入れなくていいの。展開に影響するだけの重要度なんてはなから持ってないの。由綺に何を期待できるというのですか?もう論外。論っ外!彼女とはのっけから信頼を構築できるような関係性にないので、冬弥が壊れかけた時点でそれを押しとどめるだけの結びつきはなく、壊れてゆくままに壊れてしまっても仕方のないことなのです。
このように冬弥は、由綺と美咲双方の「実は、引くほどひどすぎる実態の女」に日々対応しなければならず、なおかつ美咲編ではその間でゆれることになります。実質拷問ですけど、冬弥って性癖上そういうのほど自分でばんばん引きこんじゃうから。由綺相手にしても美咲相手にしても、「冬弥一人の頑張り一つ」で良好な関係に引き上がっている事情が前提にあって、いざ冬弥が均衡を崩せば、彼一人が関係崩壊の責任を全部背負うことになります。均衡を崩すのも当然なだけの強いられすぎな劣悪条件が当たり前にあって、それも一因でおかしくなっているのに、「頑張れなくなった」冬弥が悪いことになります。
双方の関係維持機能は冬弥に一極集中しています。ただ一人頑張って現状を維持してきた人が、これ以上頑張れなくなって担い手を放棄した時、当然その現状は崩れます。担い手はその人以外、他にいませんからね。その人による効力は失われ、もはや良好な状態を担保するカードはありません。そして現状が維持されなくなったのは頑張れなくなったその人の弱さが原因だと見なされます。頑張ってきた人が頑張れなくなったことを責められるって、こんな馬鹿な話がありますか?美咲編の罪を冬弥一人に押しこめるのがいかに不当なことであるか、角度を変えると見えてくる構図も違ってきます。
特に美咲編だと、女性陣がどちらも健気で理想的な分、それだけ主人公のくずさが際立つとかよく言われますけど…。うん?こんな理不尽な基礎状況で?冬弥が身を置く条件、過酷すぎが過ぎます。そりゃあ、自分の中の開始(自爆)スイッチを押して、自らの目算込みで美咲編のスタートを切った冬弥が一番悪いのは確かですよ。でも冬弥が全部の割合で悪い訳ではありません。裏の由綺条件、美咲条件を押さえた時に、あれ?冬弥の非って、そこまで高い比率を占めているかなあ?と考えが改まることになります。それなのに冬弥本人は愚直にも、彼女たちの非は問わずひたすら自分を責め、苦悩に没頭します。WAって、つくづくマゾゲーだなと実感します。よく冬弥、うが~!ってならないなあ。真性マゾの冬弥でなければこんなの受け入れて耐えていないと思います。彼でなければとっくにキレて縁を切って、まっとうに精神衛生を確保している所です。
普通なら「どいつもこいつもいい加減にしろよ!!」となるはずの所、冬弥は自責一つに転化しています。普通なら黙っていられる訳がないんです。普通なら自己を守るためにもっと他を下げていておかしくない所です。普通なら。冬弥は普通じゃないんです。彼、根本的に頭おかしいですから。純粋すぎるって意味で。その自己抑圧はもう聖人レベルです。そして、これだけひどい状況にありながら、それでも多くの背景は非開示で、冬弥だけに原因を負わされ、彼はくず主人公と散々唾棄されます。もう死体蹴りです。少しは彼にもいたわりという温情を向けてもいいのではないでしょうか。もっとも色々背景を加味したところで結局は冬弥の個人的な勝手によって事態が悪化する現実は変わらないのだけど、他者の不都合な真実を晒し上げることをしない潔さはもっと評価されていいと思います。作品的に、冬弥が自分で事情を説明したならある程度の理解は得られるかもしれないけど、その時点で彼の精神性の価値は一気に下がってしまいます。彼の高潔さをキープする意味でも機密は機密にとどめておかねばなりません。たとえその徳に見合わない苛酷な袋叩きを受けようとも。プレイヤーが自力で突き止めて初めて冬弥の価値は有効化して跳ね上がるのです。プレイヤーにとってもはなはだ面倒なマゾゲーです。WAを髄まで楽しみきるにはマゾになるしかない、って、元々のマゾしか楽しめないでしょこのゲーム。謎解きにより特大の達成感が得られるので、それで苦痛が大幅に報われるのだけが救いです。かといって誰でもが必ずしも謎が解ける訳ではなく、その辺もまた「優しくない」仕様です。
「心を痛めるのはいつも、自分の弱さに先に気付いた方」と冬弥は語り、美咲の気遣いのほどを痛感します。広い目で見れば、その認識対象は自らの弱さに限った話じゃなく、先回りで物事に気付きすぎる方が割りを食うという話でもあると思います。何もかもに気付きすぎるあまり、周りに添うように立ち回り、人知れず重荷を抱えていたのははたして誰なのか?冬弥自体は美咲の話として挙げているけれども、作品構造上はめぐりめぐって、その冬弥本人の実態を指して展開している話です。この文意で言うなら「真に健気なのは冬弥」なんです。より気遣っている側は結局、気遣っている側だけで話が終わることが多くなります。気遣われていることに気遣われている側が自分で気付くというのはめったに起こるものではありません。気遣う側は気遣えど気遣えど、その気遣いに見合った見返りはけっして得られないというその構図は、全部全部冬弥に還元されていきます。感受が強く、かつ自覚のない冬弥は美咲の心境にはそれこそ「気付いて」取り上げるけれども、自分の配慮は何も知らしめません。より優しい方が、より深い気遣いでもって、より心を痛め、そして何をも誇示しないのです。
各陣営の裏全域にまで読み進めてようやく、冬弥の「みんな卑怯者だった」発言、転じて突きつめるに「みんな悪かった」論が、彼がその場で展開する表面上の要旨とはまた別の意味で作品構図相応の解釈を持つことになります。一般にこれは、冬弥叩きの格好の燃料にもなる不届きな言い分ですが、色々知った身では「うん…そうだね…」と遠い目にもなります。同意以外することなしです。それぞれの固有パターンに基づき冬弥に所定の圧をかけ続けるツートップの由綺美咲に加え、すべてを知るはるかはその強力な生殺与奪権に反しそれを行使せず、状況に深入りしてきません。事実上の見殺しです。そして何も知らない彰は彼の平和な毎日を漫然と過ごしています。普段通りのんきにシフォンケーキ試作に情熱を燃やしています。彰ー!?そんなことしてる場合かー!助けて彰!何事もなければ彰の平和っぷりはWA一番の癒しなのですが、さすがにここまで無知すぎるのはそれはそれで罪は重いぞ彰。こんなめいめい我流な実態で、どうして冬弥だけが悪いと言えるでしょうか。どうして冬弥だけが自責に向き合わなくてはならないのでしょうか。「皆が皆、それぞれに悪かった」というのは反省のない冬弥の勝手な転嫁のようで、実は作品上の正答であり、しっかり物事の真理を示していたのです。
彰EDでの語りで冬弥は、美咲だけは自分を置き去りにしないはずだとすがるように考えていますが、多分それは見込み違いでしょう。客観的に見ても一貫して美咲は我が身大事に振り切っており、完全に壊れて安全性を失ってしまう彰ED冬弥からはそののち当然に離れていくことが予想されます。美咲EDでは、いかにすさんで落ちぶれようとそれでも冬弥が「いわゆる冬弥」のままで保たれていることで、まだ執着に足るがために当面離れる心境に至らないだけです。由綺にとっても、いかに裏切り者といえども美咲ED冬弥自体は「いわゆる冬弥」のまま性格は変わらず、他人の感情に気遣いすぎる奉仕的かつ内省的な人物で、それは依然「由綺の望む冬弥君」像を満たしているため、彼への執着は多少は残ります。そこにきて彰ED冬弥はもう「いわゆる冬弥」ではなくなります。その壊れた冬弥は彼女たちの願望を到底満たさなくなります。美咲にとっても由綺にとっても、冬弥を好きでいるだけのとっかかりはなくなります。これまで冬弥の身になって考えることをしてこなかった二人だけに、彼が彰EDで本格的に壊れてしまえばなおのこと寄り添いは見込めず、情けを期待するのは残念ながら厳しいでしょう。美咲編通して二人の間でぐらついてきた冬弥ですが、その両方ともが彼の手元には残らないであろう未来図が何となく浮かんできます。
彰EDで、自分はただ恋しかった、由綺と美咲とでどちらを求めたらいいのか判らなくなってしまったと冬弥は語ります。苦悩に対する解答を誰に求めるべきだったのかとも悲嘆します。単純な話、由綺と美咲、どちらともが求める解答ではなかったのです。実は作品的に、答えはちゃんと出ているんですね。地獄の底の冬弥をも見捨てない者として、明確にはるかという存在が打ち出されています。自分の体裁だけであっぷあっぷの美咲、自分の栄光だけにまっしぐらな由綺の一方で、美咲編の折々でたまに出没するはるかだけが何かと冬弥を心配して目を配ってくれています。冬弥を見ていてくれるのははるかだけなんです。面白い構成ですよね。由綺と美咲の間でゆれる美咲編冬弥でありながら、彼を救う至上の存在は彼女らとは別にいたっていう。冬弥が最終的に行き着くのは結局ははるかの所ということが小出しの構成を通してしっかり暗示されています。はるかがいてくれて良かったと心から思います。
おそらく彰ED冬弥の手元に残るのははるかだけです。もっとも、彰コンボ直後のはるかはその場では冬弥の側にとどまってはくれないのですが、それには彼女なりの思案があるのでしょう。はるかとしても派生による潜在意識的に、また犯される可能性は勘弁なので、危険度が最高値に跳ね上がった当座の冬弥とはひとまず距離を取ります。心身ステータス上限のはるかといえども傷つくのは普通に嫌なので。リスク管理です。さすがに人として犯すまではしないと思いますが、まあ、弱りはてた冬弥の前にはるかがちょこんとぴったりくっついていたら自然そうなるのは確実で、絶対の流れには抗えません。繰り返しますがはるかは冬弥を「よく見てる」ので、現時点の彼が取りうる行動を念入りにシミュレートした上で、彼が間違わないで済む道に誘導します。そのためいったん退避しますが、かといって冬弥をそのまま放置するのも先が暗いので、おいおい対応するだろうと思います。以降、長期プログラムで冬弥を立ち直らせていくでしょう。
はるか条件、美咲条件、由綺条件、それらの加圧全部によく耐えてきたものです、冬弥は。その上でさらに自問をとことんトッピング。ほんとあいつ頭おかしい。もういい、もういいから!もう楽にしていいから!ここまで知って初めて「よく耐えてたね」「辛かったね」と冬弥水面下の過負荷をいたむことができます。彰EDですべてを失くした暁には、当面もうこれ以上の悪化はないから、冬弥、まずはちゃんと自分を休めて下さい。何はさておき寝ろ。何も考えないでしっかり寝ろ。そしてはるかセラピーで癒されておいで。他のすべてを失くしても、はるかだけは何があっても離れていかないから。はるかによるセーフティネットは冬弥を根本から保証するので、苦行でしかない美咲編の中にもちゃんと最終的な救いはあるのです。でなけりゃとてもやってけないですよ。